2024年4月25日木曜日

サタンに立ち向かえ!

 

御国は王国

「御国」は英語ではKingdom と訳されており、「王国」と言う方が、元来の意味に近いのです。つまり、王がいて、その王が統治する国が王国です。御国はキリストが王として統治する国です。もともと1つの王国だったのです。神が統治する世界・・・「見よ、それは非常に良かった」(創世記1:31)のです。

 

2つの王国の始まり

最高位天使のケルビムが高慢になり堕落した結果、神に反抗するという「悪」がこの世に入ってきたのです。(エゼキエル28章)堕落した天使はサタンとなりました。神が用意された宝石のエデンの園は廃墟と化しました。(創世記1:2)

 

神は新しいエデンの園を創造され、そこにご自身のイメージに人を造られました。これにサタンは驚きと大変な嫉妬心を起こしたことでしょう。「本来、自分が享受すべき祝福を人間に取られた!」と。そこでサタンのメラメラと燃える嫉妬心と情熱は人を騙して神に逆らわせることに向けられたのです。どうしても人間を失落させたい、自分と同じ堕落の運命の道連れにしたいと。そういう意味では人が罪を犯す前から「悪」が存在したことになります。サタンの誘惑に負けてアダムとエバは罪を犯してしまいました。何より神が大事に思い、愛している人間が、その創造主なる神に反抗し、神を憎み、神を否定するように仕向けられれば、最高に嬉しいわけです。以来、サタンは今日に至るまで、それをし続けています。

 

つまり、1つだった王国は今、2つの王国の対立になってしまいました。「神の王国」と「サタンの王国」。「光の王国」と「闇の王国」です。サタンは一時的にこの世を支配することが許されているのです。(エペソ2:2、II コリント4:4)サタンを拝せば、世界の栄華を手に入れることが可能なのです。(ルカ4:5−6))また、「この世の神」として人々に快楽と異端的思想を植え込み、人々の霊的目をくらますことが許されています。キリストを王とする神の国に対抗して、今やサタンは「闇の帝国」を支配し、広げているのです。人々はどちらかを選択することができるのです。

 

真似をするサタン

サタンは神の代わりになろうとしています。サタンは真理を見せたくないのです。誘惑し、惑わし、騙すのです。自分が礼拝されたいので、神を真似るのです。例えば、神は、父・子・御霊の三位一体です。黙示録を見るとサタンは竜(サタン自身)・獣(反キリストなる人物)、偽預言者(獣を崇めさせる)として悪の三位一体を形成します。また、神は契約の神であり、アブラハムやダビデと契約をしました。そもそも「旧約」とは古い契約であり、「新約」とはキリストにある新しい契約です。罪なき「子羊の血」が流されたことにより、人の罪が赦され、贖われます。新しい「契約」が成立しました。神が契約したことであり、それは確かなのです。神はご自分の忠実さにかけて契約を実行されます。

 

サタンも契約を真似します。サタンも自分と契約し、自分に献身させることで、悪魔的なパワーを人に授けます。動物の血を流させ、同じく血の契約をさせるのです。そうすれば、人を呪う力や快楽を手に入れられるのです。サタンを拝すれば、名声や成功も手に入るでしょう。有名な歌手や映画俳優で、そのようにしている人もいるようです。サタンに献身するとは、サタンの奴隷になるということです。ヤクザ世界に入るようなもので、簡単には出られません。出ようとすれば脅しに会うのです。それは偽りの幸せです。サタンは人間を愛していないのです。人間の幸せなど願っていないのです。サタンは、最後は「奪い、殺し、滅ぼす」だけが目的です。(ヨハネ10:10)反対にキリストは「豊かないのち」を与えるために来られたのです。

 

サタンの戦略

哲学的には無神論や懐疑論、また進化論思想を用いて聖書を否定します。宗教的には、諸宗教を使い、またキリスト教の異端やリベラル神学を用い人を騙します。「宗教は皆同じ、結果、同じ神にたどり着く」という万人救済論に導きます。そうやって唯一の救い主、キリストを否定します。また、ポワースポットや霊媒、占い(星占いやタロットカードなど)を通して、偽りのスピリチュアリズムを広げます。終わりの時代には多くのものが「魔術」に惑わされます。(黙示18:23)今もハリーポッターが大流行りですね。しかし、神は「魔術」を嫌います。(黙示22:15)聖書を知らなければ、霊はすべて同じものと考え、それらが「悪霊」であることが分かりません。

 

「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」ヨハネ4:1)

そして究極は、悪魔礼拝です。サタンに献身し、サタンを直接礼拝してしまうのです。サタンを賛美し、サタン的な価値観の伝道者となるのです。恐ろしい事です。ここまで行くと実際に呪いの力や予見力が与えられ、人が空中浮揚するのを見たり、幽霊を見たり、身近に悪霊の存在を体験するようになるようです。元悪魔礼拝者で、救われて伝道者になっているジョン・ラミレス氏の証を聞くと、この辺の事情がよく分かります。

 

サタンは賢いので、次世代を汚染すれば人類を失落させられることを知っているのです。最近は、ゲームや、ネット動画を通して子供達に「闇の王国」を意識づけ、無意識的に神を否定したり、憎んだりするように仕向けています。多くの人々は、当たり前のように進化論的世界観に洗脳され、快楽・繁栄、栄華を求めることが幸せに通じると騙されています。それらは、サタンが提供する偽りの幸せです。

 

罪の社会の中で傷ついた人が増えています。うつや孤独感の中で漠然と世の中を恨む人が増えています。「誰でも良かった。人を殺したかった」という犯罪はまさに悪魔的です。また、サタンは自殺しようとする人の後押しをします。サタンは、憎しみや嫉妬心を持っている人を狙ってきます。そういう人は「足がかり」を持っているので、攻撃されやすくなります。

 

また、サタンが高慢から堕落したように、サタンは高慢な心に棲み着くのです。もうすぐAIが人間の知能を追い越すと言われています。人は神に聞くより、AIに判断を仰ぐようになるでしょう。神なしの「バベルの塔」をまたも築こうとしているのです。残念ですが、終わりの日には、「すべての国々の民」がサタンの魔術に騙され、反キリスト側につき、神を信じる聖徒たちを迫害するようになると預言されているのです。

 

おまえの商人たちが地上で権力を握り、おまえの魔術によってすべての国々の民が惑わされ、この都の中に、預言者たちや聖徒たちの血、また地上で屠られたすべての人々の血が見出されたからである。(黙示18:23−24)

 

やがて来る神の統治

患難期でも反キリストに従う人たちは「いい暮らし」ができるのです。商売は繁盛するのです。快楽に浸れるのです。(黙示18:15−16)しかし、それは一時的な王国なのです。反キリストが「神」宣言をしてから、たった3年半で終焉を迎えます。キリストが再臨されるからです。

 

「1つ」から「2つ」へ、そして「2つ」から「1つ」へです。もともと1つの「神の王国」だったのです。そこへ、「サタンの王国」が割り込んできました。今、人々は目の前に、この2つの選択があるのです。神に従うか、サタンに従うか。しかし、将来、キリストの再臨があり、サタンは滅ぼされ、また1つの「神の王国」へ戻るのです。

 

惑わされてはいけません。サタンは誘惑します。いい世界を見せます。しかし、それは惑わしなのです。重要な事実、それは、<サタンは人間を愛していない>という事です。人間の幸せなどどうでもいいのです。道連れにするために騙しているだけです。早く、目覚める必要があります。偽りがあるなら、本物もあるのです。キリストは言いました。

 

「わたしが道であり、いのちであり、真理なのです。」(ヨハネ14:6)

 

サタンに対抗せよ!

