2023年9月28日木曜日

聖書の歴史観


聖書は時間や期間にこだわる

 

● 7日間での世界の創造。

● ノアの洪水、雨は40日、40夜降った。

● 70年のバビロン捕囚期間。

● イエスは40日、40夜断食した。

● イエスは3日目に復活し、40日の間弟子たち

  に現れた。

● 3年半の反キリストの神殿冒涜。

● 千年王国

 

神は時間や期間に関して強い意識を持たれ、これらを大事にされる。水平に流れてゆくリニアルな時間軸の中で「神の物語」が展開してゆく。輪廻のように永遠に続く閉じられたサークルではなく、時間が流れてゆくリニアル(線状)なのだ。永遠なる神は、天と地を創造し、時空の世界が始まった。しかし、

現在、この世は神の支配を離れ、サタンと人が支配する世となっている。やがて、キリストが王として、この世を支配する時が来る。(黙示録11:15)時間軸の中で、次の時代が来る。これが聖書の歴史観。

 

歴史の時間軸の中で、預言は成就する!

有名なダニエル書のエルサレムに関する70週の預言。(ダニエル9:24−27)69週はすでに成就し、残りの1週(7年)が近い将来始まると考えられている。着々と神は駒を進めておられる。

 

バビロン捕囚は70年だった。70年が満ちると、異邦人クロス王の命令で、エルサレムの町の復興が開始される。始めに不可能に思えたことが可能になってゆく。そもそもあの絶頂期のバビロン帝国が倒され、メド・ペルシャ帝国に移行してゆくなど誰が想像できただろう。しかし、預言通りとなった。

 

AD70年にローマ軍がエルサレムに侵攻し、神殿は焼かれ、ユダヤ人は、世界に離散した。約1900年さまよった後、イスラエルの民は帰還して国を作った。(1948年5月14日)常識では不可能な奇跡が起こったのだ。今は不可能に思える、第三神殿は、やがてエルサレムに建てられ、生贄と捧げ物が始まるだろう。そして、患難期中、異邦人に3年半支配される。ここでは「3年半」と期間が明記されている。(黙示録11:2)悪の支配には時間制限がある。「もはや時が延ばされることはない。」(黙示10:6)・・・3年半後にキリストは再臨され、裁きが行われる。反キリストの滅亡は定められている。

 

カイロスとクロノス

ギリシア語にはこの区別がある。流れていく時間はクロノス。歴史が変わる瞬間がカイロス。以前、NHKの番組で「その時、歴史が動いた」という番組があったが、まさにそれだ。

 

あなたが、この王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかも知れない。(エステル4:14)

 

ユダヤ民族滅亡の危機に瀕した時、まさにその場に遣わされたエステル。歴史を変える行動を取ったのだった。

 

時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。 (エペソ1:10) 

 

これなどは典型的な例だろう。神が動く時、それは歴史が動く時。               

 

 

聖書の歴史観はリニアル

多くのクリスチャンは「下」にある「地上」と、「上」にある「天」という「上下」意識が強いように思われる。「死んで、天国に行く」は「下から上」への垂直移動だろう。確かに今、天は上であり、地は下であり、地では患難、天では賛美が同時並行で動いている。しかし、それはリニアルな時間軸で、ある方向に向かって「動いている」のであり、「上下」構造が静止しているのではない。

 

御国は未来からやって来る。時間軸の中で、将来、成就する。これは水平の動きだ。

 

私たちはこの地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。(ヘブル13:14)

 

「後に来る」とはリニアルな時間軸の延長線上に「やって来る」(成就する)のだ。上にある「天国」に行くというニュアンスではない。

 

また、今の世ばかりではなく、次に来る世においても唱えられる・・・

                          (エペソ1:21)

 

ここでも、「次に来る世」と水平時間軸が語られている。神のドラマは水平軸で展開してゆく。

 

旧約の時代が終わり、約2000年前、キリストが地上に来られ、贖いのわざを成し終え、新しい契約の時代(新約)に入った。パラダイムが変わった。ペンテコステで教会が誕生し、世界宣教の時代に入った。しかし、それは、永遠に続くのではない。次には患難期が来る。終末点に向かって突き進んでゆく。神は忍耐を持って人々の悔い改めを待っていた。(IIペテロ3:9)しかし、ここまで来ると「もはや、時が延ばされることはない。」(黙示10:6)そしてキリストの地上再臨に続き、反キリスト勢力への裁きが行われる。そして、次なるステージ(千年王国)に入ってゆく。1つの時代が過ぎ去り、次の時代が来る。これが聖書の歴史観だ。

 

大転換の時が来る!

