2013年3月31日日曜日

「遊び」を神学する



 ニューヨークにはセントラルパークがあり、東京には日比谷公園や代々木公園がある。一見、非生産で土地を無駄にしているように思える。しかし、都会だからこそ、この「遊び」スペースが必要なのだ。さらに興味深いのは美術館。人々はこの非日常空間で、立ち止まり、作品を見、自分を顧みる。静けさの中で、霊的な体験さえする。ある意味の礼拝堂なのだ。

「新しいものを展示し、その意味を問いかける実験室、記憶の消滅に対抗するための作品の収集保管(記憶の保管庫)であると同時に、美術館は、非物質的なもの精神的なものとの出会いの場所として、宗教的な礼拝の場所に比較されることが多い。」(「キュレーション」 長谷川祐子 集英社新書)

都会人にとって、日常生活から逸脱する「他なる場」が必要なのだ。かといって全くのユートピアに行く訳にはいかない。そこで美術館や公園、図書館の存在がある。確かに、静かな図書館に座っていると礼拝堂にいるのと同じような気持ちの安らぎを感じ得る。

「美術館は非日常的な空間である。我々は予測可能な日常空間だけでは息が詰まってしまう。予測不可能で非日常的な要素が都市の中には必要で、例えば都市の中に流れている水としての川が、その例である。」(同書p.80

佃や、豊洲といった水のあるところにいくとワクワクするのは私だけだろうか?私の知人の芸術家は多摩川にスピリチュアルなものを感じるとして、多摩川の絵をよく描いていた。現代人は宗教性を失ったのではない。非日常世界やスピリデュアルな渇きを失ったのではない。ただ、礼拝堂に行く代わりに例えば「映画館」にいって非日常を体験し、魂をリフレッシュし、時に人生を変えるメッセージを受け取っているのだ。これはトーマス・ルックマンが「Invisible Religion 」の中ですでに指摘している。現代でも魂の癒しや高揚は必要なのであって、ただ、現代的なツールにsubstituteしているのだ。いずれにしても会社や学校といった日常空間とは違う「場」で魂の癒しや高揚、すなわちスピリチュアルな体験をしている。それは「遊びの空間」と言ってもいい。

前に紹介した「わが故郷、天にあらず」の中で、ポール・マーシャルは「遊びはクリスチャンにとって最も崇高な召しの1つだ。」と断言している。「私達の生活の多くの時間は、何かを生産したり変えたりすることに使われているが、遊びはそうではない。単純にこの世界でくつろぎ、神との平和を楽しんでいるのだ。」(p.118) さらに「遊びとは理由もなく、することだ。遊びは遊び以外の理由で為されない。・・だが、遊び自体はすばらしく正当で、敬虔な仕事だ。なぜ敬虔なのか?それは役に立たないからだ。遊びは本来、役に立たないものなのだ。・・本当の遊びとは他のどんな理由のためにもなされないものである。・・私達が神を礼拝するのに、礼拝以外の隠れた目的はない。家族や友達と楽しく過ごすのは、それ自体が楽しいからだ。夕日を見つめるのは、それが何かの別の目標達成に役立つからではない。私達が遊ぶのも、それが本当の遊びなら、ただひたすら遊びたいからなのだ。ここで、礼拝、信仰、休息、遊びが互いに関連しているのがわかるだろう。・・・遊びは礼拝に似ている。旧約聖書の箴言は、擬人化された知恵について語っている。その知恵は、主の御前に遊んでいた。」

毎日、毎日、私はそこで遊んでいた。
神の御顔の前で、いつも遊び回っていた。
神の造られた地上でくまなく遊び、
すべての人々と楽しんだ
          (箴言8:30−31 カル・スイアフェルト訳)

ユーモラスなマンボウやカメレオンを見る時、神の創造の遊び心を見る。機能だけならこの世界を全部灰色にしても良かった。しかし、この春、美しい桜のピンク色を私達は楽しんでいる。

福音派には敬遠されていたラディカル神学の中に「遊びの神学」というのがある。神は何か不足があって「必要」から世界を造ったのではない。そうであれば神は自己充足の神ではなくなる。「必要」からでなく、世界を造ったのであれば、それは「遊び」ではないかと。不敬虔に聞こえるが一理ある。一番、大事なものはお金で買えない。命はセックスという究極の「遊び」から生まれるではないか。人間にとって一番大事なのは神を「礼拝」することではないか?礼拝は産業とは対極にあるもので、むしろ「遊び」に近い。恋人達のデートに近い。「遊び」はまた、「セレブレーション」と言ってもいい。遊びは祭り(セレブレーション)と親密性がある。プロテスタントにはカトリックに比べ「祭り」や「儀式」が少ない。「世俗都市」で60年代一躍有名になったラディカル神学者のハービー・コックスは「愚か者の饗宴」(1969)でプロテスタントにはもっと「祭り」が必要であると提唱していた。

