2024年3月21日木曜日

空気を変えろ!


100年に2度の大変革

日本は100年という短い期間に2度、「大変革」を迎えた。1つは「明治維新」、もう一つは「戦後」。明治維新では、あっという間に憲法が制定され、侍はチョンマゲを切り、牛肉を食べるようになった。天皇を君主とする近代国家、大日本帝国が誕生した。もはやサムライの時代は終わったのだ。

太平洋戦争敗戦後は敵国であった米国大好きとなり、占領軍GHQ総司令官のマッカーサーの人気がすこぶる良く、「マッカーサーに日本の大統領になって欲しい」との声まであったという。戦時中の価値観は180度変わり、教科書の天皇崇拝と軍国主義の部分は塗りつぶされ、英雄は罪人となり、民主主義が広まった。

2つとも外来的な要因だった。明治維新は、黒船襲来。戦後は、敗戦時のアメリカ主導の民主主義導入だった。それでも今までの価値観や空気がガラッと変わったことは確かだ。一度変わると過去のものを否定し、新しいものを当たり前と思うようになる。歴史の中でそれは起こった。

日本人は変わるのだ。


外国人宣教師の役割

自分が属する伝道団体キャンパス・クルセード(CCC)の話をしよう。1983の夏、アメリカから数百人のクリスチャン学生が来日して東京でキャンパス伝道を展開していた。当時のJTBの宣伝文句Discover Japanをもじって、Discover Friendsと名打ったサマープロジェクトだった。アメリカの神学校の学びを終えて帰国し、1年間母教会をお手伝いしていた時、豊島公会堂で行われていた、Discover Friendsの集会に参加した。会場のキャパ600名いっぱいにアメリカ人、日本人の学生たちが入っており、熱気を感じた。まだ教会では一般に歌われてなかったようなコンテンポラリーなクリスチャンソングを歌い、楽しいスキットがあり、若いアメリカ人が通訳付きで伝道メッセージを語っていた。こんな光景を日本で見たことがなかった。「暗い、かたい、つまらない」という日本の教会の雰囲気(空気)とは対照的だった。これをきっかけに自分はCCCに興味を持ち、結局、スタッフに就任した。

「別世界」。そうだろう。「異次元」。そうだろう。集会後、アメリカ人と日本人学生が数名のグループで近くのコーヒーショップに入り、さらに交流し、個人伝道がなされた。プロジェクト期間中、多くの学生が福音を聞き、信じるものも多数起こされた。この国際的な雰囲気が好きで、CCCのスタッフに志願し、採用される者も起こされていった。40年経った今も、国際的な雰囲気を使った伝道方法は変わっていない。海外宣教師は「空気」を変えられるのだ。彼らは「空気」を読まずに、自分たちの「空気」を作り、そこにノンクリスチャンを取り込んでしまう。

外来的要因で「空気」が変わった例をもう1つ。90年代に行われたていたCCC日韓協力プロジェクトの「ニューライフ」。こちらは基本、教会向けに行われた。ハイライトは1992年に行われた「ニューライフ関西」。韓国から2000名以上のクリスチャン青年たちが来日し、関西の130ほどの教会に10−15名ほどのチームとして派遣され、地域教会の伝道をお手伝いした。熱心で礼儀正しい韓国青年たちは諸教会に大歓迎された。熱心な祈り、大胆な路傍伝道は、教会へ大きなインパクトを残した。この期間中、教会の「空気」が変わったのだ。言葉も通じないお互いであったが、2週間の滞在期間が終わり、お別れの時はハグして涙する光景が見られた。そんな光景は、かつて日本の教会では見られなかったろう。彼らの滞在中はある意味、「異次元」な空間だったのだ。殻を破るには外的要因が要る。海外宣教チームは、このように「空気」を変える役割があった。

 

宣教師が牧師化してしまうのは勿体無い。日本人ができることをしなくていい。日本人ができない事をする使命があるのではないか。宣教師は開拓者なのだ。

 

山本七平が言うように「空気」に支配される日本人。キリスト教に興味があっても、周りの「空気」を気にしてしまう。自分が学生伝道をやっていた時も、「親が何というか」、「友人が何というか」と、気にしてしまい決断ができない学生が多かった。アメリカ人スタッフが「心で決めた通りにしなさい」と勧めていたのを覚えている。真理の問題よりも、社会的要因なのだ。この「空気」を変えるには「空気」を読まない海外クリスチャンの存在が助けになる。事実、海外にいる日本人(特に若者)が現地でクリスチャンになることが多い。そこでは日本的社会的縛から解放されているからだ。自分の決断が評価され、励まされる文化があるからだ。


成長するインターナショナルチャーチ

成長している教会、元気な教会、若者が多い教会はだいたい、いわゆるインターナショナル・チャーチだ。特にアメリカ、ハワイの雰囲気が用いられている。ハワイの牧師は男性にもハグしてくれる。こういう体験は日本人だけの教会ではあり得ないだろう。そこにいると「日本人だけれど、ここ(教会)にいていいのだ」という気持ちにさせてくれる。クリスチャンとしての居場所がある。教会開拓においては、海外宣教師と日本人がチームとなってやるスタイルが効果的なようだ。

もちろん、この「空気」に頼るミニストリーにはそれなりの問題もある。先ほどのような短期宣教プロジェクトの場合、宣教チームはいつかいなくなる。その「空気」を持ち去ってしまう。日本人の私がフォローアップしようと電話したら断られたケースがあった。この「空気」に頼っている限り、日本人が日本人に伝道し、育て、エクレシアをたてあげることが難しくなってしまう。

 

最近は、アジアの宣教師も増えてきた。人口減少の日本において、もう多文化共生、インターナショナル・チャーチの方向性しかないのだろうか? コロナ後、東京には外人が溢れている。東京で世界宣教も夢ではない。いや、それが主のみこころなのだろう。大宣教命令は「すべての国民を弟子とせよ」だ。それも1つの方向なのかも知れない。

 

流れは一瞬にして変わる!