サタンは未信者に霊的覆いをするだけでなく(IIコリント4:4)、クリスチャンをも誘惑し攻撃してきます。だからパウロは霊的戦いの備えをするよう語っているのです。(エペソ6章)。神学を勉強するのはいいのですが、賢くなるとサタンや「霊的戦い」のことを語らなくなる傾向があります。「社会善」の方に関心が向きます。しかし、「イエスの血」の力を語らないなら、サタンは平然としていられます。サタンのことを真正面に語らない、お行儀の良い、物分かりの良いクリスチャンたちも、違う形でサタンにやられてしまっています。この時代、悪魔なんか・・・と訝るクリスチャンは、この聖句をどう読むのでしょうか?

 

身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吠えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。               ペテロ5:8−9)

 

悪魔に対抗しなさい。(ヤコブ4:7)

 

とヤコブも言っています。サタンや悪霊の存在がリアルであり、戦いが現実のものだからです。私たちが見るもの、聞くことにも注意しないと、悪魔的価値観が滑り込んできます。そうして「思い」が汚されていきます。物分かりの良い「多様性」、「世界統一宗教」への協力も、実のところ唯一の救い主、キリスト否定であり、悪魔的な動きと言えます。サタンは賢いので、次世代をすでに狙っています。サタンは子供達に「魔術」的なものを流行らせようとします。神は魔術を嫌います。(黙示21:8)サタンに対抗しなければなりません。ゲームやYouTubeも霊的検閲をしないと、容易に悪魔的価値観やライフスタイルが入り込んできます。2つの王国のことを思い起こしてください。これは個人の道徳問題に留まりません。国同士の戦いなのです。占いをしたり、ポルノを見ることは個人の霊性が汚されるだけでなく、それは「悪魔の王国」建設に貢献していることになるのです。そういう妥協したクリスチャンが多く存在することで、実のところ「神の国」拡大の足を引っ張っていることになるのです。悪魔の王国に貢献したくないですよね。これは単なる個人的道徳問題ではなく、「霊的戦い」なのだと認識することが大事なのです。2つの「王国」が対抗しているのです。綱引きで、あなたはサタンチームに入ってロープを引っ張ることに協力していませんか?

 

霊的に眠っているクリスチャン、日曜日にただ習慣的に礼拝に出ているクリスチャン、聖書も読まず、祈らないクリスチャンたち(残念ならが多いのでは?)に関してサタンは気にもしません。サタンにとって脅威ではないからです。「イエスの御名」で対抗されたり、「イエスの血潮」を宣言されると悪霊はビビるのです。そして、悪霊ビジネスができなくなり、パニックするのです。(使徒16:18−19)今の時代、この終わりの時は「邪悪な日」(エペソ6:3)と言えるでしょう。だから武装が必要なのです。戦闘体制でいなければなりません。

 

悪霊どもは、町にのさばるヤクザと同じです。「権威」を持って取り締まらなければ、やりたい放題になります。住民は恐れ、町は荒らされ、犯罪は増え、道徳性は下がります。霊の世界でも同じです。やられたまま、サタンのやりたい放題にさせてはいけないのです。そして、私たちには、対抗する「権威」が与えられているのです。イエスの大宣教命令には、この権威の行使も含まれているのではないでしょうか。(マタイ28:18−19)天においても地においても一切の権威ある方のバックアップにより宣教に遣わされるのです。だから使徒達は、その「権威」の行使を励ましていたのです。

 

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山手線祈祷

私達は10年近くこの働きに携わっています。毎週、火曜日10時に池袋に集合し、実際に山手線に乗り込み30駅を通過しつつ、それぞれの地域のために祈ります。特に、田端から鶯谷は教会も少なく、しかも谷中墓地とラブホテルが立ち並び、霊的に暗いところです。このエリアに来た時には、特に悪霊の働きが縛られるよう、この地域の人々が解放されるよう祈ります。(Iヨハネ3:8)東京駅、有楽町駅あたりでは、国会議員や皇室のためにも祈ります。(Iテモテ2:1−4)参加者は基本、数名の宣教師さん達です。もっと、東京にいる日本人に参加して頂きたいです。時間的に会社勤めの人々は参加が難しいでしょうが、是非、東京にいる牧師や宣教団体のスタッフさん達に、この「東京を変革する祈り」に参加して頂きたいです。

 

山手線30駅の祈り課題はこちら:https://prayyamanote.com/ (英語のみ)

参加ご希望の方はご連絡を asktmc@gmail.com (栗原)

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

 

2024年4月18日木曜日

説教のない教会?


初代教会には、今のような「説教」はなかった!?

通常、教会といえば、三角屋根の会堂があり、牧師がいて、日曜の朝に説教があります。日曜の朝に「教会に行く」とは、「牧師の説教を聞きに行く」とほとんど同義ですね。もし、説教がないとしたら、どうでしょう?「えっ!説教の無い教会なんてあり得ない!」という事になりますね。

ところが1世紀の初代教会には、教会堂もなかったし、専門の牧師もいなかったし、毎週日曜の説教もなかったのです。当時は家々で集まっていました。経験ある長老たち(複数)がお世話役をしていたのです。しかし、同じ長老が、毎回、同じ会衆に説教をしていた記録は無いようです。むしろ・・・

詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。                         (エペソ5:19)

とあり、牧師のワンマンショーではなく、「互いに」語り、「互いに」教え合っていたのです。この「互いに」が、エクレシアの大事な要素です。ローマ15:14、コロサイ3:16も参考にしてください。専門職の牧師先生から一方的に話を聞く場では無かったのです。一方的に話を聞くことは、会衆を受動的にしてしまいます。また、皮肉なことに、いい説教をすれば、するほど、会衆は牧師に依存し、自分で聖書を学ぼうとする意欲が削がれます。また、教会の雰囲気は・・・

しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。

Iコリント11:20−21)

コリントの教会の様子です。ずいぶん、自由な感じですね。「家族」として「家」で集まっていたからです。儀式的な雰囲気は全くありません。むしろ自由すぎて奔放になっていたので、パウロは戒めたのです。ちなみに、聖餐式は、この頃、「主の晩餐」と呼ばれ、食事の一部でした。楽しい雰囲気の中で行われていたのです。食事から切り離されて、ガウンを着た聖職者が執り行う荘厳な「儀式」としての聖餐式は異教に影響を受けた後世の産物です。

同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。 コリント12:11−12)

聖書は、一人一人それぞれに賜物が与えられていると明言しています。エクレシアはキリストのからだであり、それぞれが器官なので、全員参加で、全員が貢献する特徴を持っています。

 

それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。

コリント14:26)

また、聖書は「それぞれが教え、分かち合う」ことができると明言しています。そして、その目的はキリストのからだを建てあげるためです。ちなみに、この当時は、神学校なるものも存在していませんでした。従って、「教職者」と「平信徒」という区別もありませんでした。それぞれが、示されたことを分かち合っていいのです。正し、異言には解き明かしが必要であり、預言の場合は吟味が必要です。(コリント14:29)

 

席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。コリント14:31)

 

ここでも、聖霊に導かれるまま、示されたことを分かち合うスタイルが書かれています。後半には「だれでも一人ずつ預言することができるのです。」と書いてあります。

 

ずいぶん、今の典型的なプロテスタント教会の礼拝と違いますね。

 

パウロやアポロの働きは?

