2024年5月29日水曜日

古い契約(旧約)に戻るな

 

新しい契約で私たちはどうなった?

●あなたは、聖なるものとされています。(ヘブル10:10)

● あなたは永遠に完成されています。(ヘブル10:14)

● 神はあなたの罪と不法を思い起こさない。(ヘブル10:17)

 

聖書には「〜〜とされています。」という言い回しが出てきますね。これは自分がどうであれ、神の目から見て、そういう「ポジション」に置かれているということです。これをPositional Truth (位置的真理)という場合もあります。例えば、キリストの血により、信仰によって、私たちは「義と認められている」というのもそうです。もうそのような位置に置かれているのです。「罪人」というカテゴリーにはいないのです。そして、中身は聖霊が日々、私たちをキリストの似姿へと変えてくださっています。大事なことは聖書が言っていることを「信じる」ことです。正しい信仰とは与えられた「啓示」に対し「YES」と言って応答することです。自分を見つめ続けるのではなく、十字架でのキリストの御業を見上げましょう。

 

新約のクリスチャンの特権

       アバ父と呼ぶ霊を頂いた。

       聖霊はすでに信者の中に住んでいる。

       私たちが神の宮なので、神を求めて神殿、礼拝堂に行く必要はない。

 

キリストを信じて「神の子供」となる特権を得ました。(ヨハネ1:12)新約の聖徒は驚くべき特権の中にいるのです。キリストが神を「父」と呼んだように、私たちは今、キリストを長子とするキリストの兄弟であり(ヘブル2:11)、神を「父」と呼べる立場になりました。聖霊が内に住んでいるので、私たちが「神殿」です。(エペソ2:21−22)という事は「場所」にこだわらずに礼拝できます。教会堂に行かなければ、神に会えないのではありません。キリストはすでにあなたの内におられます。(コロサイ1:27)また私たちが祭司なので、(ペテロ2:9)個人的に神にアプローチできます。祭司や牧師を仲介する必要はありません。神と人との仲介者はキリストご自身です。(テモテ2:5)それ以外にはいません。クリスチャン生活において自分が誰なのか(キリストにあるアイデンティティ)、どういうポジションにいるのか(位置的真理)を知ることは極めて重要です。

 

 

旧約的考えからの脱却

パラダイムシフト(考え方の枠組みの変化)が起こったのです。旧約(古い契約)から新約(新しい契約)に移行したのです。

 

律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音(恵み)が宣べ伝えられ・・・(ルカ16:16)

 

恵みによって、信仰により救われる時代となったのです。キリストを信じる者はサタンの支配から御子の支配の中に移されたのです。つまり違う支配圏へ移行したのです。(コロサイ1:13)それなのに、旧約的考えをしているクリスチャンがいます。あなたはどうでしょうか?

 

⚫️ もっと清くなって、主の身元に近付かん

  クリスチャンといえども赦された「罪人」。所詮「罪人」にすぎない。汚れた

自分なんかは、まだまだ修行が足りないので、神の身元には近づけない・・・

神は怖い方。救われた確信がない・・そういう考えがありませんか?

 

キリストを信じたのなら、神の子供です。いつでも父なる神にアクセス可能

です。大統領の子供ならいつでも、大統領に電話できるでしょう。神に近づ

くことを願うより、神がうち住んでおられることを感謝する態度を持ちまし

ょう。もう古い自分は死んでいるのです。頑張るのではなく、信じましょう。

感謝しましょう。聖霊の風に乗って生活しましょう。そして、これが新しい

神の契約であることを覚えましょう。

 

⚫️ 聖霊様、来てください。

  キリストを信じたのなら、聖霊はすでにあなたの中におられます。ただし、

聖霊がおられることと、聖霊に満たされることは違います。満たされるよう

願いましょう。御霊によって歩み続けましょう。そして、神が特別に触れて

くださる時、特別に働かれる時はあるのです。聖霊の個人への、また地域へ

の働きを願うことは「あり」です。

 

⚫️ 礼拝堂は聖なる「神の家」なので静粛に・・・

  「礼拝堂は神のご臨在の場所なので、子供達は騒いではいけません」的な考

え、ありませんか?さっきまで冗談言って笑っていたのに、礼拝のプログラ

ムが始まると神妙な顔をする的な・・エクレシアは神の家族なのだから、お

すまししないで、家族的な雰囲気でいいんじゃないでしょうか。逆に神は、あなたの家の台所にもリビングルームにいらっしゃいます。日曜の朝だけ

神妙な顔をして、家に戻ると神なしの生活だとしたら、二重生活じゃないで

しょうか。元々楽しい食事会の一部だった「パン裂き」を、聖餐式という仰々しい儀式にして、その時だけ神妙な顔をして聖餐を受けます。偽善的態度を、子供達は敏感に気付きます。クリスチャン2世の問題は、親がキリスト教という「宗教」をやっていて、解放されていないことから来るのです。キリストが来たのは、信者を縛るためではなく、解放し、豊かな命を与えるためです。(ヨハネ10:10)

