2024年6月20日木曜日

マーケットプレイス・ミニスター

 

「マーケットプレイスでのあなた自身の影響力こそが世界を変革する鍵なのです。」(エド・シルボソ)

 

今回は、エド・シルボソ著「変革の鍵〜油注がれたビジネス」より刺激的な考えを分かち合います。

 

365日の主 

キリストも使徒たちも、ミニストリーの舞台は日常の現場、マーケットプレイス

だった。路上や人の家や牢獄や、一般の集会場で神の御業が起こっていく。イエスの弟子は誰一人として宗教専門家がいなかった。すべてフルタイムの職業人だった。イエスは宗教施設の増大を意図していなかったからだ。ミニスター(主の働き人)になる条件は、神学校で教育を受けたかよりも、イエス様と一緒に時を過ごしてきたゆえの霊性なのだ。よく「自分は一般信徒であって、牧師じゃないから」という言葉を聞く。しかし、そういう考えこそが実生活の場で活躍する信徒たちを腰砕にするサタンの狡猾な罠なのだと言う。だから、「一般信徒」という既成概念から飛び出すことが必要だと。実生活の場での信徒の働きを無力化させる4つの誤解があるという。(p24

 

1.      教職者、牧師と一般信徒の間には神が定めた大きな隔たりがある。

2.      教会の働きは、宮(教会堂)と呼ばれる宗教的建造物の中での働きに限定されている。

3.      事業(ビジネス)に関わっている信徒は、教会内のミニストリーをして仕える信徒に比べて、霊性は劣っている。

4.      マーケットプレイス(実生活の現場)で日常の大半を過ごす信徒たちの役割は、教会内のミニストリーに召されたミニスター(献身者、聖職者、)のビジョンを経済的にサポートすることに限る。

 

しかし、聖書的では万人祭司なのであって、信徒はすべてキリストの体の一部であり、キリストは365日の主なのだ。神の働きを教会堂の4つの壁の中に閉じ込めてはならない。あなたは観客ではなく、プレーヤーなのだから。

 

教会というのは、「日曜日に2時間ほど建物の中で過ごすこと」だけになり下がってしまい、1週間の中で、その他の165時間以上は教会の外、すなわち教会とは関係なく過ごしているといった認識につながっていくのです。これは初代教会時代と比べてなんとズレた認識でしょうか。P124)

 

実際、第1世紀のクリスチャンは毎日、そして1日に何度も教会(エクレシア)を持っていた。(使徒2:42)

 

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お勧め動画

クリスチャンは日曜日に "教会に行くべきなのか? 小林拓馬

https://www.youtube.com/watch?v=D65H37WI754

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呪うのではなく、祝福する

教会はこの世から隔離されるのではなく、教会は「神の国=神の支配」をこの地上に持ち運ぶために、存在している。そして、そのために私たちクリスチャンの未信者に対する態度や心が大変、重要になってくる。シルボソの「エクレシア」という本の中で、大使の話が載っている。もし、新しく赴任した大使が「私はあなた方の国や文化は好きじゃない。仕事で仕方ないからここに来た」と言ったら、周りの人はどう思うだろうと。良い関係が築けるとは、とても思えないだろう。しかし、時に私たちクリスチャンはノンクリスチャンに対して「さばき」の目で見てしまうことがないだろうか。ヨナはニネベの人を呪いたかった。しかし、神はニネベの人を愛していた。滅びないよう、悔い改めるようヨナを遣わし、メッセージを送った。

 

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。ですから、私たちは今後、肉(人間的基準)に従って人を知ろうとはしません。IIコリント5:15―16)

 

キリストは全ての人のために死んだ。十字架の上で「完了した!」と言われた。つまり、全ての人の罪の贖いは、もう完了している。人が裁かれるのは、その人の罪のためではなく、このよきメッセージ(福音)を拒むからであり、すなわち、神の愛を拒むからなのだ。贖いはなされている。人がその償いをする必要はない。あとは信じて受け入れるだけ。未信者とは、ただそれを知らない人たちなのだ。今後、人間的な標準で人を見てはいけない。イスラエルの民がバビロンに捕囚となった時でさえ、偶像の国バビロニアを呪えとは言っていない。むしろ、「その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。」(エレミヤ29:7)と言われた。

 

呪ってはいけない。裁いてはいけない。平安を祈り、祝福すべき。

 

さらにシルボソはルカ10:5−9から、イエスが弟子を宣教に遣わした場面から学ぶべきことをリストしている。

 

1.祝福する:平安を祈る  呪ってはいけない。さばいてはいけない。

2.交わる:食事を共にする  関係を深める  信頼を築く

3.ミニストリーをする:必要を知り、必要を満たす。病人を癒すなど。

4.宣言する:神の国(福音)を宣べ伝える。

 

職場の平安を祈ることから始めよう。

 

神様に感謝しましょう。見るに堪えない罪があなたの周囲で目について、その汚臭に耐えられなくても、諦めないで甘い香りをした神の恵をそこに持ち運ぶのです。前向き、かつ肯定的な心の姿勢を保つのです。私たちは不完全な世に生きていて、尚且つサタンの支配下にあるマーケットプレイス(実生活の現場)で働いています。ですからこの世界のどこに行っても、またあなたの特定のお仕事の上でも、いずれにしても、がっかりしたり、怒りを覚えたりする理由はいくらでも見つけることができます。しかし、この不満や憤りは、悪魔がクリスチャンに悪影響を及ぼしていく際の足場(入り口)となります。つぶやいたり、怒っているクリスチャンは、もはやサタンにとって何の脅威でもありません。不満と憤りは悪魔に機会を与え(エペソ4:26−27)クリスチャンの影響力を無にしていきます。神の恵みは罪から来るさまざまな悪に対する治療薬(解決策)ですが、不満と憤りがその神の恵みから逆走していくような行為なのです。p158

