2024年11月11日月曜日

霊的コミュニティを目指して (2)

 

霊的コミュニティは奇跡

ラリー・クラブは、霊的コミュニティは「奇跡」だという。人間的には作り出せない。参加者全員がへりくだり、キリストを見上げる(ワーシップ)態度が無いと起こりえない。形だけスモールグループをやっても、それが無いと全然違ったものになる。愛とは他人に関心を注ぐ事。そのためには他の人が言っていることに誠実に、耳を傾ける必要がある。スモールグループが失敗する一つの理由は、ある人が会話を牛耳ってしまい、自分のことばかり喋ってしまうことにある。「Are you really listening? Key to successful communication」(Paul J. Donoghue & Mary E. Siegel著)によると、アクティブリスニングは贅沢ではなく、必要であると。愛とはその人に注意を注ぐこと。それを妨げるものに4つあるという。

 

アクティブ・リスニングの障害となる4つのこと

1)     Defending (防御的になる)

2)     “Me, too” identifying (自分の事ばかり話す)

3)     advice giving (いわゆるお説教をする。)

4)     judging the speaker (相手を裁く)

 

霊的コミュニティの本質は「お互いに」

お互いに相手を自分より優れた者と思う謙遜さ(ピリピ2:3)が無いと、競争心が生まれる。お互いの業績(あるいはミニストリー)の自慢話になってしまう。また相手を裁いたり、見下したり、あるいはお説教したりが始まると一気に雰囲気が壊れてしまう。安全な場所でないと、正直になれないから。誰も正直になることは怖いので、貝のようにちょっとでもアブナイ雰囲気を感じると閉じてしまうのだ。だからお互いの謙遜さが絶対に必要となる。たとえ良い動機であっても一人の決まった人が一方的に長いメッセージを語って終わりというスタイルでは「お互いに」の部分が起こらない。その「お互いに」が霊的コミュニティの本質的な部分だからだ。ラリーは言う、霊的コミュニティがあまりに稀なので、人々はプロのカウンセラーに頼るようになると。逆に霊的コミュニティが機能すると、かなりの部分、お金を払って会いに行くカウンセリングが必要なくなるとラリーは見ている。しかし、また、あまりに仲良しグループになってしまうと、人間的なものが先行し、なあなあ主義になりチェック機能が効かなくなる危険がある。キリストの前に出ないとお互いの罪を容認してしまう危険があるのだ。愛をもって真理を語れる関係でなくてはならない。あるいは、注意しないと、単なるはけ口としての他人の批判や教会の批判、傷のなめ合い集団になる可能性もある。だから、霊的コミュニティは「奇跡」。しかし、追い求める価値あるもの。ラリーは言う。

 

It’s time to build the church, a community of people who take refuge in God and encourage each other never flee to another source of help, a community of folks who know the only way to live in this world is to focus on the spiritual life – our life with God and others. It won’t be easy, but it will be worth it. Our impact on the world is at stake.

(p.20)

 

今こそ、教会を建て上げる時だ。教会、すなわち神に隠れ場を求める人々のコミュニティ。

彼らはお互いに励まし合い、神以外のものに助けを求めに逃れない。彼らはこの世に生きる術は霊的生活  すなわち神と他者と共にある我々の人生  にフォーカスすることしかないことを知っている。それは容易ではない。しかし、価値あることだ。この世へのインパクトが懸かっているから。

 

2階の屋根裏部屋

ラリーは2つの部屋について説明している。1階と2階。1階は「この世」「肉」「現実の日常生活」と言ってもいいだろう。そこには常にコンフリクトがあり、罪があり、傷つけ合いがあり、痛みがある。なぜなら、人はそこでは自己中心であり、自分の価値を見せつけるプレッシャーの元にあり、自分を自分で守ることに精一杯だからだ。

 

「私の人生これだけなの?何かこれ以上のものがあるはず」と未信者でも2階の存在を意識している。アッパールーム(2階)には主がいて、COMMUNIONの用意が出来ている。そこはキリストによってのみ変えられた世界、変えられた自己がおり、自分中心の態度はキリストをワーシップする情熱に変えられ、人間不信はキリストへの信頼、自己破滅的な快楽はキリストにあって霊的に成長する情熱へと変えられる。自分の人生、自分でマネージできると思っていた自分は、キリストへ服従することへの思いが与えられる。

 

未信者でも人生が1Fだけじゃないことを感じている。隠れ場を求めている。だから、スピリチュアルにハマる。すべての孤独は神への渇きだから。しかし、未信者には2階があることを知っていても鍵がかかって入れない。そこへの鍵はキリスト(ヨハネ14:6)だから。2Fを知っていることは何という幸いか。二階に行く事により、キリストと交わることにより、以下の移行が起こる。

 

1)自己にフォーカスする → 神をワーシップ

 

2)自分が判断基準 → 神のことばが判断基準

 

* ちなみに、人は善悪を知る木の実を食べて、(神なしに)善悪をわきまえる、すなわち、自分が判断基準となった。だから、人間は、「神はいない、信じるに足りない」と結論することさえできる。

 

3)自分の生活を自分のリソース(魂)によってのみ管理する → キリストを信頼する歩

み。与えられた無尽蔵のリソース(聖霊)による歩み。

 

それにより、自由になる。平安になる。Dead Endはない。行き詰まっても、常に2階がある。そこへ行けば、キリストがいる。祝宴の用意がある。だから、Spiritual communityとは、この2階を知っている者の交わりなのだ。

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

2024年11月7日木曜日

霊的コミュニティを目指して (1)


