2024年10月17日木曜日

「教会」に行かないクリスチャン


通常、クリスチャンのイメージは日曜日三角屋根に十字架のついた教会堂で行われる礼拝に毎週、通っている人だろう。しかし、欧米では教会に行かないクリスチャンが激増している。2018年2月5日、御茶ノ水で行われた第五回、東日本大震災、国際神学シンポジウムに参加した。そこで、フラー神学大学院異文化間研究学部准教授、ライアン・K・ボルガー博士の講演を聞いた。クリスチャンは地の塩、世の光として生きることが期待されているのに、この世へのインパクトを失ってしまっていると言うのだ。問題は私たちクリスチャンが過去に生きている。つまり今日、私たちが身に付いている行動様式が時代遅れで、この世で普通に生活しているノンクリスチャンの隣人たちに意味のないものになってしまっていると指摘している。

 

「ノンズ」と言われる人達

ボルガー博士によると、アメリカの教会出席者総数は60年代の半分に減り、宗教と関わりを持たない人の割合もかつては5%だったのが、最近は30%と急増。ヨーロッパでは、人口の80%が霊的事柄に関心があるのに、教会に行く人は2%。また、積極的な意味で教会に行かないクリスチャン、「ノンズ」と言われる人たちが現れ、今日的な霊性の実践を生み出しているといいます。この「ノンズ」に見られる特徴は

 

1.      コミュニティを大事にする。他者への奉仕を中心とした深い関係性に価値を置き、そのような関係性を生み出しています。

2.      個人的な変革を大切にする。自分自身の体、心、そして精神を成長させるために、意識的に懸命に努力します。

3.      第3に、社会の変革を大切にする。善のためのネットワークの創造を通して、世における正義と美を求めます。

4.      第4に、目的を追求する。人生における個人的な使命を明確化し、行動に移します。

5.      第5に創造的。時間と場所を創造的な行動のために使い、遊ぶこともする。

6.      第6に、責任感がある。決められた目的に向かって、自分自身と他者と働くことができるように促します。

7.      第7、存在の根源。最も大切なものへの探求。

 

これらの「ノンズ」は小さなコミュニティに関心を持ち、大衆的説教より個人的メンターの存在に必要性を感じている。ボルガー博士は、教会がその本質を取り戻すために、必要なことは西洋的形式主義を取り除くことだと断言している。多くの欧米人は文化的に教会に「通っている」意味を失いつつある。むしろ、教会の外でキリストへの信仰を表現することに関心を持ち出している。日本も他人事では無い。一気にそういう流れにならないとも限らない。しかし、それは絶望より、希望と言えるのではないか?教会が博物館のようになってゆく中で、「教会」という形を守ることが大切なのか?それとも現代社会に意味ある信仰生活を生きることが大事なのか?その質問が突きつけられている。

 

すでに2007年に地引網出版で翻訳出版されたジョージ・バナーの「レボリューション」に霊的な体験と信仰の表現の主な場所が教会外へ推移してゆくということが書かれている。

 

信仰の表現の場は外に向かう

バナーは面白い指摘をしている。2025年までにアメリカの霊的環境は大きく変わるというのだ。アメリカ人が信仰を体験し、信仰を表明する「場所」として、3分の1は教会、3分の1はキリスト教ではない信仰の共同体を、そして3分の1はマスコミや芸術、カルチャーセンターなどを選ぶと予測されるというのだ。これは2000年には霊的な体験と信仰の表現の場として教会が70%であったのに対して、教会と教会以外の場が同等になってゆくことを示している。また信仰の表現の場も教会堂の中だけでなく、マスコミや芸術が3分の1となるというのだ。これは社会への影響という視野からは好ましい傾向ともいえる。

 

さらにボルガー博士の言う「ノンズ」の存在は10数年前すでに存在を始めていた。「レボリューション」の中にミニ・ムーブメントを起こす人達として取り上げられている。「教会」を去ったクリスチャンたちは日常の現場で霊的コミュニティ作りを始めていたのだ。

 

ミニ・ムーブメントの特徴は・・・

 

1.神に対するまっすぐな信仰

2.個人的な関係を重視

3.人生の変革 トランスフォーメーション

4.明確なグループ目標=霊的成長

5.個人の人生にかかわる

 

このムーブメントは職業的牧師や宣教師に頼らないという特徴がある。彼らが生活の場で与えられたポジションのまま、神がご臨在を顕してゆく。信徒/宣教師という枠も超えてゆく。バナーは職業的な牧師は減ってゆくと予測している。

 