そして、大転換の「時」を迎える。カイロス中のカイロスだろう。主ご自身、こう言われた。

 

この天地は滅び去ります。(マタイ24:35)

 

ペテロは以下の表現を用いて大転換の時を描いている。

 

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地 にある働きはなくなってしまいます。・・・・・・その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。  (IIペテロ3:10−13)

 

ヨハネも同様の内容を語っている。

 

天も地もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。(黙示20:11)

 

その時が来るのだ。神のタイムテーブルの中で。この天地が過ぎ去った後に、新天新地が来る。新天新地では天と地が完全に重なるので、もはや下にある地、上にある天という構造が無くなる。神、御使、人間は同じスペースに住むことになる。

 

そして、「永遠の世界に入るのでリニアルな時間軸も無くなる。」と言いたいところだが、「毎月、実ができた。」(黙示22:2)という表現があり、正直、理解に苦しむ。新天新地に行ってみたら分かるだろう。

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3つの歴史観


●  世界は進歩し、やがて地上天国が実現するという楽観論


●  世界は悪化する一方で、やがて人類は滅亡するという悲観論


●  聖書が語るのは「悲観論的楽観論」世界は人の罪とサタンの存在ゆえに、悪化し、最悪の患難期を迎えるが、その後にキリストの地上再臨があり、悪は滅ぼされ、キリストご自身が統治する楽園(千年王国)がやってくる。

 

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執筆者:栗原一芳

 

2023年9月21日木曜日

本当に伝えたかったこと

 

キリスト教のイメージ

日本人がキリスト教と聞いて、思い浮かべるイメージは・・・? 十字架のアクセサリーやロザリオ、三角屋根の教会堂、白い襟カラーと黒いガウンの聖職者、教科書に載っているフランシスコ・ザビエルの肖像画。厳粛な礼拝、禁欲主義・・・

 

残念ながら「キリスト道」の本質ではありませんね。これらは、キリスト教文化や習慣や儀式といった周辺的なものです。新約の記者が伝えたかったこととは違うのです。

 

本当に伝えたかったこと〜復活

 

彼らが本気で伝えたかったのは・・・

 

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあると おりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。                       (Iコリント15:3−6)

 

パウロが「最も大切なこと」として伝えたのは、福音の3要素です。

 

●  キリストが私たちの罪のために死なれたこと

●  葬られたこと

●  三日目によみがえられたこと

 

特に、パウロはこの後、15章全部を使って長々と「私達の復活」について書いているのです。しかし、「キリスト教」と「復活」をすぐに結びつける日本人は少ないでしょう。使徒の働きを見ても、初代クリスチャンたちが力強く語ったのは「復活」でした。その「驚くべき希望」こそ、伝えたかったことなのです。「死んで魂が天国に行く」で止まっているクリスチャンが多いのではないでしょうか。勿体無い話です。聖書が伝えているのは、それよりはるかに優れた希望です。

 

本当に伝えたかったこと〜いのち

復活と関連している言葉ですが、ヨハネは好んで「いのち」という表現を使っています。事実、ヨハネの福音書を書いて目的が「いのち」を伝えることだったのです。

 

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)

 

「いい教え」や「宗教的儀式」を伝えたかったのではなく、「いのち」を得て欲しかったのです。キリスト教と聞いて、「いのち」を連想する日本人がどれほどいるでしょうか?

 

ヨハネは手紙の方でも、このように語っています。

 

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。                  (Iヨハネ1:2−3)

 

ヨハネは「いのち」を見て、触れたので、人々に伝えているのです。「いのち」とはキリストそのものです。キリストの教えでさえない、キリストそのものです。

 

キリストご自身もこのように語りました。

 

わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

                       (ヨハネ10:10)

 

そして、伝える目的は、「交わり」に招き入れるためなのです。三位一体の神が、ご自身の「交わり」の中に私達をも招き入れてくださっているのです。ですから、キリスト道では、「交わりの中」に救われるのです。孤独なクリスチャンはあり得ません。

 

しかし、キリスト教と「交わり」を連想する人はどれほどいるのでしょうか?

 

静かな礼拝堂で、一人祈っている姿の方が一般的なイメージですね。しかし、先ほどのIヨハネ1:2−3が「キリスト道」の肝なのです。キーワードは「いのち」と「交わり」です。これがエクレシアの本質です。この「いのち」と「交わり」を欠いて、儀式だけしているとしたら本質からずれていることになります。それを見たらヨハネは嘆くでしょうね。

 

イメージを変えられませんかね?

このように、本質ではなく、周辺の文化的なものだけが伝わってしまったのは誠に残念です。ある意味、三角屋根の教会堂やガウンを着た聖職者はどうでもいいのです。本質はそこには無いのです。初代教会は家々で集まり、聖職者もいませんでした。それでも立派な「エクレシア」だったのです。「いのち」と「交わり」があったからです。

 

もっと、こういう事が伝わるといいですね。(それが聖書的事実ですから)

 

●  聖霊による生まれ変わり=新生

●  アダム族からキリスト族への種族替え

●  私達が朽ちない体に蘇る事

●  クリスチャンとはキリストが内に生きている人

●  キリストは王として再臨し、世界を統治する事

 

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執筆者:栗原一芳

 

2023年9月14日木曜日

聖書に書いてありますよね?


私達、「福音派」は聖書を(原典において)霊感された「神のことば」として信じ、信仰と生活の唯一の規範と考えています。

 

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義 の訓練のため有益です。(IIテモテ3:16)

 

「聖書に書いてある!」が決定打になるのです。ただ同時に、聖書の正しい読み方は、文脈や背景を考慮して読む読み方です。誰がいつ、どのような状況で、誰に宛てて書いたのかが重要なのです。そうしないと「聖書に書いてある」を振りかがしてトンデモないことになります。

 

それは旧約ですか、新約ですか?