 

⚫️ 聖職者と平信徒という区別

 キリストが至聖所の幕屋を割いてくださったのに、司祭や牧師先生という特

別階級を置くことで、新約の「万人祭司」を蔑ろにしてしまっているのです。

賜物や役割はありますが、すべて主にあっての兄弟姉妹です。特別階級(特権階級)はいません。キリストにあるエクレシアには、旧約のレビ人や祭司はもういません。

 

これらの考えは「旧約」に戻ってしまっているのです。せっかくの子羊の犠牲を無駄にしないために、新しい「契約」を踏まえて「新約的」に生きましょう。

 

―――――― 

3回に分けて、「古い契約」と「新しい契約」について見てきました。旧約の神と新約の神であるイエス・キリストは違う神なのでは?との印象を持たれる方が多いのです。しかし、神は一貫して「契約と恵み」の神なのです。規定通りにできない人間を恵みによって赦す思想は旧約でも見られます。(II歴代30:9)ただ、大きな違いは、十字架以降、罪なき子羊の犠牲が捧げられ、キリストにある者は父なる神へのアクセスが可能となったことです。その証拠は、聖霊が信者の中に住んでいるということです。

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年5月23日木曜日

さらに優る幕屋

 

契約の神

前回、神は「契約」の神であるという話をしました。ビジネスに携わる人は「契約書」には慣れ親しんでいるでしょう。そうでなくてもアパートの賃貸契約とかはしたことがあるでしょう。契約書には必ず日付が入っています。これが大事です。新しい契約がされると、古い契約は無効になります。遺言書も日付の新しいものが有効となります。新約とは神との新しい「契約」のことです。罪なき子羊キリストが完全かつ永遠の贖いを成し遂げてくださったので、もはや、旧約(古い契約)にあるように動物の犠牲を捧げる必要がなくなっています。

 

「第二のものを立てるために、初めのものを廃止された。」 (ヘブル10:9)

 

ある意味、十字架以前と以降でパラダイムシフト(ものを考える枠組みの変化)が起こったのです。

 

旧約時代の聖所

旧約時代、神殿ができるまでは幕屋が神殿代わりでした。幕屋には「聖所」と呼ばれるスペースがあり、祭司が幕屋内で全焼の生贄を朝ごとに夕ごとに捧げ、毎日、聖所に入り、燭台の灯皿に火を灯し続けたり、12個のパンを新しいものに取り替え整えたりしていました。ソロモンが神殿を建てた後、礼拝は神殿で行われるようになりました。ところがソロモンの死後、イスラエルは偶像に染まっていました。しかし、ユダ王国のアビヤ王により、この聖所でのプラクティスが一時的に復活した模様です。(I I歴代13:11)

 

興味深いのは至聖所です。至聖所には、大祭司が1年に一度だけ入ることができ、

必ず、血を携えて入るのでした。自分と民の罪のための贖いをするためです。(ヘブル9:7)しかし、動物犠牲では礼拝するものの良心を完全にすることはできないのです。(ヘブル9:9)この制度は、新しい秩序が立てられる時までの期限限定の贖いシステム(9:10)だったのです。

 

さらに偉大な幕屋

大祭司キリストは・・・(ヘブル9:1112)

 

● 手で作ったものでない、さらに偉大な幕屋を通り、

● ヤギと子牛との血によってではなく、

● ご自分の(罪なき子羊の)血によって

● ただ一度、まことの聖所(天の幕屋)に入り、

● 永遠の贖いを成し遂げられた。

 

「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座(至聖所)に着

かれました。」(ヘブル1:3)

 

・・という訳で、キリストは罪のきよめを成し遂げられたのです。しかし、なぜ、血が必要なのでしょうか?