パウロは地方のシナゴグを巡って語りましたよね?アポロは伝道者としてメッセージしましたよね?説教は必要では? はい、説教自体を否定するのではありません。しかし、彼らは使徒、伝道者、預言者という教会の土台を据えるために神から特別な任務が与えられた人々でした。それは、「使徒的」な働きであって、「ローカルチャーチの牧者」ではなかったのです。地方に散らばるエクレシアを訪ねて指導し、説教する役目をもった人々だったのです。あるいは、まだ福音の宣べ伝えられていない地域に福音を伝え、チャーチ・プランティングをする特別な働き人だったのです。事実、エクレシアの土台が据えられると、使徒たちは、そこを去っています。役目が終わったからです。あとはローカルチャーチの信者たちが、御霊の導きの下、「お互い」に教え合い、励まし合っていたのです。

 

現在でも複数のエクレシアに仕え、アドバイスしたり、励ましたりする「使徒的」働きをする人は必要でしょう。ただし、それは「権威者」としてではなく、「兄弟」として「役割」を果たすだけです。トップダウンの教団的組織は、エクレシアには相応しくないのです。

 

地域エクレシアの牧者とは違う働きをする人たちは、今日もいます。第1世紀のような権限と任務を持った「使徒・預言者」ではありませんが、「使徒的」、「預言者的」働きをする人はいるのです。異国に行ってチャーチプランティングをする宣教師たちがいます。この人たちは「使徒的」働きをしているのであり、経済的に支えられる必要があります。パウロは諸教会からの献金と自活とのハイブリッド型で奉仕していました。また巡回伝道者は今日でも有効でしょう。特に日本のような圧倒的にノンクリスチャンが多い場所では、分かりやすく福音を説き、人々をキリストに導く働きをする人は必要です。また、超教派の働き人として、諸教会で、その時代に語られるべき預言者的なメッセージをしたり、宣教のビジョンを与えるメッセージをする人もいるでしょう。ただ、この人たちは定期的に集まるエクレシアで毎週メッセージする人ではありません。

 

虚しい説教?

み言葉の真理の適用が目的であるなら、一方的なメッセージを聞くより、参加して分かち合った方が身につきます。これは体験的に確信しているところです。分かち合い方式だと、反応がビンビン伝わってくるのです。「み言葉が入ってるな」と分かるのです。

 

一方的なメッセージでは途中で質疑応答ができません。また通常、会衆の一人一人からコメントを聞けませんのでメッセージしっ放しなのです。反応を聞かないと、どのくらいみ言葉が浸透したのか分かりません。それなのに虚しく毎週、毎週、「説教」を繰り返しているのです。そして、多くの信徒は先週の牧師のメッセージの内容を忘れているかも知れません。私自身、時々お招きを受けて他教会でメッセージさせて頂くのですが、多くの場合、一人一人からコメントを聞けないので、どのくらい理解されたのか、どのくらい役に立ったのか・・分からないままで教会堂を出るのです。メッセンジャー側も何とも虚しいのです。

 

具体的な提案

現在の礼拝スタイルをいきなり全員参加の分かち合いスタイルに変えることは難しいかもしれません。まずは、スモールグループ体験から始めてみてはいかがでしょうか?メッセージを短くして、聞いたメッセージに関して分かち合うスモールグループです。そして、祈り課題を聞いてお互いに祈り合うようにしたらいかがでしょうか。全員参加を少しずつ練習します。

 

よく、「毎回、魚を料理して出すより、魚の取り方を教える方がいい。」と聞きますが、同じ事で、聖書の読み方を教えて、自分で栄養を取れるように教えることが大事なのではないでしょうか。こちらに関しては、2021年9月23日からシリーズで掲載したアーカイブ記事「聖書が分かるようになる7つの視点」をご参考ください。

 

T M Cエクレシアでは、数名が定期的に集まり、司会はメンバーが順番でします。流れはこれ以上できないほどシンプルにします。1。近況報告 2。分かち合い式のバイブルスタディ 3。祈り合い 以上です。オンラインでも、対面でもできます。鍵は人数が多すぎない事と、ファシリテーターが喋りすぎない事です。聖書の箇所によっては、いきなりオープンディスカッションが難しいので、ハーベストタイム出版の「クレイ」の解説を司会者が読んだり、教える賜物があるメンバーがまず、短く解説したりします。しかし、メインは「お互い」による分かち合いです。最近はYouTubeで聖書講解メッセージが聞けるので、勉強は個人的にもできます。せっかく「集まる」機会は、「お互い」を実践できる機会として活用した方がいいと思います。

 

ただ、分かち合いが好きではない、あるいは、身体的、メンタル的に分かち合いに参加するのが難しい、また、個人的なことを分かち合いたくない人、ただ、座って静かに礼拝し、静かに会堂を去りたい人もいることは理解しています。キリストのからだが、この人たちを排除してしまってはいけません。これは課題ですね。この人たちに対しては、また、別の対処が必要なのでしょう。

 

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*「Pagan Christianity?」のフランク・バイオラさんは100%フラットな形を推薦しています。彼はワーシップリーダーやスモールグループの司会者まで否定しています。キリストだけを頭とすることを強調し、実践しています。ただ、自分的にはある程度、シンプルな流れがあり、司会者がいていいと思っています。ただ、プログラムより人間関係を大事にするよう心がけています。

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執筆者:栗原一芳

2024年4月11日木曜日

教会堂が教会を阻害する?

 

そもそも「教会」とは?

教会といえば、三角屋根に十字架の会堂。そして牧師がいて日曜礼拝がある。これが当然という理解でしょう。「会堂」、「牧師」、「日曜礼拝」がない教会なんてあり得ないということになりますね。ところが初代教会にはこの3点セットは無かったのです。ペンテコステの日に教会が誕生して以来、300年ほど、クリスチャンたちは教会堂なしにクリスチャン生活を送っていました。それでも生き生きと教会(エクレシア)は存在したのです。そもそもエクレシアとは・・・

 

コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。(コリント1:2)

 

ここで「神の教会へ、すなわち・・」と神の教会を説明しているのです。すなわち、教会とは・・キリスト・イエスにあって「聖なる者とされ」、「聖徒として召された方々」のことなのです。エクレシアは建物に言及されている箇所はなく、「人々」なのです。その「人々」は「聖なる者」とされています。クリスチャンは「罪人」ではなく、「聖なる者」です。「聖なる」とは、本来「神のために分たれる」という意味ですので、この世から「取り出され」神の民となっている点で、クリスチャンは聖徒なのです。また「聖徒として召された」人々です。これが教会の説明です。ここには、「会堂」も、「牧師」も、「日曜礼拝」というプログラムも出てきません。エクレシアは私たちクリスチャンのことです。また・・

 

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ1:23)

 

ここでの教会の定義は「キリストのからだ」です。生きた「生命体」です。組織や制度や儀式の事ではありません。すべてのものをすべてのもので満たす方とはキリストです。そのキリストが「満ちておられるところ」と書いてあります。「ところ」は翻訳者の付け加えたもので、本来「ところ=場所」なのではなく、「お方」なのです。英語でもThe Fullness of Himとなっており、「キリストの充満」と訳す方が適切です。教会は「キリストのからだ」、「キリストの充満」なのであり、ここにも、「会堂」、「牧師」、「礼拝プログラム」は出てきません。つまり、それらは教会=エクレシアの本質ではないからです。それらがなくてもエクレシアは「存在」します。