現代人が価値を置くもの

現代のアメリカはポストモダンであり、若い人を中心に以下のような考えになってきている。人生で最も大切なのは人間関係。結果より過程。効果的に社会に影響を与えるのは、人との会話。一方的にしゃべりまくって信仰を押し付けても、人々は耳を傾けない。パフォーマンスやプログラムより純粋な「愛」、個人的な「信頼性」が大事。原則や命令より、個人的な証や体験を重視。ただ聞くより「参加」や「体験」を重んじる。これは現代日本のヤングアダルトも同じだろう。

 

このような考え方は当然ミニストリーにも影響を及ぼしてくる。ノンクリスチャンの友人を大きな伝道集会に連れてゆくより、個人的な会話をしたいという気持ちが強まっているという。そういう傾向自体が悪い訳ではない。そして、そういう型に合わせられる柔軟性を聖書は持っている。たとえば、集会で一方的に話すより、参加型スモールグループでお互い、聖書の箇所を通して語られたことを分かち合うこともできる。この型だと全員参加できるし、お互いからも学べる。そのために顔を向けて話し合える物理的な環境も大事だ。礼拝堂が固定した長椅子の場合、「お互い」を実践するのが難しくなる。

 

 

「刷新」ではなくあえて「革命」

ジョージ・バナーは教会の「刷新」ではなくあえて「革命」と言った。

 

「もっと端的に言うなら、革命とは私達が教会に『行く』ために召されているのではないことを認識することである。私達一人一人が教会に『なる』ために召されているのである。(p46

 

革命のためには、どうしても教会と礼拝(儀式としての)のことに触れなければならない。

 

「しかし、聖書には、今日私達が知っているような教会の姿は描写されていないし、勧められてもいないことにお気づきだろうか。現在のような『教会』は

何世紀も前に、宗教指導者たちが人々をよりよいキリスト教徒にするために作り出したものである。しかし、多くの人たちが重要と思っている教会礼拝、職務、行事、建物、儀式は聖書的でも非聖書的でもない。教会は無聖書的なのだ。すなわち教会組織は聖書には書かれていないのだ。・・教会は健康的で私達の助けになりこそすれ、神聖にして犯すべからずという性質のものではない。」

p.44 *これに関しては、ジョージ・バナーとフランク・バイオラの共著、「異教まみれのキリスト教?」に詳しく説明されている。)

 

教会組織は聖書に書かれていないのであれば、変革するスペースがあるという事でもある。私達の頭の中に日曜朝10時半の礼拝は「神聖にして犯すべからずもの」という固定観念がないだろうか?これを変えることは罪であるという思いが在る。しかし、聖書を読んでみると、実は確固たる論拠はない。アメリカの農民達が集まり易い時間帯だったという説もある。「礼拝厳守!」と若い頃言われた事がある。「礼拝を守る」とも言う。その「礼拝」とは何を指しているのだろうか?もちろん神を礼拝することは当然であり、大切なことだ。聖書を読むと、礼拝はまず、儀式というより「霊的なもの」であることが分かる。

 

「神は霊ですから、神を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)

 

極端な事を言えば、立派な会堂で4000名集まる有名な牧師の聖書的なメッセージが語られる礼拝に出席していても、ランチメニューを思いめぐらしているようでは、真の礼拝とは言えない。3−4名でリビングルームに集まっていても、真剣に神を求めていたら、そっちのほうが真の礼拝ということもあり得る。

もちろん、家の教会にすれば解決するといったシンプルな話ではない。重要な事は真の弟子が育っているかどうかである。ただ、真の礼拝が会堂の大きさや、その教会の有名度や、人数の多さに関係ないことは明白だろう。そもそも礼拝とは、その人の「生き方」であって、礼拝という「行事」に参加することではない。

 

「あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

 

 

ボルガー博士の結論

ボルガー博士の講演の結論をここにお分かちしよう。

 

「教会は、私たちの時代においてキリスト教を自由にするために形式主義を取り除かなければなりません。塩となり、光となるよう私たちを自由にするために。」

 

ボルガー博士は、「ノンズ」をただ批判しているだけなら、その人たちはさらに漂流して他宗教へ行ってしまうこともありうると警告している。この流れを止めるよりも、励まし、正しく導いていく霊的指導者(個人的なメンター)が必要なのではないだろうか? 彼らが励まされて生き生きとした信仰を保てるなら、現代社会において、彼らの生きる現場で、「地の塩」、「世の光」となっていける可能性は大きいのだから。

 

「教会」は「行くところ」ではない。私たちが「教会=聖霊を宿した神の宮」、礼拝は参加する儀式ではなく、「生き方」とするならば、信仰の表現を日常のアリーナへ戻し、イベントとしてではなく、日常生活のどこかで定期的に「集まり」、主を礼拝し、信仰を励ましあうことができる方向へ動いてゆくことができるのではないか?