走り続けていてはいけない。時々、立ち止まって過去を記憶し、瞑想し、祝福する「祭り」が必要なのだ。それが現在を確認し、前に進ませる力となる。イスラエルの人々は、一度進行を止め、「神がここまで助けてくださった」として石を積み上げ記憶した。一週間に一日、安息日がある。リズムがある。それを神は計画された。車のハンドルには「遊び」がある。だからスムースに車をコントロールできる。遊びやしなやかさが無いものはパキンと折れる。だから「遊び」は「仕事」同様、神からの崇高な召しであり、同等に大事なものだ。

また、遊びはセレブレーションであるがゆえ、「笑い」でもある。人生を思い詰めないために言う「ジョーク」は大事な言葉の「遊び」なのだ。仕事が大変な時こそジョークを言う。人を笑わせるコメディアンは、知らずして神の業を為しているのだろう。腹を抱えるほどに笑わせるのは神聖な奉仕だ。その側面がないと人生がパキンと折れる。まじめな人ほど鬱になる。イエスはユーモアを大事にされた。神は冗談がわからない方ではない。
----------------------------------

ご感想をお待ちしています。
asktmc@gmail.com (栗原)

2013年3月19日火曜日

人生成功の秘訣


人生成功の秘訣

単なる、仕事の成功ではありません。人生の成功の話です。お金を儲けても人生が貧しい人もいるでしょう。神が与えようとしているのは豊な人生(ヨハネ10:10)なのです。全ての領域で豊になる。そんな人生を送るには、まず健全なマインドセットが必要です。

MIND SET: 前提となる3つのこと

1. あなたは神に似せて造られた最高傑作です。(最高のセフルイメージ)創1:27
GOD MAKES NO JUNKという言葉がある。最高の神が精魂込めてお造りになった
最高作品があなたです。

2. あなたは神に愛されています。(最高の原動力)  Iヨハネ4:10
神は精魂込めてお造りになった「あなた」を当然、大切に思っています。愛とは大事にすること。毎朝、「神様、私をどう思ってますか?」と聞いてみてください。愛されていることは最大の、そして最高の人生の原動力、モティベーションとなるのです。

3. あなたの人生には大きな目的があります。(最高の目的) 天命 エペ2:10
それほど、大切な存在である「あなた」には、神が託しておられる大きな大事な目的があるのです。そうでなければ、信じた時、すぐに天に引き上げられているはずです。この地上で大切なお役目があるのです。 
       
(3つのポイントは「王様マインドと奴隷マインド」 松島修著 サンマーク出版による)


この前提に生きる事が王様マインド。その反対が奴隷マインド。その反対を考えてみましょう。すなわち

1. 自分は駄作だ。ダメな人間だ。
2. 誰も愛してくれない。愛される価値もない。価値は自分でつける。
3. 生きている意味がない。仕事に意味がない。その日、その日を食いつなげればいい。

このような生き方の人が幸せになるでしょうか?それは一目瞭然です。しかし、人生に迷う時、仕事で落ち込む時、サタンは奴隷マインドに私達を誘惑します。「どうせオレなんか」と。その時、悪魔の声を振り捨てて、王様マインドに戻るべきです。奴隷マインドでは絶対に幸せになれません。

さて、マインドセットが決まったら、優先順位です。

PRIORITY 
聖書には「金銭を愛する事は、すべての悪の根です。」(第一テモテ6:10)とあります。お金自体は悪ではありません。金銭を愛することが悪なのです。愛するのは「人」であって「金」ではありません。「人」は愛するもの、「金」は人を愛するため使うもの。しかし、現代では「金」を愛して、「人」をその手段に使ってしまうのです。この優先順位が間違うと決してよい家庭、会社、社会にはなりません。ついには環境、人間関係、信頼、そして幸せを失うのです。

神の姿に造られた人間はこの地を「治める」よう(Develop) 命じられたのです。自然搾取は聖書的ではありません。17Cからの人間中心主義の影響です。聖書では管理、つまり与えられているリソースの管理(お金、時間、自然界の資源、人材・・・・)、ケアすることを言っているのです。だからCO2, 生物多様性。エネルギー問題も全部、クリスチャンに関係あるのです。神の姿に作られた人間として、責任があるのです。神は人間だけでなく、全環境に関心がある。ノアの箱船を見ればわかりますよね。