 

福島第一バプテス教会は一番、原発に近い教会でした。東日本大震災の原発事故で強制退避をさせられ教会のメンバーはバスで流浪の旅に出たのです。しかし、彼らは会堂を失っても「私たちがここに残っている。私たちが教会なのだ」と再認識させられたとの証を聞いたことがあります。その通りです。場所でもプログラムでもなく、「主を呼び求める人々」のことです。

 

典型的なプロテスタント教会の形

プロテスタントの典型的な教会は、基本的に日曜だけに使う特別空間としての礼拝堂があります。(なので、交わりのために、わざわざフェローシップホールを別に作ってあります。)その礼拝堂には固定の長椅子があり信徒は一方方向(前方)しか見られないようになっています。牧師が説教する舞台は会衆席より一段高くなっていることが多く、大きな説教用の講壇が設置されています。(ある韓国の大会堂を訪れた時、ステージには靴を脱いで上がってくださいと言われました。特別「聖なる」ところだからだそうです。)講壇の背後には牧師が座る特別な椅子が備えられています。つまり、牧師は「特別」な存在なのです。また多くの場合、初代教会の「パン裂き」(当時、食事の一部として行われた)は「聖餐式」という荘厳な儀式になり、聖職者しか執行できないようになっています。しかも、牧師が特別な黒いガウンを纏う場合もあり、さらに特別感を醸し出します。このようなセッティングが「正しく」、かつ「聖書的」な礼拝堂の設置であり、礼拝という儀式なのだと理解されているようです。しかし、どれも聖書的根拠はありません。初代教会は、信者が家々で集まっていたのであり、「会堂」もなく、「聖職者」もなく、ただ兄弟姉妹として、「家族」として交わっていたのです。

 

教会堂が教会を阻害する?

別に礼拝堂があったっていいじゃないか?と言う人もいるでしょう。ところがこの「典型的」な形が本質を阻害しているとしたらどうでしょうか?

 

⚫️ 聖書的には「あなたがたは、神の宮=神殿」(コリント3:16)なのであ

って、他に神殿(神に会うための特別な場所)は必要ないのです。礼拝堂を「神聖」な場所、「神殿」とするなら、この新約の教えに背くことになります。

 

⚫️ 礼拝堂を「特別」な空間にすることはヨハネ4:21−23に反します。イエ

スは明確に特定の「場所」に行かなければ、礼拝できないという時代は終わ

るのだと言っておられるのです。また、「礼拝堂」を神聖なる場所とすること

で、職場や家庭にも主は居られ、臨在されるという意識を薄めます。「日曜、

礼拝堂に神に会いに来る」という概念は、日曜以外では神に会えないという

意識にさせます。また日曜だけを神聖な日とすることで、週日での主の働き

を薄めさせます。主は365日の主です。ちなみに日曜を安息日と連結させ

て考える人がいますが、「安息日を聖とせよ」は、旧約時代のユダヤ人に向か

っての戒めで、異邦人には適用できないし、そもそも安息日を守りたいなら、

日曜ではなく、土曜なのです。

 

⚫️ 固定長椅子は「一方的」に牧師の説教を聞くために機能するのであって、

 「お互いに」を実践するには不向き。フェローシップホールのない場合は特に、

 神の家族として、お互いに愛し、仕える機会が奪われてしまいます。エクレシ

アの本質は「からだ」であり、「からだの器官」がそれぞれ機能することで成

り立つ「有機体」です。一方通行では機能できません。また一方的に説教を聞

くだけでは信徒は「受動的」になり、「霊的」に成長することを期待するのは

難しいのです。そもそも礼拝は儀式ではなく、献身の行為です。(ローマ12:

1−2)儀式的な礼拝プログラムを習慣化させることで、本質より、「教会に

行く」ことが目的化する危険性があります。

 

⚫️ 会堂前のステージを高めて、大きな講壇を置くことは信徒たちとのギャップ

を増長します。本来「家族」なのに、「聖職者」と「平信徒」という階級を作

り出してしまいます。これは神の憎むことです。(黙示録2:6)洗礼や聖餐

式を聖職者のみが行えるようにすることで、新約の「万人祭司」の真理を阻

害しています。古い契約は終わったのです。今は新しい契約(新約)の時代

に生きています。キリストの十字架ゆえに、「アバ父」と呼ぶ霊を頂いている

のです。もうシナイ山の恐ろしい神の前に立つイスラエル人の姿を真似しな

くていいのです。

 

このように良かれと思ってやっている、あるいは「伝統」だからと継続している事が、実は新約のエクレシアの本質の妨げになっているということもあるのです。

 

前向きな提案

ミニストリーのスペースがあることは悪いことではありません。そこで「お互いに」を実践できるなら素晴らしいことです。ある教会施設では、礼拝のスペースはフラットな床で、そこに丸テーブルがいくつか置かれています。信者はその丸テーブルに座って、聞いたメッセージについて分かち合います。これなら「お互いに」を実践できますね。日本の家空間(とくにアパート、マンション)は比較的狭いのでアメリカのようにリビングルームに10数名集まって集会を持つことが困難かもしれません。共通のミニストリースペースが必要なことも理解できます。それなら「礼拝堂」をリビングルームのような作りにしたらいいのではないでしょうか?エクレシアが「神の家族」であることを表すには、その方が相応しいのではないでしょうか。

 

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おすすめ本

Pagan Christianity? Frank Viola & George Barna 

Tyndale House Publishers

 

(以下、一部引用)

 

オーガニックチャーチの生き方とは、草の根的な経験であり、対面式のコミュニティ、数人単位の機能、オープンな参加型ミーティング、上下関係のないリーダーシップ、集団の機能的リーダーであり頭であるイエス・キリストの中心性と権威を特徴としています。別の言い方をすれば、オーガニックチャーチの生き方は、キリストの体としての「経験」だということです。最も純粋な形で、三位一体の神の交わりを地上にもたらし、人類がそれを経験することなのです。(フランク・バイオラ)

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年4月4日木曜日

エクレシアがエクレシアを取り戻す時

 

幸福度が低い日本人

最近、世界幸福度ランキングが発表されました。順位は・・・

1.フィンランド

2.デンマーク

3.アイスランド

4.スエーデン

ちなみに、アメリカは23位。日本は51位。(30歳未満では73位、60歳以上では36位)。GDPも高く、治安も良く、平均寿命も高く、物価も比較的安いのに・・どうして「幸せ」に感じられなのでしょうか?幸福度を測るインディケーターを見ると、日本の場合、「コミュニティにつながっている」ことと、「市民の政治参加」が突出して少ないそうです。特に、SNSの時代、若者の居場所がない問題はシリアスです。コロナ世代は、学校で友達が作れなかったという問題もあります。

30歳以下の若者の幸福度が73位と言うのも、その辺に問題があるような気がします。会社も実力主義に移行しており、個人主義的になってきています。平均、3年で転職してしまうとも聞いています。昭和の会社は家族の代わりとなるような親密さがありました。大人も「居場所」が必要でしょう。特に会社をリタイアした男性にとってコミュニティがないことは致命的です。コミュニティをクリエイトしていく仕事や奉仕はますます重要になってきています。ところでクリスチャンにとってエクレシア(キリスト中心のコミュニティ)があることは大変、幸なことです。