 

 

レボリューション〜今、教会に起りつつある革命

ジョージ・バーナ著

地引き網出版  1600円




 

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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

japantmc@gmail.com (ブログ執筆者 栗原)

 

 

2024年10月10日木曜日

未来都市のエクレシア


従来型のチャーチプランティング

70〜80年代の関東での福音自由教会の開拓が典型的だろう。人口が増えつつあった京浜東北線沿線に開拓伝道していった。ある場合は、その地域に、若い夫婦が増えるのを予測して先取りして教会を建てて宣教した。これが功を奏して、どんどんと教会が増えていった。地域の若い夫婦や高校生などが教会に集っていた。

 

このように、地域に根ざし、地域に住んでいる人たちと知り合いになり、彼らに伝道し、教会につなげていった。これが従来型チャーチプランティングの「王道」だった。これは今でも郊外の市町村においては有効だろう。

 

様々な変化の中で・・

しかし、状況はいつまでも同じではない。かつては都心の周りに住宅地が広がった。いわゆる「ドーナツ化現象」である。多摩ニュータウンなどがその例だ。時代は一周りして、かつての若い夫婦は老夫婦(あるいは独居老人)となり、その子供達は、都心に出てゆき、都心に住み始める。「逆ドーナッツ化現象」が起こった。かつての大集合住宅は建物も住んでいる人も老朽化してきている。戦後の若い家族のニーズに応えた新宿区の巨大アパート群の戸山団地なども、建物自体の老朽化と共に、今は独居老人が多く、限界集落化している。

 

今日、都心で一人暮らししている30代、40代が増えている。独身層が増えている中で、少子高齢化はどんどん進む。これらの年代はインターネット世代で、テレビや固定電話を持たない人も多い。多種多様な職業とライフスタイルを持っている。そういう中で、「日曜の朝10時」の礼拝しか選択肢がない教会は、多くの都市型の人々を排除してしまう結果になる。

 

ここ数年のコロナの状況下で、「教会生活」も大きくチャレンジされ、変化した。インターネット世代はインターネットでの礼拝(他教会の礼拝メッセージを聞くことも含め)を体験してしまった。ある意味、パンドラの箱を開けてしまった訳で、もう一昔前に戻ることはできない。次のステージに前進してゆくしかない。

 

そもそもエクレシアとは・・

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのも ので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ1:23)

 

大事なのは、「本来、教会とは何なのか?」を聖書的に確認することだ。教会と訳される「エクレシア」というギリシア語が建物に言及している箇所はない。また、エクレシアは「教える会」でもない。上記の御言葉が語る通り、エクレシアは「キリストのからだ」、すなわち生きた有機体(オーガニック)なのであり、かつ、「キリストの充満」なのである。・・・日本語訳では「・・・ところ」となっているが英語では単にFullness of Christなのであり、本来「充満」と訳すべきなのだ。つまり、エクレシアは「建物」にも「場所」にもこだわらない。

また、エクレシアは「聖徒として召された人々」のことであると書かれている。(コリント1:2)

 

ところが会堂が建てられ、人数が増え、大きくなると組織となり、制度化されていく。管理が必要となり、資金が必要となり、この世の組織のようになってゆく。80〜90年代には「大きいことはいいとだ」とばかりにメガチャーチブームとなった。メガチャーチの牧師はスーパーヒーローになりもてはやされた。中東ではブドウの木は地面を這って横に広がっていく。本来、エクレシア(キリストの体)は、そのように水平に広がる。しかし、「大きく」「高く」と上を目指す巨大化した「教会」は、その本質を失っていく。命を失い「宗教」となって制度化されていく。ビジネス的手法や、成功主義や覇権主義が入り込む。カリスマ牧師たちのスキャンダルも暴露されるようになる。そんな中で、組織的教会に疑問を持つ人々が、本来のエクレシアを求め、オーガニックチャーチを推進するようになった。

 

未来都市のエクレシア

日本の福音派は80年代、90年代にピークを迎えた。80年代にはJEA(日本福音同盟)から「羽ばたく日本の福音派」という本まで出た。「あの頃に戻りたい」と願っても、時代は遡れない。前述したように「状況」が変わってしまっている。そして、今日、東京基督教大学が出したデータで、日本の福音派は「停滞」ではなく「衰退」期に入っていると評価された。

 

戻れないなら、前を向く話をしよう。日本では東京一極化ということが言われて久しい。世界的も急速に都市化が進んでいる。2025年に、世界人口は81.9億人となり、都市人口は58.3%となる。2050年には都市人口は97.7億人となり、都市人口は68.4%となる。都市化、デジタル化、キャッシュレス化は避けられないだろう。日本でもスマートシティが実験段階に入っており、都市の一括電化、デジタル管理化が実現する。都心のライフスタイルは多種多様。都心で働く人を一箇所に一定時間拘束する形での「教会」のあり方が有効的だろうか?巨額の資金を投入して土地を購入し会堂を建てるやり方が有効だろうか?特に注目すべきは中東で、近未来都市が出現している。いつまで教会は、三角屋根に十字架をやるんだろうか?

