2013年3月19日火曜日

人生成功の秘訣


人生成功の秘訣

単なる、仕事の成功ではありません。人生の成功の話です。お金を儲けても人生が貧しい人もいるでしょう。神が与えようとしているのは豊な人生(ヨハネ10:10)なのです。全ての領域で豊になる。そんな人生を送るには、まず健全なマインドセットが必要です。

MIND SET: 前提となる3つのこと

1. あなたは神に似せて造られた最高傑作です。(最高のセフルイメージ)創1:27
GOD MAKES NO JUNKという言葉がある。最高の神が精魂込めてお造りになった
最高作品があなたです。

2. あなたは神に愛されています。(最高の原動力)  Iヨハネ4:10
神は精魂込めてお造りになった「あなた」を当然、大切に思っています。愛とは大事にすること。毎朝、「神様、私をどう思ってますか?」と聞いてみてください。愛されていることは最大の、そして最高の人生の原動力、モティベーションとなるのです。

3. あなたの人生には大きな目的があります。(最高の目的) 天命 エペ2:10
それほど、大切な存在である「あなた」には、神が託しておられる大きな大事な目的があるのです。そうでなければ、信じた時、すぐに天に引き上げられているはずです。この地上で大切なお役目があるのです。 
       
(3つのポイントは「王様マインドと奴隷マインド」 松島修著 サンマーク出版による)


この前提に生きる事が王様マインド。その反対が奴隷マインド。その反対を考えてみましょう。すなわち

1. 自分は駄作だ。ダメな人間だ。
2. 誰も愛してくれない。愛される価値もない。価値は自分でつける。
3. 生きている意味がない。仕事に意味がない。その日、その日を食いつなげればいい。

このような生き方の人が幸せになるでしょうか?それは一目瞭然です。しかし、人生に迷う時、仕事で落ち込む時、サタンは奴隷マインドに私達を誘惑します。「どうせオレなんか」と。その時、悪魔の声を振り捨てて、王様マインドに戻るべきです。奴隷マインドでは絶対に幸せになれません。

さて、マインドセットが決まったら、優先順位です。

PRIORITY 
聖書には「金銭を愛する事は、すべての悪の根です。」(第一テモテ6:10)とあります。お金自体は悪ではありません。金銭を愛することが悪なのです。愛するのは「人」であって「金」ではありません。「人」は愛するもの、「金」は人を愛するため使うもの。しかし、現代では「金」を愛して、「人」をその手段に使ってしまうのです。この優先順位が間違うと決してよい家庭、会社、社会にはなりません。ついには環境、人間関係、信頼、そして幸せを失うのです。

神の姿に造られた人間はこの地を「治める」よう(Develop) 命じられたのです。自然搾取は聖書的ではありません。17Cからの人間中心主義の影響です。聖書では管理、つまり与えられているリソースの管理(お金、時間、自然界の資源、人材・・・・)、ケアすることを言っているのです。だからCO2, 生物多様性。エネルギー問題も全部、クリスチャンに関係あるのです。神の姿に作られた人間として、責任があるのです。神は人間だけでなく、全環境に関心がある。ノアの箱船を見ればわかりますよね。

管理者であるとは所有者でないということです。ここを間違ってはいけません。所有者は神。神が主人であることを認める。私達はその神からお金も時間もリソースも任されている。それを主人のお心に沿って管理しなければなりません。率直に言えば、お金儲けを目的としないということです。お金は目的でなく、あくまで手段なのです。 神と人を愛することが目的。愛のためにお金を使うことを考えていれば脱線しません。

ACCOUNTABILITY –報告義務
ルカ19:15−23(ミナの譬え) ここでわかるのは、与えられたリソース(才能、時間、お金など)を効果的に使うということです。管理ができた人は主人にほめられ、やがて、町を支配するのです。私達は御国を受け継ぐのです。キリストとの共同相続人です。また、人生の終わりに主人から「あなたに与えた時間、お金、能力をどう使いましたか?」と問われるのです。報告義務があるのです。御国のために投資したか、浪費したかということです?

 MISSION
あなたの人生には目的があります。人生の目的、言い換えればライフワーク、ミッション、使命、天職、天命とも言えるでしょう。その使命は、この地上を素晴らしい天国のようなところに変えてゆくことです。皆さんは、主の祈りで「天に御心がなるように、地でもなりますように」と祈りますね。後は寝転がって何もしないのでしょうか?あなたは、神の姿に造られた神のパートナー、王の見習い人なのです。神と共に御国がこの地上に実現するように働くのです。そして、やがて御国が任されるのです。奴隷は目の前の言われた事しかしません。使命ではなく、単なる仕事だからです。他者が自分に何をしてくれるのか、ではなく、自分は他者に何ができるかというマインドセット。これが王様マインドです。神の姿に作られた王様の代理人。王様見習い。社長の目で、市長の目で、総理の目で王の目で見て考え、行動します。これが幸せの秘訣。お任せ民主主義からの脱却。国の批判より、何が出来るかを考え行動しましょう?与えられている場所で使命感を持ちましょう。神からの目的(天命)のために自分を成長させ、時間、お金、リソースを効果的に使いましょう。