 

あなたは変革者

変革(トランスフォーメーション)をスタートさせるには、まずあなたが所属するシステム(組織)を受け入れなければなりません。そして、たいていの場合、最初、そのシステム(組織)は極めて不完全なのです。あなたをその場所に置くことによって、その場を変えてゆくことを神は計画されているからです。あなたは変革者なのです!(159)

 

神の国(神の支配)は、そのようにして実社会の中に広がっていく。悪魔が支配していた場所を神の支配で占領してゆく人々が必要なのだ。単なる我慢ではなく、勝利が約束されているものとして、(第一ヨハネ5:5)信じて、霊的戦いをしてゆく人々だ。

 

マーケットプレイス・ミニスターという存在

そして、それをサポートしてゆくマーケットプレイスミニスターが必要なのだ。特に日本のように会社にクリスチャン一人という状況の中で、霊的に寄り添って支えてゆく存在が必要なのだ。シルボソは職業人一人一人がマーケットプレイスミニスター(変革者)なのだと言うが、すぐには厳しい気もする。その前にそういう人々を育成してゆく存在が必要だ。日本では主の働き人がもっと教会の4つの壁の外に出て、実社会の真ん中で、職場の近くで信者と会い、励まし、祈る必要があるのではないだろうか。まさに、それこそTMCが願い、やってきたことだ。集会を主催して、そこに招き入れるのではなく、彼らのところに出て行って、彼らの現場で会う。職場近くにエクレシアを形成する。

 

そのために、今までの型を破る「働き人」のかたちが必要なのではないだろうか。牧師でもない、宣教師でもない、そう「マーケットプレイス・ミニスター」。

 

 

「エクレシア」エド・シルボソ著 ライフパブリケーション

「「変革の鍵〜油注がれたビジネス」 エド・シルボソ著 プレイズ出版

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

 

2024年6月13日木曜日

エクレシアは非宗教的用語


今回は、エド・シルボソ著「エクレシア 上・下」から引用しつつ刺激的な考えを分かち合います。

 

エクレシアは非宗教的用語

イエスは、当時のユダヤの宗教機関であった施設を指して「私は神殿を建てる」とか、「私はシナゴーグ」(会堂)を建てるとは言いませんでした。かえって、ギリシア人が構築した世俗的な公共機関を指して「私は私のエクレシアを建てる」と言いました。なぜでしょうか。その答えは驚愕的であり、私たちにチャレンジと権威を与えるものです。P13

 

あの有名な大宣教命令も「会堂を建てよ」との命令ではなく、弟子作りの命令です。単に宗教を続けたいのなら、「神殿を建てる」「シナゴーグ(会堂)」を建てる」で良かったのです。

しかし、イエスの意図はそれらを超越したものでした。

 

エクレシアは日本語では「教会」と訳され、教会は宗教的な響きを持っている訳です。しかし、エクレシアは元々、宗教的意味合いを全く持たない言葉でした。当時のギリシア・ローマ文化の中で、エクレシアは政治的機能を持つマーケットプレイスでの社会機関を指す言葉だったのです。なので、イエスがエクレシアという言葉を使った時に、現在の宗教的な意味での「教会」をイメージした弟子は一人もいなかった訳です。しかも、イエスはこのエクレシアという言葉を3度しか使っていません。「イエスは、すでに存在している世俗的な概念をとって、御国のDNAと受胎させたかったのです。」(P20

 

エクレシアの起源

イエス誕生から地上での生涯を終えるまで、イスラエルには3つの主要な機関がありました。神殿、会堂、それからエクレシアです。これらの3つはよく宗教機関だと考えられますが、実際には神殿と会堂だけがそのカテゴリーに入ります。エクレシアはもともと、ギリシア民主政で都市国家を収めるための市民の集合体でしたから、宗教とは何の関係もありませんでした。P20

 

実際、パウロの同行者だったガイオとアリスタリコがエペソの劇場に引き込まれた記述で「集会」「集まり」(使徒19:32、39)と出てくる言葉は、新約聖書の他の箇所では「教会」と訳されています。エクレシアは「会衆」「裁判所」を指していることもありました。

 

エクレシアの目的と方向性

イエスのエクレシアと、神殿やシナゴーグの違いは、構造、場所、可動性にあります。神殿とシナゴーグは、信徒たちいが建物が決められたロケーションで機能する、固定された機関です。一方でエクレシアは、建物がない、モバイルナプル・ムーブメントで、すべての人々とすべての事柄にインパクトを与えるために、絶え間なくマーケットプレイスで動くように設計されています。(P.22)

 

イエスの目的は、宗教機関を倍増させることではなく、エクレシアを通してキリストの弟子たちが聖書的価値観を社会の隅々にまで浸透させ、都市や国までもキリスト化(弟子化)することだったのです。

 

この方向性は重要です。キリストの狙いは信者を獲得し、集め、囲い、この世から分離させることではなく、弟子たちを世俗社会のど真ん中において、会社、病院、役所などを神のエクレシアにすることだったのです。別の言い方をすれば、社会のトランスフォーメーション(変革)です。ペンテコステ以来、エクレシアが爆発的に広がっていったのは、権力や組織力(今で言えば大教団の資金力と権威)ではなく、ピープルムーブメントとして日常の中で、食卓が説教壇となり、ミニストリーは日常の路上で行われていったからです。人から人、口から口で、エルサレム中に教えが広まっていったのです。(使徒5:28)

 

私たちのTokyo Metro Community(TMC)も「教会」という宗教用語を最初から避けました。

として、「東京のど真ん中に神のご臨在を!」というコンセプトで、当初は意図的に週日の職場の近くで集まっていたのです。例えば、その一つが丸の内エクレシアです。職場エリアに、いや、「あなたの会社に神はご臨在されている」と認識して頂きたかったのです。