 

 

世界が都市化する中で、都心でのエクレシアのあり方を考えることが未来につながる。TMCエクレシアは都心でキリストの体が、どう表現されるのかを模索してきた。コロナ前、丸の内、池袋、秋葉原、青山、赤坂で「顔を合わせて」スモールグループで集まっていた。コロナとなり、一度、すべてがzoomに移行した。しかし、そのお陰でメンバーを失わず継続できた。コロナ後、池袋と青山、秋葉原は対面に戻り、あとはzoomのまま残っている。実はメンバーの他県への移動など、いろいろな事情で現地集合が難しくなってしまったグループもあるが、zoomのお陰で継続できている。もちろん、実際に顔を合わせるメリットはあるのだが、自宅にいながら参加できるzoomのメリットも、忙しい現代人には大いにメリットがある。

 

興味深いのは、TMCエクレシアは、以前から「建物」にこだわらないスタイルだったが、今度は「場所」にもこだわらないで継続している。「赤坂エクレシア」と以前の名前は付いているものの、メンバーの一人は軽井沢からzoomで参加している。他のメンバーは2拠点生活になり、仙台から参加することもあった。つまり、もう「赤坂」でさえない。しかし、エクレシアは続いている。青山で集まっていたエクレシアは、メンバーの都合によりお茶の水だったり、東所沢であったり、時にメンバーの自宅であったり変形自在だ。すでにコミュニティがあるので、「場所」はある意味、どこでもいい。そこにキリストがご臨在される限り、そこで、み言葉が分かち合われ、お互いに祈り合う関係がある限り、エクレシアはそこに「存在」している。メンバーは義務ではなく、そこでの祝福を楽しみにして自主的に参加している。

 

都市化は進む。東京湾岸にはどんどんと高層マンションが建築されている。その周辺には教会堂を建てるような「空き地」は存在しない。タワーマンションはオートロックでトラクトのポスティングもできない。どうやって宣教するのか、どうやってリーチできるのか頭が痛い。どう考えてもインターネットとスモールグループのコンビネーションに行き当たる。TMCのあり方が1つの方向性を示しているのではないか。エクレシアは時代に合わせて、その生命を維持しつつ、形は変わっていかねばならないのだろう。21世紀の後半を生き抜くために・・・。

 

聖書ではエクレシアとは何かが書かれている一方で、そのやり方、あり方については詳細には書かれていない。もちろん三角屋根の十字架の会堂についても、説教中心の礼拝についても、日曜10時半の時間指定も聖書には無い。実際、現在の教会で行われているプラクティスの多くは、2000年の歴史の中で、他文化から取り入れてきたものだ。とすれば、既存の教会のやり方にこだわらなくてもいい。聖書の原則さえ守っていれば、キリストにある「いのち」さえあれば、形(スタイル)は多様に変化できるという事だ。エクレシアは「キリストの体」なのであり、オーガニックな「生き物」なのだから。

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

2024年10月3日木曜日

オーガニックチャーチの現状

 

制度的、組織的な教会から脱出し、本来のあるべき教会を求めてオーガニックチャーチに向かう人が出てきています。大きな方向は間違ってないと思いますが、スモールグループ的なオーガニックチャーチには疑問点や課題も多々あるのです。今回、正直に分かち合います。

 

オーガニック・チャーチのいいモデルがない?!

「ペイガン・クリスチャニティ?」で目が開かれ、その後、フランク・ヴァイオラのオーガニックチャーチに関する著書を沢山読んで、大変影響を受けました。「ペイガン・クリスチャニティ?」によると・・・現在の教会のやっていることの90%は異教の教えを取り込んだもので、2000年の教会歴史の中でフジツボのようにこびり付いてしまっていると。そのまま教会は機関車のように走っているので、これは刷新では変えられない、「革命」が必要とぶち上げています。それではどうするかという理論を「Reimagining church」で、実践を「Organic Church Planting」で書いています。そのヴァイオラさんが、彼のブログだったと思いますが「ラジオ番組のインタビューでオーガニックチャーチのモデルを見せて欲しいと言われ、実はいいモデルがない、なので自分はしばらくオーガニックチャーチプランティングを休止しようと思っている。」と書いており、びっくりしました。もう10数年まえの話なので、今どうなのか、分かりませんが。うまくいかなかったケースで、メンバーはどうなったかというと・・・「信徒に負担がかかりすぎ、結局、既存の教会に戻ってしまうか、クリスチャンを辞めてしまうか、孤立した一匹狼クリスチャンになるか、いずれかだ。」と言っていました。これを読んだときはかなりショックでした。自分の家にメンバーを招いて毎回、食事も出していたスモールグループのリーダーが結局、負担が大きすぎて、やめてしまったケースを聞きました。

