2024年2月29日木曜日

反面教師 サウル王(2)

 

続けて、反面教師としてのサウル王から学んでみましょう。第一サムエルを開いてください。

 

謙遜から高慢へ

サウル王の生涯は後半に向けて失落して行きます。華々しいスタートを切るのですが(10:24)、終わりは惨めで悲惨です。サウルは初め謙遜だったのです。(Iサムエル9:21、10:22)しかし、少しずつ高慢になり自分の判断に頼るようになります。ペリシテ人との戦いの時、祭司がなすべき捧げ物を自分で捧げるという越権行為をしてしまいます。これは致命的であり、主の御心を損なうものでした。(13:12−14)いちいち主にお伺いをたてるダビデとは対照的です。(23:4−12、30:8)

 

さらに「アマレク人を聖絶せよ」(15:18)との主の命令に聞き従わず、自分の判断で肥えた羊や牛、アガグ王を生け捕りにして、値打ちのないものだけを聖絶しました。(15:9)この時、サムエルは「聞き従うことはいけにえにまさる。」と叱咤しています。

 

主は全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ、聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、牡羊の脂肪にまさる。(第一サムエル15:22)

 

またバテシェバ事件で、その罪を指摘されたダビデが真の悔い改めをしたのとは対照的に、サウルは言い訳をしたり、煮え切らない悔い改めをしています。

15:24節以下)そして、まだ民の前でメンツを保とうとしています。(15:30)往生際が悪いですね。この時点で主はサウルを王としたことを悔やまれています。(15:35)

 

現代的適応

「その人に高いポジションを与えてみよ。その人の本性が現れるから」というフレーズを聞いたことがあります。初めは謙遜でも、一旦、権力を持つと人は変わるのです。謙遜であることは比較的容易です。しかし、謙遜であり続けることは神の業です。「もし、誰かが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」テモテ3:1)とあり、リーダー職に就くこと自体が悪いわけではありません。それは立派な、またご苦労なお仕事です。しかし、パウロは2節以下で、監督に就く人の条件を語っています。特に高慢になって悪魔と同じ裁きを受けることのないようと警告しています。(3:6)パウロはこう言っています。

 

神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。コリント15:10)

 

すべては神の恵みです。この原点から離れないようにしましょう。キリストを離れては、私たちは何もできないのです。(ヨハネ15:5)

 

自分の部下を守るために強い境界線を引くリーダーがいます。それ自体、悪いことではないのですが、多くの場合、それが高じて自分より上の権威にぶつかり、上の権威に反抗的になります。良かれと思ってやっているかも知れませんが、知らずして高慢になっている可能性があります。

 

権威の乱用による意味のない命令

さて、その日、イスラエル人はひどく苦しんでいた。サウルは、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれよ」と言って、兵たちに誓わせていた。それで兵たちはだれも食物を口にしていなかったのであった。

サムエル14:24)

 

どうも、神が命じたのではないようです。勝手なサウル王の理不尽な命令により兵たちは苦しんでいたのです。その日、その命令を聞いていなかったサウル王の息子のヨナタンは、少人数で大勝利を上げます。(14:1−16)信仰による勝利です。(14:6)この日、主はイスラエルを救われたのです。(14:23)

命令を聞いていなかったヨナタンは蜂蜜を食べて元気を回復します。(14:27)その理由でサウル王はヨナタンを裁いて殺そうとします。(14:38−44)

しかし、民の声で王の間違いが指摘されて、ヨナタンは死なずに済みました。

(14:45)意味のない命令を出し、兵を苦しめ、国を悩ませ(14:29)、その上、意味のない裁きを実行しようとします。なんと民に間違いを指摘されてその決定を引っ込めます。一貫性がありませんね。元々、神から出た命令ではなかったのです。権威の乱用です。

 

リーダーの下す判断、命令は民に影響します。民を生かすのか、殺すのか、時に致命的な結果にもなります。II サムエル24:15を見ると、ダビデの間違った判断で、民の7万人が神に裁かれ死んだ記事があります。リーダーの判断の影響は大きく影響するのです。サウル王がダビデを妬んで、殺そうとしたため、国が分断してしまいます。敵に囲まれて状況下、一致して戦わなければならない時に、無駄な分断を生んだのはサウルの間違った態度によったのです。

 

現代的適応

Insecure(不安定で警戒心の強い)リーダーは、部下の業績に対して正しい評価をしません。自分より優れている人を認めたくないのです。残念なことに、教会や、キリスト教団体でも見られます。こうであってはなりません。クリスチャンリーダーは自分より優れている人を喜び、尊びます。なぜならチームとして自分にないものを持っているので、助かるからです。

 

権威の乱用による理不尽な命令も部下を苦しませます。権威を乱用することでアイデンディディを確認する必要はありません。クリスチャンはキリストに愛されている神の子であるというアイデンディディがあるのです。人の評価より神の評価です。自分を大きく見せる必要はありません。もうあなたは「王の息子」ですから、奴隷マインドではなく、「王様マインド」で過ごしましょう。大丈夫、もう愛されているのですから。その余裕を持って、他の人の成果を正しく評価しましょう。この世のリーダーはどれだけ顎で人を使えるかを喜びとする傾向がありますが、クリスチャンリーダーはキリストの体に仕え、体全体が成長することを喜びとすべきです。

 

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

                   (マタイ20:25−28)

 

(つづく)

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

2024年2月22日木曜日

反面教師 サウル王(1)

 

旧約聖書中、非常に興味深い人物がいます。それがイスラエルの初代王、サウルです。華々しいデビューをしたのに、後半はどんどん失落して行きます。暗い、孤独な王、サウル。彼を反面教師として、あるべきクリスチャンリーダー像を探っていきましょう。第一サムエルを開いてください。