LIFE STYLE
仕事自体が社会をよい方向に変革するものと理解しましょう。王様マインドの仕事は、人を幸福にすることでお金は後からついてくる、人を富ませることで報酬を得るのです。働くのは生活のため、残りの時間に社会貢献と遊びと切り分けない。人生の70−80%を使う仕事は必要悪なのでしょうか?仕方の無い徒労なのでしょうか?神はそのように私達の人生を意図したのでしょうか?羊が来たのは私達が命を得、それを豊かに持つためではないでしょうか。一人子イエスが命を捨ててまで購ったあなたの人生なのです。1日たりとも無駄なはずはありません。「王様マインドの著者、松島さんは、仕事、社会貢献、遊びの三位一体を提唱しています。これぞ、人生の成功者の姿です。
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推薦本:「王様マインドと奴隷マインド」 松島修著 サンマーク出版

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asktmc@gmail.com (栗原)

2013年3月5日火曜日

セレブレーションの主



 日本のキリスト教界では十字架が強調されるが、そこで止まっている感がある。主は復活した。だから、西洋ではイースターは華々しいお祭りとなっている。クリスマス以上にイースターを祝うべきなのだ。イースターこそ、福音(グッドニュース)の花火。主は死と闇に打ち勝ったのだ。

さて、ヨハネの福音書には7つの奇跡が記されているが、最初の奇跡があのカナの婚礼での水をワインに変えるという奇跡。ラザロの復活と比べると何ともかわいい奇跡。そして、ここのムードはとてつもなく明るい。さて、どうしてこの奇跡が一番始め、イエスのミニストリーのオープニングを飾っているのか?ラザロの復活のほうがドラマチックじゃないのか?しかし、これはイエスの働きのオープニングには相応しかった。イエスは祝宴の席にいた。一緒に飲み食いしていた。イエスはよく一緒に食事をする人。イエスは笑ったかという神学論文があるそうだが、イエスは笑い声のするパーティが大好きだったのだろう。祝宴の席にいただけでなく、水をワインに変えた。みんながもっと楽しくなるように。喜ぶように上質のワインに変えた。(ワインを飲む事が罪ならイエスは絶対にこの奇跡をしなかったはずだ)

水の上を歩くのも凄い奇跡だし、嵐を鎮めるのも凄いが、自然法則がより強い力で治められたということで、質が変わったのではない。ワインの奇跡においてのみ、質が変えられている。H2Oの分子が変わってCH3OHエタノールになった!地味だが、ここが重要。イエスは人生の質を変える。つまらぬ味気ない人生から毎日がセレブレーションの人生へ。

ワインは祝宴のシンボル。ここで神は、人生は本来、主とともに歩くセレブレーションというメッセージを伝えたかったのだと思う。66巻の聖書の真ん中あたりに雅歌がある。難しい律法書でも、神学書でもない。なんとこれはソロモン王が書いた“LOVE SONG”なのだ。しかしこれこそ神と私たちの関係を一番よく描写している。礼拝の本質を一番よく表している。あれしろ、これするなの律法ではなく、愛し愛されているという関係。信仰は愛の祝宴なのだ。事実、イエス様と教会の関係は花婿と花嫁として描かれているし、「礼拝」の語源はkissだという。放蕩息子が戻ってきたとき、それはセレブレーションであった。父は戻ってきた息子をハグして、キスして喜んだ。パーティを開いた。一人の罪びとが悔い改めると天で大きな喜びが湧き上がる。さて、私たちクリスチャンは、どこに向かっているのか? ヘブル12:22にはこうある。


「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝宴に近づいているのです。」 


 私達は滅び、闇、混乱に近づいているのではない。行き着くところはセレブレーション。
 ゴールを知って生きることは大事です。私たちはどこに向かっているのか?以前の天と以前の地は過ぎ去る。新しい天と新しい地がくる。(黙示21:1)そこでの祝宴に近づいている。これが事実なのです。だから、カナンの祝宴はその雛形。だからイエスのミニストリーのオープニングに相応しかった。

 日本には、一生懸命まじめなクリスチャンが多い。しかし、ともするとマリアよりはマルタ、放蕩息子よりはお兄さんのような喜びの無い、律法的なクリスチャンが多い。神はあなたの存在を喜んでいる。三位一体はお互いを賛美し、喜び踊っている姿と言われている。そのよろこびと交わりを体験させたくて神は人を作り、愛を注いだ。