無表情な人々

アメリカの著名なカウンセラーであり、ライターであるラリー・クラブ著の「Becoming TRUE Spiritual Community」(真に霊的なコミュニティを目指して)から霊的コミュニティつくりについて、ご一緒に考えてみましょう。ラリー夫妻は最近、フロリダに引っ越した。ある日、マイアミビーチを散歩していた。そこで見た光景が忘れられないという。

15メートルくらいのベンチに年輩者たちが座っている。フロリダは退職後、老後を過ごすのに多くの人が選ぶ土地柄でもある。しかし、そこに座っている人々はまっすぐ前を向いたまま、隣の人とも話さず、誰にも触れず、前を通る人やバスにも注意を向けず、同じ姿勢で固まっている。コーヒーカップも見当たらず、新聞や本さえ読んでいない。人間関係をエンジョイするように、神のかたちに作られた人間の証拠がどこにもない。その悲しい姿にラリーはショックを受けたという。長い人生で恨み怒りが蓄積してしまったのか?友達や家族に裏切られ人を信用できなくなってしまったのか。ともあれ、そこに座っている人々は無表情でただ、遠くを眺めているだけだった。

 

日本でも老人が、アパートの一室で一人寂しく死んでゆく孤独死というのが話題になった。無縁社会という言葉も出ている。人ごとではないだろう。特に男性は会社に献身し、退職すればタダの人で、友達もなく、妻に死なれれば、一日テレビを見て、酒を飲むしかなくなる。心を開けるコミュニティがあったならと痛切に思う。教会こそが、それを提供できる場所なのではないか?人々は霊的なコミュニティを渇望しているに違いないのだ。ラリーに言わせると「孤独」とは「神への渇き」であると。霊的な生き物である人間は単なる仲良しコミュニティだけでも満足できない。渇きは癒せない。だからこそ、キリストを中心にする霊的コミュニティつくりが重要となる。

 

教会は霊的コミュニティ

ズバリ言ってしまえば、教会とは、神に向かう霊的なコミュニティなのである。教会とは人々のこと。そして、霊的とは砕かれている事。ここで鍵となるのは「砕かれている」(Brokenness)こと。霊的な人は愛の人。霊的コミュニティを出現させられる人はこういう人だ。

 

- Broken but Strong (砕かれているが、強さがある)

- Venerable but have Hope (弱さをわきまえているが、同時に希望を持っている)

- Respectfully Curious (他人を尊重しつつも、深い関心を持つ)

 

そこでは批判もなく、道徳論もなく、お互いに主を見上げることをする。ワーシップの心がある。SPIRITUALでなければ、単なる、仲良し関係か、仕事関係か、いやし、慰めを求める傷のなめあい集団か、神なきカンセリングか、道徳論集団になってしまう。

 

真の霊的コミュニティは、弱さをわきまえながら、正直に、謙虚に、あきらめず、主のもとに共に集い、主とお互いにコミットし、主と共に神に向かって人生の旅を共にしてゆく仲間たちなのだ。

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

 

2024年10月31日木曜日

新しいコミュニティの創出(2)

 

コミュニティの喪失は、社会の損失

東京のような都会でも突然リストラに会い、ホームレスになってしまう人々がいる。ある精神科医の知人から聞いた話だが、ホームレスミニストリーで公園に行った時、ベンチの端と端に座っている2人のホームレスは何の言葉もかわす事無く1日そこに座っていたという。

 

派遣村村長で、NPO反貧困ネットワークを推進する湯浅誠氏は日本には新しいコミュニティを創出するノウハウの蓄積が少ないと指摘している。

 

「地域や社会の中に居場所を失った中高年男性の生活が崩れてゆく事の影響は必ずその家族、地域、またその家族を通じて家族の地域、職場などに及んでいきます。妻に対するDVや子供に対する虐待などは直接的なので想像しやすいでしょうが、親の具合が悪くなる事で、子供の仕事や生活に影響が出る、周辺トラブルから周囲の人達も健康を害すなどといった例は、いくらでもあります。それは社会全体にとってマイナスをもたらしている、言い換えれば社会全体が損をしている、とういことです。」

 

課題先進国の日本では、「孤独死」「自殺」が後を断たない。子供の間の「いじめ」もその辺に問題がある。コミュニティは存在しても閉鎖的で同調しない者を排外する傾向にある。日本が右翼化し、日本=日本人というコアコミュニティが出来ると、少しでも同調できない者を非国民として排除してゆくようになるだろう。国民は政治に期待し、何度も失望してきた。湯浅氏は「ヒーローを待っていても世界は変わらない」で「おまかせ民主主義」(上がやってくれるのを待っているだけ)の危険性を指摘し、自分達で、市民レベルで、出来る事をやってゆく道を提唱している。

 

コミュニティ・デザイナーという仕事

今後は市民運動、NPOの役割はさらに大きくなると思われる。「地域のみんなでまちづくり」を提唱する山崎亮さんの職業は何と、「コミュニティ・デザイナー」だとういう。(「コミュニティデザインの時代」中央公論)。地方活性化にNPOなどの地元コミュニティの活躍が欠かせないとする。また、孤独死や無縁社会という中で、今こそ人とのつながりを自らの手で築く必要があるという訳だ。要は「居場所」と「役割」を作ることにある。仮設でもボランティアに「してもらう」から一緒にイベントを「共催」するように変わってきている。2011年、東日本大震災の年の12月、私が行ったいわきの仮設でも仮設自治会から頼まれてクリスマス会を自治会の主催、ボランティア団体、教会の共催で行った。「役割」があれば人は生きてくる。はたらくとは「はた」を「らく」にすることだそうだ。その精神で皆で協力すれば「生きてくる」。評論家の荻上チキ氏も、著書「僕らはいつまでダメ出し社会を続けるのか」の中でさまざまな社会問題に対して政府に「ダメ」を言っているだけでなく、その問題を生み出す社会環境を変革するため足下から行動を起こすことを提唱している。例えば、荻上氏は「ストップ!いじめナビ」を賛同者と始めている。行政がすべてできない。政治家がすべての分野での専門家でもない。我々市民が「シングルイシューのセミプロ化」で政治家に働きかけ、勉強会を始めるなど、「新しい公共」の姿を提案している。コミュニティの創出は、いろんな人達と出会う「きっかけ」作り。そんなに難しい事ではないが、創造性が必要だという。