 

       「罪からくる報酬は死です。」(ローマ6:23)

                つまり、罪は命を要求する。

       「肉のいのちは血の中にある。」(レビ17:11)

       「血を注ぎ出すことがなければ、罪のゆるしは無いのです。」                   

                  (ヘブル9:22)

● 「いのちとして贖いをするのは血である。」

                       (レビ17:11)

 

・・・と、こういう論理になるのです。そして、罪なき子羊の血は永遠の贖いを可能にしたのです。

 

御子の血の効力

まして、キリストが傷のないご自身を、永久の御霊によって神にお捧げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(ヘブル9:14)

 

キリストの血は、動物の血ではできなかった、私たちの良心をきよめることができるのです。つまり内側からの変革をもたらすという事です。そして、罪責感を取り去る(ローマ8:1)ことができるのです。最大の効力は、父なる神へのアクセスを可能にするという事です。

 

今は、子羊の血による完全な贖いがなされ、新しい契約の時代に入っているのです。キリスト復活時に至聖所の幕が裂かれ(マタイ27:51)たことは象徴的現象です。神へのアクセスが保証されたという事です。(ヘブル6:19)しかも、私たちは信じた時、「アバ父」と呼ぶことのできる御霊を内に頂いたのです。(ローマ8:15)したがって、今更、旧約のシステムに戻るのは愚かな事なのです!

 

完全な贖い

もう一度整理してみましょう。

ヘブル10章に新旧約の対比が鮮明に書かれています。

 

旧約のシステム VS  新約のシステム

 

● ︎ 律法は影 VS  キリストは実物 (10:1)

   年ごとに VS   一度だけ (10:10)

   絶えず    VS   一度だけ (10:10)

●   同じいけにえ(繰り返し) VS    一度 (10:11)

●  罪が思い出される VS  罪を思い起こさない

            (10:3)、( 10:17)

● 罪を除くことができない VS  罪の清めは不要

 (10:4)、(10:18)

 

つまり、キリストは「ただ一度で」「永遠の贖い」を成し(9:12、10:10、10:14)遂げたのです。したがって、この子羊の犠牲により、

 

ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

(7:25)

 

「ただ一度」、そして「完全」で「永遠」の贖いに何か付け加えることができるでしょうか?いいえ。これで完璧なのです。それに付け加えようとするのがカルト(異端)です。

 

(続く)

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年5月16日木曜日

契約と恵みの神

 

イスラエルの神、主よ。天にも地にも、あなたのような神は他にいません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約恵みを守られる方です。

II 歴代6:14)

 

これはソロモンが神殿の奉献礼拝をした時の祈りです。ここに、「神は契約と恵み」を守られる方とあります。「恵みの神」はキリストゆえに私たちにも慣れ親しんだ言い回しですが、神は同時に「契約」の神です。これは日本人には少し違和感があるかも知れません。

 

「契約」の神

「契約」は通常、ビジネスで使われる言葉ですね。同じII歴代6:11にはこうあります。

 

主の契約が納められている箱をそこに置いた。その契約は、主が、イスラエルと結ばれたものである。

 

神のご臨在を表す「契約の箱」は文字通り「契約」の箱なのであって、中には神との契約書である「十戒」が入っていました。それが聖所の中心にあったのです。そして、イスラエルは神と契約した「契約の民」だったのです。アブラハムが多くの国民の父となることは神とアブラハムの「契約」だったのです。(創世記17:4)また、エジプト川からユーフラテスまで(現在のパレスチナ)、アブラハムの子孫にその土地が与えられることも神とアブラハムの契約でした。(創世記15:18)

 

簡単に言うと神の契約はこんな感じです。従順なら「祝福」、不従順なら「呪い」なのです。祝福とは土地や国が確保され、敵から守られ安全が保障されること。子沢山になること。(申命記8:1)天候が守られ産物に恵まれること。反対に、不従順だと、呪われ、国を失い、敵に攻められ(申命記8:19−20)、不妊となり、自然災害が発生し、作物に害が出ることなどです。

 

契約なので「そうすれば・・・所有することができる。」、「もし・・・ならば、あなた方は必ず滅びる」という書き方になっているのです。シリアスな契約は「血」の契約です。日本でも「血判」というのがありますね。サタン礼拝者たちは動物の血を持ってサタンと契約します。旧約の大祭司は動物の血を携えて至聖所に入りました。契約違反は命が要求されます。命は血です。血を流すことなければ、罪の赦しはないという思想です。(ヘブル9:22)ですから罪なき子羊イエスが十字架で血を持って贖いを成し遂げたのです。

 

「恵み」の神

しかし、「契約」だけなら不完全な人間側は守りきれません。ソロモンはII 歴代6章で、それを確認しつつ、さらに進んで、「罪に陥らない人は一人もいません。」(6:36)と正直に告白し、悔い改めし(方向転換し)、心を神に向けるなら「罪を赦してください」と祈っています。契約違反した時の「恵み」による対処を請うているのです。

 