 

エクレシアはコミュニティ

もともと、エクレシアは「神の家族」であり、「コミュニティ」なのです。TMCのモットーは「意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ」です。本来、エクレシアは、わざわざ「オーガニック・チャーチ」と言わずとも、「生命体」であり「有機体」なのです。エクレシアが「キリストのからだ」であるなら、その器官は、それぞれ役割があり、相互に助け合っているはずです。口だけが働いている(牧師のメッセージが90%)のでは「からだ」が機能しているとは言えません。エクレシアがエクレシアであるためには「お互いに」の度合いが、どのくらい強いかで測れます。場所を家に移しても、牧師が一方的にメッセージをする集会なら、「お互いに」は起こりません。意図的に牧師が存在感を無くす必要があるのです。言い換えれば、「牧師先生」ではなく、「一人の「兄弟」になる必要があるのです。一方通行の典型が「劇場型教会」です。自分の体験ですが、アメリカの「劇場型」の大きな教会の礼拝に参加した時、一言も喋らずに会堂を出たことがありました。これでは一人で映画館に行ったのと同じです。(実際、映画館を借りてやっている教会に出席したこともあります。)だいたい何百人もいたら、お互いの名前さえ分からないのです。これって「家族」でしょうか? それでも礼拝に大人数が集まることが「成功」の指標になってしまっています。もう一度、言いますが、エクレシアの成功度は「お互い」(interaction)の度合いの強さによります。

 

TMCエクレシアでの「お互い」度

TMC=Tokyo Metro Communityは名のとおり、コミュニティです。意図的にチャーチとか、チャペルとか使っていません。TMCエクレシアではメンバーは「等身大」で「至近距離」の付き合いをします。偉い「先生」はいません。「お互い」に近況報告をし、「お互い」にバイブルスタディで分かち合い、教え合います。そして、「お互い」に祈り課題を出して、「お互い」のため祈ります。メンバーは全員、「参加」し、「貢献」します。

 

先日、あるエクレシアで、一人の兄弟が会社のストレスがひどく、つらそうな顔をしていたのを見て、他のメンバーが「今度、会いに行くよ、お茶しよう!」と申し出ていました。牧師が仕事として信徒をケアするのではなく、メンバー同士がお互いにケアするのです。また、あるエクレシアでは、聖書の理解しにくい箇所があったので、一人のメンバーが「わかりにくいですね〜、どういう意味でしょう?」と質問しました。すると司会者が「私の持っているリビングバイブルでは○○○となっています。」と分かち合ってくれました。するともう一人が「私の持っている訳では○○○となっています。」と違う翻訳を紹介してくれました。違った翻訳を聞いていて、だいぶ意味が分かってきました。そのように「先生」が一方的に答えるのではなく、お互いに助け合って理解しようとします。とても刺激的でワクワクします。お互いに分かち合う中で「一人で読んでいても分からないことが、みんなで学ぶとよく分かりました。」というコメントを頻繁に聞きます。こうした「お互いに方式=Interaction」の方が、みことばの真理の適応が効果的にできることを実感しています。通常、礼拝では、こうはいきません。途中で質問できませんからね。

 

エクレシアがエクレシアを取り戻す時

TMCエクレシアは、単なる学び会ではなくコミュニティであり、家族的な付き合いです。時には食事会や散策をして楽しみます。先日は対面で2つのエクレシアの合同フェローシップをしました。レストランでランチをしながら2時間半ほど自由な会話を楽しみました。全員参加で会話し、楽しみます。コミュニティがあります。一人一人の居場所があります。もうエクレシア=「キリスト中心のコミュニティ」は、彼らの人生に、なくてはならない楽しい、そして意味のある「場」となっているのです。

高校生の時、初めて行った教会で礼拝後、牧師に「休まないで来なさいよ!」と言われました。それが楽しいコミュニティなら、そんな事を言われなくても自発的に来るでしょう。多くのクリスチャンにとって日曜礼拝が「お勤め」になってしまっているとしたら、なんと悲しい事でしょう。日本人は「宗教」にはもう、うんざり、飽き飽きしています。日本人がクリスチャンにならない、1つの大きな理由は、礼拝出席や献金の義務などで、「拘束」」されるのを恐れているようです。

今後の日本のニーズに応えるためにも、全国的にスモールグループとしてのエクレシアが広がっていくことを願います。どう考えても今後、三角屋根の教会堂にわんさか、人が集まってくるとは考えにくいです。次にキリスト教ブームが来るとすれば、それはエクレシアがエクレシア(コミュニティ)を取り戻した時なのではないでしょうか?

 

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:34−35)

 

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東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

2024年3月28日木曜日

無牧はチャンス?

 

増える無牧教会

昨今、牧師の平均年齢も高齢化し無牧の教会が増えている。「牧師」がいないことで「教会」はパニックする。「どうしよう〜」ということになる。しかし、「牧師」がいない事は「牧者」がいないことだろうか?「牧師」がいないと「教会」は成り立たないのだろうか?通常、「教会」といえば、「会堂」、「牧師」、「日曜礼拝」の3点セット。これらがないと「教会」ではあり得ない。しかし、1世紀の初代教会は家々で集まり、「牧師」という専門職がいないまま、エクレシアは「キリストの体」、「キリストの充満」として、また「神の家族」として十分機能していた。牧師がいないことは、本来の教会の姿を考えるいい機会なのかもしれない。

 

そもそも「牧師」とは・・

エペソ4:11に出てくる「牧師」と訳された言葉は、ギリシア語で「ποιμήν」。原語的には「羊飼い」。教会のコンテキストでは「牧者」。新改訳2017年版の脚注には「あるいは、牧者」と、ちゃんと元の意味が記されている。元々、宗教的「専門職」や「階級」を表す意味合いは無いのだ。「牧者」は、自然発生的に信徒の群れをボランティアとしてお世話している人なのだ。それはキリストのからだを機能させるため、与えられた1つの「賜物」であり、「役割」なのだ。当時、有給の「牧師」は存在していなかった。すべての信者は「家族」であり特別階級はいなかったのだ。それが、4世紀、コンスタンティン皇帝の時代から教職と平信徒の区別が始まってしまった。

 

初代教会では会食の一部であった「パン裂き」が、聖職者しか執行できない「聖餐式」という儀式に変化してしまった。新約の万人祭司の思想から、旧約の儀式を司る聖職者(宗教専門職)の思想に逆戻りしてしまったという事だ。

 

シンプルに「羊飼い=牧者」だったのが、「平信徒」とは別の「牧師」というステイタスになり、さらには「牧師先生」と奉られる存在となってしまったのだ。

 

現代牧師の苦悩

もう10数年前のアメリカでの統計だが・・・

⚫️ 50%の牧師が、仕事の要求に応えられていないと感じている。

⚫️ 80%の牧師が、抑うつ状態にあるか、うつ病を患っている。

⚫️ 40%以上の牧師が、燃え尽き症候群、過密なスケジュール、他者からの非現実的な期待に悩まされていると回答。(*欄外に引用資料)

アメリカでは多くの教会で牧師は「職業」であり、教会との「雇用契約」にある。契約なので、給料をもらう代わりに教会の仕事を任される。平均16もの違った仕事をこなさなければならないらしい。スーパーマンでなければできないことを期待されるので、当然、燃え尽きる。もっと言うならば、聖書にない役職で働きをしようとするので無理があるのだ。メガチャーチともなれば牧師はCEOのように振る舞わなければならず、活動と予算は年々膨らみ後戻りができなくなる。そりゃ、ストレスだろう。

 

信徒は「お客さん化」する

専門職がすべてをやるので、教会堂に集う信徒は受動的な「お客さん」となる。そうなると新約のエクレシアの本質を損ねてしまう。エクレシアの本質は「お互いに」を実践すること。しかし、組織的教会においては、一方的に「与える側」と「受ける側」になってしまう。献金だけしてくれれば、後は、我々「運営側」がやります・・・となる。自分がアメリカにいたときは、そのような「劇場型」教会を実際に何度も体験した。自分は一言も喋らなくても、人との交わりがなくても「礼拝」に出たことになる。「教会に行った」ことになる。しかし、果たして、それがエクレシアだろうか?