 

出てゆく教会

先日、いわきで会ったアメリカ人クリスチャンのボランティから聞いた話だ。彼はストリートに出て行ってミニストリーしている。また、このブログでもトモみんがやっている「出てゆく教会」を紹介した。しかし、多くのクリスチャンは守りの姿勢で出て行かない。アメリカでは、人々が多くの問題、困難の中にいるのに助けてくれない教会を憎み始めているという。そのうち教会への迫害が起るであろうと。

 

先の湯浅氏はリーマンショック後にリストラされホームレスになった人達のために日比谷公園に「派遣村」を作って年末に食べ物と住処を提供した。アクションを起こした。神は時にクリスチャンでない人を用いて神のご計画を推進される。(旧約のネブカデネザル王、ペルシャのクロス王など)クリスチャンの私は大きなチャレンジを受けた。3:11以降はクラッシュジャパンなどクリスチャンのボランティア団体がアクションを起こしたことは嬉しい。その中で神からのメッセージを聞いて、コミュニティと教会の壁を崩して、コミュニティの中へと入って行っている牧師達がいる。我々東京のクリスチャンは3:11の神からのメッセージをどう聞いているだろうか?

 

「コミュニティの創出」へのアクション

今、日本では以上のようなコミュニティ創出へのビッグニーズがある。「血縁」「地縁」「社縁」を超えたコミュニティが必要だという。人と人との触れ合いが必要だという。いろんな違う分野の人々との横の連携(ネットワーク)が必要だという。「役割」と「居場所」が必要だと社会が叫んでいる。教会はどう答えるのだろうか?

 

人の根本欲求は「愛されること」、「受け入れられること」心理学者が口を揃えて言う。教会は、それを満たすことのできる、キリスト中心の「コミュニティ」、「神の家族」なのだ。

 

東京の「ど真ん中」に神のコミュニティ(エクレシア)を創出してゆく。これがTMC

(Tokyo Metro Community)のビジョンなのです。教会という組織の自己保存ではなく、神に呼ばれたクリスチャンとノンクリスチャンが共に「居場所」と「役割」が与えられ、

そこにキリストが受肉され、新しいコミュニティを創出してゆくのです。

 

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TMC 「秋葉原サーチライト・クラブ」のケース

秋葉原では、月2回オンラインでのエクレシア(バイブルスタディと祈り)でコアクリスチャンの成長、そして月1度、秋葉原で対面でのアウトリーチ集会(サーチライトクラブ)を行っている。サーチライトは秋葉原エクレシアの世話人のオフィスで、関わりのあるノンクリスチャンをお招きしてのピザ・パーティ。自由な雰囲気の中でクリスチャンとノンクリスチャンが自然に出会い、会話する「場」を提供している。そこには「先生」はいない。「牧師」はいない。「伝道されるという」心配なしに集える。フラットな交わりでノンクリスチャンの方も自由に自分の意見や疑問を分かち合える雰囲気がある。そこではプログラムより、あくまで個人が大事にされ、人間関係が大事にされる。9月27日(金)のサーチライトではクリスチャン4名、ノンクリスチャン3名が参加。ノンクリスチャンの一人は「また来たい」とコメントをした。クリスチャンもノンクリスチャンも直面している仕事や家族の課題を「正直」に分かち合う。「かっこつけない」ことが、この集会の魅力だろう。リピーターが増えれば、ここが「コミュニティ」となっていくのだろう。

 

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東京メトロ・コミュニティ

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

2024年10月24日木曜日

新しいコミュニティの創出(1)

 

日本の幸福度は世界51位!

最近、世界幸福度ランキングが発表されました。順位は・・・

 

1. フィンランド 2.デンマーク  3.アイスランド  4.スエーデン

ちなみに、アメリカは23位。日本は51位。(30歳未満では73位)。治安も良く、平均寿命も高く、物も豊富。・・どうして「幸せ」に感じられなのでしょうか?幸福度を測るインディケーターを見ると、日本の場合、「コミュニティにつながっている」が突出して少ないそうです。孤独を感じている人が多い。特に、若者の居場所がない問題はシリアスです。コロナ世代は、学校で友達が作れなかったという問題もあります。東京都内ではすでに50%が一人暮らし。2050年には日本のほぼ半数(44%)が一人暮らしになると予測が出ている。若者だけじゃない。大人も「居場所」が必要でしょう。特に会社をリタイアした男性にとってコミュニティがないことは致命的です。

 

被災地での孤立化

被災地の仮設では中高年の男性が孤独になる傾向があります。お茶会などをやっても圧倒的にご婦人が多い。一つは支援を受けたくないというプライドもあり、もともと交わりが下手な事もあり、部屋にひきこもり一日中酒を飲み、テレビを見ているか、外でパチンコをやるとう事になってしまうようです。通常、男性は会社での「社縁」は強いのです。田舎では「血縁」「地縁」も強いだろう。しかし、震災で家を無くし、くじ引きで仮設に入れば、それらの「縁」を失ってしまう。それでも少しずつ仮設での自治会が出来、コミュニティが出来つつある。今度は、そこから復興住宅(マンション)に移ると、またコミュニティを失ってしまうという。