 

実は自分がフロリダに滞在していた時、近くのオーガニックチャーチに参加してみました。というより正確にはオーガニックチャーチを、かつてやっていた人、2名と会って色々お話しを聞きました。アメリカはリビングルームが広く、10人くらいは余裕で集まれます。そのような物理的有利性があるでしょう。また車社会なので、移動がマイペースで、終電に遅れる心配もありません。しかし、同時にアメリカは引越しも多く、かなりメンバーを失ったようです。やはり継続するのは難しいようですね。ただ、オーガニックチャーチは表に出ないので、また全数を把握できるような全体的なネットワークもないので、実際のところは分からないというのが正解です。

 

海外の成功例は聞くけれど・・・・

次に影響を受けたのは当時、ハワイ、カネオヘベイにあったラルフ・モア氏の牧会する「ホープチャペル」のケースでした。ホープチャペルは既存の教会で日曜礼拝をし、ラルフ氏がメッセージをしていましたが、週日の信徒によるミニ・チャーチ(スモールグループ)を積極的に実践していました。ラルフ氏は「ホープチャペルの伝道・牧会の70%はミニチャーチで起こっており、日曜の朝は30%」と言っており、その発想の転換に感銘しました。ただ、やり方としては、基本、ラルフ氏のメッセージで人を礼拝に集め、それをミニチャーチに振り分ける形です。自分としてはミニチャーチ的なものがベースで、必要な時に、励ましと方向性確認のために合同礼拝があればいいのではと思っています。また、ラルフの下で弟子訓練された若者がたくさん牧師となり活躍するようになりました。日本にも頻繁に来られ、セミナーで教えていました。「メガチャーチを作るより、小さな教会をたくさん作る方がいい。」「教会を生み出す教会」「教会員数より、弟子の数で真価を問うべし」などなど「アーメン!」と言いたくなる発言を沢山しておられます。最近は1つの教会の下にない、超教派的な、信徒が始める教会=マイクロチャーチにも言及し、アメリカの消防士さんが仲間と始めたマイクロチャーチの実例なども話してくれました。「日本の牧師は支配的すぎる、もっと信徒を励まし、送り出しましょう!」と言ってくれました。

 

ハワイのホープチャペルのように1つの教会の下でのミニチャーチは現実的で成功しています。これなら日本でもできるでしょう。しかし、実際問題、マイクロチャーチはハードルが高いです。個人的にはこちらに興味があるのですが、少なくも日本で良い実例を見ていません。アメリカでさえ、超教派的に「ムーブメント」としてマイクロチャーチが広がっているのは見ていません。つまりラルフのような人が関わり続けている必要があるという事でしょう。「どうぞ自由にやってください」と手を離してしまったらうまくいかないのです。つまり、牧会者というか、お世話する成熟したクリスチャンが継続的に関わる必要があるという事です。

 

TMCはどうでしょう?

TMCでの最初のパートナーはバプテスト宣教団のチャーリーさんで、当時、彼は「いつでも、どこでも、誰にでも始められる教会」すなわちシンプルチャーチを推進していました。それで、ビジョンを分かち合う中で意気投合して東京都心部をターゲットにTMCが始まったのです。始めはゼロから伝道して弟子を育てるつもりで「コーチング団体」として始めました。東京駅八重洲口にレンタルオフィスを借りて、セミナーなどを行なっていました。色々とイベントもやってみましたが、やはり継続的にノンクリスチャンと関わるのは難しいとなり、クリスチャンコミュニティのベースを作ることに転換しました。つまり、伝道より弟子訓練を優先した訳です。

 

現在、5つのTMCエクレシアで17名ほどのメンバーが忠実に関わってくださっています。「意味ある人間関係と祈りで深まり、広がるキリスト中心のコミュニティ」と掲げているので、時間をかけて信頼関係を築いています。12年で5つのグループが生まれました。毎回、充実した交わり、バイブルスタディ、祈りの時間を過ごしています。メンバーも忙しいのに楽しみにしてくださっています。そこまではできるのです。

 

しかし、コミュニティが倍加しているか?と問われれば、していません。一人一人は職場や家族に福音を伝えようと努めています。そのパッションを持っています。しかし、メンバーが伝道し、人が救われ、グループを始めるといったようにトントン拍子にはいかないのです。ペースが海外とは違うのです。すると、ではトレーニングを提供しようという話になり、海外のテキストを翻訳して・・となるのですが、あまり成功するとは思えません。