 

人はうわべを見るが、主は心を見る

サウルは有力者の息子で、長身で、ハンサムだったのです。(サムエル9:2)

人も羨む条件が揃っていますね。この世的には、こういう条件は大事です。しかし、クリスチャンリーダーとしては、それだけでは不十分です。事実、サウルは王として失落してしまいます。預言者サムエルは、次の王を探しにエッサイの家に行きました。そこで容姿の立派なエリアブを見た時、「きっとこの者が主に油注がれるものだ。」と思ったのです。しかし、主の答えは「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル16:7)でした。リーダーの「心」が何よりも大切にされなければならないのです。

 

現代的適応

教会に大企業の社長さんがいるとしましょう。この世的には、こういう人に教会の役員になってほしいと思うでしょう。しかし、この社長さんが霊的に未熟だった場合に、正しい霊的な判断ができないこともあるのです。社会的に影響力ある人が役員会にいれば、当然、発言力が大きくなります。注意が必要ですね。ルックスのいい、プロのバイオリストが教会に通い始めました。まだ信仰について十分理解していません。この世的には、こういう人をワーシップチームに入れたいでしょう。しかし、ワーチップチームのメンバーは音楽の奉仕者である前に、礼拝者であるべきなのです。礼拝の手段としての音楽なのです。礼拝できない人は才能があっても、ワーシップチームに入るのはふさわしくないのです。

 

この世では判断する時に、この世の常識で判断するでしょう。教会では、この世の基準と違う価値観があります。判断する時に「祈って、主に聞く」という特殊な文化があるのです。サウルとは対照的にダビデ王は常に主に伺いを立てています。多数決では決められないこともあるのです。霊的なことは、御霊によって判断するのです。

 

以前、韓国の大教会を訪ねたとき、その会堂の大きさに度肝を抜かれました。しかし、「どうだ、うちの教会はすごいだろう」と世の中に誇る意味で建てられていたとしたら〜つまりルッキズム〜意味がありませんね。神は大きな会堂を建てろとは命じておられません。大宣教命令は「弟子をつくれ」(マタイ28:19)であり、「教会堂を建てよ」という命令ではありません。いずれにしても、忍び込んでくる、この世的価値に気をつける必要があります。

 

神の霊と新しい心

信仰の世界でリーダーとなるには、当然の如く、神の霊によらなければなりません。サウルはサムエルに油注がれ、正式に神の御前で王と任命されました。(10:1

その後、主の霊が下り、新しい人に変えられました。(10:6)新しい心も与えられました。(10:9)神が召される時、必要なものが与えられるのです。丸腰で遣わされるのではありません。ただ、忠実に主に従い続けるかどうかは、その人次第です。サウル王は王としてスタートを切るにふわさしい備えは頂いたのですが、だんだん、それが自分の力のように誤解し始めます。そして自分の判断や自分の力に頼るようになります。リーダーは神に頼らなければやっていけないのです。

 

現代的適応

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは、その人には愚かなことだからです。理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。」コリント2:14)

 

クリスチャンとは洗礼という儀式を受けた人のことではなく、教会員名簿に載っているという事でもありません。御霊により「新生」し、御霊を宿すようになった人のことです。リベラル教会には新生し、御霊を持たない信徒や、牧師がいるのです。(復活を文字通りに信じない牧師はたくさんいます。)それは恐ろしいことです。キリスト教会と看板は出ていても、キリストがいないのです。クリスチャンリーダーは新生して、御霊を持つ人でなければなりません。そうでないと、この聖句のように、御霊のことが理解できず、霊的判断ができません。

 

神が神の仕事に召された時には、神が御霊により必要な賜物(能力)を備えます。神が召された仕事にふさわしい賜物を、神が召された期間、備えてくださるのです。それは神の力なのであって、自分の力ではありません。しかし、長年、リーダーのポジションにいると自分の力のように思ってしまいます。「先生、先生」と長年呼ばれていると、その気になってしまいます。ここに誘惑があるのです。クリスチャンは、そして特にクリスチャンリーダーは御霊に満たされ、御霊に導かれている必要があるのです。一度、聖霊に満たされれば十分なのではなく、御霊により「歩み続ける」ことが必要なのです。リーダーは、常に神を恐れて治めなければならないのです。

 

神を恐れて治める者。その者は、太陽が昇る朝の光。雲一つない、朝の光のようだ。                     II サムエル23:3−4)

 

(つづく)

 

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

2024年2月15日木曜日

そのままでいいんだよ?

 

教会に人が来ない!

かつて、この日本でも戦後、若い人たちが教会に押し寄せて来ていたと聞きます。

魅力的な場所だったんでしょうね。今は日本だけでなく、ヨーロッパ、アメリカ、韓国でさえ、教会離れ。特に若者が来なくなりました。アメリカでは若者を惹きつけるために教会にコンピューターゲームを置いたところもあるとか・・・(そこじゃないですよね。)また、アメリカの教会は会堂が大きいので、会堂内にカフェがあったり、書店があったりするようです。日本ではそういう訳にもいきません。数だけ集めたいなら、手っ取り早いのは教会をカルト化することでしょう。牧師がカリスマ指導者となり、「恐れ」を使って教会員をマインドコントロールし、伝道や献金を煽ります。それなりに教会は成長するでしょうが、健全ではありません。やがて問題が起こるでしょうね。もちろん、主も喜ばれません。そこまであからさまでなくても、ボーダーラインの教会も結構あるかも知れません。教会に人が来ないので焦るのです。

 

分かりやすい話を

どうしたら人が教会に来るのでしょう? 信徒が説教者に言うでしょう。「もっと分かりやすい話をしてください。」この「分かり易い」が難しいのです。もちろん、聖書の概念や用語を分かりやすく説明することは必要です。しかし、「分かり易い」を強調するあまり、聖書のトンデモ話を省略してしまうと福音は伝わりません。「いいお話」で終わってしまいます。感動の涙を流したとしても人は救われません。メッセージの中心は「十字架」と「復活」なのです。パウロもこう語っています。

 

神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、コリント1:21−23)

 

本質は「霊的」なことなので、説明を尽くしても信じる人もいれば、信じない人もいるのです。イエス様が説教しても信じない人はいたのです。

 

そのままでいいんだよ?