 

2008年のリーマンショックで多くの「派遣切り」が出た。ホームレスが急増した。年末を越せるようボランティア達が、日比谷公園に「派遣村」を設立。派遣村村長で、NPO反貧困ネットワークを推進する湯浅誠氏は、以上の「血縁」「地縁」「社縁」を超えた新しいコミュニティの創出の必要を訴えている。エクレシアはその種のコミュニティだろう。

 

ホームレスは「ホーム(居場所)」レス。

代々木公園でのホームレスミニストリーに関わっていたことがあります。1年間、ほとんど毎週土曜の朝行きました。7時半から礼拝、コーヒー出してスモールグループでの分かち合い、朝食を配って解散。Homeless houselessじゃない。Homeがないのだと知らされました。つまり、家族がない、仲間がない、居場所がない。1週間に一度、この礼拝後のスモールグループで、ようやく人と話す機会が与えられる。人間らしい時間を持つ。このミニストリーは食事提供だけなく、「コミュニティ」の提供もしているのだと強く思わされました。

 

エクレシアは「神の家族」です。キリスト中心のコミュニティを創出することは、東京砂漠に「家族」、「仲間」、「居場所」を提供することでもあります。コミュニティの創出は社会善への貢献でもあるのです。一番の現代的ニーズに応えることでもあるのです。


ただ、礼拝が儀式、プログラムになってしまうと、コミュニティではないので、孤独な信者を生み出してしまうことにもなりかねません。エクレシアは、「お互いに」が機能する「神の家族=コミュニティ」という意識が大事です。

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

 

 

2024年10月17日木曜日

「教会」に行かないクリスチャン


通常、クリスチャンのイメージは日曜日三角屋根に十字架のついた教会堂で行われる礼拝に毎週、通っている人だろう。しかし、欧米では教会に行かないクリスチャンが激増している。2018年2月5日、御茶ノ水で行われた第五回、東日本大震災、国際神学シンポジウムに参加した。そこで、フラー神学大学院異文化間研究学部准教授、ライアン・K・ボルガー博士の講演を聞いた。クリスチャンは地の塩、世の光として生きることが期待されているのに、この世へのインパクトを失ってしまっていると言うのだ。問題は私たちクリスチャンが過去に生きている。つまり今日、私たちが身に付いている行動様式が時代遅れで、この世で普通に生活しているノンクリスチャンの隣人たちに意味のないものになってしまっていると指摘している。

 

「ノンズ」と言われる人達

ボルガー博士によると、アメリカの教会出席者総数は60年代の半分に減り、宗教と関わりを持たない人の割合もかつては5%だったのが、最近は30%と急増。ヨーロッパでは、人口の80%が霊的事柄に関心があるのに、教会に行く人は2%。また、積極的な意味で教会に行かないクリスチャン、「ノンズ」と言われる人たちが現れ、今日的な霊性の実践を生み出しているといいます。この「ノンズ」に見られる特徴は

 

1.      コミュニティを大事にする。他者への奉仕を中心とした深い関係性に価値を置き、そのような関係性を生み出しています。

2.      個人的な変革を大切にする。自分自身の体、心、そして精神を成長させるために、意識的に懸命に努力します。

3.      第3に、社会の変革を大切にする。善のためのネットワークの創造を通して、世における正義と美を求めます。

4.      第4に、目的を追求する。人生における個人的な使命を明確化し、行動に移します。

5.      第5に創造的。時間と場所を創造的な行動のために使い、遊ぶこともする。

6.      第6に、責任感がある。決められた目的に向かって、自分自身と他者と働くことができるように促します。

7.      第7、存在の根源。最も大切なものへの探求。

 

これらの「ノンズ」は小さなコミュニティに関心を持ち、大衆的説教より個人的メンターの存在に必要性を感じている。ボルガー博士は、教会がその本質を取り戻すために、必要なことは西洋的形式主義を取り除くことだと断言している。多くの欧米人は文化的に教会に「通っている」意味を失いつつある。むしろ、教会の外でキリストへの信仰を表現することに関心を持ち出している。日本も他人事では無い。一気にそういう流れにならないとも限らない。しかし、それは絶望より、希望と言えるのではないか?教会が博物館のようになってゆく中で、「教会」という形を守ることが大切なのか?それとも現代社会に意味ある信仰生活を生きることが大事なのか?その質問が突きつけられている。

 

すでに2007年に地引網出版で翻訳出版されたジョージ・バナーの「レボリューション」に霊的な体験と信仰の表現の主な場所が教会外へ推移してゆくということが書かれている。

 

信仰の表現の場は外に向かう

バナーは面白い指摘をしている。2025年までにアメリカの霊的環境は大きく変わるというのだ。アメリカ人が信仰を体験し、信仰を表明する「場所」として、3分の1は教会、3分の1はキリスト教ではない信仰の共同体を、そして3分の1はマスコミや芸術、カルチャーセンターなどを選ぶと予測されるというのだ。これは2000年には霊的な体験と信仰の表現の場として教会が70%であったのに対して、教会と教会以外の場が同等になってゆくことを示している。また信仰の表現の場も教会堂の中だけでなく、マスコミや芸術が3分の1となるというのだ。これは社会への影響という視野からは好ましい傾向ともいえる。

 

さらにボルガー博士の言う「ノンズ」の存在は10数年前すでに存在を始めていた。「レボリューション」の中にミニ・ムーブメントを起こす人達として取り上げられている。「教会」を去ったクリスチャンたちは日常の現場で霊的コミュニティ作りを始めていたのだ。

 

ミニ・ムーブメントの特徴は・・・

 