 

またメンバーの多くは既存の教会のメンバーでもあり、牧師のいる教会の日曜礼拝に通う必要性を感じているようです。そういう訳で、TMCエクレシアは、超教派的という意味ではマイクロチャーチ的ですが、それぞれが独立教会かというと、マイクロチャーチ的ではありません。そういうファジーな立場というのが本音のところです。

 

まだまだ改革途中

宗教改革では1。聖書神権 2。信仰義認 3。万人祭司 とだいぶ軌道修正できたのですが、その多くは国家教会に留まり、肝心の教会改革は進みませんでした。依然としてカトリックのスタイルや会堂の設定を引き継いでいたのです。私たちはなるべく聖書に忠実に、本来あるべき教会に戻りたいと願っているのです。ヴァイオラさんも、そのパッションが強く、制度的教会からオーガニックチャーチへと提唱し、推進したのです。しかし、前回書いたようにフラットであることを強調するあまり、リーダー(もちろんサーバントリーダー)の存在すら否定しまうところまで行ってしまいました。上下関係ではないですが、役割はあります。「指導」する賜物はあるし、「指導する人」は必要なのです。その賜物のある人は「熱心に指導」すべきです。(ローマ12:8)「勧めをする」=「メッセージする賜物」を与えられている人がいます。その人はそうすべきです。(ローマ12:8)

 

改革は途中です。私たちも、まだまだ暗中模索なところが正直あるのです。

今後の課題としては・・・

 

  リーダーは必要だけれど、リーダーに頼りすぎないようにするには?

  教会を生み出す教会? 教会の倍加は可能か?

  Affinity Group(職種が近い、年齢が近いなどの類似性グループ)は心地よいが、そうでないクリスチャンとの交わりをどう持つか?例えば、年齢を超えた交わりなど。

  信頼関係を築くには固定メンバーがいいが、新しい人をどう取り込むのか?

そして、あまり人が出たり入ったりだとコミュニティを築けません。

  少人数グループの場合の参加者のケミストリー(合う、合わない)もある?もともとスモールグループなので、例えば3名のグループの場合、一人が欠席すると1対1になり、良くも悪くも、グループダイナミックスが変化する。あるいは、消滅してしまう可能性もある。

  仕事で精一杯の社会人クリスチャンが「参加する」以上のことが実際できるのか?

  信仰歴が違う人たちで、どうバランスをとるのか?初心者向けにすると信仰熟練者にはつまらなくなるし、レベルを上げると初心者はついてこれない。

  基本、オーガニックチャーチは自立心の強い、成熟した大人達との間ではうまく機能するが、精神的に問題を抱えた人や、障害者、シリアスな問題を抱えた人々を巻き込んでいくのは難しい。全ての人向きではないのでは?やはり、時間をとって関われる専業牧者が必要か?家族が参加する場合、子供たちはどうするのか?

  人によっては一人で礼拝し、小グループでの分かち合いをしたくないタイプの人もいる。すべての人が「お互いに」のコミュニティを喜ぶわけではない。

  孤立しがちなオーガニックチャーチ同士をネットワークするには?

 

などなど・・・・これをきっかけに議論が活発になっていってくれれば、嬉しいです。

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

2024年9月26日木曜日

オーガニックチャーチの誤解

 

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ1:23)

 

ここから教会の本質を模索するため、制度的教会、組織的教会から離れて、いわゆるオーガニックチャーチを求める人達がいます。それは正しい方向性だと思いますが、何事でも極端に行き過ぎる事もあります。大事なことは聖書的であるという事です。

 

完全に「フラット」という訳ではない

米国のオーガニックチャーチの推進者、フランク・バイオラの著作を読むと、イエス・キリストだけが教会の頭であり、エクレシアメンバーは完全にフラットという印象を受けます。彼の著作には大変影響を受けましたが、同意できない点もあります。バイオラは、霊的に成熟した人が若いクリスチャンを助けるようなSpiritual Accountability (霊的にチェックし合う関係)を否定するし、賛美リーダーの存在すら否定するのです。しかし、聖書を読んでみると、長老、監督という教会のリーダーシップの役が明記されており、それらの役を任命するようにパウロは勧めているし、その資格についても書かれているのです。(Iテモテ3章、テトス1章)

 

「聖霊のみによって導かれる」は、聞こえはいいのですが、人の集まりにはリーダー的存在は必要です。ただ、そのリーダーはサーバントリーダー(仕える僕)でなければならないのは言うまでもありません。特に日本のコンテキストでは、世話人がいないと動かないようです。

 