II 列王記7章に興味深い話が書かれている。敵国アラムの軍隊に囲まれ、兵糧攻めに遭っていたサマリアの町。預言者エリシャは「明日の今ころ、サマリアの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦二セアが1シェケルで売られるようになる」(7:2)と預言する。それを聞いた王の侍従が「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか?」と疑いの言葉を発する。ま、常識的にはあり得ないのだ。ところが主がアラムの陣営に、「戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、」(7:6)敵が襲ってくると勘違いしたアラム軍は、急いて陣営をそのままにして逃げ去ってしまった。(7:7)結局、それらを分捕りものとして持ち帰ったイスラエルは食料が急に豊かになり、エリシャの預言通り、町で食料が売られるようになった。疑いの言葉を発した侍従は門のところで民に踏みつけられて死んでしまったという話。(7:20)

 

クリスチャン人口1%の日本で、続々とクリスチャンが起こされるようになるなんて、「そんなことがあるだろうか?」と疑問を発するのは、ある意味当然かも知れない。しかし、日本人がクリスチャンにならないのが、真理の問題よりも社会的要因だとすると、その「空気」が変われば、多くの人が聖書を買い漁り、若者が「JESUS 最高!」と言い、ビジネスマンが昼休みや仕事帰りにコーヒーショップでバイブルスタディグループに参加することがトレンドとなる。・・そんな日が来ることもあり得るのでは・・・そう日本人は変われるのだ。国民的変化は可能なのだ。それは過去、歴史上起こった。

 

「王の心は、主の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる。」(箴言21:1)

 

神は一瞬にして「流れ」を変えることができる。「空気」は聖書的には「霊的雰囲気」のことと言ってもいい。祈りによって向きが変えられれば、社会的に、キリストを信じることは「違和感」ではなく、「当たり前」のことになる。

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年3月14日木曜日

会いに行く教会

 

大宣教命令

イエスは弟子たちにこう語られた。

 

あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイ28:19)

Go therefore and make disciples of all nations,……

 

マルコ福音書ではこうなっている。

 

全世界に出てゆき、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。

(マルコ16:15)

Go into the world and preach the gospel to every creature.

 

「出て行く」ことが強調されている。ここでは、大会堂を建てなさいとも、チャーチ・プランティングをせよとさえ書いてない。シンプルに「出て行って」、「福音を伝え」、「イエスの弟子を作ること」、この3つ。エクレシア(教会)は、その結果。イエスの宣教もパウロの宣教も「はじめに会堂を建て、人を集める」ではなく、「出て行って福音を伝え」、信者が起こされ、その結果、エクレシアが始まっていったのだ。

 

「出て行かない教会」VS「会いに行く教会」

通称「ともみん」がやっている「会いに行く教会」というのがある。かつては普通の教会の牧師だった「ともみん」が、過労とうつ病から、牧師を辞めた。それでもイエス様大好きで、イエス様のマネをしたいと思い、オンラインで宣伝して必要な人に会いに行くようにしたという。そして、何と今までに2500人以上に出会ったという。教会の会堂を構えても、日本では、2500人が来ることはまずあり得ない。逆方向で、会いに行くことにしたら2500人に出会えた!イエス様の宣教方法に近い。

 

確かに、イエスは、安息日に会堂で教えた。しかし、週日、弟子を連れて村々を歩き回り、人々に出会い、話を聞き、病気を癒やし、悪霊を追い出し、福音を宣べ伝えた。会堂にこもっていた訳ではない。

 

残念なことにプロテスタントの教会といえども、カトリックの「ミサに行く」というマインドセットから抜け出せないでいる。多くのプロテスタント教会は、会堂を建て、日曜礼拝という「儀式」をする場所になっており、「出て行く」ことをしなくなった。お勉強はするけれど、そして、信者は賢くなるけれど、「福音」は外に出てゆかない。

 

かつて宣教学者の福田充男さんが、日本の教会は「集め、囲み込む」スタイルだと書いていた。会堂を建てて、そこに人を集め、信徒を囲い込み、管理する。

信徒のほうも「水族館教会」で飼い慣らされてしまう。牧師の説教頼みで、自分で聖書から糧を得ることができなくなってしまう。すべての教会ではないにしろ、「ともみん」が語るように、時に「囲い込まれた」信徒が管理され、献金を半強制されたり、不当に奉仕をさせられたりと、カルト化したり、ブラック企業化している場合もある。

 

TMCは、ある意味、「会いに行く教会」だ。大きな会堂に人を集め、囲い込むより、こちらが出てゆき、会いに行く。スモールグループの中で、「等身大」、「至近距離」の交わりをする。儀式より、人を大事にする。「意味ある人間関係」を重視する。出て行って、個人的に会ってコーヒー飲みながら、お互いに分かち合いをすることもある。これもエクレシア。キリストを中心にその人と一緒に人生を歩む。そうする事で、エクレシアのメンバーもまた、クリスチャン、ノンクリスチャンと個人的に会って時間を過ごすようになる。その中で自然に「証」がなされていく。福音が出て行く。

 

ベクトルを変えませんか?

