2024年3月28日木曜日

無牧はチャンス?

 

増える無牧教会

昨今、牧師の平均年齢も高齢化し無牧の教会が増えている。「牧師」がいないことで「教会」はパニックする。「どうしよう〜」ということになる。しかし、「牧師」がいない事は「牧者」がいないことだろうか?「牧師」がいないと「教会」は成り立たないのだろうか?通常、「教会」といえば、「会堂」、「牧師」、「日曜礼拝」の3点セット。これらがないと「教会」ではあり得ない。しかし、1世紀の初代教会は家々で集まり、「牧師」という専門職がいないまま、エクレシアは「キリストの体」、「キリストの充満」として、また「神の家族」として十分機能していた。牧師がいないことは、本来の教会の姿を考えるいい機会なのかもしれない。

 

そもそも「牧師」とは・・

エペソ4:11に出てくる「牧師」と訳された言葉は、ギリシア語で「ποιμήν」。原語的には「羊飼い」。教会のコンテキストでは「牧者」。新改訳2017年版の脚注には「あるいは、牧者」と、ちゃんと元の意味が記されている。元々、宗教的「専門職」や「階級」を表す意味合いは無いのだ。「牧者」は、自然発生的に信徒の群れをボランティアとしてお世話している人なのだ。それはキリストのからだを機能させるため、与えられた1つの「賜物」であり、「役割」なのだ。当時、有給の「牧師」は存在していなかった。すべての信者は「家族」であり特別階級はいなかったのだ。それが、4世紀、コンスタンティン皇帝の時代から教職と平信徒の区別が始まってしまった。

 

初代教会では会食の一部であった「パン裂き」が、聖職者しか執行できない「聖餐式」という儀式に変化してしまった。新約の万人祭司の思想から、旧約の儀式を司る聖職者(宗教専門職)の思想に逆戻りしてしまったという事だ。

 

シンプルに「羊飼い=牧者」だったのが、「平信徒」とは別の「牧師」というステイタスになり、さらには「牧師先生」と奉られる存在となってしまったのだ。

 

現代牧師の苦悩

もう10数年前のアメリカでの統計だが・・・

⚫️ 50%の牧師が、仕事の要求に応えられていないと感じている。

⚫️ 80%の牧師が、抑うつ状態にあるか、うつ病を患っている。

⚫️ 40%以上の牧師が、燃え尽き症候群、過密なスケジュール、他者からの非現実的な期待に悩まされていると回答。(*欄外に引用資料)

アメリカでは多くの教会で牧師は「職業」であり、教会との「雇用契約」にある。契約なので、給料をもらう代わりに教会の仕事を任される。平均16もの違った仕事をこなさなければならないらしい。スーパーマンでなければできないことを期待されるので、当然、燃え尽きる。もっと言うならば、聖書にない役職で働きをしようとするので無理があるのだ。メガチャーチともなれば牧師はCEOのように振る舞わなければならず、活動と予算は年々膨らみ後戻りができなくなる。そりゃ、ストレスだろう。

 

信徒は「お客さん化」する

専門職がすべてをやるので、教会堂に集う信徒は受動的な「お客さん」となる。そうなると新約のエクレシアの本質を損ねてしまう。エクレシアの本質は「お互いに」を実践すること。しかし、組織的教会においては、一方的に「与える側」と「受ける側」になってしまう。献金だけしてくれれば、後は、我々「運営側」がやります・・・となる。自分がアメリカにいたときは、そのような「劇場型」教会を実際に何度も体験した。自分は一言も喋らなくても、人との交わりがなくても「礼拝」に出たことになる。「教会に行った」ことになる。しかし、果たして、それがエクレシアだろうか?

 

教会=日曜礼拝=牧師の説教?