第一世紀の教会が理想という訳でもない

確かに、313年のミラノ勅令でキリスト教が公認宗教になって以来、(特にコンスタンチン皇帝によって)純粋な信仰形態が変質されていったことは事実です。しかし、パウロの時代の教会でも、コリントの教会のように「問題のデパート」というような教会もあったのは事実です。黙示録2章—3章の7つの教会を見ても、主キリストから「お褒めの言葉」と共に「お叱りの言葉」も頂いていますね。単純に第1世紀の教会だからいいという訳ではないのです。聖霊に導かれつつ進んではいましたが、信徒たちは罪を犯すし、教会運営も試行錯誤でした。実際、使徒6章のような問題も生じていたのです。初代教会に学ぶべきところは大きいです。しかし、初代教会といえども、完全な教会ではなかったのです。

 

初代教会をマネしなければならない訳ではない

教会はペンテコステ(使徒2章)の日に始まったと言われます。誕生したのはエルサレムであり、最初の信徒たちは12弟子を含め、基本、ユダヤ人でした。

当時の問題はユダヤ教(律法主義)との葛藤であり、迫害はまずユダヤ人から始まったのです。このような状況と今の日本とは当然、環境が違います。また使徒2章に見られる「原始共産主義=私物を持たない」的な生活を現代に適応することもできません。聖書に書いてあるからといって「聖なる口づけをもって挨拶」(Iコリント16:20)を実践している教会は無いでしょう。また礼拝に参加する女性が被り物をしている(Iコリント11:6)教会も少ないでしょう。慎重に当時の文化的なものと聖書的命令とを見極める必要があります。

 

名前を変えればいい訳ではない

いくら牧師を「牧仕」に言い換えても、「人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20:28)というキリストのマインドセットがないなら意味がないのは当然です。場所を家に移しても牧師のメッセージ中心の集会なら「ハウスチャーチ」ではなく伝統的な「家庭集会」と何ら変わらないでしょう。オーガニックチャーチと名付ければいい訳ではなく、「本質」があるかどうかなのです。会堂で集まっていても限りなくオーガニックに近い教会もあります。新約で言う「お互いに」を実践するスタイルがあるかどうかが1つの重要な鍵です。牧師のワンマンショーではいけません。

 

以前も書きましたが、特に牧師、宣教師の方々がオーガニックチャーチを始めるときに大事なのは「いかに喋らないか」と言うことです。メッセージする事に慣れているので黙っているのは難しいのです。しかし、「お互いに」教会で大事なことは、いかにメンバーが自主的に積極的に参加するかなのです。これには忍耐と知恵と決意が必要です。ある時、婦人たちがオーガニックチャーチを始めたいというので助けに行ったことがあります。いつものスタイル(分かち合い形式)でバイブルスタディをやろうとしてのですが、その婦人たちはあまりにも「先生」からメッセージを聞くことに慣れていて、自分から喋ってくれませんでした。わたしも新参者でまだ信頼関係が築けてなかったこともあるでしょう。意味ある人間関係を築くには忍耐と時間がかかります。

 

 

義務感はいらないが、献身は必要

オーガニックチャーチでカフェやレストランで会っているとなると、「気楽で気軽な」イメージがあるでしょう。そして、「行きたい時に行けばいいや」的な気持ちになりがちです。しかし、コミットして参加することはメンバーに対しての「愛」なのです。義務感は必要ないですが、キリストの弟子となるにはキリストへの、そしてキリストの体であるエクレシアへの献身は必要です。英語では「コミットメント」と言いますね。メンバーが常に出入りしていたら、そこにコミュニティを築くことは難しいでしょう。TMCエクエシアでは「意味ある人間関係と祈りで深まり、広がるキリスト中心のコミュニティ」を掲げています。意味ある人間関係を築くには、コミットメントを持った関わりが必要になってきます。愛とはコミットメントとも言えます。

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

2024年9月19日木曜日

「オーガニックチャーチを考える」


今回のおすすめ本

Missional Renaissance – changing the scorecard for the CHURCH

By Reggie McNeal

 

Missional Communityという考え

教会というより、Missional Communityという表現が最近よく使われる。特に日本の教会の場合、信仰持つ事で家族との軋轢も生まれ、あちこちから個人が集まって教会を形成しているケースが多い。しかも、電車に乗って日曜礼拝に集うとなると、教会堂が存在する地域コミュニティとの関係が薄くなる。励ましの場としての合同礼拝や聖書からのティーチングは、日曜にやるにしても、週日、生活の場でクリスチャンが少人数で集まり、深い交わりを持ち励まし合い、生活圏でクリスチャンの影響を周りに及ぼしてゆく「場」がどうしても必要になってくる。ホープチャペルのラルフモア師は、これをミニチャーチと呼んで推進している。

 

上に挙げた本は「この世」に置かれた「使命を持った」クリスチャンの集まりとしての宣教的コミュニティを提案している。キリスト教が文化となり、習慣化して、自らの運営にフォーカスしているあり方から、使命をもって地元コミュニティへのインカーネーション(受肉)してゆく方向性が必要なのではないか?