確かに「集まる」ことは大切だ。聖書はそのように勧めている。(ヘブル10:25)しかし、それはルーティン化した「儀式」に参加するためではなく、生きたキリストの体として、お互いの愛を実践するためであるべきだ。そのためには大教会である必要はなく、むしろ「お互いに」が実践できるスモールグループであるべきなのだ。スモールグループこそエクレシアの本質を発揮できるのだ。

 

人を集めて「大きくする」方向性を変えませんか?また、内向きから、外に出る方向へ変えませんか?

 

自分は、山手線祈祷に参加し、東京のために毎週祈っているが、もっと日本人牧師に参加して頂きたいと願っている。しかし、実際は、海外からの宣教師さんたちが主体だ。新宿福興教会の菅野さんと一緒に路傍伝道にも参加しているが、彼のように路上に出て福音を語る牧者は、東京広し、と言えども、ほんの数名だ。圧倒的に「出て行かない」牧者で満ちている。そのくせキリスト業界の会議には忙しい。

 

宣教師が牧師化してしまうこともある。宣教師には本来の使命である開拓的な働きをして頂きたい。私の知り合いの宣教師は、コミュニティに「出て」行って児童館で英語を教えたり、子供食堂を手伝ったりして未信者との関係作りをしている。素晴らしい。

 

最近、ヤクザから救われた二上英治さんの動画を見た。会堂を持たずに人助けをし、スナックで福音メッセージを語る。こういう姿を見ると感動する。こっちの方がイエス様に近いだろう。

 

路傍伝道なんて効果的じゃない?そんな恥ずかしい事しなくても・・?そんなことより生活で証を?もっと学びを?まず神学校へ?しかし、神学校に行き、お勉強をし、賢くなると路傍伝道なんて「おバカな事」はしなくなってしまうようだ。

 

 

私たちの主であるイエスは言った・・

 

「出て行って福音を伝えなさい!」

 

 

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「会いに行く教会」についての動画

https://www.youtube.com/watch?v=2n-26J-iOlA

 

スナックで説教する元ヤクザ牧師

【親分はイエス様】小指無し、金無し、教会無し夜の街が俺の教会夜回り「懺悔」に耳を傾けてみた。

 

自生・直結・増殖する神の民

「野生のキリスト教」 福田充男 著 いのちのことば社

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年3月7日木曜日

反面教師 サウル (3)

 

続けて、反面教師としてのサウル王から学んでみましょう。第一サムエルを開いてください。

 

猜疑心に満ちた孤独な王

ダビデには多くの友がいました。当時、敵対していたサウル王の息子ヨナタンとの友情は有名ですね。「ヨナタンは自分を愛するほどにダビデを愛していた」I

20:17)とあります。こんなに愛されているとは羨ましいですね。また、フシャイという人がいますが、彼を記述する言葉は「ダビデの友、フシャイ」です。(II

15:37) 素敵なタイトルですね。フシャイはダビデに献身的で、敵であるサウルの家に入り込み、ダビデのためにスパイ活動をする人です。また、戦場でダビデの「ベツレヘムの門にある井戸の水が飲みたい」との声を聞いて、命令を受けた訳でもないのに、ペリシテの敵陣営を突き抜けてベツレヘムの門の井戸から水を汲み、ダビデのもとに運んできた三人の勇士がいました。ダビデのためには命をかけて、それをしたのです。(IIサムエル23:16〜)ダビデには友がいたのです。また、ダビデを愛するゆえに従った人々がいたのです。これは真のリーダーの姿です。

 

ダビデは敵対していたサウルの家の者にも親切にします。ヨナタンの息子のメフィボシェテを王宮に呼び、王の食卓に着かせます。(IIサムエル9章)こんなダビデの人柄に惚れて、献身的になる人が多かったのでしょう。

 

サウルは対照的です。前回見たように権威を乱用し、国民を困らせ、怒りっぽく、すぐ怒鳴り散らすリーダーでした。サウルには友達がいなかったようです。猜疑心の強い権威主義の独裁者の特徴ですね。人のことを思いやるより、「誰も自分のことを思ってくれない!」という自己中心な思いなのです。特に、ダビデが戦果をあげ、人々が「サウルは千人を打ち、ダビデは万人を打った。」Iサムエル18:7)と言っているのを聞いた時、メラメラと嫉妬心が湧き上がったのです。それでダビデに敵意を抱き、殺そうとさえします。人類初の殺人は嫉妬心からでしたね。(創世記4章) 

 

サウルに関しては、すでに主の霊が去り、悪い霊に悩まされるようになっていましたが、嫉妬心が悪い霊の働きに油を注ぎ、家の中で狂い、わめくようになります。(18:10)何とも惨めです。もうダビデとサウルの明暗がここではっきりします。(*主からの悪い霊とは、主がサウルに対する悪霊のアタックを許されたと言うことでしょう。)

 

さて、主の霊はサウルを離れ去り、主からのわざわいの霊が彼を怯えさせた。

                    (サムエル16:24)

 

ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼と共におられた。

                    (IIサムエル5:10)

 