 

社会の只中にあるエクレシア

シルボソは未来に向かって「教会をする」から「エクレシアになる」を提言しています。ただ新しいビジョンを提唱し立ち上がる人は5%、それに同意し追従する人は15%、後の80%は事が起こってから、それを見てからジョインする人々だという事です。最初は理解されないものです。イエスご自身、伝統的なユダヤ教の教師からは理解されませんでした。ペンテコステ以来、エクレシアは社会の革新的なムーブメントとして広がっていきました。しかし、やがて国教化されると共に、形式化し、権力化し、また1つの「伝統」となってしまったのです。ルターたちはこれを「宗教改革」したのです。しかし、今日、プロテスタントもプロテスト(反抗)するより、「伝統」になってしまいました。今こそ教会のビジネスモデルの変化、「教会」が「エクレシア」となるべき時なのです。現状を打破するには、「今まで通り」ではなく「他に何をすべきか」なのです。シルボソは、「週一の教会」から「年中無休のエクレシア」への意識変革を提唱します。もともと主は356日の主なのです。エクレシア活動を日曜の朝2時間に閉じ込めてしまってはいけません。

 

教会が、一般社会ですでに定着している場所から彼らを追い出すようなサブカルチャーを表しているからです。教会員になるための条件も時には問題です。機能的にはシナゴーグのそれと似ているからです。新メンバークラス、什一献金、セルグループ、マーケットプレイスですでに担っている役割とかぶってしまう教会のイベントへの参加などです。さらに悪いことに、「成熟するまで(クリスチャン言語を覚えるまで)」彼らを会衆席に座らせておくことで、優秀なリーダーたちを無駄遣いし、端っこに追いやっています。パウロは彼らをマーケットプレイスで導き、彼らの信仰の家をどう導くかを教え、マーケットプレイスにあるエクレシアとしました。彼はマーケットプレイスにすでに存在するリーダー達を活用し、彼らが生活し、働いているその場所でエクレシアを確立していきました。そして、それぞれが影響を及ぼすことのできる社会背景に合わせて真理と福音の力を語るのに任せたのでした。

(エクレシア下 P.138

 

イエスや使徒たちの活動の大部分は週日、マーケットプレイス(日常の現場)で起こりました。さらに大宣教命令が「国ごと」の弟子化を語っていることから、教会内の「信者を牧会する」から「街の羊飼いになる」を提唱します。ジョン・ウエスレーは「世界は我が教区」と言ったとか。そうキリストは「全世界へ出て行って」と地球規模の視野での宣教を語っておられます。それは宗教施設を増やすことではなく、世界のトランスフォーメーション(つまり御国が拡大すること=御心が地で行われるエリアが拡大すること)なのです。そのために聖霊に満たされ、神と「協働する」ことを呼びかけていると言うのです。

 

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お勧め本

「エクレシア」上下 エド・シルボソ著 ライフパブリケーション

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年6月6日木曜日

日本の伝道はこれだ!

 

インドで起こる御業

最近、日本人牧師宣教チームが9日間に渡りインドに行ってミニストリーをしてきた。彼らの報告によると、9日間の統計は・・・

 

福音提示:419

信仰告白:316

受洗者 :201

リーダー:23

教会誕生:22教会

 

ある日、家庭で行われた求道者会で、27人中、伝道メッセージに応答して22名が決心、12名がその場で洗礼を受け、2つの教会が誕生した。1日でこんな事が起こっている。日本の現状を見た時に、同じ聖霊、同じ福音なのに、なぜ?と問いたくなる。

 

帰国後、参加者からこのような感想を聞いた。「違いは霊的土壌です。福音を受け入れる心の土壌が準備されているのです。だから誰が福音を語っても救われるのです。」こういう霊的渇きがすでにあり、求めがある状況では、あとは、福音をストレートに語ることだけなのだ。それだけでいい。それが効果的なのだ。

 

インドでそうだから、日本でも同じように・・・という訳にはいかない。外国での成功例を聞かされる度に複雑な気持ちになっていた。日本では福音を宣言する事(種まき)と、存在を持って証する伝道と両方必要なのだ。

 

やっぱり関係作り?

日本ではいまだに爆発的なクリスチャンの増加は見ていない。それどころか教会の「衰退」が言われている。大多数が福音に無関心だし、いきなり個人伝道しようとしても拒否されることが多いだろう。そこで、「関係作り」「信頼作り」という事が言われる。

 

宣教師たちは相変わらず「英会話」を用いて、あるいは「国際的な雰囲気」を用いて、人を誘い、集め、関係を築き、信頼を得てから福音を伝えている。宣教師が、公共の施設を借りて英会話をやる場合には「宗教の話はしません」とわざわざ言い訳しなければならないケースもある。それでも、なんとか人間関係を作ろうと涙ぐましい努力をしている。時間のかかる作業だ。地道だが、それしかないとも思われる。

 

職場や地元コミュニティでは「信頼」を得ることが大事になってくる。自分が救われて間もなく、通っていた教会で、岸義紘著「日本の信徒伝道はこれだ!」を使って勉強会をやっていた。その本にあった「存在で始まり」「関係で進み」「教会で実を結ぶ」が、今でも記憶に残っている。やっぱりこれしかないのかなとも思う。特に郊外の住宅地でゼロからチャーチプランティングをするなら、これなのだろう。

 

⚫️ 「存在」で始まり:あなたが職場に学校にクリスチャンとして存在することが伝道。

あなたがそこにいて、祈っていることで、すでに霊の流れが変えられている!