 イスラエルの十一献金について驚くべき箇所がある。申命記14:24−26。

 「もし、みちのりがあまりに遠すぎ、持って行く事が出来ないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶべき場所にいきなさい。あなたはそこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、ひつじ、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。」

 ここで民が十一献金を用いて飲み食いし、楽しむよう神に命じられている!ということだ。パーティに使われたとも言える。3年ごとに十一献金は盛大な「祭り」のため使われ、みなしご、やもめを養うと共に満ち足りるまで食べて飲んだのだ。祭りはセレブレーションそのもの。さらに申命記14:29には「あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」とある。すなわち仕事への報いとしての3年ごとの祭りパーティなのである。神はあなたの仕事に報いたいのだ。23節にも捧げたぶどう酒、油、牛、羊の十一を食べなさいとある。十一を神が取り上げるのではなく、民に返されてる。それこそティム・ケラー(NYリディーマー教会牧師)が言うごとく放蕩息子ならぬ、「放蕩の神」なのだ。溢れるばかりに、御子さえも惜しみなく与えたもう神。この神と共に歩から人生はセレブレーション。

 姦淫と人殺しをしたダビデがどうして、イスラエルのヒーローであり、神が高く評価するのか納得がいかなかったが、I歴代誌29章を読んでいる時、その答えを見たような気がした。神のために沢山働いた人は多くいるだろう。犠牲を払った人は多くいるだろう。殉教した人さえいる。しかし、ダビデほど、神を「喜んだ」人がいるだろうか? ダビデはセレブレーションの極意を得ていたのではないか? 王権を息子のソロモンに渡す時の事だ。

 「その日の翌日、彼らは主にいけにえをささげ、全焼のいけにえをささげた。雄牛千頭、雄羊千頭、子羊千頭、これらに添える注ぎのぶどう酒、それに全イスラエルのためおびただしいいけにえをささげた。」(I歴代29:21)

 悲痛な顔を捧げたのではない。喜んで進んで捧げたのだ。そして、1000頭のバーベキューを分かち合って皆で食べたのだろう。次の節にこうある。

 「彼らはその日、大いに喜んで、主の前に食べたり飲んだりし、・・・・」

 まさにそれはセレブレーション。カナの婚宴がダブってくる。

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asktmc@gmail.com (栗原)

2013年2月25日月曜日

救命ボード神学VS箱船神学



 「わが故郷、天にあらず」原題はHeaven is not My home. 著者はポール・マーシャル。いのちのことば社から翻訳本が出ている。副題が「この世で創造的に生きる」冒頭、ダラス・ウィラードの引用がある。「神というお方を、世界の現実として心からとらえることができなければならない。教会が、死後の人生よりも今の人生に関わるものとして福音を理解し、またその理解を深めなければ、両方の人生に支障をきたすことになる。教会の外にいる人たちには、キリスト教という宗教は現実の生活とは何の関係もないものと考えるだろう。教会内部にいる人たちは、教会での奉仕以外の生活をまるで神のいない世界のように感じるだろう。ここには、よく私達が議論する聖俗の分離ということよりも深い問題がある。ここで真に問われているのは、イエス・キリストの福音をどのように理解するかだ。キリストは自然界の真ただ中に霊的な世界をもたらし、そして、今ここで永遠の命に生きるようにと、私達一人一人を招いていてくださっているのだ。」

先日、日常の会話を用いて福音を伝える事を試みるセミナーに出た。会社や学校でノンクリスチャンが話している浅い会話を軽蔑してはいけない。その会話から福音を語ることを考えるべきだと学んだ。聖書の世界観を先ず頭に入れる。それは4つのチャプターからなる。(以前「御国のストーリー」で取り上げた)1。創造、2。堕落 3。購い 4。回復。多くのヒーロー映画はこのプロットに従っている。初めは平和な「あるべき世界」があった。そこに悪者が入り込み、悪をはびこらせる。そして、ヒーローが現れ悪者を退治する。やがて平和な世界が取り戻される。つまり、バットマンもウルトラマンも聖書の世界観に沿っているのだ。クリスチャンが社会で起っている出来事にノンクリスチャン同様に関心をもって、話題にし、一緒に話す事で福音のきっかけができる。誰もが「あるべき世界」を無意識的に描いている。同時に今、目の前の社会がそうでないことを知っている。何かが歪んでいることを体験的に知っているのだ。クリスチャンはそれが罪(神との関係、人との関係の歪み)と聖書から教えられている。

まず、ここで非常に大事なのは終末論である。「世界は人間のあらゆる営みとともに滅ぼされる」という立場に立てば、クリスチャンが「この世」のことに関わる事、すなわち仕事、教会以外の生活や社会的責任がないがしろにされてしまう。「どんなに慈善事業しようとも、この世界はどうせ滅ぼされる。どっちみち神の一方的な業による新天新地が来る」ということなら現在、目の前の慈善事業に力が入らなくなるだろう。会社の仕事に力が入らなくなるだろう。そして、とにかくそんなことより魂の救い、社会的責任より伝道さえしていれば良いという事になる。ここでマーシャルは「神が魂の救いにのみ関心があったら、どうしてノアの箱船に人間だけでなく、動物も入れたのか?」と問う。