今日、「教会に行く」という初代教会ではあり得なかった表現が当たり前になっている。「教会=エクレシア」は神に召された「人々」のことなので「行く」ことができない。しかも、多くの場合「教会」とは「日曜礼拝」のプログラムの事を指している。「明日は日曜だから教会に行かなくては・・」と言う具合に。そして、その「礼拝」とは、聖書にあるローマ12:1―2のことではなく、礼拝というプログラムに参加することになっている。そのプログラムの中心は牧師の「説教」だ。ワーシップソングも歌われるが、なんといっても中心は「説教」。説教なしの礼拝はあり得ず、日曜礼拝のない「教会」はあり得ない。牧師は信徒の霊的成長のためと思い、一生懸命に説教を準備するが、実際は居眠りしている信徒もいるし、大体、先週何が話されたのか覚えている人は少ない。残念なことに、説教は信徒の霊的成長にはあまり役立っていないようだ。

 

ともすると、霊的成長より「教会に行くこと」が目的化されてしまう。休まないで日曜礼拝に参加しているから「いい信者」、「霊的な信者」とみなされるが、事実はそうでもない。日曜礼拝に長年参加していても、霊的に成長していない信者も多くいる。イエス様の方法は「対話式」だった。よく聴衆に質問した。一方通行ではない。パウロも多くの場合「対話式」でメッセージを語った。霊的真理を適応することが説教の目的なら、スモールグループの分かち合いスタイルの方が、真理が入りやすいのでは? 個人的な関わりなしに、信者が霊的に成長することを期待することは難しい。長年、牧師の説教を聞いて「成長」してきたはずの長老たちが、牧師(牧者)の代わりを務められないでパニックする自体が悲劇だろう。

 

問題の本質

そう悲劇なのだ。牧師がいないと存在できない「教会」に、いわば訓練されてきてしまったという事だ。今までの教会のあり方が牧師依存の体質を作り出してしまったのだ。エクレシアが「からだ」として機能するより、信者をお客さんとしてしまったのだ。奉仕の役割があったとしても、アッシャーや献金集めなど、あくまで礼拝プログラムを回すための周辺的な仕事に過ぎない。エクレシアの本質である「お互い」に、み言葉を分かち合い、教え合うことはない。また、日曜礼拝というプログラム無しに「教会」は有り得ないと訓練されてきてしまった。

 

先日、韓国の宣教師と話していて、今後、無牧の教会に韓国から(日本語で説教のできる)牧師を送り込む計画が進んでいることを聞いた。なんか、複雑な気持ちになった。もちろん、韓国側は良かれと思って計画くださっているのだが・・・それが解決だろうか?

 

無牧の教会が増える中、もう一度、立ち止まって考えてみよう。「教会堂」、「牧師」、ルーティンとしての「日曜礼拝」、この3点セットはエクレシアの本質だろうか?それらは初代教会に見出せるだろうか?それらは聖書的だろうか?大宣教命令は「弟子とせよ」という命令。教会堂を建てて、教会を「運営せよ」との命令ではない。牧師がいない今、キリストのからだが機能するチャンスなのかも知れない。

 

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(*) Pagan Christianity? Frank Viola & George Barna 

Tyndale House Publishers. (P.138)

 

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執筆者:栗原一芳

2024年3月21日木曜日

空気を変えろ!


100年に2度の大変革

日本は100年という短い期間に2度、「大変革」を迎えた。1つは「明治維新」、もう一つは「戦後」。明治維新では、あっという間に憲法が制定され、侍はチョンマゲを切り、牛肉を食べるようになった。天皇を君主とする近代国家、大日本帝国が誕生した。もはやサムライの時代は終わったのだ。

太平洋戦争敗戦後は敵国であった米国大好きとなり、占領軍GHQ総司令官のマッカーサーの人気がすこぶる良く、「マッカーサーに日本の大統領になって欲しい」との声まであったという。戦時中の価値観は180度変わり、教科書の天皇崇拝と軍国主義の部分は塗りつぶされ、英雄は罪人となり、民主主義が広まった。

2つとも外来的な要因だった。明治維新は、黒船襲来。戦後は、敗戦時のアメリカ主導の民主主義導入だった。それでも今までの価値観や空気がガラッと変わったことは確かだ。一度変わると過去のものを否定し、新しいものを当たり前と思うようになる。歴史の中でそれは起こった。