 

⚫️ 「関係」で進み:ノンクリスチャンと友達になり時間を過ごすことは立派な伝道。誕生

日にカードを送ったり、祝ってあげることは大事な伝道。家に食事に招いて、話を聞い

てあげることは「聞く伝道」

 

⚫️ 「エクレシアで実を結ぶ」:伝道はチームワーク。色々な人の証を聞くことはインパクト

がある。そして、人はコミュニティの中に救われる。(ヨハネ1:1−3)救われるこ

とは家族体験でもある。

 

それでも種まきは必要

自分は高校生の時、地元の駅で配っていたHi-BAキャンプのパンフレットを手にしたことがきっかけで、キャンプに行き、福音を聞き、クリスチャンになった。なので、きっかけ作りになって欲しいとの願いから、今でも路上で福音トラクトを配布している。先日、山手線全30駅でのトラクト配布を完了した。これはこれで続けなければならない事だと思っている。これをCoverage (福音浸透、福音の種まき)と呼ぶこともある。イエスは1つ所に留まっていなかった。ニーズがあっても他の町村へ行ってしまったイエスの行動は興味深い。それは広範囲に福音を伝えるためだった。

 

彼を見つけ、「皆があなたを捜しています」と言った。イエスは彼ら言われた。「さあ、近くにある、別の村や町へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出てきたのだから。こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。(マルコ1:37−39)

 

自分は日本という地で、宣教団体スタッフとして過去40年間、宣教に携わってきた。アウトリーチで見ず知らずの人に個人伝道して10人に一人はイエス・キリストを信じる人が起こされることを見てきた。福音に応答する人がいない訳ではない。しかし、インドのようには、いかない。信じても、フォローアップで落ちていってしまうことも多い。それでも今でも路傍伝道に携わっている。種まきは必要だからだ。また稀に関心ある人がいて、路上で個人伝道できる場合もある。人通りの多い、駅前では、それなりにインパクトがあるのでは?と思わされている。

 

・・・では、どうしたら?

⚫️ 土壌の話に戻ろう。日本人の心が耕されるために、また日本を覆う霊的雰囲気が変えら

れるために、「祈り」(霊的戦いの祈りを含め)が必要だろう。神は風向きを変えること

ができる。これを「祈りの伝道」ともいう。

 

⚫️ S N S、メディア、路上、あらゆる手段で「福音の種まき」は継続されなければならない。

今後、人口が増えていく東京湾岸のタワーマンションは、従来の方法ではアウトリーチ

できない。インターネットの活用はマストだろう。

 

⚫️ 「存在で始まり」、「関係で進み」、「エクレシアで実を結ぶ」イベントに頼るより、一人

一人の信者はこのような意識で生活する。シンプルに神と人を愛して生きる。

 

⚫️ エクレシアが「良きわざ宣証共同体」として機能し、社会にインパクトを与える。

 

具体的には「子ども食堂」「被災地支援」「ホームレスミニストリー」など。やはり、地元から「浮いた」存在、「孤立した」存在では地元にインパクトを与えることはできない。地元からも喜ばれ、必要とされる存在となれれば理想だろう。初期のエクレシアは「民全体から好意を持たれていた」(使徒2:47)。福祉の発達していない時代に、福祉事業を担ったのはエクレシアだったからだ。(ガラテヤ2:10)

 

⚫️ 教会自体のビジネスモデルの変革。会堂中心・宗教儀式を中心とした「宗教」ではない、

キリスト中心の「コミュニティ」としてのエクレシア。いつでも、どこでも、誰でもが始

められる、人で繋がる「モバイル エクレシア」の方向性。宗教は敬遠されても、「命あ

る楽しいコミュニティ」は、高齢者、若者を問わず常に魅力的なのだ。特に都心では、

場所にこだわらない「人でつながる」エクレシア形成が鍵となるだろう。

 

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Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

2024年5月29日水曜日

古い契約(旧約)に戻るな

 

新しい契約で私たちはどうなった?

●あなたは、聖なるものとされています。(ヘブル10:10)

● あなたは永遠に完成されています。(ヘブル10:14)

● 神はあなたの罪と不法を思い起こさない。(ヘブル10:17)

 

聖書には「〜〜とされています。」という言い回しが出てきますね。これは自分がどうであれ、神の目から見て、そういう「ポジション」に置かれているということです。これをPositional Truth (位置的真理)という場合もあります。例えば、キリストの血により、信仰によって、私たちは「義と認められている」というのもそうです。もうそのような位置に置かれているのです。「罪人」というカテゴリーにはいないのです。そして、中身は聖霊が日々、私たちをキリストの似姿へと変えてくださっています。大事なことは聖書が言っていることを「信じる」ことです。正しい信仰とは与えられた「啓示」に対し「YES」と言って応答することです。自分を見つめ続けるのではなく、十字架でのキリストの御業を見上げましょう。

 

新約のクリスチャンの特権

       アバ父と呼ぶ霊を頂いた。

       聖霊はすでに信者の中に住んでいる。

       私たちが神の宮なので、神を求めて神殿、礼拝堂に行く必要はない。

 

キリストを信じて「神の子供」となる特権を得ました。(ヨハネ1:12)新約の聖徒は驚くべき特権の中にいるのです。キリストが神を「父」と呼んだように、私たちは今、キリストを長子とするキリストの兄弟であり(ヘブル2:11)、神を「父」と呼べる立場になりました。聖霊が内に住んでいるので、私たちが「神殿」です。(エペソ2:21−22)という事は「場所」にこだわらずに礼拝できます。教会堂に行かなければ、神に会えないのではありません。キリストはすでにあなたの内におられます。(コロサイ1:27)また私たちが祭司なので、(ペテロ2:9)個人的に神にアプローチできます。祭司や牧師を仲介する必要はありません。神と人との仲介者はキリストご自身です。(テモテ2:5)それ以外にはいません。クリスチャン生活において自分が誰なのか(キリストにあるアイデンティティ)、どういうポジションにいるのか(位置的真理)を知ることは極めて重要です。

 

 

旧約的考えからの脱却

パラダイムシフト(考え方の枠組みの変化)が起こったのです。旧約(古い契約)から新約(新しい契約)に移行したのです。

 

律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音(恵み)が宣べ伝えられ・・・(ルカ16:16)

 

恵みによって、信仰により救われる時代となったのです。キリストを信じる者はサタンの支配から御子の支配の中に移されたのです。つまり違う支配圏へ移行したのです。(コロサイ1:13)それなのに、旧約的考えをしているクリスチャンがいます。あなたはどうでしょうか?