ソロモンはこの時点で、すでに民が罪に陥り、捕囚となる可能性を示唆しています。(6:36−37)そして、実際、ユダ王国の民はバビロンに捕囚となるのですが、神はこれを憐れみ、恵みを施し、捕囚を70年とし、ついには解放し、イスラエルの地に戻すのです。この部分は契約ではなく、恵みです。

 

罪は罪で精算します。「契約」通り、処罰します。しかし、そこで終わらず、今度は「恵み」を施し、その呪いから解放し、回復し、さらに良いものを与えるのです。捕囚後、イスラエルの民は再び偶像礼拝に陥ることはありませんでした。一度壊されたエルサレムの街は復興し、イエスが来られた時にはエルサレムに立派な神殿が建っていたのです。

 

「不従順」→「さばき」→「思い改め」→「赦し」→「回復」これが聖書に流れるパターンです。

 

アダムとエバが罪を犯し、死が入ったのですが、神はすでに創世記3:15節で罪の許しと死からの解放を宣言されています。これは先行する「恵み」です。私たちもそうです。すべての人は罪を犯した(ローマ3:9)のです。そして罪からの報酬は死なのです。(ローマ6:23)契約通り執行されれば、地球上に一人も生きている人はいません。しかし、処罰はイエスの上に為されたのです。契約は執行されました。しかし、「恵み」がさらに増し加わり(ローマ5:20)イエスを信じる信仰による「義」が提供されたのです。

 

まさにソロモンが祈ったように、神は「契約」と「恵み」を守る方なのです。

このパターンを理解することが、解放されたクリスチャン生活を送るのに大変重要です。

 

旧約から新約へ

さらに旧約と新約での「契約」の内容の変化を知ることが大切です。なぜなら、十字架以前と以後で、この「契約」の内容が変わったからです。これに関してはヘブル書全体で詳しく解説されています。次回、詳しく見ていきます。新約とは新しい「契約」のことです。新しい「契約」の下では、古い契約「旧約」の下にはいないのです。(ヘブル8:13)ですから旧約的な神へのアプローチをしてはいけません。キリストにあるものは、神の御前で、ステイタスが変えられているのです。

 

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年5月9日木曜日

ペンテコステに火は降らない

 

新約の御霊

以前、旧約と新約で聖霊の働きが違うことを見てきました。旧約では特別な任務のために、特定な人に、上から神の霊が激しく下ったのです。サムソンのように、必ずしも、人格者では無いけれど、神の霊が一方的に下って、ある働き(この場合、イスラエルの敵であるペリシテ人を討伐する)をさせたのです。

 

新約ではイエス・キリストを信じるときに、聖霊が賜物として与えられます。(使徒2:38)しかも、神に召される人なら誰でも、すなわち、信じる人誰にでも与えられるのです。(使徒2:39)与えられるだけでなく、神の御霊は信者のうちに住むのです。(コリント3:16)また御霊は信者がやがて受ける「御国」の保証であり、(エペソ1:14)、また朽ちない体に復活する保証でもあるのです。(IIコリント5:5)そもそも聖霊によるのでなければ、「イエスは主です。」と言うことはできません。(コリント12:3)知識を増しても、洗礼を受けても、教会員名簿に載っていても、聖霊の働きがないと、心から「イエスは主=神=救い主」と告白できないということです。もっとはっきり言うと、聖霊を持ってなければクリスチャンではありません。(ローマ8:9)そして、自分が神の子供であると確信を持つことができません。(ローマ8:16)

 

ペンテコステに付きまとう「ファイアー」のイメージ

イエスご自身が約束されたように(ヨハネ7:37−38、ルカ24:49)、聖霊はやってきたのです。(使徒2章)よく、聖霊と火が結びつけられます。クリスチャンの大会で「聖霊の火をいま、ここに下してください!」と語る説教者がいますが、使徒2章3節は「炎のような舌」とあり、炎そのものではありません。ペンテコステの日に天から「火」が降ったのでもありません。「火」よりも、「響き」(2節)、「物音」(6節)の方が強調されています。

 

またマタイ3:11に「その方は、聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」と確かに「火」が関連づけられて出てきます。しかし、ここで「火」は、さばきの事を語っている文脈で使われています。11節のすぐ後の12節には「火で焼き尽くされる」とあります。つまり、ここでの火は聖霊から来る「力や情熱」を表すというより、「さばき」の火なのです。裏を返せば、神の「聖さ」の証明と言ってもいいでしょう。また聖書の他の箇所では「火」は試練を通って浄化、純化されるという意味で使っており、信者が成長のために通る試練・訓練(ヘブル12:5−11、Iコリント3:15)の意味と取るのが相応しいと思います。特に当時、クリスチャンとなるということは迫害を受けることだったのです。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」IIテモテ3:12)