「この考え方は(救命ボート神学)と呼べるだろう。被造世界はまるでタイタニック号のようで、罪という氷山と衝突して沈みかけているので、救命ボードに乗る以外は何もできないというものだ。船はどんどん沈んでいる。神は船自体をあきらめ、今は人間が生き残る事だけを望んでおられる。神の被造世界を救おうとするのは、沈みかけている船のデッキチェアーを整頓するようなもので、意味がない。私達の唯一の努めは救命ボートに入り、そのボートを浮かせ、溺れかけている者たちをつかんで水から救い出し、無事天国に着くまでボードを漕ぎ続けることなのだと。しかし、真のキリスト教の考え方は(救命ボード神学)ではなくて(箱船神学)だ。ノアの箱船は、人間だけでなく他の被造物も救った。箱船は逃げようとしてのではなく、地上に戻り再出発した。洪水の水が退くと、船に乗っていたすべての人間と、その他のすべての被造物は地上を回復するためもう一度地上に戻って行ったのだ。」さらに他の箇所でこう述べている。

「死後は天国に行くのだから地球のことはどうでもいいとう考えも非聖書的だ。聖書は新天新地があることを教えている。私達の最終目標は、地上だ。購われ、変えられた新しい地上なのだ。天と再び1つとなっても、やはり地上なのだ。・・・もし人間であることが取るに足らない、つかの間の出来事ならば、(今)という時に真剣に取り組む必要はなくなる。・・・私達人間は、神のかたちに、しかも肉体を持つものとして造られ、地上で生きるために創造された。」

だから、クリスチャンはこの時代の人々と共にこの時代の課題を一緒に背負ってこの地上を歩むべきなのである。世にあって世のものでない。アイデンティティは天にあっても、体があるのはこの地上なのだ。ここで生きる事で、キリストの命が溢れてゆく。癒しと回復が行われてゆく。この地上に神の国がやってくる。神の働く現場はこの地上なのだ。私達の信仰生活の現場は日々の実生活なのだ。神がそこに居ることで「闇は光に打ち勝たなかった」が現実のものとなる。「地を治めよ」とう被造物管理権は生きている。神はその施行を人間に期待している。その責任を放棄してはいけないのだ。

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2013年2月17日日曜日

幸福の指標



 NHKのニュースコラムで「傾聴ボランティア」の話があった。独居老人の孤独死の問題がある。聞いてくれる人が居ないと人と言葉をしゃべらなくなる。そうすると人間らしさを失って行く。社会と断絶してゆく。そんな中で傾聴ボランティアが役立っているという。はじめ取っ付きにくい男性も、話し始めると堰を切ったように話し出すという。氷が溶けるように心の氷も溶けてゆくのだろう。人には人が必要だ。だから、神は言われた「人がひとりでいるのは良くない」結婚の話に限らない。聞いてくれる人がいるだけで、人は人間性を取り戻し生きてくる。私が訪れた会津若松の仮設住宅で、クリスマス会にやって来た男性が言っていた。「こういうのでもないと、部屋で一日テレビ見てる。」

ホームレスの問題は食べ物が無いというだけではない。住所を無くし、携帯を無くし、社会から隔離されてしまう。おじさんホームレスだけではなく、若者ホームレスも増えているという。外で寝るのは危険なので、夜中、歩き回ったり、ネットカフェやファーストフード店で過ごしている。以前、NHKクローズアップ現代で「助けてと言えない30代」というテーマで若者ホームレスを取り上げ話題となった。同名の本も出版された。明日は我が身という同世代の若者からの反響が大きかったそうだ。

ひきこもりや鬱病も依然として多い。人とかかわり傷ついて殻にこもってしまうケースもあるだろう。近い将来、日本人の4割が一人暮らしになるという。そのほとんどは20代独身と独居老人。まわりと関係を持ってないと災害時にも声かける人もいない。高層マンションの部屋に内カギをしていると、家具の下敷きになっていても外からは気づかないし、入れない。地域のコーラス会でも太極拳でも何でもいい。「あの人どうしてんの?」と言ってもらえる関係があると無いでは大違い。

先日は、地元の社会福祉協議会が主催する「防災情報サロン」に出席した。60代、70代で元気に防災町づくりに励んでいる人達がいる。特に男性にとっては「居場所」と「役割」があることは大きい。避難所でも「役割」をあげないと受動的なお客さんになってしまうという。(災害時には被災者が被災者をケアするという態度が必要)