日本人は変わるのだ。


外国人宣教師の役割

自分が属する伝道団体キャンパス・クルセード(CCC)の話をしよう。1983の夏、アメリカから数百人のクリスチャン学生が来日して東京でキャンパス伝道を展開していた。当時のJTBの宣伝文句Discover Japanをもじって、Discover Friendsと名打ったサマープロジェクトだった。アメリカの神学校の学びを終えて帰国し、1年間母教会をお手伝いしていた時、豊島公会堂で行われていた、Discover Friendsの集会に参加した。会場のキャパ600名いっぱいにアメリカ人、日本人の学生たちが入っており、熱気を感じた。まだ教会では一般に歌われてなかったようなコンテンポラリーなクリスチャンソングを歌い、楽しいスキットがあり、若いアメリカ人が通訳付きで伝道メッセージを語っていた。こんな光景を日本で見たことがなかった。「暗い、かたい、つまらない」という日本の教会の雰囲気(空気)とは対照的だった。これをきっかけに自分はCCCに興味を持ち、結局、スタッフに就任した。

「別世界」。そうだろう。「異次元」。そうだろう。集会後、アメリカ人と日本人学生が数名のグループで近くのコーヒーショップに入り、さらに交流し、個人伝道がなされた。プロジェクト期間中、多くの学生が福音を聞き、信じるものも多数起こされた。この国際的な雰囲気が好きで、CCCのスタッフに志願し、採用される者も起こされていった。40年経った今も、国際的な雰囲気を使った伝道方法は変わっていない。海外宣教師は「空気」を変えられるのだ。彼らは「空気」を読まずに、自分たちの「空気」を作り、そこにノンクリスチャンを取り込んでしまう。

外来的要因で「空気」が変わった例をもう1つ。90年代に行われたていたCCC日韓協力プロジェクトの「ニューライフ」。こちらは基本、教会向けに行われた。ハイライトは1992年に行われた「ニューライフ関西」。韓国から2000名以上のクリスチャン青年たちが来日し、関西の130ほどの教会に10−15名ほどのチームとして派遣され、地域教会の伝道をお手伝いした。熱心で礼儀正しい韓国青年たちは諸教会に大歓迎された。熱心な祈り、大胆な路傍伝道は、教会へ大きなインパクトを残した。この期間中、教会の「空気」が変わったのだ。言葉も通じないお互いであったが、2週間の滞在期間が終わり、お別れの時はハグして涙する光景が見られた。そんな光景は、かつて日本の教会では見られなかったろう。彼らの滞在中はある意味、「異次元」な空間だったのだ。殻を破るには外的要因が要る。海外宣教チームは、このように「空気」を変える役割があった。

 

宣教師が牧師化してしまうのは勿体無い。日本人ができることをしなくていい。日本人ができない事をする使命があるのではないか。宣教師は開拓者なのだ。

 

山本七平が言うように「空気」に支配される日本人。キリスト教に興味があっても、周りの「空気」を気にしてしまう。自分が学生伝道をやっていた時も、「親が何というか」、「友人が何というか」と、気にしてしまい決断ができない学生が多かった。アメリカ人スタッフが「心で決めた通りにしなさい」と勧めていたのを覚えている。真理の問題よりも、社会的要因なのだ。この「空気」を変えるには「空気」を読まない海外クリスチャンの存在が助けになる。事実、海外にいる日本人(特に若者)が現地でクリスチャンになることが多い。そこでは日本的社会的縛から解放されているからだ。自分の決断が評価され、励まされる文化があるからだ。


成長するインターナショナルチャーチ

成長している教会、元気な教会、若者が多い教会はだいたい、いわゆるインターナショナル・チャーチだ。特にアメリカ、ハワイの雰囲気が用いられている。ハワイの牧師は男性にもハグしてくれる。こういう体験は日本人だけの教会ではあり得ないだろう。そこにいると「日本人だけれど、ここ(教会)にいていいのだ」という気持ちにさせてくれる。クリスチャンとしての居場所がある。教会開拓においては、海外宣教師と日本人がチームとなってやるスタイルが効果的なようだ。

もちろん、この「空気」に頼るミニストリーにはそれなりの問題もある。先ほどのような短期宣教プロジェクトの場合、宣教チームはいつかいなくなる。その「空気」を持ち去ってしまう。日本人の私がフォローアップしようと電話したら断られたケースがあった。この「空気」に頼っている限り、日本人が日本人に伝道し、育て、エクレシアをたてあげることが難しくなってしまう。

 

最近は、アジアの宣教師も増えてきた。人口減少の日本において、もう多文化共生、インターナショナル・チャーチの方向性しかないのだろうか? コロナ後、東京には外人が溢れている。東京で世界宣教も夢ではない。いや、それが主のみこころなのだろう。大宣教命令は「すべての国民を弟子とせよ」だ。それも1つの方向なのかも知れない。

 

流れは一瞬にして変わる!