 

旧約での火という表現を見てみましょう。出エジプトでは、モーセの「燃える柴」や、イスラエルを導いた「火の柱」は、神のご臨在と栄光を表しています。聖霊を受けると私たちが神の宮となり、キリストは私たちのうちに「栄光の望み」として内住されるのです。(コロサイ1:27)エリアがバアル信者と戦った時、祭壇に天から火が降りました。神が神であることの「証明」だったのです。エリヤやエリシャが見た「火の戦車」、「火の馬」は、天的なもの、この世のものでないを表しているようです。聖霊を受けると、天的な(聖書的な)価値観に浸されるのです。ソドムに降った火は裁きであり、神の聖さの証明です。そのように、旧約でも、「火」は私たち側の情熱や力より、神ご自身の臨在、栄光、存在の証明の描写なのです。だから、「火のバプテスマ」は神のご臨在、栄光に浸されると考える方が聖書的なのではないでしょうか。

 

使徒1:8では、聖霊が来られると宣教の「力」を受けることが約束されていますが、「火」という表現はありません。

 

そもそもバプテスマの意味は「浸す」です。白い布を赤い染料に浸すと、真っ赤に染め上がります。聖霊のバプテスマとは聖霊に浸されることです。またキリストと一体化することです。(Iコリント12:13)従って、聖霊のバプテスマとは信じた時に御霊によってキリストの体に同一化されること、キリストの体の一部となることです。

 

「異言」は聖霊が来たしるし?

「聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のことばで話し始めた。」(2:4)と不思議な現象が書かれています。これは、新約時代(聖霊時代)の幕開け、オープニングイベントとして、まず弟子たち自身、そしてユダヤ人信者たちへの

「しるし」ないし確証(confirmation)だったと言えます。つまり、「本当だ、イエス様の約束した通り聖霊が来られたのだ。」と知るためです。また、これはそこに居合わせた神を敬う外国から来ている人々への証でもあったでしょう。事実、この現象を見て、ペテロの説教を聞いてキリスト信者になり、ローマに戻った人々がローマでエクレシアを始めたようです。ローマ教会はパウロが始めたのではありません。すでに始まっていたエクレシアに向けてパウロが書いた手紙が「ローマ人ヘの手紙」です。つまり、ペンテコステの一連の出来事は、ペテロが語る福音を確証(confirm)するためであったと思われます。オープニングイベントが終わった今、そのような劇的な事は、もはや必要ではありません。聖書の権威も確立しています。個人がイエスを信じ、聖霊が来られた「しるし」として「異言」を語る必要性はなくなりました。

 

ただ、個人の霊的成長に役立つ賜物としての「異言」はあるようです。コリント教会で問題となった「異言」(Iコリント14章)は、使徒2章の「異言」とは異なります。使徒2章の「異言」は「人に向かって語る」ものであり、「異国の言葉(外国語)」だったのです。だから外国人は話の内容が分かったのです。(使徒2:8−11)それに対してIコリント14章の「異言」は「人に向かって語るのではなく、神に向かって語る」(コリント14:2)のです。聞いている人は理解できないのです。(14:2)この異言は個人的な成長に役立ちます。(14:4)個人デボーションなどで用いられるでしょう。このような個人的に与えられる「賜物」としての「異言」はあるのです。ただ、ことさらに「異言」の賜物だけを強調して、受けるように指導するのは違うのではと思っています。賜物なら与えられるのです。また、教会の中での使用は注意すべきです。パウロは14章で細かく指示していますね。また「種々の異言」(コリント12:10)とあり、他の人が聞いて益となるものもあるようです。(預言に近い?)ただし、この場合「解き明かし」が必要になります。(コリント12:10)

 

第二の祝福としての「聖霊のバプテスマ」?

自分は「きよめ派」の教会で洗礼を受け、その神学の中で育てられ、献身してから、アメリカの「きよめ派」のバイブルスクールで学びました。そこでは第二の祝福としての「きよめ」の体験が語られていました。あなたは「救われていますか?そして、きよめられていますか?」と2段階で問われるのです。「聖くなければ、誰も主を見ることができません。」(ヘブル12:14)が強調され、「きよめ」られていないと携挙の時に主に会えないのではと不安になりました。

 

今は、ヘブル10:10が言うように「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」をベースに平安が与えられています。ともあれ、救われて、そして、次に第二の祝福として「きよめ」の体験を受けることが重要と教えられていたのです。これは、構造的にはカリスマ・ペンテコステの人たちが言う「聖霊のバプテスマ」と同じです。信じた後に受ける、第二の祝福としての「聖霊のバプテスマ」です。