管理者であるとは所有者でないということです。ここを間違ってはいけません。所有者は神。神が主人であることを認める。私達はその神からお金も時間もリソースも任されている。それを主人のお心に沿って管理しなければなりません。率直に言えば、お金儲けを目的としないということです。お金は目的でなく、あくまで手段なのです。 神と人を愛することが目的。愛のためにお金を使うことを考えていれば脱線しません。

ACCOUNTABILITY報告義務
ルカ19:15−23(ミナの譬え) ここでわかるのは、与えられたリソース(才能、時間、お金など)を効果的に使うということです。管理ができた人は主人にほめられ、やがて、町を支配するのです。私達は御国を受け継ぐのです。キリストとの共同相続人です。また、人生の終わりに主人から「あなたに与えた時間、お金、能力をどう使いましたか?」と問われるのです。報告義務があるのです。御国のために投資したか、浪費したかということです?

 MISSION
あなたの人生には目的があります。人生の目的、言い換えればライフワーク、ミッション、使命、天職、天命とも言えるでしょう。その使命は、この地上を素晴らしい天国のようなところに変えてゆくことです。皆さんは、主の祈りで「天に御心がなるように、地でもなりますように」と祈りますね。後は寝転がって何もしないのでしょうか?あなたは、神の姿に造られた神のパートナー、王の見習い人なのです。神と共に御国がこの地上に実現するように働くのです。そして、やがて御国が任されるのです。奴隷は目の前の言われた事しかしません。使命ではなく、単なる仕事だからです。他者が自分に何をしてくれるのか、ではなく、自分は他者に何ができるかというマインドセット。これが王様マインドです。神の姿に作られた王様の代理人。王様見習い。社長の目で、市長の目で、総理の目で王の目で見て考え、行動します。これが幸せの秘訣。お任せ民主主義からの脱却。国の批判より、何が出来るかを考え行動しましょう?与えられている場所で使命感を持ちましょう。神からの目的(天命)のために自分を成長させ、時間、お金、リソースを効果的に使いましょう。

LIFE STYLE
仕事自体が社会をよい方向に変革するものと理解しましょう。王様マインドの仕事は、人を幸福にすることでお金は後からついてくる、人を富ませることで報酬を得るのです。働くのは生活のため、残りの時間に社会貢献と遊びと切り分けない。人生の70−80%を使う仕事は必要悪なのでしょうか?仕方の無い徒労なのでしょうか?神はそのように私達の人生を意図したのでしょうか?羊が来たのは私達が命を得、それを豊かに持つためではないでしょうか。一人子イエスが命を捨ててまで購ったあなたの人生なのです。1日たりとも無駄なはずはありません。「王様マインドの著者、松島さんは、仕事、社会貢献、遊びの三位一体を提唱しています。これぞ、人生の成功者の姿です。
———————————— 
推薦本:「王様マインドと奴隷マインド」 松島修著 サンマーク出版

コメントお待ちしています。
asktmc@gmail.com (栗原)

2013年3月5日火曜日

セレブレーションの主



 日本のキリスト教界では十字架が強調されるが、そこで止まっている感がある。主は復活した。だから、西洋ではイースターは華々しいお祭りとなっている。クリスマス以上にイースターを祝うべきなのだ。イースターこそ、福音(グッドニュース)の花火。主は死と闇に打ち勝ったのだ。

さて、ヨハネの福音書には7つの奇跡が記されているが、最初の奇跡があのカナの婚礼での水をワインに変えるという奇跡。ラザロの復活と比べると何ともかわいい奇跡。そして、ここのムードはとてつもなく明るい。さて、どうしてこの奇跡が一番始め、イエスのミニストリーのオープニングを飾っているのか?ラザロの復活のほうがドラマチックじゃないのか?しかし、これはイエスの働きのオープニングには相応しかった。イエスは祝宴の席にいた。一緒に飲み食いしていた。イエスはよく一緒に食事をする人。イエスは笑ったかという神学論文があるそうだが、イエスは笑い声のするパーティが大好きだったのだろう。祝宴の席にいただけでなく、水をワインに変えた。みんながもっと楽しくなるように。喜ぶように上質のワインに変えた。(ワインを飲む事が罪ならイエスは絶対にこの奇跡をしなかったはずだ)