結局、このダビデへの嫉妬が不必要な国の分断を招くことになります。敵に囲まれている状況で国益を損ずる方向性です。リーダーの態度は国の方向性にも影響を与えます。そして、ついに主からのお答えが無くなります。(サムエル28:6)困り果てたサウロは自分が追い出した女霊媒師の元へお伺いをたてに行くのです。ここまで落ちぶれてしまいました。まったく惨めな暗い結末です。

 

現代的適応

こういうフレーズがあります。

 

Leader is Lover, Lover is Leader

 

まさにダビデですね。リーダーとは人々を愛する人。愛する人はリーダーなのです。権力で従わせる孤独な独裁者サウルのようではなく、へりくだった愛の人としてのダビデのようなリーダーが求められます。リーダーは時に孤独です。崇められる「偉い牧師先生」ほど危ないのです。初代のクリスチャンたちは「聖なる口づけ」を持って互いに挨拶していました。至近距離だったのです。誰もが兄弟姉妹として同じ「交わり」の中にいたのです。それが中世カトリックの宗教指導者たちは「高く、遠い」存在になっていき、一般会衆から離れていくのです。今日でも、ある聖会で、「牧師先生たち」だけ別の部屋で食事をする光景を見たことがあります。そのように「一般信徒(?)」と距離が生まれていくのです。牧師=牧者という「役割」が、「ポジション」と「権威」になってしまうのです。

 

リーダーは孤独です。だからこそ、「友」を作る必要があるのです。クリスチャンリーダーは、スモールグループのフラットな関係の中で祈り、祈られる「交わりの中」にいることを強くお勧めします。そうするには人が寄ってくるキャラ(approachable)でないとダメですね。ふんぞり返って、権威を振るう人には近づきたくないですからね。また、「祈ってください」と言える謙遜さがないとダメです。偉い先生は「祈ってあげる」という一段高い立場になってしまうのです。

 

聖書的リーダーはサーバントリーダー

すべては神の恵みです。この原点から離れないようにしましょう。キリストを離れては、私たちは何もできないのです。(ヨハネ15:5)

 

2つの聖句を挙げておきましょう。

 

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

                   (マタイ20:25−28)

 

主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)

 

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

 

2024年2月29日木曜日

反面教師 サウル王(2)

 

続けて、反面教師としてのサウル王から学んでみましょう。第一サムエルを開いてください。

 

謙遜から高慢へ

サウル王の生涯は後半に向けて失落して行きます。華々しいスタートを切るのですが(10:24)、終わりは惨めで悲惨です。サウルは初め謙遜だったのです。(Iサムエル9:21、10:22)しかし、少しずつ高慢になり自分の判断に頼るようになります。ペリシテ人との戦いの時、祭司がなすべき捧げ物を自分で捧げるという越権行為をしてしまいます。これは致命的であり、主の御心を損なうものでした。(13:12−14)いちいち主にお伺いをたてるダビデとは対照的です。(23:4−12、30:8)

 

さらに「アマレク人を聖絶せよ」(15:18)との主の命令に聞き従わず、自分の判断で肥えた羊や牛、アガグ王を生け捕りにして、値打ちのないものだけを聖絶しました。(15:9)この時、サムエルは「聞き従うことはいけにえにまさる。」と叱咤しています。

 

主は全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ、聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、牡羊の脂肪にまさる。(第一サムエル15:22)

 

またバテシェバ事件で、その罪を指摘されたダビデが真の悔い改めをしたのとは対照的に、サウルは言い訳をしたり、煮え切らない悔い改めをしています。

15:24節以下)そして、まだ民の前でメンツを保とうとしています。(15:30)往生際が悪いですね。この時点で主はサウルを王としたことを悔やまれています。(15:35)

 

現代的適応

「その人に高いポジションを与えてみよ。その人の本性が現れるから」というフレーズを聞いたことがあります。初めは謙遜でも、一旦、権力を持つと人は変わるのです。謙遜であることは比較的容易です。しかし、謙遜であり続けることは神の業です。「もし、誰かが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」テモテ3:1)とあり、リーダー職に就くこと自体が悪いわけではありません。それは立派な、またご苦労なお仕事です。しかし、パウロは2節以下で、監督に就く人の条件を語っています。特に高慢になって悪魔と同じ裁きを受けることのないようと警告しています。(3:6)パウロはこう言っています。

 

神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。コリント15:10)

 

すべては神の恵みです。この原点から離れないようにしましょう。キリストを離れては、私たちは何もできないのです。(ヨハネ15:5)

 

自分の部下を守るために強い境界線を引くリーダーがいます。それ自体、悪いことではないのですが、多くの場合、それが高じて自分より上の権威にぶつかり、上の権威に反抗的になります。良かれと思ってやっているかも知れませんが、知らずして高慢になっている可能性があります。

 

権威の乱用による意味のない命令

さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。

サムエル14:24)

 

どうも、神が命じたのではないようです。勝手なサウル王の理不尽な命令により兵たちは苦しんでいたのです。その日、その命令を聞いていなかったサウル王の息子のヨナタンは、少人数で大勝利を上げます。(14:1−16)信仰による勝利です。(14:6)この日、主はイスラエルを救われたのです。(14:23)

命令を聞いていなかったヨナタンは蜂蜜を食べて元気を回復します。(14:27)その理由でサウル王はヨナタンを裁いて殺そうとします。(14:38−44)