 

⚫️ もっと清くなって、主の身元に近付かん

  クリスチャンといえども赦された「罪人」。所詮「罪人」にすぎない。汚れた

自分なんかは、まだまだ修行が足りないので、神の身元には近づけない・・・

神は怖い方。救われた確信がない・・そういう考えがありませんか?

 

キリストを信じたのなら、神の子供です。いつでも父なる神にアクセス可能

です。大統領の子供ならいつでも、大統領に電話できるでしょう。神に近づ

くことを願うより、神がうち住んでおられることを感謝する態度を持ちまし

ょう。もう古い自分は死んでいるのです。頑張るのではなく、信じましょう。

感謝しましょう。聖霊の風に乗って生活しましょう。そして、これが新しい

神の契約であることを覚えましょう。

 

⚫️ 聖霊様、来てください。

  キリストを信じたのなら、聖霊はすでにあなたの中におられます。ただし、

聖霊がおられることと、聖霊に満たされることは違います。満たされるよう

願いましょう。御霊によって歩み続けましょう。そして、神が特別に触れて

くださる時、特別に働かれる時はあるのです。聖霊の個人への、また地域へ

の働きを願うことは「あり」です。

 

⚫️ 礼拝堂は聖なる「神の家」なので静粛に・・・

  「礼拝堂は神のご臨在の場所なので、子供達は騒いではいけません」的な考

え、ありませんか?さっきまで冗談言って笑っていたのに、礼拝のプログラ

ムが始まると神妙な顔をする的な・・エクレシアは神の家族なのだから、お

すまししないで、家族的な雰囲気でいいんじゃないでしょうか。逆に神は、あなたの家の台所にもリビングルームにいらっしゃいます。日曜の朝だけ

神妙な顔をして、家に戻ると神なしの生活だとしたら、二重生活じゃないで

しょうか。元々楽しい食事会の一部だった「パン裂き」を、聖餐式という仰々しい儀式にして、その時だけ神妙な顔をして聖餐を受けます。偽善的態度を、子供達は敏感に気付きます。クリスチャン2世の問題は、親がキリスト教という「宗教」をやっていて、解放されていないことから来るのです。キリストが来たのは、信者を縛るためではなく、解放し、豊かな命を与えるためです。(ヨハネ10:10)

 

⚫️ 聖職者と平信徒という区別

 キリストが至聖所の幕屋を割いてくださったのに、司祭や牧師先生という特

別階級を置くことで、新約の「万人祭司」を蔑ろにしてしまっているのです。

賜物や役割はありますが、すべて主にあっての兄弟姉妹です。特別階級(特権階級)はいません。キリストにあるエクレシアには、旧約のレビ人や祭司はもういません。

 

これらの考えは「旧約」に戻ってしまっているのです。せっかくの子羊の犠牲を無駄にしないために、新しい「契約」を踏まえて「新約的」に生きましょう。

 

―――――― 

3回に分けて、「古い契約」と「新しい契約」について見てきました。旧約の神と新約の神であるイエス・キリストは違う神なのでは?との印象を持たれる方が多いのです。しかし、神は一貫して「契約と恵み」の神なのです。規定通りにできない人間を恵みによって赦す思想は旧約でも見られます。(II歴代30:9)ただ、大きな違いは、十字架以降、罪なき子羊の犠牲が捧げられ、キリストにある者は父なる神へのアクセスが可能となったことです。その証拠は、聖霊が信者の中に住んでいるということです。

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年5月23日木曜日

さらに優る幕屋

 

契約の神

前回、神は「契約」の神であるという話をしました。ビジネスに携わる人は「契約書」には慣れ親しんでいるでしょう。そうでなくてもアパートの賃貸契約とかはしたことがあるでしょう。契約書には必ず日付が入っています。これが大事です。新しい契約がされると、古い契約は無効になります。遺言書も日付の新しいものが有効となります。新約とは神との新しい「契約」のことです。罪なき子羊キリストが完全かつ永遠の贖いを成し遂げてくださったので、もはや、旧約(古い契約)にあるように動物の犠牲を捧げる必要がなくなっています。

 

「第二のものを立てるために、初めのものを廃止された。」 (ヘブル10:9)

 

ある意味、十字架以前と以降でパラダイムシフト(ものを考える枠組みの変化)が起こったのです。

 

旧約時代の聖所

旧約時代、神殿ができるまでは幕屋が神殿代わりでした。幕屋には「聖所」と呼ばれるスペースがあり、祭司が幕屋内で全焼の生贄を朝ごとに夕ごとに捧げ、毎日、聖所に入り、燭台の灯皿に火を灯し続けたり、12個のパンを新しいものに取り替え整えたりしていました。ソロモンが神殿を建てた後、礼拝は神殿で行われるようになりました。ところがソロモンの死後、イスラエルは偶像に染まっていました。しかし、ユダ王国のアビヤ王により、この聖所でのプラクティスが一時的に復活した模様です。(I I歴代13:11)

 

興味深いのは至聖所です。至聖所には、大祭司が1年に一度だけ入ることができ、

必ず、血を携えて入るのでした。自分と民の罪のための贖いをするためです。(ヘブル9:7)しかし、動物犠牲では礼拝するものの良心を完全にすることはできないのです。(ヘブル9:9)この制度は、新しい秩序が立てられる時までの期限限定の贖いシステム(9:10)だったのです。

 

さらに偉大な幕屋

大祭司キリストは・・・(ヘブル9:1112)

 

● 手で作ったものでない、さらに偉大な幕屋を通り、

● ヤギと子牛との血によってではなく、

● ご自分の(罪なき子羊の)血によって

● ただ一度、まことの聖所(天の幕屋)に入り、

● 永遠の贖いを成し遂げられた。

 

「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座(至聖所)に着

かれました。」(ヘブル1:3)

 

・・という訳で、キリストは罪のきよめを成し遂げられたのです。しかし、なぜ、血が必要なのでしょうか?