救われたいと願った酒飲みが「断酒してから教会に来て、洗礼を受けなさい」と言われたらどうでしょうか?自分の力で自分を変えられるならイエス様はいらないのです。「そのまま」の姿で主の前に来ていいのです。主が変えてくださるのです。かつて遊女や収税人という「罪人」たちがイエスのもとに来て話を聞きました。イエスは嫌がらず近づかれました。学者パリサイ人とは違うところです。「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人」なのです。アルコール中毒者もL G B Tの人も、イエスを信じたい気持ちがあれば、「そのまま」でイエスの御元に来ていいのです。イエスに会うために教会堂に来てもいいのです。

 

ただ、イエスを信じた後に、そのライフスタイルを変えなくても「いいんだよ」という意味ではないのです。イエスに出会った人は「そのまま」ではないのです。「変えられる」のです。ザアカイは、イエスの話を聞いて御国に入るため「思い改め」をしたのです。そして、自ら不当に取った金を返す行動に出ました。価値観が変わり、行動が変わったのです。

 

ある人は「放蕩息子」の話を持ち出すでしょう。放蕩して帰ってきた息子を父は咎めなかったではないか。ハグして受け入れたではないか。しかし、あの息子はブタに餌をやっている時、「思い改め」たのです。方向転換したのです。だから帰宅したのです。もう「放蕩」息子ではありません。「父の息子」です。もちろん、父の愛を知った息子は、見違えるように変化して、父のために農場で一生懸命働いたでしょうね。

 

「そのままでいい」とは「メタノイア=思い改め」しなくていいという意味ではありません。

 

姦淫現場で捕まって石打ちにされそうになった女に、イエスは「これからは、決して罪を犯してはいけない」(ヨハネ8:11)と語られています。「そのままでいい」のではありません。ここをしっかり語らないと、教会は「そのままでいい=新生していない罪人」の集まりになってしまいます。

 

神の御心は、あなた方が聖なる者となることです。テサロニケ4:3)

 

聖書は、「罪赦され」、「救われ」たら、次に、「きよい」歩みに向かっていくことを教えています。それはチョイスではなく、召しなのです。(テサロニケ4:7)そのために神は御霊を与えました。御霊に満たされ(エペソ5:18)

御霊によって歩む(ガラテヤ5:16)ことは神の命令です。それは肉の欲望を満たすことと対比されています。

 

終末の「アダム系教会」

初代教会にはパウロの恵みの福音を誤解して、「そのままでいいんだよ」教会を形成している群もあったようです。事実、コリント教会には性的奔放が見られます。グノーシス主義の影響もあり、霊の救いがあれば、地上の肉体が犯す罪に責任はないとして、そのような行動をしていたようです。パウロはそれを放任するのではなく、対峙して、矯正しようとしています。(コリント5〜7章)つまり、「そのままじゃ、ダメだと」言っているのです。

 

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」 II テモテ3:16)

 

終末時にはいわゆるラオデキヤ教会=イエスを追い出す自称「教会」が広まります。キリストの教会ではなく「アダム系教会」です。「生まれ変わって」いない教会員や指導者が増えるでしょう。これは恐ろしいことです。彼らは御霊を持っていないので神の知恵がなく、聖書を正しく読むことができません。

 

神の「愛」と「恵み」だけを語り、神の命令を語りません。その方が人が集まるからです。人の気持ちを害する「罪」や「きよめ」を語りません。気持ちのいい教会、コミュニティに開かれた教会。社交クラブ的な教会。しかし、それが極端に進むと、「そのままでいいんだよ」が、「思い改め」をしなくていい、「新生」しなくていい教会になります。

 

仏教徒も、イスラム教徒もLGBTも「そのままでいいんだよ」と。ライフスタイルを変える必要はない。「信条」を変える必要はない。大事なのは「愛」、「一致」、排除しないこと。人が傷つくメッセージはしない。罪を指摘するメッセージはしない。大事なことは「愛」を実践すること。宣教地に行って井戸を掘ることは良い。しかし、イエスに改宗させることはしない。それは現地の人に失礼だ。彼らは、彼らの独自の文化と宗教を持っているのだから。キリストが「唯一の救い」なんて排他的なことを言わないで、世界の宗教は仲良くすべき・・・愛、愛、愛こそがすべて、それがイエスの教え、それが聖書のメッセージ・・・という具合に。

 

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、(I テモテ4:3)

 

そうやって「受け入れること」が、聖書の「真理」の上に来るのです。聖書が言うとおり、そういう時代が、もう始まっています。そして、この勢力が広がっています。このようなリベラル思想の教会は世界統一宗教への門を開くことになるでしょう。そして、やがて真の信者を迫害するまでになるのです。そう、「教会」が真の信者を迫害する時代になるのです。(戦争中、この日本で、実際に起こりました。)

 

真の愛は「何でもいいよ」と放任することではありません。天の父は愛するゆえに、ご自分の聖さにあずからせようと私たちを訓練されるお方です。(ヘブル12:10)

 

私たちは、このみ言葉に忠実でありたいものです。

 

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

II テモテ4:2)

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

2024年2月8日木曜日

自然災害は神のさばき?