しかし、民の声で王の間違いが指摘されて、ヨナタンは死なずに済みました。

(14:45)意味のない命令を出し、兵を苦しめ、国を悩ませ(14:29)、その上、意味のない裁きを実行しようとします。なんと民に間違いを指摘されてその決定を引っ込めます。一貫性がありませんね。元々、神から出た命令ではなかったのです。権威の乱用です。

 

リーダーの下す判断、命令は民に影響します。民を生かすのか、殺すのか、時に致命的な結果にもなります。II サムエル24:15を見ると、ダビデの間違った判断で、民の7万人が神に裁かれ死んだ記事があります。リーダーの判断の影響は大きく影響するのです。サウル王がダビデを妬んで、殺そうとしたため、国が分断してしまいます。敵に囲まれて状況下、一致して戦わなければならない時に、無駄な分断を生んだのはサウルの間違った態度によったのです。

 

現代的適応

Insecure(不安定で警戒心の強い)リーダーは、部下の業績に対して正しい評価をしません。自分より優れている人を認めたくないのです。残念なことに、教会や、キリスト教団体でも見られます。こうであってはなりません。クリスチャンリーダーは自分より優れている人を喜び、尊びます。なぜならチームとして自分にないものを持っているので、助かるからです。

 

権威の乱用による理不尽な命令も部下を苦しませます。権威を乱用することでアイデンディディを確認する必要はありません。クリスチャンはキリストに愛されている神の子であるというアイデンディディがあるのです。人の評価より神の評価です。自分を大きく見せる必要はありません。もうあなたは「王の息子」ですから、奴隷マインドではなく、「王様マインド」で過ごしましょう。大丈夫、もう愛されているのですから。その余裕を持って、他の人の成果を正しく評価しましょう。この世のリーダーはどれだけ顎で人を使えるかを喜びとする傾向がありますが、クリスチャンリーダーはキリストの体に仕え、体全体が成長することを喜びとすべきです。

 

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

                   (マタイ20:25−28)

 

(つづく)

 

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執筆者:栗原一芳

2024年2月22日木曜日

反面教師 サウル王(1)

 

旧約聖書中、非常に興味深い人物がいます。それがイスラエルの初代王、サウルです。華々しいデビューをしたのに、後半はどんどん失落して行きます。暗い、孤独な王、サウル。彼を反面教師として、あるべきクリスチャンリーダー像を探っていきましょう。第一サムエルを開いてください。

 

人はうわべを見るが、主は心を見る

サウルは有力者の息子で、長身で、ハンサムだったのです。(サムエル9:2)

人も羨む条件が揃っていますね。この世的には、こういう条件は大事です。しかし、クリスチャンリーダーとしては、それだけでは不十分です。事実、サウルは王として失落してしまいます。預言者サムエルは、次の王を探しにエッサイの家に行きました。そこで容姿の立派なエリアブを見た時、「きっとこの者が主に油注がれるものだ。」と思ったのです。しかし、主の答えは「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル16:7)でした。リーダーの「心」が何よりも大切にされなければならないのです。

 

現代的適応

教会に大企業の社長さんがいるとしましょう。この世的には、こういう人に教会の役員になってほしいと思うでしょう。しかし、この社長さんが霊的に未熟だった場合に、正しい霊的な判断ができないこともあるのです。社会的に影響力ある人が役員会にいれば、当然、発言力が大きくなります。注意が必要ですね。ルックスのいい、プロのバイオリストが教会に通い始めました。まだ信仰について十分理解していません。この世的には、こういう人をワーシップチームに入れたいでしょう。しかし、ワーチップチームのメンバーは音楽の奉仕者である前に、礼拝者であるべきなのです。礼拝の手段としての音楽なのです。礼拝できない人は才能があっても、ワーシップチームに入るのはふさわしくないのです。

 

この世では判断する時に、この世の常識で判断するでしょう。教会では、この世の基準と違う価値観があります。判断する時に「祈って、主に聞く」という特殊な文化があるのです。サウルとは対照的にダビデ王は常に主に伺いを立てています。多数決では決められないこともあるのです。霊的なことは、御霊によって判断するのです。

 

以前、韓国の大教会を訪ねたとき、その会堂の大きさに度肝を抜かれました。しかし、「どうだ、うちの教会はすごいだろう」と世の中に誇る意味で建てられていたとしたら〜つまりルッキズム〜意味がありませんね。神は大きな会堂を建てろとは命じておられません。大宣教命令は「弟子をつくれ」(マタイ28:19)であり、「教会堂を建てよ」という命令ではありません。いずれにしても、忍び込んでくる、この世的価値に気をつける必要があります。

 

神の霊と新しい心

信仰の世界でリーダーとなるには、当然の如く、神の霊によらなければなりません。サウルはサムエルに油注がれ、正式に神の御前で王と任命されました。(10:1

その後、主の霊が下り、新しい人に変えられました。(10:6)新しい心も与えられました。(10:9)神が召される時、必要なものが与えられるのです。丸腰で遣わされるのではありません。ただ、忠実に主に従い続けるかどうかは、その人次第です。サウル王は王としてスタートを切るにふわさしい備えは頂いたのですが、だんだん、それが自分の力のように誤解し始めます。そして自分の判断や自分の力に頼るようになります。リーダーは神に頼らなければやっていけないのです。

 

現代的適応

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは、その人には愚かなことだからです。理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」コリント2:14)

 