 

教会=日曜礼拝=牧師の説教?

今日、「教会に行く」という初代教会ではあり得なかった表現が当たり前になっている。「教会=エクレシア」は神に召された「人々」のことなので「行く」ことができない。しかも、多くの場合「教会」とは「日曜礼拝」のプログラムの事を指している。「明日は日曜だから教会に行かなくては・・」と言う具合に。そして、その「礼拝」とは、聖書にあるローマ12:1―2のことではなく、礼拝というプログラムに参加することになっている。そのプログラムの中心は牧師の「説教」だ。ワーシップソングも歌われるが、なんといっても中心は「説教」。説教なしの礼拝はあり得ず、日曜礼拝のない「教会」はあり得ない。牧師は信徒の霊的成長のためと思い、一生懸命に説教を準備するが、実際は居眠りしている信徒もいるし、大体、先週何が話されたのか覚えている人は少ない。残念なことに、説教は信徒の霊的成長にはあまり役立っていないようだ。

 

ともすると、霊的成長より「教会に行くこと」が目的化されてしまう。休まないで日曜礼拝に参加しているから「いい信者」、「霊的な信者」とみなされるが、事実はそうでもない。日曜礼拝に長年参加していても、霊的に成長していない信者も多くいる。イエス様の方法は「対話式」だった。よく聴衆に質問した。一方通行ではない。パウロも多くの場合「対話式」でメッセージを語った。霊的真理を適応することが説教の目的なら、スモールグループの分かち合いスタイルの方が、真理が入りやすいのでは? 個人的な関わりなしに、信者が霊的に成長することを期待することは難しい。長年、牧師の説教を聞いて「成長」してきたはずの長老たちが、牧師(牧者)の代わりを務められないでパニックする自体が悲劇だろう。

 

問題の本質

そう悲劇なのだ。牧師がいないと存在できない「教会」に、いわば訓練されてきてしまったという事だ。今までの教会のあり方が牧師依存の体質を作り出してしまったのだ。エクレシアが「からだ」として機能するより、信者をお客さんとしてしまったのだ。奉仕の役割があったとしても、アッシャーや献金集めなど、あくまで礼拝プログラムを回すための周辺的な仕事に過ぎない。エクレシアの本質である「お互い」に、み言葉を分かち合い、教え合うことはない。また、日曜礼拝というプログラム無しに「教会」は有り得ないと訓練されてきてしまった。

 

先日、韓国の宣教師と話していて、今後、無牧の教会に韓国から(日本語で説教のできる)牧師を送り込む計画が進んでいることを聞いた。なんか、複雑な気持ちになった。もちろん、韓国側は良かれと思って計画くださっているのだが・・・それが解決だろうか?

 

無牧の教会が増える中、もう一度、立ち止まって考えてみよう。「教会堂」、「牧師」、ルーティンとしての「日曜礼拝」、この3点セットはエクレシアの本質だろうか?それらは初代教会に見出せるだろうか?それらは聖書的だろうか?大宣教命令は「弟子とせよ」という命令。教会堂を建てて、教会を「運営せよ」との命令ではない。牧師がいない今、キリストのからだが機能するチャンスなのかも知れない。

 

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(*) Pagan Christianity? Frank Viola & George Barna 

Tyndale House Publishers. (P.138)

 

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Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

2024年3月21日木曜日

空気を変えろ!


100年に2度の大変革

日本は100年という短い期間に2度、「大変革」を迎えた。1つは「明治維新」、もう一つは「戦後」。明治維新では、あっという間に憲法が制定され、侍はチョンマゲを切り、牛肉を食べるようになった。天皇を君主とする近代国家、大日本帝国が誕生した。もはやサムライの時代は終わったのだ。

太平洋戦争敗戦後は敵国であった米国大好きとなり、占領軍GHQ総司令官のマッカーサーの人気がすこぶる良く、「マッカーサーに日本の大統領になって欲しい」との声まであったという。戦時中の価値観は180度変わり、教科書の天皇崇拝と軍国主義の部分は塗りつぶされ、英雄は罪人となり、民主主義が広まった。

2つとも外来的な要因だった。明治維新は、黒船襲来。戦後は、敗戦時のアメリカ主導の民主主義導入だった。それでも今までの価値観や空気がガラッと変わったことは確かだ。一度変わると過去のものを否定し、新しいものを当たり前と思うようになる。歴史の中でそれは起こった。

日本人は変わるのだ。


外国人宣教師の役割

自分が属する伝道団体キャンパス・クルセード(CCC)の話をしよう。1983の夏、アメリカから数百人のクリスチャン学生が来日して東京でキャンパス伝道を展開していた。当時のJTBの宣伝文句Discover Japanをもじって、Discover Friendsと名打ったサマープロジェクトだった。アメリカの神学校の学びを終えて帰国し、1年間母教会をお手伝いしていた時、豊島公会堂で行われていた、Discover Friendsの集会に参加した。会場のキャパ600名いっぱいにアメリカ人、日本人の学生たちが入っており、熱気を感じた。まだ教会では一般に歌われてなかったようなコンテンポラリーなクリスチャンソングを歌い、楽しいスキットがあり、若いアメリカ人が通訳付きで伝道メッセージを語っていた。こんな光景を日本で見たことがなかった。「暗い、かたい、つまらない」という日本の教会の雰囲気(空気)とは対照的だった。これをきっかけに自分はCCCに興味を持ち、結局、スタッフに就任した。

「別世界」。そうだろう。「異次元」。そうだろう。集会後、アメリカ人と日本人学生が数名のグループで近くのコーヒーショップに入り、さらに交流し、個人伝道がなされた。プロジェクト期間中、多くの学生が福音を聞き、信じるものも多数起こされた。この国際的な雰囲気が好きで、CCCのスタッフに志願し、採用される者も起こされていった。40年経った今も、国際的な雰囲気を使った伝道方法は変わっていない。海外宣教師は「空気」を変えられるのだ。彼らは「空気」を読まずに、自分たちの「空気」を作り、そこにノンクリスチャンを取り込んでしまう。

外来的要因で「空気」が変わった例をもう1つ。90年代に行われたていたCCC日韓協力プロジェクトの「ニューライフ」。こちらは基本、教会向けに行われた。ハイライトは1992年に行われた「ニューライフ関西」。韓国から2000名以上のクリスチャン青年たちが来日し、関西の130ほどの教会に10−15名ほどのチームとして派遣され、地域教会の伝道をお手伝いした。熱心で礼儀正しい韓国青年たちは諸教会に大歓迎された。熱心な祈り、大胆な路傍伝道は、教会へ大きなインパクトを残した。この期間中、教会の「空気」が変わったのだ。言葉も通じないお互いであったが、2週間の滞在期間が終わり、お別れの時はハグして涙する光景が見られた。そんな光景は、かつて日本の教会では見られなかったろう。彼らの滞在中はある意味、「異次元」な空間だったのだ。殻を破るには外的要因が要る。海外宣教チームは、このように「空気」を変える役割があった。