旧約と新約ではパラダイムが変わっています。旧約は「古い契約」、新約は「新しい契約」です。通常、新しい契約が交わされると古い契約は破棄されます。(ヘブル8:13)聖書の場合、破棄というよりイエス・キリストにおいて成就したので、イエス・キリストで十分ということです。旧約時代はキリストが現れるまで「養育係」として律法が機能していました。キリストが現れ、御霊が降ったので、新約時代は御霊に導かれて生活します。従って、旧約の律法をそのまま現代に適用することはしません。これを間違えるとエホバの証人のように、旧約の律法を持ち出して「輸血」は罪と言ったりすることになります。

 

現在は「安息日の主」であるキリストを崇めることで、安息日の規定に従わなくてもよくなっています。罪なき子羊が完全な贖いをなしてくださったので、動物犠牲も捧げません。

 

当時のイスラエルには「聖と俗」の区別を教えるために「きよさ」に関して詳細は規定がありましたが、新約時代は御霊が内住することにより、その規定からも解放されています。従って、「汚れている」とされている豚や鱗のないものも食することが可能になっています。

 

 

十字架前ですか、十字架後ですか?

トリッキーなのは福音書に書かれているイエスの地上生涯の時期です。これは十字架前なので、旧約の律法がまだ生きている時代です。イエスご自身、安息日を守り、ユダヤの例祭に参加し、律法を守っておられました。有名な「山上の垂訓」は、ユダヤ人を対象に、旧約の律法を神の視点からの解釈しているものです。また、十分の1論争が出てきますが・・

 

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ 。(マタイ23:23)  

 

ほら、イエス様も「10分の1をおろそかにしてはいけない」と言っているではないか?・・と言われるかも知れませんが、これはまだ十字架前で旧約のパラダイム、すなわち、旧約の律法の生きている期間だったのです。

 

献金に関して新約の規定は以下のみです。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。

                        (IIコリント9:7)

 

新約の手紙に書いてあるけれど・・

さらに厄介なのは、新約に書かれている十字架後の規定です。初代教会でのプラクティスをどこまで現代の教会に当てはめるかです。例えば・・・

 

しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。 (Iコリント11:5−6)

 

パウロがかなりストレートに語っています。「聖書に書いてある!」のです。しかも、新約に。パウロは、教会宛てに書いているのです。そして、初代教会はこのように行っていたのです。ならば、そうすべきじゃないですか?とは当然の質問ですね。

 

しかし、実際、礼拝に女性がベールを被って参加する教会はごく稀でしょう。それでは私達は聖書に従っていないのでしょうか?多くの教会では「いやこれは当時の文化だから」で説明しているようですね。当時は、被り物をしない女性は、娼婦だったようです。女性に対して厳しい規定をしているパウロですが、一方、奴隷制に関しては寛容だったようです。当時のローマ社会では、奴隷(当時の奴隷は、家庭教師であったり、召使い、お手伝いさんのようなものだった。)がいるのは当たり前の環境だったので、その文化環境を受け入れながら、信仰を保つように勧めています。(I コリント7:20−21)

 

70年代、教会の礼拝でギターを弾くことはタブーだった時期がありますが、時と共に寛容になっていきました。欧米の宣教師が福音と共に欧米文化を一緒に持ってきたので、混乱したこともあります。北欧に適した三角屋根の教会堂をマネする必要はありません。聖書には教会堂に関しての規定は書いてありません。文化と福音そのものを区別していく作業が必要です。

 

また、これも議論を醸す箇所です。

私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。 (IIコリント2:12)

 

先のI コリント11:5では、「女はだれでも祈りや預言をするとき・・・」とあるので、女が教会で、祈りや預言はしていたことが明らかです。しかし、「女が教える」を「教会の講壇からの説教」と捉えて、女性がメッセージすることを禁じる教派もあります。女性の牧師を認めない神学校もあります。教派によっては、かなり自由で、夫人が牧師、夫は平信徒というケースもあります。ある教団では女性が教団理事長をしています。

 

このように「聖書に書いてある」のですが、実際のプラクティスにおいて違いが出てきます。単に「当時の文化」では済まないケースもあり、聖書全体から考察が必要になりますね。

 

字義的?比喩的?

これも、福音派の中でも議論が分かれます。特に黙示録となると・・・

 

黙示録に出てくる二人の証人。(11:3−5)ゼカリヤ4:14から文字通り、油注がれた「2人の証人」と解釈する人もあれば、これは比喩であり、黙示11:4から燭台=神の民(教会)なのだと言う人もいます*。特に、5節に「もし誰かが彼らに害を加えようとするなら、口から火が出て、敵を焼き尽くす。」とあり、「幾ら何でもそれはあり得ないので、やはり教会のことだろう」と言う人もあり、いや、エリヤは天から火を下したのだから、これもあり得るだろうと考える人もいます。黙示録9章のサソリの尾を持つ「イナゴ」や獅子の顔をした2億の軍馬なども、「こんなトンデモ話、まともには受け取れない、裁きの象徴だろう」と言う人もあり、「これらは底知れぬ穴から出てきた悪霊ども」と字義的解釈する人もいます。千年王国も文字通り、千年なのか、3年半の激しい迫害との対照的な数字なのか?などの議論があります。また「火と硫黄の池」の火は文字通りの火なのか、比喩なのか・・・などなど、きりがありません。