クリスチャンとは洗礼という儀式を受けた人のことではなく、教会員名簿に載っているという事でもありません。御霊により「新生」し、御霊を宿すようになった人のことです。リベラル教会には新生し、御霊を持たない信徒や、牧師がいるのです。(復活を文字通りに信じない牧師はたくさんいます。)それは恐ろしいことです。キリスト教会と看板は出ていても、キリストがいないのです。クリスチャンリーダーは新生して、御霊を持つ人でなければなりません。そうでないと、この聖句のように、御霊のことが理解できず、霊的判断ができません。

 

神が神の仕事に召された時には、神が御霊により必要な賜物(能力)を備えます。神が召された仕事にふさわしい賜物を、神が召された期間、備えてくださるのです。それは神の力なのであって、自分の力ではありません。しかし、長年、リーダーのポジションにいると自分の力のように思ってしまいます。「先生、先生」と長年呼ばれていると、その気になってしまいます。ここに誘惑があるのです。クリスチャンは、そして特にクリスチャンリーダーは御霊に満たされ、御霊に導かれている必要があるのです。一度、聖霊に満たされれば十分なのではなく、御霊により「歩み続ける」ことが必要なのです。リーダーは、常に神を恐れて治めなければならないのです。

 

神を恐れて治める者。その者は、太陽が昇る朝の光。雲一つない、朝の光のようだ。                     II サムエル23:3−4)

 

(つづく)

 

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年2月15日木曜日

そのままでいいんだよ?

 

教会に人が来ない!

かつて、この日本でも戦後、若い人たちが教会に押し寄せて来ていたと聞きます。

魅力的な場所だったんでしょうね。今は日本だけでなく、ヨーロッパ、アメリカ、韓国でさえ、教会離れ。特に若者が来なくなりました。アメリカでは若者を惹きつけるために教会にコンピューターゲームを置いたところもあるとか・・・(そこじゃないですよね。)また、アメリカの教会は会堂が大きいので、会堂内にカフェがあったり、書店があったりするようです。日本ではそういう訳にもいきません。数だけ集めたいなら、手っ取り早いのは教会をカルト化することでしょう。牧師がカリスマ指導者となり、「恐れ」を使って教会員をマインドコントロールし、伝道や献金を煽ります。それなりに教会は成長するでしょうが、健全ではありません。やがて問題が起こるでしょうね。もちろん、主も喜ばれません。そこまであからさまでなくても、ボーダーラインの教会も結構あるかも知れません。教会に人が来ないので焦るのです。

 

分かりやすい話を

どうしたら人が教会に来るのでしょう? 信徒が説教者に言うでしょう。「もっと分かりやすい話をしてください。」この「分かり易い」が難しいのです。もちろん、聖書の概念や用語を分かりやすく説明することは必要です。しかし、「分かり易い」を強調するあまり、聖書のトンデモ話を省略してしまうと福音は伝わりません。「いいお話」で終わってしまいます。感動の涙を流したとしても人は救われません。メッセージの中心は「十字架」と「復活」なのです。パウロもこう語っています。

 

神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、コリント1:21−23)

 

本質は「霊的」なことなので、説明を尽くしても信じる人もいれば、信じない人もいるのです。イエス様が説教しても信じない人はいたのです。

 

そのままでいいんだよ?

救われたいと願った酒飲みが「断酒してから教会に来て、洗礼を受けなさい」と言われたらどうでしょうか?自分の力で自分を変えられるならイエス様はいらないのです。「そのまま」の姿で主の前に来ていいのです。主が変えてくださるのです。かつて遊女や収税人という「罪人」たちがイエスのもとに来て話を聞きました。イエスは嫌がらず近づかれました。学者パリサイ人とは違うところです。「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人」なのです。アルコール中毒者もL G B Tの人も、イエスを信じたい気持ちがあれば、「そのまま」でイエスの御元に来ていいのです。イエスに会うために教会堂に来てもいいのです。

 

ただ、イエスを信じた後に、そのライフスタイルを変えなくても「いいんだよ」という意味ではないのです。イエスに出会った人は「そのまま」ではないのです。「変えられる」のです。ザアカイは、イエスの話を聞いて御国に入るため「思い改め」をしたのです。そして、自ら不当に取った金を返す行動に出ました。価値観が変わり、行動が変わったのです。

 

ある人は「放蕩息子」の話を持ち出すでしょう。放蕩して帰ってきた息子を父は咎めなかったではないか。ハグして受け入れたではないか。しかし、あの息子はブタに餌をやっている時、「思い改め」たのです。方向転換したのです。だから帰宅したのです。もう「放蕩」息子ではありません。「父の息子」です。もちろん、父の愛を知った息子は、見違えるように変化して、父のために農場で一生懸命働いたでしょうね。

 

「そのままでいい」とは「メタノイア=思い改め」しなくていいという意味ではありません。

 

姦淫現場で捕まって石打ちにされそうになった女に、イエスは「これからは、決して罪を犯してはいけない」(ヨハネ8:11)と語られています。「そのままでいい」のではありません。ここをしっかり語らないと、教会は「そのままでいい=新生していない罪人」の集まりになってしまいます。

 

神の御心は、あなた方が聖なる者となることです。テサロニケ4:3)

 

聖書は、「罪赦され」、「救われ」たら、次に、「きよい」歩みに向かっていくことを教えています。それはチョイスではなく、召しなのです。(テサロニケ4:7)そのために神は御霊を与えました。御霊に満たされ(エペソ5:18)

御霊によって歩む(ガラテヤ5:16)ことは神の命令です。それは肉の欲望を満たすことと対比されています。

 