さて、シアワセの指標とは何だろうか? 健康で、やるべき使命があって、それを支える家族(コミュニティ)があるという事か。20代の後半、神学校を終えて帰国した私は人間が幸せであることの絶対条件を発見した。神学校で学んだ「雅歌」にインパクトを受けた。つまり信仰とは規律や哲学や概念ではないということ。シンプルに「関係」、それも男女の関係に一番よく表されていることを教えられた。信仰とは神との生きた関係。そういう信仰生活にはシアワセを感じられる。だから地上での人間のシアワセも、それはとてもシンプルで・・・


一緒に「いる」 一緒に「やる」


これは正に、世界の創造の初めにおられた三位一体の神のお姿なのだ。御父、御子、御霊は共に居られ、一緒に世界の創造に携わった。その喜び、祝福は世界の被造物にまで溢れ流れた。箴言8:30−31を読むと、創造の時のシアワセな姿が見て取れる。

あなたは誰かと一緒だろうか?人生を共に歩む仲間がいるだろうか?祈り合える仲間がいるだろうか?あなたは今やっている仕事/ミニストリーに意義を感じているだろうか?意味あると感じられる事を一緒にやる仲間がいるだろうか?お金があっても孤独なら意味が無い。仲間がいても意味ある事に携わっていないと虚しい。使命に生きていても一人で走っていては寂しい。聖書的なシアワセの指標、それは


一緒に「いる」 一緒に「やる」


TMCはそんなシアワセを提供するコミュニティでありたいと願っています。

感想をお待ちしています。
asktmc@gmail.com (栗原)

2013年1月31日木曜日

大転換の時



 2年前、駅前に文房具屋があったが、それがファミリーマートに改装された。今では、その前を通ってもその風景が当たり前になって、文房具屋があったことは過去の夢のようになってしまった。私達は今ある日本がづっとあったような錯覚に陥る。

日本は100年間に国をひっくり返すような大転換の時を2度も経験している。1つは明治維新、もう一つは第二次大戦後。250年の鎖国を破り開国、文明開化と怒濤のように文化や暮らし向きが変化して行った。戦後も鬼畜米英から日米同盟へ、神格化天皇が人間に。思想統制から言論の自由と経済発展へ。今、日本という1つの国で均一化した文化の中にいると、これがあたりまえのように思ってしまうが、幕末期、戊辰戦争という新政府軍と旧幕府群で国を2分する戦争をしていたのだ。同じ日本人が思想の違いから血を流して戦っているのだ。そもそも1億2千万の日本人が全く同じ考えをしているはずがない。旧幕府の生き残りが北海道へ逃げて蝦夷共和国という独立自治体を形成。沖縄も明治以前は、琉球王国という独立国だった。今のような日本がづっとあった訳ではない。最近では北海道独立論、沖縄独立論みたいな話がまた、出て来ているが・・・

さて、財政の崖っぷちはアメリカだけの話ではない。40兆の税収で90兆の予算を組む日本がどこまで持つのか?財政赤字1000兆の国がどこまで持つのか?大震災が首都を襲う国で、どこまで持つのか。それが引き金で一気に国債暴落となるのか?国連大学の自然災害リスクランキングで日本は世界第5位。世界で5番目に危ない国と認識されている。先進国の中では唯一ランキング入りしている。3年以内に富士山噴火と言う学者もいる。間もなく戦後70年を迎える中、中国、韓国、日本の指導者も新しく変わった。今のような日本があるのは数年のような気がする。

人間、不安になると保守化する。ヒーローを求めるようになる。事が単純化されるファッショ化する。だから今、「おまかせ民主主義」の危険性が指摘されている。ポピュラリズムや一時の熱狂は冷めていく。選挙前の脱原発はもう声を潜めている。中国の脅威があってか、自衛隊員を増員するという。その先には「国防軍」がある。しかし、今の若者が戦争に役立つだろうか?彼らを訓練するため精神教育が復活するだろう。学校でも「反いじめ対策」として精神教育が入り込むだろう。聖書の基盤の無い日本では、精神教育の基盤はどうしても国粋主義(靖国、天皇)的なものにならざるを得ないのでは? 戦中のような思想統制の時代に逆戻りしないことを願うばかりだ。

幕末、列強はアジアに進出していた。インドは、英国の植民地となり、中国にもアヘン貿易で攻めて来た。それを聞いた日本の藩主達が中国の二の舞になる事を恐れ攘夷(排外主義)に振れたのも理解できる。しかし、鎖国していては乗り遅れる。日本のアイデンティティを保ちつつ、国際的になるにはどうしたらいいのか? そんな中、日本は開国した。そして勝海舟、福沢諭吉、新渡戸稲造など聖書に影響を受けた多くの国家的リーダーが活躍した。(詳しくは「聖書を読んだサムライたち」守部喜雅 著 いのちのことば社)そんな中で日本初のキリスト教主義に立つ学校を設立しようとした人物がいた。ご存知、新島襄である。そして当時アメリカのミッションボードは「伝道師養成学校」を強く要望していた訳だが、新島の主張はこうだった。