 

今年は元旦から能登半島で大地震。「これは神のさばきなのか?」という疑問を呈する人が必ず出てきます。あるいは、「なぜ神はこのような悪を許されたか」、「愛なる神は何をしていたのか?」という疑問が出されます。東日本大震災の時も散々、議論されました。

 

聖書は「すべての人は罪を犯し、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)と言っています。一部の人ではなく「すべての人」が罪を犯しているのです。そして、イエス様が「すべての人の罪」を負い十字架で死んでくださった故に、呪いは取り去られ、今は「救いの時」となっています。従って、ある「特定の地域の人々」への罪の裁きとしての自然災害という解釈には無理があります。能登にいる人の方が東京の人より罪深いということは絶対に言えないのです。

 

考えてください!また、もし、これが神の裁きなら私達は、被災者を救ってはいけないことになります。裁きであるなら、苦しむのが御心なのですから。救援活動は神の裁きを邪魔することになってしまいます。しかし、当然、目の前の苦しんでいる人を助け、愛を示すのは、神の御心でしょう。この点からも「さばき説」には無理があります。

 

かつては、「さばき説」が通説だった!

しかし、18世紀までは「さばき説」が普通の解釈だったのです。1755年11月

1日、午前9時40分、M9の大地震が当時のポルトガル、リスボンで起りました。15メートルの津波が起こり、5日間町が燃えたのです。しかし、その日は、カトリックの最も大事な祭礼の日であったのです。人々は礼拝堂にきれいな格好して集っていました。プロテスタントはこれをカトリックへの裁きと考えたのです。確か、ジョン・ウエスレーもそう言っていたとか・・

 

聖学院大学教授で神学博士の藤原淳賀先生の話によると、教会は、ほとんど壊滅状態だったのに、赤線地区が無事に残ったというのです。変ですね。その頃から「さばき説」が下火になったようです。

 

逆に、啓蒙主義(enlightenment movement)の思想家たちは地震を道徳問題(ethics)と切り離して客観的に見ていました。カントは初めて地震学なるものを始めたといいます。

 

「今日は雨だから裁かれている」と考える人はいなでしょう。同じ自然のリズムがもたらす災害であっても、こと巨大地震となると、「神のさばきでは?」という思いが走ります。

 

考え方の転換

大野バプテスト教会の中澤啓介師の提言はこうです。

————————

西欧のキリスト教神学においては、自然災害は伝統的に「悪の問題」として扱われてきた。結局「不可解」という結論を出してお茶を濁す。それでは、これから日本が直面せざるを得ない災害に対して、何の役にも立たない。新しい解釈が必要。

 

自然災害は「悪」の問題ではなく、「自然法則」あるいは「自然のリズム」がもたらすものであり、 人間の「被造物管理権」(危機管理)の問題と提唱したい。

 

そういう考えに立てば、日本のキリスト者と教会は、自然災害を迎え撃つ準備ができる。

—————————————

・・・というものです。

 

つまり・・・

1) 地震や自然災害は「自然法則」「自然のリズム」がもたらすもの。(裁きや道徳と切り離す)

水蒸気が空に溜まれば、雲となり、やがて雨として地上に降ってくる。それは「さばき」ではなく、日常、私達が体験している「自然のリズム」である。同じように、例えば、太平洋プレートは年8cmほど日本側に動いており、100年で8mも潜り込むので、その反発で陸側のプレートが跳ね上がり、大地震が起こる。溜まったエネルギーは、そのように発散される。だから、海洋型地震には「周期」がある。これは物理的な事であり、道徳とは無関係。

 

2) 人間は被造物管理(危機管理)の責任がある。

地震そのものは止められないが、危機管理、防災をすることで減災できる。それは、人間の側の責任。 自然のリズムである限り、自然災害そのものは中立的なもの。ただ結果、悪をもたらすことがある

 

阪神淡路大震災の時、1981年前の建築物と後の建築物では被害に大きな差が出た。1981年以降の建築基準で立てられた建物は震度6強まで倒れない設計になっている。耐震性の弱い建物は、倒れて大きな被害が出た。道徳の問題ではなく、単に物理的な問題である。つまり、同じ震度の地震でも、準備の仕方で(弱いところを強くしてゆくことで)リスクを減らせる。阪神淡路大震災では、8割は家の倒壊や家の中の家具による圧死であった。逆に言えば、家を耐震化し、家具を固定していれば、その人達は助かったかもしれないということだ。備えることでリスクを減らせる。これは管理の問題であって、人間側の責任。

 

一点だけ注意しておきます。基本、これでいいのですが、この考えを固定化してしまうと、いわゆる「理神論」(神は一度、創造の御業を終えると、あとは自然の法則に任せて、もはや地上に介入することはないという理論)に陥り、神の特別介入を拒否してしまう恐れがあります。実際、神はこの歴史に介入されています。ノアの時代、地上の悪を裁くため、「大洪水」を起こされました。性的に乱れた町、ソドムへの裁きとして天から火と硫黄を降らせ町を滅ぼしました。モーセに逆らったコラは地震による地の裂け目に落ちてさばかれ死にました。終末期の患難時代には、神の「さばき」として、多くの地震また、巨大な雹など、多くの自然災害が起こります。だから、「自然災害=さばき」ではないが、「さばき」としての自然災害はあるのです。この7年間の患難時代は特別な期間と考えたほうがいいでしょう。

 