終末の「アダム系教会」

初代教会にはパウロの恵みの福音を誤解して、「そのままでいいんだよ」教会を形成している群もあったようです。事実、コリント教会には性的奔放が見られます。グノーシス主義の影響もあり、霊の救いがあれば、地上の肉体が犯す罪に責任はないとして、そのような行動をしていたようです。パウロはそれを放任するのではなく、対峙して、矯正しようとしています。(コリント5〜7章)つまり、「そのままじゃ、ダメだと」言っているのです。

 

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」 II テモテ3:16)

 

終末時にはいわゆるラオデキヤ教会=イエスを追い出す自称「教会」が広まります。キリストの教会ではなく「アダム系教会」です。「生まれ変わって」いない教会員や指導者が増えるでしょう。これは恐ろしいことです。彼らは御霊を持っていないので神の知恵がなく、聖書を正しく読むことができません。

 

神の「愛」と「恵み」だけを語り、神の命令を語りません。その方が人が集まるからです。人の気持ちを害する「罪」や「きよめ」を語りません。気持ちのいい教会、コミュニティに開かれた教会。社交クラブ的な教会。しかし、それが極端に進むと、「そのままでいいんだよ」が、「思い改め」をしなくていい、「新生」しなくていい教会になります。

 

仏教徒も、イスラム教徒もLGBTも「そのままでいいんだよ」と。ライフスタイルを変える必要はない。「信条」を変える必要はない。大事なのは「愛」、「一致」、排除しないこと。人が傷つくメッセージはしない。罪を指摘するメッセージはしない。大事なことは「愛」を実践すること。宣教地に行って井戸を掘ることは良い。しかし、イエスに改宗させることはしない。それは現地の人に失礼だ。彼らは、彼らの独自の文化と宗教を持っているのだから。キリストが「唯一の救い」なんて排他的なことを言わないで、世界の宗教は仲良くすべき・・・愛、愛、愛こそがすべて、それがイエスの教え、それが聖書のメッセージ・・・という具合に。

 

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、(I テモテ4:3)

 

そうやって「受け入れること」が、聖書の「真理」の上に来るのです。聖書が言うとおり、そういう時代が、もう始まっています。そして、この勢力が広がっています。このようなリベラル思想の教会は世界統一宗教への門を開くことになるでしょう。そして、やがて真の信者を迫害するまでになるのです。そう、「教会」が真の信者を迫害する時代になるのです。(戦争中、この日本で、実際に起こりました。)

 

真の愛は「何でもいいよ」と放任することではありません。天の父は愛するゆえに、ご自分の聖さにあずからせようと私たちを訓練されるお方です。(ヘブル12:10)

 

私たちは、このみ言葉に忠実でありたいものです。

 

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

II テモテ4:2)

 

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執筆者:栗原一芳

2024年2月8日木曜日

自然災害は神のさばき?

 

今年は元旦から能登半島で大地震。「これは神のさばきなのか?」という疑問を呈する人が必ず出てきます。あるいは、「なぜ神はこのような悪を許されたか」、「愛なる神は何をしていたのか?」という疑問が出されます。東日本大震災の時も散々、議論されました。

 

聖書は「すべての人は罪を犯し、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)と言っています。一部の人ではなく「すべての人」が罪を犯しているのです。そして、イエス様が「すべての人の罪」を負い十字架で死んでくださった故に、呪いは取り去られ、今は「救いの時」となっています。従って、ある「特定の地域の人々」への罪の裁きとしての自然災害という解釈には無理があります。能登にいる人の方が東京の人より罪深いということは絶対に言えないのです。

 

考えてください!また、もし、これが神の裁きなら私達は、被災者を救ってはいけないことになります。裁きであるなら、苦しむのが御心なのですから。救援活動は神の裁きを邪魔することになってしまいます。しかし、当然、目の前の苦しんでいる人を助け、愛を示すのは、神の御心でしょう。この点からも「さばき説」には無理があります。

 

かつては、「さばき説」が通説だった!

しかし、18世紀までは「さばき説」が普通の解釈だったのです。1755年11月

1日、午前9時40分、M9の大地震が当時のポルトガル、リスボンで起りました。15メートルの津波が起こり、5日間町が燃えたのです。しかし、その日は、カトリックの最も大事な祭礼の日であったのです。人々は礼拝堂にきれいな格好して集っていました。プロテスタントはこれをカトリックへの裁きと考えたのです。確か、ジョン・ウエスレーもそう言っていたとか・・

 

聖学院大学教授で神学博士の藤原淳賀先生の話によると、教会は、ほとんど壊滅状態だったのに、赤線地区が無事に残ったというのです。変ですね。その頃から「さばき説」が下火になったようです。

 

逆に、啓蒙主義(enlightenment movement)の思想家たちは地震を道徳問題(ethics)と切り離して客観的に見ていました。カントは初めて地震学なるものを始めたといいます。

 

「今日は雨だから裁かれている」と考える人はいなでしょう。同じ自然のリズムがもたらす災害であっても、こと巨大地震となると、「神のさばきでは?」という思いが走ります。

 

考え方の転換

大野バプテスト教会の中澤啓介師の提言はこうです。

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西欧のキリスト教神学においては、自然災害は伝統的に「悪の問題」として扱われてきた。結局「不可解」という結論を出してお茶を濁す。それでは、これから日本が直面せざるを得ない災害に対して、何の役にも立たない。新しい解釈が必要。