ただ、「比喩的解釈」には人間的な恣意が入り込む危険性もあります。

 

確かに聖書には、「そう書いてある」のですが、解釈が違ってくるのです。最近のLGBT神学論議でも、保守派の多くは「そう書いてる」と字義通りに読むのですが、LGBT擁護派は、当時の文化背景などを考慮して、「実は、こういう事です。」と再解釈しています。同じ土俵に立っていないので、意見が噛み合わないのです。最近は同性愛者の聖職者を認める教団もあります。

 

トンデモ話が現実に・・・

正直、聖書にはたくさんのトンデモ話があります。しかし、現代の常識だけで全てを判断するのも間違っています。ユークリッド幾何学の時代には「平行線は交わらない」が常識でしたが、相対性理論の時代になると「時空は歪む」が常識になりました。「超ひも理論」を提唱する先端の宇宙物理学者は異次元の存在を真顔で語っています。100年前の人には、インターネットやAIはドンデモ話だったでしょう。黙示録11章の二人の証人が反キリストに殺され、エルサレムの大通りにさらされている姿を全世界の人が見る(11:9)とありますが、100年前まで、「そんなことはあり得ない、やはり聖書はデタラメだ」と言えたとしても、SNSの発達した今、これを疑う人はいません。「世界統一政府」や「世界統一宗教」も、昨今の動きを見ると現実味を帯びてきています。

 

また、聖書の世界観は、全能の神が世界を創造したのであり(・・と言う事は世界を消滅させることも可能)、また、天的な存在(神、御使、悪霊など)を前提にしています。受胎告知では御使がマリアに現れ会話をしています。サタンは、かつて御使だったことを考えると、サタンや悪霊が地上に姿を現すことも、人と会話することも不可能ではありません。聖書はそういう世界観なのです。それを理解した上で聖書解釈をしてゆく必要があるのだと思います。だから、黙示録の記述が文字通り起こることは可能なのだと思われます。(例えば黙示録20:11)

 

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*  P。98 「子羊の王国」 岡山英雄 著 いのちのことば社

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執筆者:栗原一芳

 

 

2023年9月7日木曜日

キリスト道

 

日本人は「道」が好き

「茶道」「華道」「剣道」「柔道」これらは、「道」なのですね。単に技術を学ぶのではなく、「生き方」「あり方」を習得していくからでしょう。その「道」を「極める」とかも言います。例えば「料理の道を極める」など。そこには技術を超えた「精神的」なものも含まれるのでしょう。

 

「キリスト教」は「キリスト道」

東北の被災地でボランティアに来ていたクリスチャンを現地の人は「キリストさん」と呼びました。言い当て妙ですね。それは「キリスト教徒」より本質を得た呼び名です。「キリスト教」という「宗教」をやっている人ではなく、キリストが内に生きている人なのです。キリストと同質化している人なのです。だから「キリストさん」なのです。また、「クリスチャン」というハイカラな名前より、日本的でいい響きですよね。

 

キリストの弟子たちはアンテオケで初めて「クリスチャン」と呼ばれました。(使徒11:26)そう「呼ばれるよう」になったのであり、そう自称した訳ではなく、そう呼ばなければならない訳でもありません。1世紀には「キリスト教」という言葉もなく、しばらくは「この道」と呼ばれていたようです。そして、これに従う者を「この道のもの」(使徒9:2)と呼んでいました。やっぱり「道」ですね。

 

その後、Christianityが訳されて「キリスト教」となったわけですが、本来「教え」という要素は入っていません。ブッダの「教え」で「仏教」、モハメッドの教えで「イスラム教」ならいいですが、Christianityはキリストの教えの集大成ではないのです。キリストご自身は書物を残していませんし、弟子たちの書物も「キリストの教え大全」ではなく、キリストご自身(キリストがメシアであること)を伝えているのです。

 

キリストご自身も「私が道であり、」(ヨハネ14:6)と言われました。そのキリストが自分の内にあって生きる生き方(ガラテヤ2:20)が本質なのです。すなわち「キリスト道」です。ちなみに「神道」は「道」ですね。本来、キリスト教は「神道」です。世界の創造神の「道」を歩む者たちです。初代クリスチャンは「キリスト道」だったのです。人が作った「宗教」をやっていたという意識ではなかったのです。それはキリストの命が入った「生き方」そのものであり「ライフスタイル」であったのです。

 

「キリスト教」に違和感を覚える人たち

最近、「キリスト教」という「宗教」に違和感を感じるクリスチャンたちが増えてきました。日曜の朝の礼拝儀式に集うことでアイデンディディを保つのではなく、生けるキリストと共に、いや、キリストがうちに生きてくださる日常生活をする人々なのだという意識の覚醒です。そろそろやめませんか?「キリスト教」。キリストご自身は魅力ある方なのです。「キリスト道」は魅力ある生き方です。退屈な宗教儀式ではないはずです。聖書の記者たちが伝えたのは、規律に従う退屈な宗教ではなく、「いのち」そのものだったのです。特にヨハネは「命」を大事なテーマとして福音書や手紙を書いています。

 

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。 (ヨハネ20:31)

 

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。(Iヨハネ5:11−13)

 

そして、エクレシアは、神に召され、「いのち」を頂いたもの達の集まりであり、「キリストの体」であり、「キリストの充満」です。「教える」会ではありません。

 

「茶道」、「華道」、「柔道」そして、「キリスト道」

 

そろそろ「キリスト教」を「キリスト道」、「教会」を「エクレシア=神に召された者の集い」にしませんか?