水の上を歩くのも凄い奇跡だし、嵐を鎮めるのも凄いが、自然法則がより強い力で治められたということで、質が変わったのではない。ワインの奇跡においてのみ、質が変えられている。H2Oの分子が変わってCH3OHエタノールになった!地味だが、ここが重要。イエスは人生の質を変える。つまらぬ味気ない人生から毎日がセレブレーションの人生へ。

ワインは祝宴のシンボル。ここで神は、人生は本来、主とともに歩くセレブレーションというメッセージを伝えたかったのだと思う。66巻の聖書の真ん中あたりに雅歌がある。難しい律法書でも、神学書でもない。なんとこれはソロモン王が書いた“LOVE SONG”なのだ。しかしこれこそ神と私たちの関係を一番よく描写している。礼拝の本質を一番よく表している。あれしろ、これするなの律法ではなく、愛し愛されているという関係。信仰は愛の祝宴なのだ。事実、イエス様と教会の関係は花婿と花嫁として描かれているし、「礼拝」の語源はkissだという。放蕩息子が戻ってきたとき、それはセレブレーションであった。父は戻ってきた息子をハグして、キスして喜んだ。パーティを開いた。一人の罪びとが悔い改めると天で大きな喜びが湧き上がる。さて、私たちクリスチャンは、どこに向かっているのか? ヘブル12:22にはこうある。


「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝宴に近づいているのです。」 


 私達は滅び、闇、混乱に近づいているのではない。行き着くところはセレブレーション。
 ゴールを知って生きることは大事です。私たちはどこに向かっているのか?以前の天と以前の地は過ぎ去る。新しい天と新しい地がくる。(黙示21:1)そこでの祝宴に近づいている。これが事実なのです。だから、カナンの祝宴はその雛形。だからイエスのミニストリーのオープニングに相応しかった。

 日本には、一生懸命まじめなクリスチャンが多い。しかし、ともするとマリアよりはマルタ、放蕩息子よりはお兄さんのような喜びの無い、律法的なクリスチャンが多い。神はあなたの存在を喜んでいる。三位一体はお互いを賛美し、喜び踊っている姿と言われている。そのよろこびと交わりを体験させたくて神は人を作り、愛を注いだ。

 イスラエルの十一献金について驚くべき箇所がある。申命記14:24−26。

 「もし、みちのりがあまりに遠すぎ、持って行く事が出来ないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶべき場所にいきなさい。あなたはそこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、ひつじ、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。」

 ここで民が十一献金を用いて飲み食いし、楽しむよう神に命じられている!ということだ。パーティに使われたとも言える。3年ごとに十一献金は盛大な「祭り」のため使われ、みなしご、やもめを養うと共に満ち足りるまで食べて飲んだのだ。祭りはセレブレーションそのもの。さらに申命記14:29には「あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」とある。すなわち仕事への報いとしての3年ごとの祭りパーティなのである。神はあなたの仕事に報いたいのだ。23節にも捧げたぶどう酒、油、牛、羊の十一を食べなさいとある。十一を神が取り上げるのではなく、民に返されてる。それこそティム・ケラー(NYリディーマー教会牧師)が言うごとく放蕩息子ならぬ、「放蕩の神」なのだ。溢れるばかりに、御子さえも惜しみなく与えたもう神。この神と共に歩から人生はセレブレーション。

 姦淫と人殺しをしたダビデがどうして、イスラエルのヒーローであり、神が高く評価するのか納得がいかなかったが、I歴代誌29章を読んでいる時、その答えを見たような気がした。神のために沢山働いた人は多くいるだろう。犠牲を払った人は多くいるだろう。殉教した人さえいる。しかし、ダビデほど、神を「喜んだ」人がいるだろうか? ダビデはセレブレーションの極意を得ていたのではないか? 王権を息子のソロモンに渡す時の事だ。

 「その日の翌日、彼らは主にいけにえをささげ、全焼のいけにえをささげた。雄牛千頭、雄羊千頭、子羊千頭、これらに添える注ぎのぶどう酒、それに全イスラエルのためおびただしいいけにえをささげた。」(I歴代29:21)

 悲痛な顔を捧げたのではない。喜んで進んで捧げたのだ。そして、1000頭のバーベキューを分かち合って皆で食べたのだろう。次の節にこうある。

 「彼らはその日、大いに喜んで、主の前に食べたり飲んだりし、・・・・」

 まさにそれはセレブレーション。カナの婚宴がダブってくる。

ーーーーーーーーー
コメントお待ちしています。
asktmc@gmail.com (栗原)