 

ただし、聖書の中には「聖霊のバプテスマを受けなさい」という命令はありません。その代わりに「聖霊に満たされなさい」との命令はあります。(エペソ5:18)コリント3:1―3では、生まれながらの人(ノンクリスチャン)、肉に属する人(クリスチャンだけれども、自分の心の王座には自我が座っている状態。言動は「生まれながらの人」と変わらない。)、そして御霊に属する人、すなわち、御霊に満たされ、心の王座にキリストが座している人の3種類の人間が出てきます。それからも分かるように、確かに救われた後、御霊に満たされることを学び、体験する必要があるのです。肉のクリスチャンの間には「妬み」や「争い」があります。教会がその状態のままでは主に喜ばれることはできませんね。

 

聖書的にはキリストを信じる人は、義と認められ、神の家族として「聖別」されています。ステイタスは「聖人」です。同時に、実質的にも御霊に満たされ、御霊によって歩む必要があると言うことです。(ガラテヤ5:16)御霊に満たされることは一度、満たされたから、それでいいのではなく、御霊に満たされ続ける、御霊によって歩み続ける必要があるという事です。

 

私の理解では、「聖霊のバプテスマ」とは、信じた時にキリストと同化すること(キリストの体の一部になること)です。

 

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。 I コリント12:13)

 

ですから第二の祝福として「聖霊のバプテスマを受けよ」という表現は相応しくないのではと思っています。これは「聖霊に満たされる=聖霊にまったく浸される」体験と理解されるべきでしょう。すでに与えられている「御霊」が、もう一度「下る」のはおかしい話です。そして、第二であろうと、第三であろうと、祝福としての「霊的体験=神に触れられる体験」はクリスチャン生涯の中で様々体験することでしょう。私が学んだケンタッキーのバイブルスクールでは、集会中に、主に触れられ、叫んだり、飛び上がったり、駆け回ったりする学生がいました。また主に語られたとアラスカに宣教師に行ったクラスメートもいます。そういう体験はあるのです。しかし、それはあくまで結果であり、そういう「体験」を求めるのは間違っているでしょう。彼らが今日、主と誠実に歩んでいるのかという方が大事なのです。

 

「今、ここにペンテコステの日のように聖霊の火を下してください!」と聖霊に「情熱」、「力」としての「火」が結びつけられやすいのですが、聖書的には、どうも根拠が薄いのです。大会で一時的に盛り上がるより、日常生活の中で、「御霊に満たされて」、ご臨在の中で、淡々と歩む方が大切なのではないでしょうか。

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

2024年5月2日木曜日

理不尽な神?

 

「人権フィルター」で聖書を読むと・・・

昨今の道徳観、人権フィルターで旧約聖書を読むと、理不尽な記事が多々あるのです。

 

*預言者エリシャのはげ頭をからかった子供42人が神の呪いで2頭の雌熊に

引き裂かれて死んだ。           (II 列王2:24)

 

*ダビデの人口調査の罪のために、自国の民が7万人主に打たれて死ぬ。

                                        IIサムエル24:15)

 

*アハズヤ王に命じられて預言者エリアを迎えに来た50人隊に天から火が降

って50人が焼き尽くされた。こんなことが2度立て続けにあった。

II列王記1:8-14

 

*450人のバアルの預言者はエリヤの命令で殺された。

列王18:40)

 

えっ!どうして?かわいそうと思ってしまいますね。また、神の箱を荷台に乗せて運んでいる時、牛がよろめいたので、ウザは手を伸ばして箱を押さえたために神罰が降って、その場で死んでいます。(第一歴代13:10)なんで親切心を起こして行動したウザが神罰に遭うのか分かりませんね。まあ、これは本来、神輿のように担いで運ぶように規定されていたのに、異教の方法で運んだからという解釈もあり、それなりに納得できますが・・・。

 

極め付けは「ノアの洪水」では無いでしょうか?全世界が滅んでしまったのです。たった8人以外は、動物を含め絶滅です。「万人救済説」を唱える人はこれをどう解釈するんでしょうね。世界的裁きは、すでに一度行われているのです。

 

ソロモンが神殿を奉献した時には、牛2万頭、羊12万頭を捧げています。(I I 歴代7:5)病気でもない多数の動物を殺傷したとなると、動物愛護協会からは非難されそうですね。

 

祝福としての戦果

旧約聖書で神が活躍する場面の多くは「戦争」です。神は「万軍の主」と表現され、文字通り、神の祝福とは敵に勝って領土を広げたり、保持したりすることだったのです。

 