 

宣教師が牧師化してしまうのは勿体無い。日本人ができることをしなくていい。日本人ができない事をする使命があるのではないか。宣教師は開拓者なのだ。

 

山本七平が言うように「空気」に支配される日本人。キリスト教に興味があっても、周りの「空気」を気にしてしまう。自分が学生伝道をやっていた時も、「親が何というか」、「友人が何というか」と、気にしてしまい決断ができない学生が多かった。アメリカ人スタッフが「心で決めた通りにしなさい」と勧めていたのを覚えている。真理の問題よりも、社会的要因なのだ。この「空気」を変えるには「空気」を読まない海外クリスチャンの存在が助けになる。事実、海外にいる日本人(特に若者)が現地でクリスチャンになることが多い。そこでは日本的社会的縛から解放されているからだ。自分の決断が評価され、励まされる文化があるからだ。


成長するインターナショナルチャーチ

成長している教会、元気な教会、若者が多い教会はだいたい、いわゆるインターナショナル・チャーチだ。特にアメリカ、ハワイの雰囲気が用いられている。ハワイの牧師は男性にもハグしてくれる。こういう体験は日本人だけの教会ではあり得ないだろう。そこにいると「日本人だけれど、ここ(教会)にいていいのだ」という気持ちにさせてくれる。クリスチャンとしての居場所がある。教会開拓においては、海外宣教師と日本人がチームとなってやるスタイルが効果的なようだ。

もちろん、この「空気」に頼るミニストリーにはそれなりの問題もある。先ほどのような短期宣教プロジェクトの場合、宣教チームはいつかいなくなる。その「空気」を持ち去ってしまう。日本人の私がフォローアップしようと電話したら断られたケースがあった。この「空気」に頼っている限り、日本人が日本人に伝道し、育て、エクレシアをたてあげることが難しくなってしまう。

 

最近は、アジアの宣教師も増えてきた。人口減少の日本において、もう多文化共生、インターナショナル・チャーチの方向性しかないのだろうか? コロナ後、東京には外人が溢れている。東京で世界宣教も夢ではない。いや、それが主のみこころなのだろう。大宣教命令は「すべての国民を弟子とせよ」だ。それも1つの方向なのかも知れない。

 

流れは一瞬にして変わる!

II 列王記7章に興味深い話が書かれている。敵国アラムの軍隊に囲まれ、兵糧攻めに遭っていたサマリアの町。預言者エリシャは「明日の今ころ、サマリアの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦二セアが1シェケルで売られるようになる」(7:2)と預言する。それを聞いた王の侍従が「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか?」と疑いの言葉を発する。ま、常識的にはあり得ないのだ。ところが主がアラムの陣営に、「戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、」(7:6)敵が襲ってくると勘違いしたアラム軍は、急いて陣営をそのままにして逃げ去ってしまった。(7:7)結局、それらを分捕りものとして持ち帰ったイスラエルは食料が急に豊かになり、エリシャの預言通り、町で食料が売られるようになった。疑いの言葉を発した侍従は門のところで民に踏みつけられて死んでしまったという話。(7:20)

 

クリスチャン人口1%の日本で、続々とクリスチャンが起こされるようになるなんて、「そんなことがあるだろうか?」と疑問を発するのは、ある意味当然かも知れない。しかし、日本人がクリスチャンにならないのが、真理の問題よりも社会的要因だとすると、その「空気」が変われば、多くの人が聖書を買い漁り、若者が「JESUS 最高!」と言い、ビジネスマンが昼休みや仕事帰りにコーヒーショップでバイブルスタディグループに参加することがトレンドとなる。・・そんな日が来ることもあり得るのでは・・・そう日本人は変われるのだ。国民的変化は可能なのだ。それは過去、歴史上起こった。

 

「王の心は、主の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる。」(箴言21:1)

 

神は一瞬にして「流れ」を変えることができる。「空気」は聖書的には「霊的雰囲気」のことと言ってもいい。祈りによって向きが変えられれば、社会的に、キリストを信じることは「違和感」ではなく、「当たり前」のことになる。

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年3月14日木曜日

会いに行く教会

 

大宣教命令

イエスは弟子たちにこう語られた。

 

あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイ28:19)

Go therefore and make disciples of all nations,……

 

マルコ福音書ではこうなっている。

 

全世界に出てゆき、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。

(マルコ16:15)

Go into the world and preach the gospel to every creature.

 

「出て行く」ことが強調されている。ここでは、大会堂を建てなさいとも、チャーチ・プランティングをせよとさえ書いてない。シンプルに「出て行って」、「福音を伝え」、「イエスの弟子を作ること」、この3つ。エクレシア(教会)は、その結果。イエスの宣教もパウロの宣教も「はじめに会堂を建て、人を集める」ではなく、「出て行って福音を伝え」、信者が起こされ、その結果、エクレシアが始まっていったのだ。

 

「出て行かない教会」VS「会いに行く教会」

通称「ともみん」がやっている「会いに行く教会」というのがある。かつては普通の教会の牧師だった「ともみん」が、過労とうつ病から、牧師を辞めた。それでもイエス様大好きで、イエス様のマネをしたいと思い、オンラインで宣伝して必要な人に会いに行くようにしたという。そして、何と今までに2500人以上に出会ったという。教会の会堂を構えても、日本では、2500人が来ることはまずあり得ない。逆方向で、会いに行くことにしたら2500人に出会えた!イエス様の宣教方法に近い。

 

確かに、イエスは、安息日に会堂で教えた。しかし、週日、弟子を連れて村々を歩き回り、人々に出会い、話を聞き、病気を癒やし、悪霊を追い出し、福音を宣べ伝えた。会堂にこもっていた訳ではない。

 

残念なことにプロテスタントの教会といえども、カトリックの「ミサに行く」というマインドセットから抜け出せないでいる。多くのプロテスタント教会は、会堂を建て、日曜礼拝という「儀式」をする場所になっており、「出て行く」ことをしなくなった。お勉強はするけれど、そして、信者は賢くなるけれど、「福音」は外に出てゆかない。

 

かつて宣教学者の福田充男さんが、日本の教会は「集め、囲み込む」スタイルだと書いていた。会堂を建てて、そこに人を集め、信徒を囲い込み、管理する。

信徒のほうも「水族館教会」で飼い慣らされてしまう。牧師の説教頼みで、自分で聖書から糧を得ることができなくなってしまう。すべての教会ではないにしろ、「ともみん」が語るように、時に「囲い込まれた」信徒が管理され、献金を半強制されたり、不当に奉仕をさせられたりと、カルト化したり、ブラック企業化している場合もある。

 

TMCは、ある意味、「会いに行く教会」だ。大きな会堂に人を集め、囲い込むより、こちらが出てゆき、会いに行く。スモールグループの中で、「等身大」、「至近距離」の交わりをする。儀式より、人を大事にする。「意味ある人間関係」を重視する。出て行って、個人的に会ってコーヒー飲みながら、お互いに分かち合いをすることもある。これもエクレシア。キリストを中心にその人と一緒に人生を歩む。そうする事で、エクレシアのメンバーもまた、クリスチャン、ノンクリスチャンと個人的に会って時間を過ごすようになる。その中で自然に「証」がなされていく。福音が出て行く。

 

ベクトルを変えませんか?