1.神に対するまっすぐな信仰

2.個人的な関係を重視

3.人生の変革 トランスフォーメーション

4.明確なグループ目標=霊的成長

5.個人の人生にかかわる

 

このムーブメントは職業的牧師や宣教師に頼らないという特徴がある。彼らが生活の場で与えられたポジションのまま、神がご臨在を顕してゆく。信徒/宣教師という枠も超えてゆく。バナーは職業的な牧師は減ってゆくと予測している。

 

現代人が価値を置くもの

現代のアメリカはポストモダンであり、若い人を中心に以下のような考えになってきている。人生で最も大切なのは人間関係。結果より過程。効果的に社会に影響を与えるのは、人との会話。一方的にしゃべりまくって信仰を押し付けても、人々は耳を傾けない。パフォーマンスやプログラムより純粋な「愛」、個人的な「信頼性」が大事。原則や命令より、個人的な証や体験を重視。ただ聞くより「参加」や「体験」を重んじる。これは現代日本のヤングアダルトも同じだろう。

 

このような考え方は当然ミニストリーにも影響を及ぼしてくる。ノンクリスチャンの友人を大きな伝道集会に連れてゆくより、個人的な会話をしたいという気持ちが強まっているという。そういう傾向自体が悪い訳ではない。そして、そういう型に合わせられる柔軟性を聖書は持っている。たとえば、集会で一方的に話すより、参加型スモールグループでお互い、聖書の箇所を通して語られたことを分かち合うこともできる。この型だと全員参加できるし、お互いからも学べる。そのために顔を向けて話し合える物理的な環境も大事だ。礼拝堂が固定した長椅子の場合、「お互い」を実践するのが難しくなる。

 

 

「刷新」ではなくあえて「革命」

ジョージ・バナーは教会の「刷新」ではなくあえて「革命」と言った。

 

「もっと端的に言うなら、革命とは私達が教会に『行く』ために召されているのではないことを認識することである。私達一人一人が教会に『なる』ために召されているのである。(p46

 

革命のためには、どうしても教会と礼拝(儀式としての)のことに触れなければならない。

 

「しかし、聖書には、今日私達が知っているような教会の姿は描写されていないし、勧められてもいないことにお気づきだろうか。現在のような『教会』は

何世紀も前に、宗教指導者たちが人々をよりよいキリスト教徒にするために作り出したものである。しかし、多くの人たちが重要と思っている教会礼拝、職務、行事、建物、儀式は聖書的でも非聖書的でもない。教会は無聖書的なのだ。すなわち教会組織は聖書には書かれていないのだ。・・教会は健康的で私達の助けになりこそすれ、神聖にして犯すべからずという性質のものではない。」

p.44 *これに関しては、ジョージ・バナーとフランク・バイオラの共著、「異教まみれのキリスト教?」に詳しく説明されている。)

 

教会組織は聖書に書かれていないのであれば、変革するスペースがあるという事でもある。私達の頭の中に日曜朝10時半の礼拝は「神聖にして犯すべからずもの」という固定観念がないだろうか?これを変えることは罪であるという思いが在る。しかし、聖書を読んでみると、実は確固たる論拠はない。アメリカの農民達が集まり易い時間帯だったという説もある。「礼拝厳守!」と若い頃言われた事がある。「礼拝を守る」とも言う。その「礼拝」とは何を指しているのだろうか?もちろん神を礼拝することは当然であり、大切なことだ。聖書を読むと、礼拝はまず、儀式というより「霊的なもの」であることが分かる。

 

「神は霊ですから、神を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)

 

極端な事を言えば、立派な会堂で4000名集まる有名な牧師の聖書的なメッセージが語られる礼拝に出席していても、ランチメニューを思いめぐらしているようでは、真の礼拝とは言えない。3−4名でリビングルームに集まっていても、真剣に神を求めていたら、そっちのほうが真の礼拝ということもあり得る。

もちろん、家の教会にすれば解決するといったシンプルな話ではない。重要な事は真の弟子が育っているかどうかである。ただ、真の礼拝が会堂の大きさや、その教会の有名度や、人数の多さに関係ないことは明白だろう。そもそも礼拝とは、その人の「生き方」であって、礼拝という「行事」に参加することではない。

 

「あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

 

 

ボルガー博士の結論

ボルガー博士の講演の結論をここにお分かちしよう。

 

「教会は、私たちの時代においてキリスト教を自由にするために形式主義を取り除かなければなりません。塩となり、光となるよう私たちを自由にするために。」

 

ボルガー博士は、「ノンズ」をただ批判しているだけなら、その人たちはさらに漂流して他宗教へ行ってしまうこともありうると警告している。この流れを止めるよりも、励まし、正しく導いていく霊的指導者(個人的なメンター)が必要なのではないだろうか? 彼らが励まされて生き生きとした信仰を保てるなら、現代社会において、彼らの生きる現場で、「地の塩」、「世の光」となっていける可能性は大きいのだから。

 

「教会」は「行くところ」ではない。私たちが「教会=聖霊を宿した神の宮」、礼拝は参加する儀式ではなく、「生き方」とするならば、信仰の表現を日常のアリーナへ戻し、イベントとしてではなく、日常生活のどこかで定期的に「集まり」、主を礼拝し、信仰を励ましあうことができる方向へ動いてゆくことができるのではないか?