「わたしは外国人宣教師たちのように、ただキリスト教をひろめ、それによって個人の霊魂を救うことだけが目的ではありません。キリスト教精神にもとづいた青年男女を養成し、国家のために生命がけで働く者たちを育て、わが日本の独立をますます強固なものにすること、つまり、我が国を外国人の手に渡さないためのものです。」(新島襄)


新島は伝道者養成学校というよりも、キリスト教主義に立つリベラルアーツの学校を目指したのだ。国家的指導者を排出したかったのだ。内村鑑三は2つのJを愛すると言った。一つはJapan のJ、もう一つは Jesusの J。日本を愛するからこそ、イエスを愛する。イエスを愛するから日本を愛する。国旗、国家を強要されて国を愛する訳ではないだろう。最近、世界にいい影響を与えている国民は?という調査で日本人がナンバーワンだという記事を読んだ事がある。日本が良い国であれば、当然、日本という国を愛するのだ。外国人でさえ日本を愛するだろう。そして、それはどういう価値観に立っているかによる。キリストが2000年の歴史を超えて世界に影響を与え続けるのは、犠牲の伴う愛の実践者だからだろう。だから、イエスに従うマザーテレサは国を超えて尊敬されている。日本人が聖書的基盤に立てば、世界から尊敬され愛される。国際的紛争解決に武力を用いないというなら、相当な交渉力が必要になる。神の知恵、忍耐力、愛なしにはできないのではないだろうか。

神の国の拡大のためには、キリスト教界のリーダー(牧師、宣教師)だけを養成するだけでは足りない。政治、経済、メディア、エンターテインメントすべての社会領域で影響を与える人物を養成、派遣しなければならない。そこが神の活躍する舞台だからだ。事は現場で起っている。日本は岐路に立っている。良い方にも、悪い方にも大転換できる。聖書的世界観と価値観を持つ、若い国家的リーダーの出現が求められている。

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asktmc@gmail.com (栗原)

2013年1月20日日曜日

御国に仕える者の使命



 実は、TMCを当初始めた頃、チャーチプランティングが目的だと思っていました。東京のあちこちにスモールグループをベースにした教会が沢山生まれれば目的達成だと。しかし、マタイ28章19節の大宣教命令を読むと、主の命令は「弟子作り命令」であることが分かってきたのです。そこには、「教会を建てなさい」とは書いてないのです。原文では動詞は1つで、「弟子としなさい」という命令になっています。弟子が生み出されれば、結果的に教会が始まるのです。逆に多く教会が生まれても「お客さんマインド」で「弟子」が育っていないと意味がないのです。弟子とは「学ぶ者」であって、神の言葉を学び、神のご計画を理解し、神の声を聞いて従い、神の業に参与するものです。

教会=エクレシアは「目的をもって召し出された者たちのコミュニティ」です。神のキングダムを広げるため、当然、ボーンアゲインしたクリスチャン達は集まり、励まし合い、学び合い、宣教を共にするでしょうね。教会を建てることに関してイエス様はペテロに「この岩の上に、わたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)と言っておられます。つまり教会はイエス様が建てるのです。

聖書があまり礼拝の順序や、教会を建てることや、教団の運営について語っていないのは興味深いことです。礼拝の原則的なことは書かれていても(使徒2:46−47)マニュアルはありません。実は教会とは「私達」クリスチャンであり、キリストの生きた生命体なのです。エペソ書2章を読むと神様の考えておられる教会像が見えてきます。

1.私達は死んでいた。私達は罪過と罪の中に死んでいた。(2:1)生まれながらに御怒りを受けるべき子ら。(2:3)

2.恵みとあわれみによりキリストによって救われた。救いは神からの賜物で誰も誇る事が出来ない。(2:8−9)しかし、以下続きを読むとわかるように、個々人が救われて終わりではないのです。天国行きの切符を手にして終わりではないのです。それならば信じた時、即天国に行けばいいのです。しかし、この地上でやるべき事が残されているのです。エペソ2:10を見ると地上ですべき「良い行い」があり、その「良い行い」をするためにキリストにあって作られた神の作品なのだと聖書は言っています。

3.以前は神の契約においては他国人(異邦人)であった私達がキリストの血で罪人と聖なる神という壁がこわされ、異邦人である我々が契約の子であるイスラエルと1つになることが許された。(2:12−17)ここで重要なのは救われた個々人を神はご自身の目的のために「集め」1つとするということです。つまり、神の目的のために「召し集める」すなわちエクレシア=教会=地上におけるキリストの体、生命体を作るという訳です。