被造物管理者としての人間

もともと人は神の似姿に造られたのです。そして、エデンの園を「管理」するように命令されました。そうする能力が与えられているからです。動物に名前を付けたことは、管理能力の一つの現れでしょう。人は神に背いて園を追い出されました。神の救いのご計画の中で、時至って救い主キリストが来られ、購いの業が為され、人間の被造物管理権は回復されたのです。私達は長兄であるキリストと共に、今の地を、そしてやがて相続する「地上の御国」を統治し、管理する責任があるのです。

 

内閣府中央防災会議の南海トラフ地震被害予測によると、「M9、最悪で死者32万人、7割が津波被害。」とありますが、同時に、「対策、避難で6万人に減」とも書いてあります。実際、南海トラフ地震は、「国難」とも言うべき大災害です。人間が地震そのものを止めることはできません。しかし、対策を取る事で大幅に死傷者を減らす事は出来るのです。死者32万人が6万人になるのです。ここに防災活動の意味があります。

 

クリスチャンにとって危機管理は、単に防災すれば減災できるという消防署の人が言う以上の意味があるのです。それは、人間の被造物管理権の問題なのです。神のかたちに造られた人間の責任です。特に「災害関連死」は完全に「人災」です。今回の能登の避難所で東日本大震災の時と同じ「問題」(特にトイレ問題)が起こっているのを見るともどかしい思いがします。あれだけ避難所の問題が論じられていたのに、何も変わっていません。災害国日本にあって、(災害に)無防備で無装備な小中学校を避難所にしたままでいいのでしょうか?

 

神のパートナーとして

私達クリスチャンは地上での神の代理者、王の見習い人です。この地上を癒し、回復し、守るため、神とパートナーとして一緒に働くものです。神の側に一緒にいるのです。「神様どうして?」と文句を言っている暇があったら、神と一緒に「支援」や「復興」に携わってゆくべきではないでしょうか?神は癒しと回復の神なのですから。そして現実、目の前に助けを必要としている人がいるのですから。

 

信仰生活とは、単に、日曜朝のプログラムに出席することではありません。Worship service to service as worship. ただ礼拝という儀式に出ることより、週日奉仕する事が、神を礼拝することになるべきです。24時間、7日間、創造主をあがめ、意識し行動します。主は日曜日だけの主ではありません。「365日の主」です。

 

危機は「危」danger と「機」Opportunityとから成っています。被災地で支援活動をしたり、今後の来るべき災害に地域と共に備える防災活動は、クリスチャンがコミュニティと繋がり、「証」できる良き機会となります。

 

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

2024年1月31日水曜日

大淫婦の誘惑


教会組織からの離脱

ドイツの教会で、これまでに少年少女ら少なくとも2225人が性的虐待を受けていたことが明らかになりました。被害の実態調査をした研究者らは25日、1946年以降、ドイツにあるプロテスタントの複数の教会で少なくとも2225人の未成年者が、少なくとも1259人の聖職者らから性的虐待を受けていたと発表しました。被害者は65%が男性、35%が女性で、大半が当時13歳以下でした。加害者の40%は牧師で、多くは既婚の男性だということです。

(テレビ朝日 1月27日) 

 

カトリック内の性被害の問題は、ここ数年話題となっていたが、ついにプロテスタントまで。とは、言うものの、ドイツは基本的に国教会。役所で住民登録をするときに、宗教を書かされる。それはクリスチャンかどうかを調べるためで、キリスト教徒を表明すると、「宗教税」の対象となる。しかも、所得の10%と結構高いらしい。教会は金持ちになる。牧師の給料は国から支給される。牧師は公務員化する。そして、霊的に堕落する。それで、最近は「教会」から離脱する人が増えている。近年、38万人が離脱したそうだ。それは必ずしも「信仰」の破棄を意味しない。「教会」という「組織や制度」に嫌気がさしたためだろう。実は、ここ30年くらい、アメリカでも同様の現象が起こっている。聖書的な信仰を保つために「教会」という組織を離脱する動きだ。ある時期には年間100万人が離脱というニュースを聞いたことがある。

 

堕落した「教会」

「教会殺すにゃ、刃物は要らぬ。迫害やめて、金渡せ。」

 

初代クリスチャンたちはローマの迫害に遭っていた。しかし、彼らの信仰は純粋だった。

AD313にコンスタンティンがキリスト教を「公認」し、様々な優遇策を出した。そして、AD392にはキリスト教はローマ帝国の「国教」となった。それ以来、霊的な堕落が始まったのだ。中世カトリックでは、「新生」していない(つまり御霊を持たない)信徒はおろか、教会指導者までもが続出した。中世カトリック教皇の堕落ぶりを、垣間見てみよう。以下はHenry H Halley著「聖書ハンドブック」(p728-729)による。

----------------------------------------------------

セルギウス3世(904−911)は、マロツィアという情婦を持っていた。彼女とその母テオドラ(ローマ元元老院議員の妻)と、その妹は「教皇の椅子を情夫と不義の子で満たし、教皇の宮廷を盗賊の巣窟とした」これは歴史上「売淫政治」あるいは、「売淫婦の統治」として知られている。

 

ヨハネス12世955−963は、マロツィアの孫にあたり、「あらゆる罪を犯した。地位の高低を問わず、処女、未亡人を犯し、父の情婦と同棲し、教皇宮廷を売淫の宿とした。」

 

ポファチウス7世(984−985)は「血と汚れに染まった悪の化身、神の宮に座したキリストの敵」と呼ばれた。

 

ベネディクトウス8世(1012−24)は白昼堂々と賄賂を使って教皇の位を買い取った。この事は「聖職売買」と呼ばれた。

 

ベネディクトウス9世(1033−45)、 「彼は罪悪においては、ヨハネス12世に劣らず、白昼、殺人や姦淫を行い、殉教者の墓に来る巡礼者より盗み・・・人々は彼をローマより追放した。」