 

       「罪からくる報酬は死です。」(ローマ6:23)

                つまり、罪は命を要求する。

       「肉のいのちは血の中にある。」(レビ17:11)

       「血を注ぎ出すことがなければ、罪のゆるしは無いのです。」                   

                  (ヘブル9:22)

● 「いのちとして贖いをするのは血である。」

                       (レビ17:11)

 

・・・と、こういう論理になるのです。そして、罪なき子羊の血は永遠の贖いを可能にしたのです。

 

御子の血の効力

まして、キリストが傷のないご自身を、永久の御霊によって神にお捧げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(ヘブル9:14)

 

キリストの血は、動物の血ではできなかった、私たちの良心をきよめることができるのです。つまり内側からの変革をもたらすという事です。そして、罪責感を取り去る(ローマ8:1)ことができるのです。最大の効力は、父なる神へのアクセスを可能にするという事です。

 

今は、子羊の血による完全な贖いがなされ、新しい契約の時代に入っているのです。キリスト復活時に至聖所の幕が裂かれ(マタイ27:51)たことは象徴的現象です。神へのアクセスが保証されたという事です。(ヘブル6:19)しかも、私たちは信じた時、「アバ父」と呼ぶことのできる御霊を内に頂いたのです。(ローマ8:15)したがって、今更、旧約のシステムに戻るのは愚かな事なのです!

 

完全な贖い

もう一度整理してみましょう。

ヘブル10章に新旧約の対比が鮮明に書かれています。

 

旧約のシステム VS  新約のシステム

 

● ︎ 律法は影 VS  キリストは実物 (10:1)

   年ごとに VS   一度だけ (10:10)

   絶えず    VS   一度だけ (10:10)

●   同じいけにえ(繰り返し) VS    一度 (10:11)

●  罪が思い出される VS  罪を思い起こさない

            (10:3)、( 10:17)

● 罪を除くことができない VS  罪の清めは不要

 (10:4)、(10:18)

 

つまり、キリストは「ただ一度で」「永遠の贖い」を成し(9:12、10:10、10:14)遂げたのです。したがって、この子羊の犠牲により、

 

ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

(7:25)

 

「ただ一度」、そして「完全」で「永遠」の贖いに何か付け加えることができるでしょうか?いいえ。これで完璧なのです。それに付け加えようとするのがカルト(異端)です。

 

(続く)

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年5月16日木曜日

契約と恵みの神

 

イスラエルの神、主よ。天にも地にも、あなたのような神は他にいません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約恵みを守られる方です。

II 歴代6:14)

 

これはソロモンが神殿の奉献礼拝をした時の祈りです。ここに、「神は契約と恵み」を守られる方とあります。「恵みの神」はキリストゆえに私たちにも慣れ親しんだ言い回しですが、神は同時に「契約」の神です。これは日本人には少し違和感があるかも知れません。

 

「契約」の神

「契約」は通常、ビジネスで使われる言葉ですね。同じII歴代6:11にはこうあります。

 

主の契約が納められている箱をそこに置いた。その契約は、主が、イスラエルと結ばれたものである。

 

神のご臨在を表す「契約の箱」は文字通り「契約」の箱なのであって、中には神との契約書である「十戒」が入っていました。それが聖所の中心にあったのです。そして、イスラエルは神と契約した「契約の民」だったのです。アブラハムが多くの国民の父となることは神とアブラハムの「契約」だったのです。(創世記17:4)また、エジプト川からユーフラテスまで(現在のパレスチナ)、アブラハムの子孫にその土地が与えられることも神とアブラハムの契約でした。(創世記15:18)

 

簡単に言うと神の契約はこんな感じです。従順なら「祝福」、不従順なら「呪い」なのです。祝福とは土地や国が確保され、敵から守られ安全が保障されること。子沢山になること。(申命記8:1)天候が守られ産物に恵まれること。反対に、不従順だと、呪われ、国を失い、敵に攻められ(申命記8:19−20)、不妊となり、自然災害が発生し、作物に害が出ることなどです。

 

契約なので「そうすれば・・・所有することができる。」、「もし・・・ならば、あなた方は必ず滅びる」という書き方になっているのです。シリアスな契約は「血」の契約です。日本でも「血判」というのがありますね。サタン礼拝者たちは動物の血を持ってサタンと契約します。旧約の大祭司は動物の血を携えて至聖所に入りました。契約違反は命が要求されます。命は血です。血を流すことなければ、罪の赦しはないという思想です。(ヘブル9:22)ですから罪なき子羊イエスが十字架で血を持って贖いを成し遂げたのです。

 

「恵み」の神

しかし、「契約」だけなら不完全な人間側は守りきれません。ソロモンはII 歴代6章で、それを確認しつつ、さらに進んで、「罪に陥らない人は一人もいません。」(6:36)と正直に告白し、悔い改めし(方向転換し)、心を神に向けるなら「罪を赦してください」と祈っています。契約違反した時の「恵み」による対処を請うているのです。

 

ソロモンはこの時点で、すでに民が罪に陥り、捕囚となる可能性を示唆しています。(6:36−37)そして、実際、ユダ王国の民はバビロンに捕囚となるのですが、神はこれを憐れみ、恵みを施し、捕囚を70年とし、ついには解放し、イスラエルの地に戻すのです。この部分は契約ではなく、恵みです。