*エジプトの軍隊

映画「十戒」で有名なシーンですね。出エジプトしたイスラエルの民は、紅海を目の前に行手を阻まれてしまいます。そこに、なんとエジプト軍が迫ってくるのです。まさに「前門の虎、後門の狼」状態。神は紅海を割り、イスラエルの民は乾いた海底を渡りきり、その後、海が戻ってエジプト軍は水没したという記事です。イスラエル側から見ると勝利であり、ハッピーエンドです。しかし、王の命令を受けて、イスラエルを追ってきたエジプトの兵士たちは忠実だった訳です。彼らにも家庭があり、愛する者たちがいた事でしょう。それが、全員、水没です。エジプト兵士側からは理不尽な話です。人権派からは、「こんな事を教会学校で子供達に教えているのか?」と文句を言われるでしょうね

 

*カナンの地の占領

約束の地、カナンの占領の時は先住民を聖絶する命令が下されます。女も子供も皆殺しです。命じられた通りに聖絶しなかったサウロ王は預言者サムエルに咎められます。(Iサムエル15)先住民は、それまでは平和に生活していたのです。偶像礼拝者とはいえ、彼らにも家庭があり、日常生活があったのです。一瞬にして破壊され、滅ぼし尽くされます。そして、それは「良いこと」であり、「勝利」として記録されます。人権派からは一番、攻撃される分野でしょう。

 

主の使いにより敵国アッシリアの兵士18万5千人が殺されます。(I I列王19:35)ダビデはアラムの歩兵4万人を殺します。(歴代19:18)現在のガザの2万数千人の犠牲者どころではありません。イスラエル生存のために、他国の兵士を大虐殺しているのです。

 

これらは今の「人権フィルター」を通して読めば、許し難い事でしょう。

 

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いわゆる「聖戦」の理解

ただし、「聖絶」は、カナン占領の時のみであり、「ある特定の状況」、「ある特定のエリア」で神が、イスラエル民族に命じた「特別な」命令であり、これを現代に適応することはできないのです。このような状況で神が命じた戦争は現在、存在しないのです。現代においては、「聖戦」は無いというのが私の立場です。神が命じた戦争はないのです。ロシア、イラン、トルコなどの連合軍がイスラエルに攻めてくる、「エゼキエル戦争」(エゼキエル38章の預言)では、神の介入により、イスラエルは「戦わず」して勝つのです。今は、異教徒だから抹殺して良いとか、異教の宮は破壊して良いとかとはなりません。旧約時代でさえ、ヨナの願望に反して神は異教徒の街、ニネベを救いました。「捕囚」の時は、異教の地、バビロンの町の繁栄を祈り、そこで生き延びることが御心だったのです。1つの例でパターン化することはできません。さらに、敵を倒して、どんどん際限なく領土を広げていく「帝国」主義とは全く違います。神が与えると約束した「約束の地=カナンの地」は、範囲が定められていました。(創世記15:18−21)それ以外の土地に手を出してはいけなかったのです。そして、主に従えば領土を守ることができ、従わなければ領土を失うという「契約」付きなのです。現に、ソロモン以降の不信のためにイスラエルは土地を失い、「捕囚」という屈辱を経験します。

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聖書は発禁本に?!

いずれにしても現在の「人権フィルター」で読むと聖書はとんでもない書物ということになります。アメリカ発の異様なポリコレが世界に広がっています。多様性や人権思想が広がっています。聖書の内容は許し難いものとなります。近い将来、聖書が発禁本となることは十分ありうるのです。あるいは、書き換えられて発刊されるかも知れません。また、LGBTの解釈を含め、「理不尽」な聖書を、今日の「人権フィルター」で解釈し直すことを勧める動きも進むでしょう。「ジハード」(布教のためのテロや殺戮を良しとする教え)を勧めるイスラム教のコーランを世界のマスコミは問題視しないのも不思議ですけどね。

 

 

聖書的世界観VS 世俗の世界観

聖書の世界観では、「初めに神が天と地を創造した」のであって、最終主権は神にあるのです。命の与え主は、それを奪う権威も持っています。(ヨブ1:21)創造主だけは、それができるのです。神が命じたこと、神が直接手を下したことは神の主権によるという理解です。そして、この神は全知・全能の神で間違いを犯さない方だという前提によるのです。この理解が非常に重要です。

 

例えば、創造主を否定する世界観では、キリスト教を含め、すべての宗教は人間文化の産物です。ですから、仏教もイスラム教もキリスト教も、まな板の上に横並べに置いて、比較されるのです。人間の文化の産物である「神」が人間を殺すことは「理不尽」だという事になります。しかし、創造主がおり、キリストは「万物の主」であるという世界観ではどうでしょうか?この世界観では「創造主」と「被造物が造った産物としての宗教」の対比となるのです。ローマ書1章を読むと、諸宗教は真の神を離れた堕落の結果として描かれています。黙示録を見ると、このキリストは諸国の王として将来、世界に君臨されることが書かれています。最高権威者である「王の王」は、お一人なのです。

 

キリストは、万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン

                           (ローマ9:5)

 

判断基準はどこに?