 

教会開拓は1教会、1会堂、1牧師を目指してきた。しかし、それのビジネスモデルが難しくなっている。伝統的教会が衰退する中で、この本は教会の新たな方向性を示している。

 

 

教会のあり方を変革する  The change of mindset on CHURCH  

 

- Kingdom focused  神の国指向  生活の場、社会、世界が舞台。

 

- Connectors     組織の会員という考えより、人々を結びつける方向性

 

- Program to people  プログラムから人へフォーカスを移す。

 

- Attractional to Incarnational 魅力あるプログラムでこちらに引っ張り込むのではなく、コミュニティに出て行って、そのただ中で影響を与える。著者は地元少年野球のコーチとして奉仕することや、NPOなどで地域奉仕活動に参加することを勧めている。

 

- Proclamation to Demonstration 説教より、行いで見せていく

 

- Institutional to Organic  制度的教会から生命体としての教会へ。

 

- From church job to Kingdom assignment 神の奉仕は教会内の奉仕、仕事という考えから、神の国を広めるため、この世に使命をもって遣わされているという意識。この世の仕事の再評価。

 

- Life is mission trip 信仰生活は日曜だけでなく、生き方そのもの。生活、人生そのものが神と共に歩む宣教旅行。

 

- The way of life それは生き方そのもの

 

- From Worship service to Service as worship

日曜朝の礼拝という儀式から、人々に仕えることが礼拝という意識へ。実際、礼拝は24 hours/7daysであるべき。(ローマ12:1−2)

 

オーガニックチャーチの特徴
著者によるとオーガニックチャーチの特徴は・・・

 

- Decentralized 中央集権ではない

 

- Simple シンプル

 

- not membership driven 会員制度を強調しない

 

- synched with normal life routines 日常生活と同期している

 

- not dependent on clergy  教職者に頼らない

 

- focused on the spiritual development of the participants 活動の多さよりも参加者の霊的成長にフォーカスする。

 

- The people are the church. (not “attending the church”, not “going to the church” nor “supporting the church”. 教会は「人々」なので、「教会に出席する」「教会に行く」「教会をサポートする」という言い方はしない。

 

TMCの場合は・・・

例えば、私達のTMCでは、カフェや、zoomで定期的に集っている。エクレシアは「教会」と訳されるが、新約では会堂の意味で使われたことは一度もない。常に人々を指している。1つの場所で人数を増やすことを目的とせず、深い、正直な関係を築くことを目的としている。多くても8人。一人の牧師が常にメッセージするということをしない。(新約聖書にその例は見出せない)宣教師がいても、ビジネスマンが進行役を勤める。カフェや、レストランという日常の雰囲気の中で、分かち合いが為され、食事をし、聖書が開かれ、祈り合う。プログラムはいたってシンプルでフレキシブル。新来会者がいれば、その人の話を聞いて終わる事もある。先生と呼ばれる人はいない。正直になれる安心感がある。集うのはビジネスパーソンなので、必然的に会社の話やビジネス戦略の話も出る。日常生活にシンクロしている。特別なマスクをつけなくていい。変に霊的に繕わなくていい。

 

みことばが開かれ、1)気になったところ、心に留まったところを分かち合う。2)疑問に思えるところを分かち合う 3)アクションポイントが示されれば分かち合う。全ての人が参加し、コメントを言う。一方的に聞いたメッセージより心に残る。時々、ノンクリスチャンも参加する。彼らも自由に聖書の言葉から感じた事を分かち合う。最後は、実生活での必要を分かち合い、祈り合う。ビジネスの成功も祈る。仕事関係で出会うノンクリスチャンのためにも祈る。そのような中で参加者は解放され、霊的成長を体験する。自分にとっての霊的命のオアシスとなる。人生を共に歩む「友」が与えられる。定期の集まり以外でも、お互い自由に会って交わったり遊んだりする。

 

参加者からのコメント:

🔵 まさに、心のオアシスです。」

🔵 「ここだけですよ、心を開けるのは」

🔵 定期的に御言葉を学び、互いに祈りあえる仲間が与えられていることに感謝して

      います。」

🔵 聖書の教えるエクレシアについて再考し、自分の中で再構築することが出来ました。また

      社会人クリスチャンの様々な仲間が増えたことも感謝です。」

🔵 書を新しい角度から学ぶ事が出来たり、社会人として、社会で働く上でも

   勉強になっているという事です。」

 

東京メトロコミュニティ(TMC)のモットーは、

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ」。

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