4.1つの御霊が与えられ、今は異邦人も聖徒たちと同じ国民、「神の家族」となった。(2:18)御霊は1つ、信仰は1つなのです。1つの御霊を飲んだものは同質となるのです。もうどの国のどんな立場の人でもクリスチャン(1つ御霊を飲んだ者)として同質であり、同じ家族のメンバーです。この点から民族優越主義は偶像礼拝の罪です。クリスチャンであれば、皆、同じ主にひざまずく存在です。

5.さて、集められましたね。集められた者はどうなるんでしょうか?私達はキリストを礎石とする「生ける神殿」であるというのです。(参照 Iコリント3:16−17)エペソでは「主にある聖なる宮」であり、建物全体が成長すると言っています。キリストの体という生ける生命体となっているということ。生きているから動きます、成長します。この生命体が「教会」なのであって、これは、主ご自身が建て上げているのです。エペソ2:22には「キリストにあって、あなたがたもともに建てられ」とあり、キリストと一緒に御国の働きに携わってゆく様子が見て取れます。「御霊によって神の御住まいとなるのです。」ここにヨハネ4章19−23節でイエス様がおっしゃったことが実現するのです。つまり「この山でもない、エルサレムでもない」という場所限定のご臨在や場所限定の礼拝から解放されるのです。真の礼拝者が集えばスタバでも立派な礼拝ができるのです。神の御住まいを遠方に探しにいかなくても、私達が神の御住まいとなるというのです。だからエクレシアは神の国の「見える化」した型なのです。

6.ワンマンショーではなく、チームワーク。ここで大事なのは「この方によって組み合わされた」という言葉で、エペソ4章16節を見ると、(また以前の節を見ると)それぞれ賜物を持った人が体の器官のように組み合わされ体全体を作ってゆく様子が書かれていることがわかります。誰一人不要な人はいません。大事な神殿を築く石なのです。また、16節では「からだ全体は1つ1つの部分がその力量にふさわしく」とあり、全ての人が同じ力で同じ働きをするのではないことも明白です。与えられているタラントは量も質もそれぞれ違います。


7.御心実現のために「よき行い」をする。(2:10)弟子とは御国に仕える人々のことです。すなわち御国マインドを持ってこの地上で影響力を与えてゆく人々です。そして、御国とは「ここにある、あそこにある」というロケーションのことではなく、神の支配されるところ。神の御心が実現されるところ。主の祈りでイエス様は「天に御心が成るように、地でも成りますように」と祈る事を勧めておられます。この地上で神の御心に沿う良い行いが為されてゆく必要があるのです。神の御心を知るには神の言葉である「聖書」を読む必要があります。救いの全体像を知る必要があります。ですから「聖書」は「創世記」から「黙示録」まで全体を通して読まなければなりません。私達はキングダムリーダーとしてこの地上にいる限り「良い行い」を為してゆく使命があるのです。「よき行い」は伝道や教会員を増やすことだけではないでしょう。すなわち「御心が地でも成るように」神に聞き、神に力と知恵を頂き、行動してゆく使命があるということです。そして、私達の携わっている地上の仕事には意味があるということです。


「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに、歩むことではないか。」(ミカ6:8)


「公義」とは興味深い言葉ですね。パブリックな義、英語でいうJusticeでしょうか。日本語では社会正義に近いでしょう。Do the right thing. 正しい事をする。不正を暴き、抑圧されている人々を助けること。旧約には孤児、やもめ(現代的にはシングルマザーも含まれるでしょう)、貧困者、在留外国人を助けなさいと何度も出てきます。神はノンクリスチャンも用います。クリスチャンだけが善を為している訳ではありません。クリスチャンだけが神の計画にかかわっている訳ではありません。旧約では神は、異邦人クロス王を用いてイスラエルの捕囚地からの帰還を実現しています。リーマンショック後、ホームレスが急増した時、日比谷公園で派遣村を立ち上げた湯浅誠さんの働きは、その一例と言えるでしょう。ビッグイシューなどホームレスの自立を助けるNPOの働きを神は喜んでくださっていると思います。被災地支援はクリスチャンであろうと、なかろうと神が喜ばれる働きだと思います。神のかたちに造られ、被造物管理権が与えられている人間が環境保全、エネルギー問題、危機管理などに携わる事も御心にかなうことだと思います。ただクリスチャンはその良き行いが誰から託され、誰のためにしているかを知っているのです。
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2013年1月14日月曜日

「国家」と「御国」



 三浦綾子の小説に「海嶺」というのがある。江戸末期、岩吉、音吉、久吉の3人が遠州灘で嵐に会い、漂流。1年以上も漂流し奇跡的に現カナダのフラッタリー岬に漂着。それからアメリカ、イギリス、マカオと外国を転々とする。マカオでは宣教師ギュッツラフの下、ヨハネ福音書の翻訳を手伝うことになる。