聖書の神は全知全能であり、人間のような日本神話や、ギリシア神話の神々とは違います。聖書の神はアルファであり、オメガなのです。歴史の初めから終わりまで知っておられます。また、神は偏在の神であり、世界のどこにも存在できます。つまり時間空間を超えています。また、地球上すべての人の心のうちを知っておられます。(歴代28:9)今、AIの時代ですが、将来、経営判断もAIに任せるようになるでしょう。AIが人間の知能を超えるからです。聖書の神はそれ以上です。全知全能、完全であり間違うことがないのです。このお方が判断し、命じたことは、それでいいのです。神は完全で正しい方です。歴史の初めから終わりまでを分かっておられるのです。人は違います。人は罪人であり不完全なのです。従って、常に間違った判断をします。

 

未だに戦争があり、人権侵害があり、不平等があり、賄賂や汚職があり、窃盗があり、嘘が広がっています。先の例を見て、神が不条理という前に、そもそも人が罪を犯して歪んだ世界になってしまっていることが問題なのです。その枠組みの中では、「必要悪」も生じてしまうのです。ダビデが主にあって戦争に勝利し、神を褒め称えていた反面、神は「あなたは、人の血を流した」として神の宮を建てることを許さず、その子、ソロモンに託すのです。(歴代28:3)ここに捻れ(必要悪)を見ます。本来、被造物である人が、人の命を奪うことはできないことなのです。

 

基本は、十戒にあるように、「殺してはならない」(出エジプト20:13)なのです。しかし、同時に、旧約では「死刑」が神によって定められています。偶像礼拝や極度の性的逸脱行為など、人が致命的な罪を犯した場合(出エジプト22:18−20)、人の命を奪うことが許されています。また故意の殺人には報いがあるのです。「いのちにはいのち」(出エジプト21:23)。罪の世ではそれが起きるからです。罪の世では、住民が守られるために刑法や、刑罰があるのです。ある意味、仕方ないのです。「命絶対主義」ではありません。

 

自分は正しい判断をしたと思っても、後で間違っていたということはないでしょうか?私たちにはこの経験があります。神にはないのです。もちろん人が間違った判断をしたことを神は悔います。しかし、ある意味それは想定内なのです。

イスラエルの人々が目に見えない神を退けて、目にみえる王を欲した時、神は渋ったのです。どうなるか結果が分かっていたのです。しかし、あえてサウルをお立てになりました。サウロは途中で失落し霊媒者に頼るようになります。ダビデは戦いで多くの血を流し、神殿の建設はソロモンに託されます。ソロモンが神殿の奉献式をした時、民は神に従いますと誓ったのですが、ソロモンも後半、外国人妻により偶像礼拝に傾き、結果は国の分裂、最後は捕囚で国を失います。それでも回復の神は70年後にイスラエルの民を約束の地に戻すのです。神の知恵は人の知恵を超えているのです。お見通しなのです。そして、人の失敗に輪をかけて恵みを施し回復される方なのです。(ローマ5:20)

 

神から出たことであるなら、それは正しいのです。最後には精算をつけます。最後には悪は滅びます。その悪を決めるのは神なのです。さばくのは裁き主であるキリストなのです。黙示録は最終的な清算の書です。

 

「良い」とか「悪い」とか、「フェア」だとか、「アンフェア」とかは、それを決める基準があるわけです。何を基準にするかです。日本では戦時中、天皇のために死ぬことは「良い」ことでした。戦後は天皇中心の軍国主義的思想は「悪」となりました。そんなもんです。人間の社会の中では、基準は変わるのです。

 

知能の限界のある私たち人間には、すべての事は分かりません。判断もつきません。ましてや神のしていることをジャッジできないのです。「そんなのは神でない!」、「神ならそんなことはしない!」と神の代わりになって、いや、神の上に立って神を評価、判断してしまいます。「神が天と地を創造した」のです。神が人を創造したのです。(創世記1:27)神は完全無欠の創造主であり、私たちは有限なる被造物です。人は神を超えられないのです。最終的な裁判官は神ご自身です。

 

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執筆者:栗原一芳