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

2023年8月31日木曜日

ニムロデと宗教の起源

 

霊的堕落のハム族

箱舟から出て来た、ノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。(創世記9:18)

 

と、わざわざハムについては、詳しく言及している。これには意味がある。ハムは父ノアの裸を見て、呪われ、その子孫が呪われた。「呪われよ、カナン」(創世記9:23)カナンからカナン人の諸氏族が生まれ出た。彼らの領土にはソドムやゴモラがあった。(創世記10:18−19)このカナン諸氏族は、のちにヨシュアが「約束の地」に侵入した時に、「聖絶」されている。呪いが実現された。ハム系はサタンに利用される霊的腐敗者となっていく。

 

最初の「反キリスト」 ニムロデ

ハムの子孫はクシュで(創世記10:6)、クシュの子がニムロデだ。(創世記10:8)そして、ニムロデは地上で最初の権力者になった。大洪水前には全ての動物は草食だったが、洪水後には肉食が許されるようになった。(創世記9:3)つまり狩猟が始まったのだ。ニムロデは力ある猟師(創世記10:9)となった。優れて猟師だったから民に食物を提供することができ、かつ、猛獣から民を守ることができたので、「権力者」となったのだ。彼の王国にバベルがあり、(創世記10:10)ニムロデの王国はシヌアルの地、すなわちバビロン地方にあった。(創世記10:10)

 

バビロンの語源はバベル。以降「バビロン」は、黙示録では「大バビロン」として、霊的腐敗の象徴として語られるようになる。ここが「反キリスト・スピリット」、偶像(諸宗教)のルーツなのだ。

 

ニムロデの指導の下にバベルの塔が建設された。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう」(創世記11:4)神への挑戦であり、何なら神にとって代わることの宣言でもあった。これこそサタンの野望だったのだ。(イザヤ14:12−15)従って、ニムロデは患難期の獣=反キリストの最初のモデルとも言える。自分を崇める者達に食物と安全、すなわち「繁栄」を約束する。サタンが荒野でイエスに提案したように。(マタイ4:8−9)神なしの「繁栄」を、終末の「反キリスト」も約束する。まさにニムロデは、この世」の神(IIコリント4:4)となったのだ。

 

人々はニムロデを「食物の提供者」「命の守り神」として崇めるようになったのだ。

 

バビロン宗教の拡散

サタンはいつも真理のカウンターフェイト(偽造)を作る。マネする。神が三位一体であるように、バビロン宗教(宗教の起源)も3つの神からなる。ニムロデ(太陽神)、妻のセミラミス(月神)、そして息子のタンムズ(星の神)だ。

このタンムズはエゼキエル8:14に登場している。世界に見られる「太陽礼拝」、「月礼拝」、「星礼拝」は、ここから始まっているのだ。サタンが真の神から目を逸らすために、神に反抗的なニムロデ ファミリーを利用して、ニセ宗教を始め、それを世界に拡散してしまったのだ。

 

バベルの塔の裁きで言葉が混乱して以来、人々は分散して世界に広がってゆく。その時にバビロン宗教をも一緒に持ち出したのだ。太陽礼拝、月礼拝、星礼拝は全世界に、そして代々続いてゆくことになる。セミラミスは、バビロンでは「天の女王」と呼ばれたが、カナンとその周辺では「アシェラ」、ギリシア圏では、「アルテミス」、「ヘラ」エジプトでは「イシス」、そしてローマでは「ダイアナ」とか「マドンナ」とか呼ばれた。ちなみにオリンピックの聖火はギリシア・オリンピアのヘラ神殿で採火される。

 

占星術の起源は、星の神タンムズに由来する。ダニエル2:2での呼称「カルデヤの呪法師、呪術者」を見ても分かる通り、カルデヤ(バビロン)は占星術の代名詞となったのだ。21世紀の日本でも「星占い」が雑誌や新聞に載っているのを見るとその影響力の大きさに驚く。

 

ちなみに、世界保健機構(WHO)のマークは蛇が絡みついた杖だが、その杖を持つ、アスクレピオスとは、ギリシャ神話に登場する「天の星・蛇遣い座の守護神」で医学の神といわれている。その杖が医学の象徴となり、現在は世界保健機構(WHO)でも採用され、ヘビと杖は国際的に共通のものになったという。つまり、起源は「星の神」、タンムズだ。率直に、このマークが気持ち悪いと感じている人もいる。サタンは自分を拝ませたいために、多くの宗教の偶像に「蛇」や「竜」を登場させている。

 

アッラーは月の神?!