こうして海外で多くの人に助けられ、ついに5年ぶりにモリソン号に乗って日本に送り届けてもらう事になる。それが1837年7月のこと。しかし、日本では、すでに1825年に「異国船打ち払い令」が出ていた。3人はもちろん日本を愛していた。日本の自然、日本の食べ物、そして父母、恋人。5年ぶりに御前崎の風景を目にした3人の感動はどれほどであったろうか。江戸湾に着いたモリソン号は7月31日、何と砲撃されてしまう。他の港を試みるため鹿児島湾へ。しかし、そこでも砲撃され泣く泣く8月29日にはマカオに戻される。砲撃してくる母国日本を眺めながら音吉は思う。「あれが日本や、あれが日本なんや」そして言う「お上って何や、国って何や」。

作家で、元外務省主任分析官であった佐藤優氏は著書「ナショナリズムという迷宮」(朝日新書)の中で「官僚は国家なり」と断言している。そして、こうも述べている。「政治のコントロールが利かなくなると、自己保存に走るというのが官僚機構の本質なんです。」さらにクリスチャンでもある佐藤氏は宗教的なからみでこう述べている。「宗教的な表現をするならば、現段階における人間の原罪はナショナリズムだと言えます。それはなぜか。ナショナリズムによって自分の命を差し出す用意ができてしまうからなんです。そういう気構えがあれば他人の命なんてどうでもよくなるわけでしょ。」これは国に限ったことではなく、集団や組織でも同じ事。すでにオウム事件で起った事だ。すなわち、神の座に「国」「集団」「組織」が置かれれば、それに対する全的献身が求められ、命を差し出す用意が出来てしまうという事だ。

そして、そこに民族主義的要素が入ってくる。ペリー来日で開国はしたものの、根強い攘夷論(排外主義)があり幕府の開国主義と激しい内乱が続いてゆく。この排外主義は第二次大戦の時も起った。それは日本民族優越主義とカップリングになっている。しかし、沖縄生まれの佐藤氏は興味深いことを言っている。「沖縄には天皇崇拝が無い」と。そして、「沖縄亜民族」を唱えている。どうやって日本を統一するのか?中央政府の考え出す思想によってか。江戸時代の日本には外様大名や参勤交代制度があり、中央政府は常に地方の反乱を恐れていた。しかし、幕末には長州、薩摩、水戸藩など有力な地方勢力(雄藩)の存在が大きくなる。外圧と地方勢力により中央はコントロールできなくなっていく。そして大政奉還に至る。

戦時中は「天皇は神」と教えられ、日本は「神国」と教えられた。戦争が終わると「天皇人間宣言」が行われ、「神国」日本はGHQの支配下に置かれる。当時、教師であった三浦綾子さんは、今までの価値観を否定され、教育勅語を墨で塗りつぶしながら教えることに混乱し、失望した。「国とは何やろう、お上とは何やろう」は三浦さん自身の疑問だったのだ。この国では、日本をこよなく愛するキリシタン達が迫害を受け殉教していった。戦時中もキリストを語るホーリネスの説教者は投獄された。日本人が母国に見放される。自分の愛する日本に見放される。日本を愛するが故に日本が間違った方向に行こうとするなら警告を鳴らし、中央政府を批判することもあり得るだろう。

作家の立花隆さんは、この時代の日本へ、するどい警鐘を鳴らしている。

「1つの国が滅びの道を突っ走りはじめるときというのは、恐らくこうなのだ。
とめどなく空虚な空騒ぎが続き、社会が一大転換期にさしかかっているというのに、ほとんどの人が時代がどのように展開しつつあるのか見ようとしない。たとえようもなくひどい知力の衰弱が社会をおおっているため、ほとんどの人が、ちょっと考えればすぐわかりそうなはずのものがわからず、ちょっと目をこらせばみえるものが見えない。こう書きながら、今日ただいまの日本が、もう一度そういう滅びの道のとば口に立っているのかもしれないと思っている。」「天皇と東大」:文芸春秋

海嶺では砲撃されて絶望的になっている中で、岩吉が言う。「・・・そうか。お上がわしらを捨てても・・・決して捨てぬ者がいるのや」すでに聖書に触れていた岩吉は聖書の神を思い起こす。外国人である彼らを丁重に保護してくれた人々を思い出す。使徒の働き17章26節には「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」とある。それぞれの国やそれぞれの文化を否定するのではない。すべてをお造りになった神の前にひれ伏すことで民族のアイデンティティを守りつつ、他の民族とも融合できるのだ。御国の価値観に立つ時に義がなされ、御心が地でも為されてゆくのだ。



「主よわれらの神よ。あなたは栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(黙示録4:11)


「あなたはほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々をあがない、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示録5:9)


「だから神の国とその義をまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)


「だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でもおこなわれますように。」(マタイ6:9)


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