 

 

レボリューション〜今、教会に起りつつある革命

ジョージ・バーナ著

地引き網出版  1600円




 

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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

japantmc@gmail.com (ブログ執筆者 栗原)

 

 

2024年10月10日木曜日

未来都市のエクレシア


従来型のチャーチプランティング

70〜80年代の関東での福音自由教会の開拓が典型的だろう。人口が増えつつあった京浜東北線沿線に開拓伝道していった。ある場合は、その地域に、若い夫婦が増えるのを予測して先取りして教会を建てて宣教した。これが功を奏して、どんどんと教会が増えていった。地域の若い夫婦や高校生などが教会に集っていた。

 

このように、地域に根ざし、地域に住んでいる人たちと知り合いになり、彼らに伝道し、教会につなげていった。これが従来型チャーチプランティングの「王道」だった。これは今でも郊外の市町村においては有効だろう。

 

様々な変化の中で・・

しかし、状況はいつまでも同じではない。かつては都心の周りに住宅地が広がった。いわゆる「ドーナツ化現象」である。多摩ニュータウンなどがその例だ。時代は一周りして、かつての若い夫婦は老夫婦(あるいは独居老人)となり、その子供達は、都心に出てゆき、都心に住み始める。「逆ドーナッツ化現象」が起こった。かつての大集合住宅は建物も住んでいる人も老朽化してきている。戦後の若い家族のニーズに応えた新宿区の巨大アパート群の戸山団地なども、建物自体の老朽化と共に、今は独居老人が多く、限界集落化している。

 

今日、都心で一人暮らししている30代、40代が増えている。独身層が増えている中で、少子高齢化はどんどん進む。これらの年代はインターネット世代で、テレビや固定電話を持たない人も多い。多種多様な職業とライフスタイルを持っている。そういう中で、「日曜の朝10時」の礼拝しか選択肢がない教会は、多くの都市型の人々を排除してしまう結果になる。

 

ここ数年のコロナの状況下で、「教会生活」も大きくチャレンジされ、変化した。インターネット世代はインターネットでの礼拝(他教会の礼拝メッセージを聞くことも含め)を体験してしまった。ある意味、パンドラの箱を開けてしまった訳で、もう一昔前に戻ることはできない。次のステージに前進してゆくしかない。

 

そもそもエクレシアとは・・

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのも ので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ1:23)

 

大事なのは、「本来、教会とは何なのか?」を聖書的に確認することだ。教会と訳される「エクレシア」というギリシア語が建物に言及している箇所はない。また、エクレシアは「教える会」でもない。上記の御言葉が語る通り、エクレシアは「キリストのからだ」、すなわち生きた有機体(オーガニック)なのであり、かつ、「キリストの充満」なのである。・・・日本語訳では「・・・ところ」となっているが英語では単にFullness of Christなのであり、本来「充満」と訳すべきなのだ。つまり、エクレシアは「建物」にも「場所」にもこだわらない。

また、エクレシアは「聖徒として召された人々」のことであると書かれている。(コリント1:2)

 

ところが会堂が建てられ、人数が増え、大きくなると組織となり、制度化されていく。管理が必要となり、資金が必要となり、この世の組織のようになってゆく。80〜90年代には「大きいことはいいとだ」とばかりにメガチャーチブームとなった。メガチャーチの牧師はスーパーヒーローになりもてはやされた。中東ではブドウの木は地面を這って横に広がっていく。本来、エクレシア(キリストの体)は、そのように水平に広がる。しかし、「大きく」「高く」と上を目指す巨大化した「教会」は、その本質を失っていく。命を失い「宗教」となって制度化されていく。ビジネス的手法や、成功主義や覇権主義が入り込む。カリスマ牧師たちのスキャンダルも暴露されるようになる。そんな中で、組織的教会に疑問を持つ人々が、本来のエクレシアを求め、オーガニックチャーチを推進するようになった。

 

未来都市のエクレシア

日本の福音派は80年代、90年代にピークを迎えた。80年代にはJEA(日本福音同盟)から「羽ばたく日本の福音派」という本まで出た。「あの頃に戻りたい」と願っても、時代は遡れない。前述したように「状況」が変わってしまっている。そして、今日、東京基督教大学が出したデータで、日本の福音派は「停滞」ではなく「衰退」期に入っていると評価された。

 

戻れないなら、前を向く話をしよう。日本では東京一極化ということが言われて久しい。世界的も急速に都市化が進んでいる。2025年に、世界人口は81.9億人となり、都市人口は58.3%となる。2050年には都市人口は97.7億人となり、都市人口は68.4%となる。都市化、デジタル化、キャッシュレス化は避けられないだろう。日本でもスマートシティが実験段階に入っており、都市の一括電化、デジタル管理化が実現する。都心のライフスタイルは多種多様。都心で働く人を一箇所に一定時間拘束する形での「教会」のあり方が有効的だろうか?巨額の資金を投入して土地を購入し会堂を建てるやり方が有効だろうか?特に注目すべきは中東で、近未来都市が出現している。いつまで教会は、三角屋根に十字架をやるんだろうか?

 

 

世界が都市化する中で、都心でのエクレシアのあり方を考えることが未来につながる。TMCエクレシアは都心でキリストの体が、どう表現されるのかを模索してきた。コロナ前、丸の内、池袋、秋葉原、青山、赤坂で「顔を合わせて」スモールグループで集まっていた。コロナとなり、一度、すべてがzoomに移行した。しかし、そのお陰でメンバーを失わず継続できた。コロナ後、池袋と青山、秋葉原は対面に戻り、あとはzoomのまま残っている。実はメンバーの他県への移動など、いろいろな事情で現地集合が難しくなってしまったグループもあるが、zoomのお陰で継続できている。もちろん、実際に顔を合わせるメリットはあるのだが、自宅にいながら参加できるzoomのメリットも、忙しい現代人には大いにメリットがある。

 