確かに「集まる」ことは大切だ。聖書はそのように勧めている。(ヘブル10:25)しかし、それはルーティン化した「儀式」に参加するためではなく、生きたキリストの体として、お互いの愛を実践するためであるべきだ。そのためには大教会である必要はなく、むしろ「お互いに」が実践できるスモールグループであるべきなのだ。スモールグループこそエクレシアの本質を発揮できるのだ。

 

人を集めて「大きくする」方向性を変えませんか?また、内向きから、外に出る方向へ変えませんか?

 

自分は、山手線祈祷に参加し、東京のために毎週祈っているが、もっと日本人牧師に参加して頂きたいと願っている。しかし、実際は、海外からの宣教師さんたちが主体だ。新宿福興教会の菅野さんと一緒に路傍伝道にも参加しているが、彼のように路上に出て福音を語る牧者は、東京広し、と言えども、ほんの数名だ。圧倒的に「出て行かない」牧者で満ちている。そのくせキリスト業界の会議には忙しい。

 

宣教師が牧師化してしまうこともある。宣教師には本来の使命である開拓的な働きをして頂きたい。私の知り合いの宣教師は、コミュニティに「出て」行って児童館で英語を教えたり、子供食堂を手伝ったりして未信者との関係作りをしている。素晴らしい。

 

最近、ヤクザから救われた二上英治さんの動画を見た。会堂を持たずに人助けをし、スナックで福音メッセージを語る。こういう姿を見ると感動する。こっちの方がイエス様に近いだろう。

 

路傍伝道なんて効果的じゃない?そんな恥ずかしい事しなくても・・?そんなことより生活で証を?もっと学びを?まず神学校へ?しかし、神学校に行き、お勉強をし、賢くなると路傍伝道なんて「おバカな事」はしなくなってしまうようだ。

 

 

私たちの主であるイエスは言った・・

 

「出て行って福音を伝えなさい!」

 

 

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「会いに行く教会」についての動画

https://www.youtube.com/watch?v=2n-26J-iOlA

 

スナックで説教する元ヤクザ牧師

【親分はイエス様】小指無し、金無し、教会無し夜の街が俺の教会夜回り「懺悔」に耳を傾けてみた。

 

自生・直結・増殖する神の民

「野生のキリスト教」 福田充男 著 いのちのことば社

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年3月7日木曜日

反面教師 サウル (3)

 

続けて、反面教師としてのサウル王から学んでみましょう。第一サムエルを開いてください。

 

猜疑心に満ちた孤独な王

ダビデには多くの友がいました。当時、敵対していたサウル王の息子ヨナタンとの友情は有名ですね。「ヨナタンは自分を愛するほどにダビデを愛していた」I

20:17)とあります。こんなに愛されているとは羨ましいですね。また、フシャイという人がいますが、彼を記述する言葉は「ダビデの友、フシャイ」です。(II

15:37) 素敵なタイトルですね。フシャイはダビデに献身的で、敵であるサウルの家に入り込み、ダビデのためにスパイ活動をする人です。また、戦場でダビデの「ベツレヘムの門にある井戸の水が飲みたい」との声を聞いて、命令を受けた訳でもないのに、ペリシテの敵陣営を突き抜けてベツレヘムの門の井戸から水を汲み、ダビデのもとに運んできた三人の勇士がいました。ダビデのためには命をかけて、それをしたのです。(IIサムエル23:16〜)ダビデには友がいたのです。また、ダビデを愛するゆえに従った人々がいたのです。これは真のリーダーの姿です。

 

ダビデは敵対していたサウルの家の者にも親切にします。ヨナタンの息子のメフィボシェテを王宮に呼び、王の食卓に着かせます。(IIサムエル9章)こんなダビデの人柄に惚れて、献身的になる人が多かったのでしょう。

 

サウルは対照的です。前回見たように権威を乱用し、国民を困らせ、怒りっぽく、すぐ怒鳴り散らすリーダーでした。サウルには友達がいなかったようです。猜疑心の強い権威主義の独裁者の特徴ですね。人のことを思いやるより、「誰も自分のことを思ってくれない!」という自己中心な思いなのです。特に、ダビデが戦果をあげ、人々が「サウルは千人を打ち、ダビデは万人を打った。」Iサムエル18:7)と言っているのを聞いた時、メラメラと嫉妬心が湧き上がったのです。それでダビデに敵意を抱き、殺そうとさえします。人類初の殺人は嫉妬心からでしたね。(創世記4章) 

 

サウルに関しては、すでに主の霊が去り、悪い霊に悩まされるようになっていましたが、嫉妬心が悪い霊の働きに油を注ぎ、家の中で狂い、わめくようになります。(18:10)何とも惨めです。もうダビデとサウルの明暗がここではっきりします。(*主からの悪い霊とは、主がサウルに対する悪霊のアタックを許されたと言うことでしょう。)

 

さて、主の霊はサウルを離れ去り、主からのわざわいの霊が彼を怯えさせた。

                    (サムエル16:24)

 

ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼と共におられた。

                    (IIサムエル5:10)

 

結局、このダビデへの嫉妬が不必要な国の分断を招くことになります。敵に囲まれている状況で国益を損ずる方向性です。リーダーの態度は国の方向性にも影響を与えます。そして、ついに主からのお答えが無くなります。(サムエル28:6)困り果てたサウロは自分が追い出した女霊媒師の元へお伺いをたてに行くのです。ここまで落ちぶれてしまいました。まったく惨めな暗い結末です。

 

現代的適応

こういうフレーズがあります。

 

Leader is Lover, Lover is Leader

 

まさにダビデですね。リーダーとは人々を愛する人。愛する人はリーダーなのです。権力で従わせる孤独な独裁者サウルのようではなく、へりくだった愛の人としてのダビデのようなリーダーが求められます。リーダーは時に孤独です。崇められる「偉い牧師先生」ほど危ないのです。初代のクリスチャンたちは「聖なる口づけ」を持って互いに挨拶していました。至近距離だったのです。誰もが兄弟姉妹として同じ「交わり」の中にいたのです。それが中世カトリックの宗教指導者たちは「高く、遠い」存在になっていき、一般会衆から離れていくのです。今日でも、ある聖会で、「牧師先生たち」だけ別の部屋で食事をする光景を見たことがあります。そのように「一般信徒(?)」と距離が生まれていくのです。牧師=牧者という「役割」が、「ポジション」と「権威」になってしまうのです。

 

リーダーは孤独です。だからこそ、「友」を作る必要があるのです。クリスチャンリーダーは、スモールグループのフラットな関係の中で祈り、祈られる「交わりの中」にいることを強くお勧めします。そうするには人が寄ってくるキャラ(approachable)でないとダメですね。ふんぞり返って、権威を振るう人には近づきたくないですからね。また、「祈ってください」と言える謙遜さがないとダメです。偉い先生は「祈ってあげる」という一段高い立場になってしまうのです。

 

聖書的リーダーはサーバントリーダー

すべては神の恵みです。この原点から離れないようにしましょう。キリストを離れては、私たちは何もできないのです。(ヨハネ15:5)

 

2つの聖句を挙げておきましょう。

 

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

                   (マタイ20:25−28)

 

主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)

 

 

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執筆者:栗原一芳