 

クレメンス2世(1046−47)は、ドイツ皇帝ハインリッヒ3世から「聖職売買や私通の罪に汚れてないローマの聖職者が他に一人もいない」との理由から任命された。

 

 

なんとも凄まじい。生まれ変わっていない人物が「教会」の指導者になるとは何と恐ろしいことか。「霊的」な事をわきまえない人が「指導者」という「権威」を持ってしまっている。

当然、サタンはそれを利用する。そして、これは中世の話だけではない。プロテスタントというカテゴリーに入っていても、このドイツ国教会のような堕落がすでに始まっている。牧師が公務員なら、御霊を持たない牧師がいても不思議ではない。かの有名な○○神学校出ているという、「この世の資格」だけで、地位を得てしまうのだろう。そのうち、「福音派」と呼ばれる教会にも悪は浸透してくるだろう。「富」と「権威」は常に誘惑の手を差し伸べている。ラオデキア教会のように、教会堂は建っていても、キリストは戸の外に立っている(つまりキリストを追い出している)教会が増えてくるのだ。(黙示録3:20)

 

大淫婦の誘惑

以前にも述べたが、リベラル教会のネットワーク「世界教会協議会」(WCC) にクリスチャン全体の24%が加盟している(会員数5億6千万人)。準会員であるカトリック(全体の52%)を入れれば、クリスチャンと呼ばれる群れの76%がこれに該当することになる。世界のキリスト教会の7割以上が聖書からずれ始めている。WCCの宣教学では、キリスト教宣教の目的は宣教地の人々の「肉の必要」を満たす事であり、他宗教の人々を改宗させてはいけないというのだ。それは地元の宗教・文化に対して無礼なことと考えられている。宗教多元主義の流れの中で、「教会」もそれを支持する方向に動いている。大淫婦(黙示録17:3−6)の誘惑は「すでに」始まっている。

 

       人は皆生まれながら神の子。悔い改めは必要ない。単に気づけばいい。

       諸宗教の目指すところは同じ真理、同じ神。キリストのみを掲げるのは高慢。

       「罪」はない。「過ち」だ。

       地獄はない。結局、すべての人は救われるという万人救済論。

       新しい倫理観:婚前交渉、離婚、不倫、同性愛 それらは、 単にライフスタイルの問題。罪じゃない。

       自分の欲望のために「超能力、魔術、麻薬」(実は悪霊の力)などを使う。物質的豊かさと派手な生活。「金だけ、今だけ、自分だけ」思想。刹那的快楽主義

 

この偽りの「教会」(大淫婦)が、真の教会(エクレシア=イエスを証しする者の群れ)を迫害するようになる。

 

私は、この女が聖徒たちの血と、イエスの証人たちの血に酔っているのを見た。

(黙示17:6)

聖書は明言している。

 

もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。

                              (ローマ8:9)

 

神のうちにいる者は「イエスが神の御子」であることを告白する。(ヨハネ4:16)

キリストを告白しない霊は「反キリスト」の霊なのだ。そして、その霊はすでに働いている。(ヨハネ4:3)信者は真理の御霊を頂いている。(ヨハネ14:16−17)しっかり偽りを見極めていきたいものだ。

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

2024年1月25日木曜日

主の霊が激しく下った!?


同じ聖霊の働きでも、旧約と新約では大きく違うのです。旧約での聖霊の働きをサムソンの例で見てみましょう。

 

それは物理的な力

主の霊は、ツォルアとエシュタオルの間の、マハネ・ダンで彼(サムソン)を揺り動かし始めた。                    (士師記14:25)

 

自分も若い頃、このように主の霊に揺り動かされたい。聖霊に振り回されたい。そのように主のために活躍したいと願ったことがあります。しかし、今は、それは違うのかなと思っています。

 

このとき、主の霊が激しく彼の上に下ったので、彼はまるで子やぎを引き裂くように、何も手に持たず獅子を引き裂いた。(士師記14:6)

 

旧約時代、主の霊はある仕事させるために一時的に下ったようです。新約時代には御霊は信者のうちに住み込みます。そして継続的な働きをします。このサムソンの場合、主の霊が下った結果、やったことは獅子を引き裂くことでした。あまり周りの人の祝福になるようなことではないですね。単に物理的な力だけです。

このような物理的な力は、その後も、ロバの顎の骨で千人を打ち殺したり(15:15)、町の門を担いて山の頂まで持って行ったり、(16:3)、ダゴンの神殿の柱を押し曲げ、神殿を崩壊させたり(17:30)・・ま、破壊的なもので、必ずしも建徳的とは言えません。


 

新約では聖霊が下った結果は宣教の拡大でした。(使徒1:8)福音を語る力となったのです。それは多くの人の益となり祝福になりました。

 

それは内なる性質に無関係

旧約では、その人のキャラクターに関係なく、一方的に神の霊が下り、その人をコントロールしたということです。新約では御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、誠実、柔和、自制ですね。(ガラテヤ5:22−23)ところがサムソンにはそのような性質はありません。宿敵ペリシテ人の女を好きになり、結婚したがります。それは愛ではなく、単なる欲望だったでしょう。また結婚式場で一悶着あったのですが、そこから帰宅するサムソンは喜び、平安、寛容どころか、フィアンセが裏切ったことで怒りに燃えていました。

 

怒りに燃えて父の家に帰った。サムソンの妻は、彼に付き添った客の一人のものとなった。(14:19−20)

 