多くのイスラム国の国旗に星や月が多いのに気づく。驚くべきことにアッラーは唯一神ではなく、もともと「月の神」だったという証言もある。

 

「モハメッドは、その当時広く広まっていたユダヤ教徒とキリスト教から唯一神の概念を学んで、月の神、アッラーに適用した。自分が住んでいた地域の最高神であった月の神アッラーを唯一の神とし、カバー神殿のその他360個の偶像は全て破壊した。この過程を見ると、イスラム教のアッラーの神はモハメッドが生まれるずっと前からアラビア地域で広く崇拝されて来た最高の偶像の中の1つすぎないことがもう一度証明される。アッラーの神は、表面から見ると男の神であるが、その本質は月の神、セミラミスなのである。」(p152)*

 

つまり、アッラーはイスラム教が創設されるずっと以前から中東地域で崇拝されていた「月の神」の呼称だったというのだ。そして「月の神」の起源はセミラミス、ニムロデの妻が神格化されたものだった。

 

このような真の神からの堕落としての諸宗教という考えは、現代、まかり通っている宗教多元主義(すべての宗教を横並びに置く)とは対極にある。

 

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参考本

「宗教の起源」 トーマス・ファン  AMI日本宣教会

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

2023年8月24日木曜日

すでに提唱されていたオーガニック・チャーチ

 

すでに提唱されていたオーガニック・チャーチ

最近、友人が「世界一わかりやすい内村鑑三の無教会主義」(真のエクレシア形成を目指して)という本を紹介してくれました。シンプルにポイントだけをまとめてくれているので、読みやすいし、分かりやすいので是非、オススメです。以下、本の引用を中心にお分かちします。現代、アメリカでのオーガニック・チャーチ推進者のフランク・バイオラはInstitutional church(制度的・組織的教会)に対する概念としてオーガニック・チャーチを挙げています。そう言う意味では「無教会主義」は「オーガニック・チャーチ」なのです。

 

「無教会」という言葉が誤解を招きますが、ご存知のように、内村鑑三が「無教会」という時、教会(エクレシア)を否定しているのではなく、組織的・制度的教会を否定しているのです。

 

「内村は1893年発行の『基督信徒の慰』で「無教会」という言葉を生み出し、1901年には同名の雑誌『無教会』で「無教会主義」として、その概念を最初に提唱しました。(P.14)

 

オーガニック・チャーチの概念は新しいものではなく、日本でも、すでに1901年から内村が提唱していたことになります。

 

内村が「無教会主義」を提唱するに至った経緯として・・・

 

1.    日本の天皇崇拝への反対姿勢

2.    教会でのネガティブな経験

3.    制度主義と外国人宣教師への反対姿勢

 

が、きっかけとなったといいます。1に関しては天皇崇拝に反対する姿勢が、ナショナリズムから独立した信仰へと向かわせました。2に関しては「聖職者の間での嫉妬や敵意・・・教会員の間での不品行、不誠実、不公正、そして不信」(P17)を体験した事で、組織的教会にうんざりしたという事でしょう。どうしても多く集めると、組織・運営が必要となり、それが「組織悪」を生むことになります。

 

3に関しては、「宣教する側」としての先進国・欧米の宣教師と「宣教される側」の後進国の日本という構造です。どうしても力関係、上下関係ができてしまいます。無意識的にも意識的にも福音プラス欧米文化を押し付けてくる傾向があったのでしょう。

 

「内村は西洋帝国主義を不快に感じ、西方キリスト教会における教派の分裂や大衆伝道と改宗の強調は、日本の文化に当てはまらないと考えていました。」(P.19)

 

そして、内村が打ち出した方向はいわば「キリスト道」だったのです。

 

「無教会は日本人のクリスチャンとしての自分に向けて歩くように言われた『道』であると、内村は強く信じていました。(p.17-18)

 

人の組織より、生きる「道」としてのキリスト信仰を選び、内村は、制度的教会から離れていったのです。

 

無教会主義の5つの神学的特徴

 

1.    信仰のみによる救い

2.    制度主義・教派主義・礼典・サクラメントの撤廃

3.    本来のエクレシアと現在の教会の区別

4.    宇宙の教会として無教会信者の教会

5.    2つのJ (Jesus & Japan)

 

「宇宙の教会」については説明が必要ですね。内村はキリストの究極的かつ単一の体としての普遍的教会を求めていました。(P.25)

 

内村自身、このように書いています。

 

「『無教会』は教会の無いものの教会であります。即ち、家の無いものの合宿所ともいうべきものであります。即ち、心霊上の養育院か孤児院のようなものであります。無教会の『無』の字は、『ナイ』と読むべきものでありまして、『無にする』とか『無視する』とかいう意味ではありません。」(P.25)

 

無教会主義は教派ではなく、「根本的キリスト教」への回帰であり、教会の真の姿を実現しようとするものであったのです。組織や政府のような教会ではなく、家族のような兄弟姉妹の集まり(エクレシア)を目指したのです。

 

組織的教団教派に違和感を感じ、それらに属さない、いや、属せない信者たちは、「教会」を持たない信者となるわけです。そして、「教会」を持たない者(さまよう信者)にとっての居場所が「宇宙の教会」だと言うのです。神の造られた大宇宙がいわば、教会堂なのであり、説教者は神御自身だと言うわけです。(P.33)

 

ちなみに、初代クリスチャンたちの「キリスト道」はコンスタンティン皇帝がAD313にキリスト教を公認して以来、「キリスト教」という宗教に変質してしまったのです。純粋な信仰を持つものが制度的・組織的教会に違和感を感じるのは、ある意味、当然とも言えるのではないでしょうか。

 