 

罪は罪で精算します。「契約」通り、処罰します。しかし、そこで終わらず、今度は「恵み」を施し、その呪いから解放し、回復し、さらに良いものを与えるのです。捕囚後、イスラエルの民は再び偶像礼拝に陥ることはありませんでした。一度壊されたエルサレムの街は復興し、イエスが来られた時にはエルサレムに立派な神殿が建っていたのです。

 

「不従順」→「さばき」→「思い改め」→「赦し」→「回復」これが聖書に流れるパターンです。

 

アダムとエバが罪を犯し、死が入ったのですが、神はすでに創世記3:15節で罪の許しと死からの解放を宣言されています。これは先行する「恵み」です。私たちもそうです。すべての人は罪を犯した(ローマ3:9)のです。そして罪からの報酬は死なのです。(ローマ6:23)契約通り執行されれば、地球上に一人も生きている人はいません。しかし、処罰はイエスの上に為されたのです。契約は執行されました。しかし、「恵み」がさらに増し加わり(ローマ5:20)イエスを信じる信仰による「義」が提供されたのです。

 

まさにソロモンが祈ったように、神は「契約」と「恵み」を守る方なのです。

このパターンを理解することが、解放されたクリスチャン生活を送るのに大変重要です。

 

旧約から新約へ

さらに旧約と新約での「契約」の内容の変化を知ることが大切です。なぜなら、十字架以前と以後で、この「契約」の内容が変わったからです。これに関してはヘブル書全体で詳しく解説されています。次回、詳しく見ていきます。新約とは新しい「契約」のことです。新しい「契約」の下では、古い契約「旧約」の下にはいないのです。(ヘブル8:13)ですから旧約的な神へのアプローチをしてはいけません。キリストにあるものは、神の御前で、ステイタスが変えられているのです。

 

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年5月9日木曜日

ペンテコステに火は降らない

 

新約の御霊

以前、旧約と新約で聖霊の働きが違うことを見てきました。旧約では特別な任務のために、特定な人に、上から神の霊が激しく下ったのです。サムソンのように、必ずしも、人格者では無いけれど、神の霊が一方的に下って、ある働き(この場合、イスラエルの敵であるペリシテ人を討伐する)をさせたのです。

 

新約ではイエス・キリストを信じるときに、聖霊が賜物として与えられます。(使徒2:38)しかも、神に召される人なら誰でも、すなわち、信じる人誰にでも与えられるのです。(使徒2:39)与えられるだけでなく、神の御霊は信者のうちに住むのです。(コリント3:16)また御霊は信者がやがて受ける「御国」の保証であり、(エペソ1:14)、また朽ちない体に復活する保証でもあるのです。(IIコリント5:5)そもそも聖霊によるのでなければ、「イエスは主です。」と言うことはできません。(コリント12:3)知識を増しても、洗礼を受けても、教会員名簿に載っていても、聖霊の働きがないと、心から「イエスは主=神=救い主」と告白できないということです。もっとはっきり言うと、聖霊を持ってなければクリスチャンではありません。(ローマ8:9)そして、自分が神の子供であると確信を持つことができません。(ローマ8:16)

 

ペンテコステに付きまとう「ファイアー」のイメージ

イエスご自身が約束されたように(ヨハネ7:37−38、ルカ24:49)、聖霊はやってきたのです。(使徒2章)よく、聖霊と火が結びつけられます。クリスチャンの大会で「聖霊の火をいま、ここに下してください!」と語る説教者がいますが、使徒2章3節は「炎のような舌」とあり、炎そのものではありません。ペンテコステの日に天から「火」が降ったのでもありません。「火」よりも、「響き」(2節)、「物音」(6節)の方が強調されています。

 

またマタイ3:11に「その方は、聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」と確かに「火」が関連づけられて出てきます。しかし、ここで「火」は、さばきの事を語っている文脈で使われています。11節のすぐ後の12節には「火で焼き尽くされる」とあります。つまり、ここでの火は聖霊から来る「力や情熱」を表すというより、「さばき」の火なのです。裏を返せば、神の「聖さ」の証明と言ってもいいでしょう。また聖書の他の箇所では「火」は試練を通って浄化、純化されるという意味で使っており、信者が成長のために通る試練・訓練(ヘブル12:5−11、Iコリント3:15)の意味と取るのが相応しいと思います。特に当時、クリスチャンとなるということは迫害を受けることだったのです。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」IIテモテ3:12)

 

旧約での火という表現を見てみましょう。出エジプトでは、モーセの「燃える柴」や、イスラエルを導いた「火の柱」は、神のご臨在と栄光を表しています。聖霊を受けると私たちが神の宮となり、キリストは私たちのうちに「栄光の望み」として内住されるのです。(コロサイ1:27)エリアがバアル信者と戦った時、祭壇に天から火が降りました。神が神であることの「証明」だったのです。エリヤやエリシャが見た「火の戦車」、「火の馬」は、天的なもの、この世のものでないを表しているようです。聖霊を受けると、天的な(聖書的な)価値観に浸されるのです。ソドムに降った火は裁きであり、神の聖さの証明です。そのように、旧約でも、「火」は私たち側の情熱や力より、神ご自身の臨在、栄光、存在の証明の描写なのです。だから、「火のバプテスマ」は神のご臨在、栄光に浸されると考える方が聖書的なのではないでしょうか。

 

使徒1:8では、聖霊が来られると宣教の「力」を受けることが約束されていますが、「火」という表現はありません。

 

そもそもバプテスマの意味は「浸す」です。白い布を赤い染料に浸すと、真っ赤に染め上がります。聖霊のバプテスマとは聖霊に浸されることです。またキリストと一体化することです。(Iコリント12:13)従って、聖霊のバプテスマとは信じた時に御霊によってキリストの体に同一化されること、キリストの体の一部となることです。

 

「異言」は聖霊が来たしるし?

「聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のことばで話し始めた。」(2:4)と不思議な現象が書かれています。これは、新約時代(聖霊時代)の幕開け、オープニングイベントとして、まず弟子たち自身、そしてユダヤ人信者たちへの

「しるし」ないし確証(confirmation)だったと言えます。つまり、「本当だ、イエス様の約束した通り聖霊が来られたのだ。」と知るためです。また、これはそこに居合わせた神を敬う外国から来ている人々への証でもあったでしょう。事実、この現象を見て、ペテロの説教を聞いてキリスト信者になり、ローマに戻った人々がローマでエクレシアを始めたようです。ローマ教会はパウロが始めたのではありません。すでに始まっていたエクレシアに向けてパウロが書いた手紙が「ローマ人ヘの手紙」です。つまり、ペンテコステの一連の出来事は、ペテロが語る福音を確証(confirm)するためであったと思われます。オープニングイベントが終わった今、そのような劇的な事は、もはや必要ではありません。聖書の権威も確立しています。個人がイエスを信じ、聖霊が来られた「しるし」として「異言」を語る必要性はなくなりました。

 

ただ、個人の霊的成長に役立つ賜物としての「異言」はあるようです。コリント教会で問題となった「異言」(Iコリント14章)は、使徒2章の「異言」とは異なります。使徒2章の「異言」は「人に向かって語る」ものであり、「異国の言葉(外国語)」だったのです。だから外国人は話の内容が分かったのです。(使徒2:8−11)それに対してIコリント14章の「異言」は「人に向かって語るのではなく、神に向かって語る」(コリント14:2)のです。聞いている人は理解できないのです。(14:2)この異言は個人的な成長に役立ちます。(14:4)個人デボーションなどで用いられるでしょう。このような個人的に与えられる「賜物」としての「異言」はあるのです。ただ、ことさらに「異言」の賜物だけを強調して、受けるように指導するのは違うのではと思っています。賜物なら与えられるのです。また、教会の中での使用は注意すべきです。パウロは14章で細かく指示していますね。また「種々の異言」(コリント12:10)とあり、他の人が聞いて益となるものもあるようです。(預言に近い?)ただし、この場合「解き明かし」が必要になります。(コリント12:10)

 

第二の祝福としての「聖霊のバプテスマ」?

自分は「きよめ派」の教会で洗礼を受け、その神学の中で育てられ、献身してから、アメリカの「きよめ派」のバイブルスクールで学びました。そこでは第二の祝福としての「きよめ」の体験が語られていました。あなたは「救われていますか?そして、きよめられていますか?」と2段階で問われるのです。「聖くなければ、誰も主を見ることができません。」(ヘブル12:14)が強調され、「きよめ」られていないと携挙の時に主に会えないのではと不安になりました。

 

今は、ヘブル10:10が言うように「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」をベースに平安が与えられています。ともあれ、救われて、そして、次に第二の祝福として「きよめ」の体験を受けることが重要と教えられていたのです。これは、構造的にはカリスマ・ペンテコステの人たちが言う「聖霊のバプテスマ」と同じです。信じた後に受ける、第二の祝福としての「聖霊のバプテスマ」です。

 

ただし、聖書の中には「聖霊のバプテスマを受けなさい」という命令はありません。その代わりに「聖霊に満たされなさい」との命令はあります。(エペソ5:18)コリント3:1―3では、生まれながらの人(ノンクリスチャン)、肉に属する人(クリスチャンだけれども、自分の心の王座には自我が座っている状態。言動は「生まれながらの人」と変わらない。)、そして御霊に属する人、すなわち、御霊に満たされ、心の王座にキリストが座している人の3種類の人間が出てきます。それからも分かるように、確かに救われた後、御霊に満たされることを学び、体験する必要があるのです。肉のクリスチャンの間には「妬み」や「争い」があります。教会がその状態のままでは主に喜ばれることはできませんね。

 

聖書的にはキリストを信じる人は、義と認められ、神の家族として「聖別」されています。ステイタスは「聖人」です。同時に、実質的にも御霊に満たされ、御霊によって歩む必要があると言うことです。(ガラテヤ5:16)御霊に満たされることは一度、満たされたから、それでいいのではなく、御霊に満たされ続ける、御霊によって歩み続ける必要があるという事です。

 

私の理解では、「聖霊のバプテスマ」とは、信じた時にキリストと同化すること(キリストの体の一部になること)です。

 

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。 I コリント12:13)

 

ですから第二の祝福として「聖霊のバプテスマを受けよ」という表現は相応しくないのではと思っています。これは「聖霊に満たされる=聖霊にまったく浸される」体験と理解されるべきでしょう。すでに与えられている「御霊」が、もう一度「下る」のはおかしい話です。そして、第二であろうと、第三であろうと、祝福としての「霊的体験=神に触れられる体験」はクリスチャン生涯の中で様々体験することでしょう。私が学んだケンタッキーのバイブルスクールでは、集会中に、主に触れられ、叫んだり、飛び上がったり、駆け回ったりする学生がいました。また主に語られたとアラスカに宣教師に行ったクラスメートもいます。そういう体験はあるのです。しかし、それはあくまで結果であり、そういう「体験」を求めるのは間違っているでしょう。彼らが今日、主と誠実に歩んでいるのかという方が大事なのです。

 

「今、ここにペンテコステの日のように聖霊の火を下してください!」と聖霊に「情熱」、「力」としての「火」が結びつけられやすいのですが、聖書的には、どうも根拠が薄いのです。大会で一時的に盛り上がるより、日常生活の中で、「御霊に満たされて」、ご臨在の中で、淡々と歩む方が大切なのではないでしょうか。

 

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執筆者:栗原一芳