しかも、親の反対を押し切りあれほど結婚したがった女性を置いて家に帰ってしまったのです。その程度の愛だったのです。また、この後、ガザの遊女と関係を持っています(16:1)。性的に自由奔放だったようです。そのようにサムソンはとても御霊に満たされた性質を持っていたとは思えません。それだけに、神が上からの圧力でコントロールする必要があったのかも知れません。何せ、これでも当時のイスラエルを救う「士師」だったのですから。(15:20)教会学校のヒーロー、サムソンですが、とんでもないキャラでした。このように旧約では神の霊は外部から激しく働きましたが、新約では内住の御霊が内側から働きます。しかも、「キリストの似姿」に変えてくださるという働きです。(II コリント3:18)

 

新約の殉教者

ローマの迫害下、クリスチャンたちは競技場に引き出され獅子と戦わせられました。彼らは迫害下でも信仰を否定しなかった「御霊」に満たされたクリスチャンたちでした。もし、サムソンと同じなら、御霊の力で、獅子を引き裂くこともできたでしょう。しかし、神は、そうなさらなかったのです。彼らは、獅子に引き裂かれるまま死んでいったのです。十字架の上で火破りにされた子供たちは賛美を歌いながら死んでいったというのです。彼らは一見、敗北者のようで、勝利者でした。「この世」と「死」に打ち勝っていたのです。彼らは「革命」や「暴力」で政府を転覆することをしませんでした。「再臨」と「復活」の信仰を持って待ち望んでいたのです。これこそ新約時代(十字架以降、聖霊降臨以降)のクリスチャンの強さだったのです。

 

クリスチャンの大会で「聖霊よ、激しく今、私に下ってください!」と祈る人もいます。しかし、一時的な興奮を体験するより、すでに内側に住んでおられる御霊を認識し、感謝し、日々の生活の中で淡々と御霊の実を実らせ、再臨と復活の信仰に生きることの方が大事なのではないでしょうか。初代のクリスチャンたちは「マラナタ」(主よ、来てください)と言葉を交わし、待ち望んでいたのです。サムソンのような激情や、物理的な力だけで地上天国をもたらすことはできません。今日、「やったら、やり返す」の戦争があちこちで行われています。真の平和は「平和の君」キリストの来臨までありません。

 

み言葉はこう語っています。

 

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、

 

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」

 

という一つのことばで全うされるのです。気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。私は言います。

 

御霊によって歩みなさい。

 

そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。

 

肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。

 

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。

 

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

(ガラテヤ5:13−24)

 

サムソンは「肉」(自分の判断や欲望)で生きていましたが、御霊が上から(外部から)コントロールしたのです。しかし、新約時代には御霊は内に住み、実を結び、その人の内側から他の人の祝福のため影響を与えるのです。

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

2024年1月18日木曜日

キリスト教は難しい?

 

本質はトンデモ話

キリスト教と聞くと、十字架のついた三角屋根の会堂。黒い服を着た神父さん、あるいは、バチカンやローマ法皇、ミケランジェロの絵画などを思い浮かべるかも知れません。しかし、それらはいわば「外観」であって、中身「本質」ではありません。また、教会で説教を聞いても、「分からない」、「ピンとこない」「別世界の話のようだ」と思われるかも知れません。キリスト教は難しい?それは、はっきり言ってキリスト教の本質は「とんでも話」にあるからです。

 

1.      キリストは私たちの罪のために十字架で死んだ。

2.      墓に葬られ3日目によみがえって弟子たちに顕れた。

3.      その後、天に昇り、再び、地上に来られ悪を裁き、自ら王として全世界を治める。

 

これが中心的なメッセージです。日常生活をしている一般の常識人から見ると異次元の話でしょうね。多分、こう思うでしょう。

 

1.      なぜ、2000年前に十字架で死んだ人が俺の罪を贖えるのか?

2.      現代の常識で、墓に入った人が蘇るのか?バカバカしい。

3.      再び、天から来られる? SFの読みすぎでしょう。もうついていけない。

 

ところがイエスを救い主として信じる時、この3つのポイントに関して「アーメン!」と言えるようになるのです。だから、キリストを信じることは聖霊の御業なのです。フツーは起こり得ないのです。以前は、偶像に仕え、キリストが天から来られるなど夢にも思ったことのないテサロニケの人々は、変えられたのです。

 

また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。テサロニケ1:9−10)

 

つまり、教育や常識の延長線上では起こり得ないことが起こるのです。イエス御自身、これを「生まれ変わり」と表現なさいました。

 

イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)

 

だから、いくら勉強してもキリスト教の本質にはたどり着けません。信じて、御霊を頂いて、初めて聖書の内容が理解できるようになるのです。「信じる」ことによって生まれ変わらない限り聖書は永遠に謎のままでしょう。

 

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。コリント2:14)

 

 

聖書の世界観、歴史観

聖書を理解するには、聖書の世界観、歴史観を受け入れなければなりません。

聖書は「霊」の世界を是認します。聖書が言う「霊」の世界を認めないと、キリスト教の本質は理解できないのです。今の科学では、全ては物質に還元できるという「還元主義」が主流であり、「心」「や「意識」と言われるもでさえ「物質」である脳の働きにしか過ぎないという主張です。一方、聖書は語ります。

 

神は「霊」なのです。(ヨハネ4:24)聖書は霊的存在すなわち、神に使える御使い達、御使の反乱軍である「悪霊たち」、そのリーダーの「サタン」の存在を認めます。

 

霊なる神は、この物質世界を創造しました。聖書を読むには、この物質世界と霊的な世界の2面性があり、その2つは互いに影響し合っていることを前提にして読む必要があります。また、人間も同じで物質である肉体の他に「霊」と「魂」を持っています。ですから、キリスト教の救いは、詳細には「霊」「魂」「体」の救いの事を言っています。