エクレシア体験

この本の著者、中村氏はフラー神学大学院で学んでいる時、「コイノニア」と呼ばれるバイブルスタディグループに参加していたと言います。そこで夕食を共にし、参加者の相互交流を行い、信仰の課題を共有し、共に聖書から学び、祈り課題を分かち合い、お互いのために祈っていたのです。彼曰く、「このコイノニアこそ、妻や私がもっとも真のエクレシアの形成を体験した場所の1つでした。」(P.62)

 

ちなみに、この交わりは無教会主義とは直接関係がなかったそうですが、本質は同じものだったのです。今、私たちがやっている「TMCエクレシア」も同じですね。メンバーは、コロナ渦を通過しても人数は減りませんでした。それだけの「魅力」があるからでしょう。真に、この「エクレシア体験」をしたものは、その魅力に取り憑かれてしまいます。

 

宣教の視点から見るオーガニック・チャーチ

以前のブログ記事で紹介したデータですが、キリスト教系学校の学生・卒業生や聖書の読者、キリスト教社会福祉事業所の関係者、クリスチャン作家の読者など、「現実的に教会に繋がっていたりしなくとも、キリスト教に対して好意的な人」が「30%以上」いるそうです。これは励まされる数字です。

 

また、教会に所属はしないが、キリスト教に愛着や親近感を持ち、個人的には信仰を持ちつつも組織的な所属をしない人々=「所属なき信仰者」が、かなりの数いるという事です。これはチャンスです。これらの人々は、信者ですが、組織としての教会には興味がないし、教団や教派にも興味がないのです。

 

宗教的要素をなるべく排除した「キリスト中心のコミュニティ作り」つまりは、オーガニック・チャーチが求められているのではないでしょうか。もともと、教会は会堂や組織ではなく、「キリストの体」であり、「キリストの充満」です。(エペソ1:23)

 

90年代でしたか?牧師、ビジネスマンが協力して日本人のキリスト教に対する意識調査をやったことがあります。それは、「エリヤ会」と名付けられ、その報告が発表されました。「どうして教会に来ないのですか?」の質問に「縛られたくない」がもっとも多い答えだったと記憶しています。多くの人(特に男性は)教会に行くと献金や日曜礼拝厳守と、色々規定があり、守るのが面倒だと思っているのでしょう。そんな事だけでキリストを遠ざけてしまっているとしたら大変、残念です。

 

「無教会主義はミッシオ・デイ(神の宣教)の具現化であり、それを推し進める奉仕活動を委ねられている。」(P.63)

 

今後の日本宣教の視点からも、オーガニック・チャーチ推進を再考してみる必要があるのでは無いでしょうか?具体的には以前のブログで書いた、インターネットによる講解メッセージと地上のスモールグループによる分かち合いという形態でしょうか?具体的には課題は多いですが、方向性は間違っていないと思います。

 

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オススメ本

「世界一わかりやすい内村鑑三の無教会主義」 中村友彦 著

                      *アマゾンで購入できます

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

 

 

 

2023年8月17日木曜日

地獄をどう考える?

 

地獄は苦しみの場所

聖書には地獄についての言及が53回もあります。「地獄」という存在を否定することはできないのです。イエスご自身も律法違反者は「燃えるゲヘナ」に投げ込まれるという表現をしています。(マタイ5:22、29−30)イエスご自身、地獄について多く言及しています。イエスが地上で活躍した時代のエルサレムには、実際にゲヘナ(ゴミ焼却場)がエルサレムの南(城壁の崖の下のヒノムの谷)にあったのです。常に火が消えず、蛆虫が湧いていたようです。首吊り自殺したユダも、最終的にここに落とされ、はらわたが出てしまいました。

 

イエスご自身がした「金持ちとラザロ」の話では、無慈悲な金持ちはシェオール(黄泉)で、苦しみを受け、暑さと渇きを体験しています。シェオールは一時的な拘留場とはいえ、苦しみもあるのです。最終的な地獄は「火の池」です。やはり「熱い」イメージがつきまとっています。悪魔、偽預言者、反キリストは、そこで「永遠」に苦しむことが明記されています。(黙示20:10)死んで魂が消滅してしまうという思想は聖書にはありません。

 

地獄が「苦しみの場所」であることは確かですが、「永遠に」苦しむということを、受け入れがたい人は多いのではないでしょうか。「火の池」とは何なのでしょうか?地獄をどう解釈するか、議論を呼ぶところです。ティム・ケラーは神を拒絶した人は、この人生で、すでに地獄の苦しみを体験し始めていると考えています。(つまり、場所というより状態のこと?)

 

地獄は神のいない場所?