 

自然災害は「悪」の問題ではなく、「自然法則」あるいは「自然のリズム」がもたらすものであり、 人間の「被造物管理権」(危機管理)の問題と提唱したい。

 

そういう考えに立てば、日本のキリスト者と教会は、自然災害を迎え撃つ準備ができる。

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・・・というものです。

 

つまり・・・

1) 地震や自然災害は「自然法則」「自然のリズム」がもたらすもの。(裁きや道徳と切り離す)

水蒸気が空に溜まれば、雲となり、やがて雨として地上に降ってくる。それは「さばき」ではなく、日常、私達が体験している「自然のリズム」である。同じように、例えば、太平洋プレートは年8cmほど日本側に動いており、100年で8mも潜り込むので、その反発で陸側のプレートが跳ね上がり、大地震が起こる。溜まったエネルギーは、そのように発散される。だから、海洋型地震には「周期」がある。これは物理的な事であり、道徳とは無関係。

 

2) 人間は被造物管理(危機管理)の責任がある。

地震そのものは止められないが、危機管理、防災をすることで減災できる。それは、人間の側の責任。 自然のリズムである限り、自然災害そのものは中立的なもの。ただ結果、悪をもたらすことがある

 

阪神淡路大震災の時、1981年前の建築物と後の建築物では被害に大きな差が出た。1981年以降の建築基準で立てられた建物は震度6強まで倒れない設計になっている。耐震性の弱い建物は、倒れて大きな被害が出た。道徳の問題ではなく、単に物理的な問題である。つまり、同じ震度の地震でも、準備の仕方で(弱いところを強くしてゆくことで)リスクを減らせる。阪神淡路大震災では、8割は家の倒壊や家の中の家具による圧死であった。逆に言えば、家を耐震化し、家具を固定していれば、その人達は助かったかもしれないということだ。備えることでリスクを減らせる。これは管理の問題であって、人間側の責任。

 

一点だけ注意しておきます。基本、これでいいのですが、この考えを固定化してしまうと、いわゆる「理神論」(神は一度、創造の御業を終えると、あとは自然の法則に任せて、もはや地上に介入することはないという理論)に陥り、神の特別介入を拒否してしまう恐れがあります。実際、神はこの歴史に介入されています。ノアの時代、地上の悪を裁くため、「大洪水」を起こされました。性的に乱れた町、ソドムへの裁きとして天から火と硫黄を降らせ町を滅ぼしました。モーセに逆らったコラは地震による地の裂け目に落ちてさばかれ死にました。終末期の患難時代には、神の「さばき」として、多くの地震また、巨大な雹など、多くの自然災害が起こります。だから、「自然災害=さばき」ではないが、「さばき」としての自然災害はあるのです。この7年間の患難時代は特別な期間と考えたほうがいいでしょう。

 

被造物管理者としての人間

もともと人は神の似姿に造られたのです。そして、エデンの園を「管理」するように命令されました。そうする能力が与えられているからです。動物に名前を付けたことは、管理能力の一つの現れでしょう。人は神に背いて園を追い出されました。神の救いのご計画の中で、時至って救い主キリストが来られ、購いの業が為され、人間の被造物管理権は回復されたのです。私達は長兄であるキリストと共に、今の地を、そしてやがて相続する「地上の御国」を統治し、管理する責任があるのです。

 

内閣府中央防災会議の南海トラフ地震被害予測によると、「M9、最悪で死者32万人、7割が津波被害。」とありますが、同時に、「対策、避難で6万人に減」とも書いてあります。実際、南海トラフ地震は、「国難」とも言うべき大災害です。人間が地震そのものを止めることはできません。しかし、対策を取る事で大幅に死傷者を減らす事は出来るのです。死者32万人が6万人になるのです。ここに防災活動の意味があります。

 

クリスチャンにとって危機管理は、単に防災すれば減災できるという消防署の人が言う以上の意味があるのです。それは、人間の被造物管理権の問題なのです。神のかたちに造られた人間の責任です。特に「災害関連死」は完全に「人災」です。今回の能登の避難所で東日本大震災の時と同じ「問題」(特にトイレ問題)が起こっているのを見るともどかしい思いがします。あれだけ避難所の問題が論じられていたのに、何も変わっていません。災害国日本にあって、(災害に)無防備で無装備な小中学校を避難所にしたままでいいのでしょうか?

 

神のパートナーとして

私達クリスチャンは地上での神の代理者、王の見習い人です。この地上を癒し、回復し、守るため、神とパートナーとして一緒に働くものです。神の側に一緒にいるのです。「神様どうして?」と文句を言っている暇があったら、神と一緒に「支援」や「復興」に携わってゆくべきではないでしょうか?神は癒しと回復の神なのですから。そして現実、目の前に助けを必要としている人がいるのですから。

 

信仰生活とは、単に、日曜朝のプログラムに出席することではありません。Worship service to service as worship. ただ礼拝という儀式に出ることより、週日奉仕する事が、神を礼拝することになるべきです。24時間、7日間、創造主をあがめ、意識し行動します。主は日曜日だけの主ではありません。「365日の主」です。

 

危機は「危」danger と「機」Opportunityとから成っています。被災地で支援活動をしたり、今後の来るべき災害に地域と共に備える防災活動は、クリスチャンがコミュニティと繋がり、「証」できる良き機会となります。

 

 

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執筆者:栗原一芳