 

歴史観としては、輪廻のような循環史観ではなく、はじめに神が天と地を創造し、人を創造し、しかし、人の罪ゆえに、死が入り、世界が呪われた。しかし、神は救い主を送って、十字架で宇宙の贖いを成し、再臨時に悪は滅ぼされ、キリストご自身が王として世界を治め、事は成就するというリニアル(ストーリーの初めがあり、終わりがあるドラマ)な史観であり、単に人類の終焉が来るという悲観論ではなく、再臨ゆえに希望に満ちた楽観論的史観となっているのです。「ハルマゲドン」がよく、第三次世界大戦や、人類終焉のシンボルとして引用されますが、聖書的には再臨のキリストが反キリスト勢力(悪)を滅ぼす喜ばしい出来事なのです。

 

善と悪に関しては、「光の国=神の国」と「闇の国=サタンの国」の対比と考えます。今はその2つが勢力を広げ合っています。いわば「霊の戦い」が起こっています。そこの対比は現在でも、神なき「この世」と、キリスト中心の「エクレシア(キリストを信じるものの群れ)」に見られます。

 

将来的には「獣の国=反キリスト世界帝国」と「千年王国=キリストが統治する世界」の対比が役に立ちます。黙示録に出てくる「獣」とは反キリストのことであり、いわば人となったサタンです。その悪の帝国がキリストの再臨によって滅ぼされた後に来るのが、対照的な「千年王国」です。ここでは人となった神、キリストが世界を治めるのです。逆に言えば、平和の君(Prince of Peace)である、キリストが世界を統治するまでは、真の世界平和は無いのです。

 

聖書の中心テーマ〜神の国の到来

聖書を単に道徳の本と考えると理解できなくなります。むしろ「光の国」と「闇の国」の対立のドラマです。この2つの国の特徴を対比してみましょう。

 

獣の国

⚫️ サタンのバックアップによって権力者となった「獣」が世界の支配者

⚫️ 世界は闇に覆われている。(不安と恐怖の象徴)

⚫️ あらゆる反キリスト的(悪魔的)価値観に満ちている。物質主義、快楽主義

  人権侵害、搾取、不正、抑圧、恐怖による支配など。

⚫️ 一部のエリートのために人が搾取され、使われる。

 

神の国   千年王国〜新天新地

⚫️ 神ご自身であるキリストが統治

⚫️ 光(神のご臨在)が世界を覆う  夜がない。

⚫️ 御霊の実に満ちる世界:愛、喜び、平安、寛容、誠実、親切、善意、誠実、

柔和、自制。

⚫️ 全ての人が生かされる。大切にされる。

 

「獣の国」の特徴は、今日すでに現れています。すでに始まっています。もちろん、結論は「神の国の到来」であり、ハッピーエンドです。偽りの王に蹂躙された王国に、真の王が戻ってくるというストーリーです。

 

聖書の中心人物、メシア

このハッピーエンドをもたらす主人公がメシア(キリスト=救い主)です。一般的にはキリストは4大聖人の一人とか、キリスト教という「宗教」の創始者だと思われています。しかし、ヘブル思想では「メシア」は、イスラエルを回復する政治的解放者です。「思い改め」が必要です。ヘブル思想は「天国待ち」思想ではなく、非常に地上的です。メシアは基本的に、この地上に王国をもたらす政治的な存在です。新約聖書ではキリストは「子羊」のイメージとして描かれていますが、実は新約でも政治的な存在であることは変わっていないのです。

 

それらの王たちは一つ思いとなり、自分たちの力と権威をその獣に委ねます。彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。(黙示録17:13−14)

 

終わりの時代に諸国の王が獣(反キリストなる人物)に権威を委ね、従うとあります。そして、子羊=キリストに戦いを挑むのです。しかし、子羊は勝利します。なぜなら、子羊は「主の主」、「王の王」だからです。この「主」とか「王」は宗教的な意味ではなく、文字通り政治的な王のことです。諸国の王の上に君臨する王という意味です。

 

黙示録ではキリストは「地上の王たちの支配者」(黙示1:5)と描写されています。また「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。」(黙示録11:15)このようにわざわざ「地上の王」とか「この世の王国」と書いてあり、「天」の話ではなく、この「地上」の「この世」の話であることを強調しています。ヘブル的なメシア観が引き継がれています。ですからキリストを単なる教祖として「宗教世界」に閉じ込めてしまう訳にはいかないのです。ここを理解できないと聖書は理解できないのです。

 

聖書には「預言」が書かれており、地上の歴史と連動しています。聖書は古い書物ですが、聖書の内容はまだ終わっていないのです。世界統一宗教や世界統一政府によるデジタル管理社会のことも書かれています。繰り返し言いますが、聖書は単なる宗教・道徳・倫理の本ではないのです。

 

トンデモ話と言えば、そうでしょうが、「はじめに神が天と地を創造した。」(創世記1:1)という大前提を受け入れるなら、あり得る話となるのです。神が始めたドラマを神が終結します。

 

未信者に対しては誤解を招く用語は、正しく説明する必要があります。しかし、「分かり易く」を強調するあまり、トンデモ話(奇跡、霊の世界)を省いてしまうと本質を失い、単なる道徳・倫理になり、パワーを失います。福音は人生を変革する「力」です。キリストの十字架と復活を語らないと「福音」は伝わりません。

 

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

II コリント5:17)

 

クリスチャンになるとは教会員名簿に載ることではなく、新創造です。

 

大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ6:15)

 

本質は、今も生きておられるキリストに出会うことです。それこそが永遠の命です。

 

永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを(体験的に)知ることです。(ヨハネ17:3)


 

==========================


意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