興味深いのは、TMCエクレシアは、以前から「建物」にこだわらないスタイルだったが、今度は「場所」にもこだわらないで継続している。「赤坂エクレシア」と以前の名前は付いているものの、メンバーの一人は軽井沢からzoomで参加している。他のメンバーは2拠点生活になり、仙台から参加することもあった。つまり、もう「赤坂」でさえない。しかし、エクレシアは続いている。青山で集まっていたエクレシアは、メンバーの都合によりお茶の水だったり、東所沢であったり、時にメンバーの自宅であったり変形自在だ。すでにコミュニティがあるので、「場所」はある意味、どこでもいい。そこにキリストがご臨在される限り、そこで、み言葉が分かち合われ、お互いに祈り合う関係がある限り、エクレシアはそこに「存在」している。メンバーは義務ではなく、そこでの祝福を楽しみにして自主的に参加している。

 

都市化は進む。東京湾岸にはどんどんと高層マンションが建築されている。その周辺には教会堂を建てるような「空き地」は存在しない。タワーマンションはオートロックでトラクトのポスティングもできない。どうやって宣教するのか、どうやってリーチできるのか頭が痛い。どう考えてもインターネットとスモールグループのコンビネーションに行き当たる。TMCのあり方が1つの方向性を示しているのではないか。エクレシアは時代に合わせて、その生命を維持しつつ、形は変わっていかねばならないのだろう。21世紀の後半を生き抜くために・・・。

 

聖書ではエクレシアとは何かが書かれている一方で、そのやり方、あり方については詳細には書かれていない。もちろん三角屋根の十字架の会堂についても、説教中心の礼拝についても、日曜10時半の時間指定も聖書には無い。実際、現在の教会で行われているプラクティスの多くは、2000年の歴史の中で、他文化から取り入れてきたものだ。とすれば、既存の教会のやり方にこだわらなくてもいい。聖書の原則さえ守っていれば、キリストにある「いのち」さえあれば、形(スタイル)は多様に変化できるという事だ。エクレシアは「キリストの体」なのであり、オーガニックな「生き物」なのだから。

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

2024年10月3日木曜日

オーガニックチャーチの現状

 

制度的、組織的な教会から脱出し、本来のあるべき教会を求めてオーガニックチャーチに向かう人が出てきています。大きな方向は間違ってないと思いますが、スモールグループ的なオーガニックチャーチには疑問点や課題も多々あるのです。今回、正直に分かち合います。

 

オーガニック・チャーチのいいモデルがない?!

「ペイガン・クリスチャニティ?」で目が開かれ、その後、フランク・ヴァイオラのオーガニックチャーチに関する著書を沢山読んで、大変影響を受けました。「ペイガン・クリスチャニティ?」によると・・・現在の教会のやっていることの90%は異教の教えを取り込んだもので、2000年の教会歴史の中でフジツボのようにこびり付いてしまっていると。そのまま教会は機関車のように走っているので、これは刷新では変えられない、「革命」が必要とぶち上げています。それではどうするかという理論を「Reimagining church」で、実践を「Organic Church Planting」で書いています。そのヴァイオラさんが、彼のブログだったと思いますが「ラジオ番組のインタビューでオーガニックチャーチのモデルを見せて欲しいと言われ、実はいいモデルがない、なので自分はしばらくオーガニックチャーチプランティングを休止しようと思っている。」と書いており、びっくりしました。もう10数年まえの話なので、今どうなのか、分かりませんが。うまくいかなかったケースで、メンバーはどうなったかというと・・・「信徒に負担がかかりすぎ、結局、既存の教会に戻ってしまうか、クリスチャンを辞めてしまうか、孤立した一匹狼クリスチャンになるか、いずれかだ。」と言っていました。これを読んだときはかなりショックでした。自分の家にメンバーを招いて毎回、食事も出していたスモールグループのリーダーが結局、負担が大きすぎて、やめてしまったケースを聞きました。

 

実は自分がフロリダに滞在していた時、近くのオーガニックチャーチに参加してみました。というより正確にはオーガニックチャーチを、かつてやっていた人、2名と会って色々お話しを聞きました。アメリカはリビングルームが広く、10人くらいは余裕で集まれます。そのような物理的有利性があるでしょう。また車社会なので、移動がマイペースで、終電に遅れる心配もありません。しかし、同時にアメリカは引越しも多く、かなりメンバーを失ったようです。やはり継続するのは難しいようですね。ただ、オーガニックチャーチは表に出ないので、また全数を把握できるような全体的なネットワークもないので、実際のところは分からないというのが正解です。

 

海外の成功例は聞くけれど・・・・

次に影響を受けたのは当時、ハワイ、カネオヘベイにあったラルフ・モア氏の牧会する「ホープチャペル」のケースでした。ホープチャペルは既存の教会で日曜礼拝をし、ラルフ氏がメッセージをしていましたが、週日の信徒によるミニ・チャーチ(スモールグループ)を積極的に実践していました。ラルフ氏は「ホープチャペルの伝道・牧会の70%はミニチャーチで起こっており、日曜の朝は30%」と言っており、その発想の転換に感銘しました。ただ、やり方としては、基本、ラルフ氏のメッセージで人を礼拝に集め、それをミニチャーチに振り分ける形です。自分としてはミニチャーチ的なものがベースで、必要な時に、励ましと方向性確認のために合同礼拝があればいいのではと思っています。また、ラルフの下で弟子訓練された若者がたくさん牧師となり活躍するようになりました。日本にも頻繁に来られ、セミナーで教えていました。「メガチャーチを作るより、小さな教会をたくさん作る方がいい。」「教会を生み出す教会」「教会員数より、弟子の数で真価を問うべし」などなど「アーメン!」と言いたくなる発言を沢山しておられます。最近は1つの教会の下にない、超教派的な、信徒が始める教会=マイクロチャーチにも言及し、アメリカの消防士さんが仲間と始めたマイクロチャーチの実例なども話してくれました。「日本の牧師は支配的すぎる、もっと信徒を励まし、送り出しましょう!」と言ってくれました。