罪の報酬は「死」です。(ローマ6:23)「死」とは神=命からの断絶です。イエスが十字架上で体験した苦しみ、「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」は、まさに死=神との断絶=地獄だったのです。罪の支払う報酬は「死」(ローマ6:23)です。イエスが私たちの身代わりに、その「死」を体験し、味わってくださったのです。神に見捨てられた場所。神のいない場所。それは想像もできないほど、恐ろしいところです。ヤクザが支配する町を想像してください。光が存在せず、暗黒の世界。治安は乱れ、道端で女性はレイプされ、子供らは麻薬に染まり、保安官も警察も機能しない町。悪い権力者が思うままに支配する町。何の希望もありません。救い主がいない町。救いは永遠に来ないのです。

 

ちなみに火の池に罪人が投げ込まれますが、(黙示21:8)そこには、「悪魔」も「獣=反キリスト」も「にせ預言者」も投げ込まれるのです。(黙示19:20、20:10)つまり、神はいないが、悪魔が永遠に同居する場所なのです。

 

その反対が新天新地で、まさに天と地の融合の場所。神の栄光が世界を照らします。神とともに、神の御顔を仰ぎ見ながら生活する場所なのです。これは対照的です。

 

イエスを信じ、イエスに従うものはイエスのいるところに行きます。(ヨハネ14:3)イエスの命に預からない者は、肉体の死後、魂の死(第二の死)を味わいます。神を拒み続けた人は、神のいない世界=悪魔の棲む「地獄」へ行くのです。神がいないとは、命がない、愛がない、秩序がない、正義がない、希望がない世界です。

 

黙示録の「火の池」とは?

黙示録に出てくる「火の池」が、最終的な「地獄」の姿です。永遠に火で苦しめられるのはあまりに酷なので、死んだら「無」になる、罪人の魂は、消滅すると考えるセブンスデーアドベンティストなどの教えがあります。しかし、刑罰は永遠であること、「苦しむ」主体が存続することが明記されています。(黙示20:10)

 

黙示20:14では、「火の池」とは「第二の死」とあります。もう一度、言いますが「死」とは分離のことです。「第一の死」は肉体と魂の分離、「第二の死」は神からの永遠の分離。(マタイ10:28)* そう考えれば、「火の池」の「火」とは、文字通りの「火」ではなく、「渇き」、「苦しみ」を与える象徴であり、「火の池」=「第二の死」=「神と完全に分離された暗闇の世界に永遠に住むこと」と解釈できないでしょうか?

 

実際、火の池に「死」、と「ハデス」が投げ込まれており、人格の無い「死」が罰を受ける(死が苦しむ)というのは変なので、そこには「死」(そしてハデス)が永遠に「ある」という解釈の方が自然です。火の池に投げ込まれた「死」が燃えて滅びてしまうという事なら、火の池に投げ込まれた人の魂も消滅してしまうという論理になります。それに、そもそも「死」は燃えないです。むしろ、人が「死」(神からの分離状態)の中に、永遠に置かれる(「死」が永遠に存在する状態)という方が納得いきます。

 

「死」の反対は「命」です。新天新地は、神の御臨在があるところ、「命の木」がなるところ(黙示22:2)です。黙示録22:15では罪人は「外にとどめられる」と表現されています。ここでは火の池は出てこないのです。「都に入る者=命の木の実を食べる者」との対比で「外にとどめられる=死=神の臨在と命からの分離」となりますね。

 

よく考えてみると「硫黄の燃えている火の池」(黙示19:20)に、人間も永遠に存在することは不可能です。罪人は「朽ちない体」を持っていません。この地上の肉体を持った人間が永遠に火で焼かれることは不可能です。肉体は溶けるか、灰になってしまうからです。また、魂だけが残ったのであれば、火の熱さを感じる五感がありませんので無感覚です。

 

それなら地獄とは何でしょう。地獄とは「神からの永遠の断絶=神のいない世界に永遠に生き続ける」という事でしょう。神を拒絶し続ける人は、その望み通り、神のいない世界へ行くのです。「偶像を拝むもの、魔術を行うもの」(黙示21:8,22:15)すなわち、悪魔を崇めるものは、悪魔と永遠に同居することになるのです。彼らの選択です。そこで永遠に神に出会うことなく過ごすのでしょう。

 

神のお心

このテーマが語られると必ず、「どうして愛の神が人を地獄に送るのか?」という質問が出ます。神は人を地獄になんか送りたくないのです。もともと地獄はサタンとその悪霊たちのための裁きの場所として造られたのです。(マタイ25:41)人のためではありません。そこに入る必要は無いのです。神の救いを拒み、サタンに追従する人は、自分の選択としてサタンの落ちるところに一緒に落とされるのです。しかし、神は一人でも救いたいのです。最後に神の切実なお心をお分かちします。

 

彼らにこう言え。『わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』         (エゼキエル33:11)

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。      

                    (ヨハネ3:16)

 

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。    

                    (I テモテ2:4)

 

主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。  

                    (II ペテロ3:9)

 

 

Word study

 

マタイ10:28「たましいも、からだもともに、ゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

 

滅ぼす 英語ではdestroy  ギリシア語ではἀπολέσαι (apolesai) 

ギリシア語を調べてみると・・・
Verb - Aorist Infinitive Active
Strong's 622: From apo and the base of olethros; to destroy fully, literally or figuratively.

とあり、「文字通りの意味」と「比喩的な表現」と両方に使われるとあります。

文字通り、「滅ぼす」だと、魂が消滅してしまうことになり、聖書の思想とは反しますね。「彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示20:10)

とありますから。サタンは最後に「滅ぼされる」」のですが、その意味は「ゲヘナで永遠に苦しみを受ける」ということであり、「消滅」ではありません。あるいは、神とクリスチャンの居るところからの「完全な隔離」です。つまり、「滅ぼす」とは「隔離され、苦しみを受ける」という意味に取った方が、納得がいきます。

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執筆者:栗原一芳