 

ハワイのホープチャペルのように1つの教会の下でのミニチャーチは現実的で成功しています。これなら日本でもできるでしょう。しかし、実際問題、マイクロチャーチはハードルが高いです。個人的にはこちらに興味があるのですが、少なくも日本で良い実例を見ていません。アメリカでさえ、超教派的に「ムーブメント」としてマイクロチャーチが広がっているのは見ていません。つまりラルフのような人が関わり続けている必要があるという事でしょう。「どうぞ自由にやってください」と手を離してしまったらうまくいかないのです。つまり、牧会者というか、お世話する成熟したクリスチャンが継続的に関わる必要があるという事です。

 

TMCはどうでしょう?

TMCでの最初のパートナーはバプテスト宣教団のチャーリーさんで、当時、彼は「いつでも、どこでも、誰にでも始められる教会」すなわちシンプルチャーチを推進していました。それで、ビジョンを分かち合う中で意気投合して東京都心部をターゲットにTMCが始まったのです。始めはゼロから伝道して弟子を育てるつもりで「コーチング団体」として始めました。東京駅八重洲口にレンタルオフィスを借りて、セミナーなどを行なっていました。色々とイベントもやってみましたが、やはり継続的にノンクリスチャンと関わるのは難しいとなり、クリスチャンコミュニティのベースを作ることに転換しました。つまり、伝道より弟子訓練を優先した訳です。

 

現在、5つのTMCエクレシアで17名ほどのメンバーが忠実に関わってくださっています。「意味ある人間関係と祈りで深まり、広がるキリスト中心のコミュニティ」と掲げているので、時間をかけて信頼関係を築いています。12年で5つのグループが生まれました。毎回、充実した交わり、バイブルスタディ、祈りの時間を過ごしています。メンバーも忙しいのに楽しみにしてくださっています。そこまではできるのです。

 

しかし、コミュニティが倍加しているか?と問われれば、していません。一人一人は職場や家族に福音を伝えようと努めています。そのパッションを持っています。しかし、メンバーが伝道し、人が救われ、グループを始めるといったようにトントン拍子にはいかないのです。ペースが海外とは違うのです。すると、ではトレーニングを提供しようという話になり、海外のテキストを翻訳して・・となるのですが、あまり成功するとは思えません。

 

またメンバーの多くは既存の教会のメンバーでもあり、牧師のいる教会の日曜礼拝に通う必要性を感じているようです。そういう訳で、TMCエクレシアは、超教派的という意味ではマイクロチャーチ的ですが、それぞれが独立教会かというと、マイクロチャーチ的ではありません。そういうファジーな立場というのが本音のところです。

 

まだまだ改革途中

宗教改革では1。聖書神権 2。信仰義認 3。万人祭司 とだいぶ軌道修正できたのですが、その多くは国家教会に留まり、肝心の教会改革は進みませんでした。依然としてカトリックのスタイルや会堂の設定を引き継いでいたのです。私たちはなるべく聖書に忠実に、本来あるべき教会に戻りたいと願っているのです。ヴァイオラさんも、そのパッションが強く、制度的教会からオーガニックチャーチへと提唱し、推進したのです。しかし、前回書いたようにフラットであることを強調するあまり、リーダー(もちろんサーバントリーダー)の存在すら否定しまうところまで行ってしまいました。上下関係ではないですが、役割はあります。「指導」する賜物はあるし、「指導する人」は必要なのです。その賜物のある人は「熱心に指導」すべきです。(ローマ12:8)「勧めをする」=「メッセージする賜物」を与えられている人がいます。その人はそうすべきです。(ローマ12:8)

 

改革は途中です。私たちも、まだまだ暗中模索なところが正直あるのです。

今後の課題としては・・・

 

  リーダーは必要だけれど、リーダーに頼りすぎないようにするには?

  教会を生み出す教会? 教会の倍加は可能か?

  Affinity Group(職種が近い、年齢が近いなどの類似性グループ)は心地よいが、そうでないクリスチャンとの交わりをどう持つか?例えば、年齢を超えた交わりなど。

  信頼関係を築くには固定メンバーがいいが、新しい人をどう取り込むのか?

そして、あまり人が出たり入ったりだとコミュニティを築けません。

  少人数グループの場合の参加者のケミストリー(合う、合わない)もある?もともとスモールグループなので、例えば3名のグループの場合、一人が欠席すると1対1になり、良くも悪くも、グループダイナミックスが変化する。あるいは、消滅してしまう可能性もある。

  仕事で精一杯の社会人クリスチャンが「参加する」以上のことが実際できるのか?

  信仰歴が違う人たちで、どうバランスをとるのか?初心者向けにすると信仰熟練者にはつまらなくなるし、レベルを上げると初心者はついてこれない。

  基本、オーガニックチャーチは自立心の強い、成熟した大人達との間ではうまく機能するが、精神的に問題を抱えた人や、障害者、シリアスな問題を抱えた人々を巻き込んでいくのは難しい。全ての人向きではないのでは?やはり、時間をとって関われる専業牧者が必要か?家族が参加する場合、子供たちはどうするのか?

  人によっては一人で礼拝し、小グループでの分かち合いをしたくないタイプの人もいる。すべての人が「お互いに」のコミュニティを喜ぶわけではない。

  孤立しがちなオーガニックチャーチ同士をネットワークするには?

 

などなど・・・・これをきっかけに議論が活発になっていってくれれば、嬉しいです。

 

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Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com