II 列王記7章に興味深い話が書かれている。敵国アラムの軍隊に囲まれ、兵糧攻めに遭っていたサマリアの町。預言者エリシャは「明日の今ころ、サマリアの門で、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦二セアが1シェケルで売られるようになる」(7:2)と預言する。それを聞いた王の侍従が「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか?」と疑いの言葉を発する。ま、常識的にはあり得ないのだ。ところが主がアラムの陣営に、「戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、」(7:6)敵が襲ってくると勘違いしたアラム軍は、急いて陣営をそのままにして逃げ去ってしまった。(7:7)結局、それらを分捕りものとして持ち帰ったイスラエルは食料が急に豊かになり、エリシャの預言通り、町で食料が売られるようになった。疑いの言葉を発した侍従は門のところで民に踏みつけられて死んでしまったという話。(7:20)

 

クリスチャン人口1%の日本で、続々とクリスチャンが起こされるようになるなんて、「そんなことがあるだろうか?」と疑問を発するのは、ある意味当然かも知れない。しかし、日本人がクリスチャンにならないのが、真理の問題よりも社会的要因だとすると、その「空気」が変われば、多くの人が聖書を買い漁り、若者が「JESUS 最高!」と言い、ビジネスマンが昼休みや仕事帰りにコーヒーショップでバイブルスタディグループに参加することがトレンドとなる。・・そんな日が来ることもあり得るのでは・・・そう日本人は変われるのだ。国民的変化は可能なのだ。それは過去、歴史上起こった。

 

「王の心は、主の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる。」(箴言21:1)

 

神は一瞬にして「流れ」を変えることができる。「空気」は聖書的には「霊的雰囲気」のことと言ってもいい。祈りによって向きが変えられれば、社会的に、キリストを信じることは「違和感」ではなく、「当たり前」のことになる。

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年3月14日木曜日

会いに行く教会

 

大宣教命令

イエスは弟子たちにこう語られた。

 

あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。(マタイ28:19)

Go therefore and make disciples of all nations,……

 

マルコ福音書ではこうなっている。

 

全世界に出てゆき、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。

(マルコ16:15)

Go into the world and preach the gospel to every creature.

 

「出て行く」ことが強調されている。ここでは、大会堂を建てなさいとも、チャーチ・プランティングをせよとさえ書いてない。シンプルに「出て行って」、「福音を伝え」、「イエスの弟子を作ること」、この3つ。エクレシア(教会)は、その結果。イエスの宣教もパウロの宣教も「はじめに会堂を建て、人を集める」ではなく、「出て行って福音を伝え」、信者が起こされ、その結果、エクレシアが始まっていったのだ。

 

「出て行かない教会」VS「会いに行く教会」

通称「ともみん」がやっている「会いに行く教会」というのがある。かつては普通の教会の牧師だった「ともみん」が、過労とうつ病から、牧師を辞めた。それでもイエス様大好きで、イエス様のマネをしたいと思い、オンラインで宣伝して必要な人に会いに行くようにしたという。そして、何と今までに2500人以上に出会ったという。教会の会堂を構えても、日本では、2500人が来ることはまずあり得ない。逆方向で、会いに行くことにしたら2500人に出会えた!イエス様の宣教方法に近い。

 

確かに、イエスは、安息日に会堂で教えた。しかし、週日、弟子を連れて村々を歩き回り、人々に出会い、話を聞き、病気を癒やし、悪霊を追い出し、福音を宣べ伝えた。会堂にこもっていた訳ではない。

 

残念なことにプロテスタントの教会といえども、カトリックの「ミサに行く」というマインドセットから抜け出せないでいる。多くのプロテスタント教会は、会堂を建て、日曜礼拝という「儀式」をする場所になっており、「出て行く」ことをしなくなった。お勉強はするけれど、そして、信者は賢くなるけれど、「福音」は外に出てゆかない。

 

かつて宣教学者の福田充男さんが、日本の教会は「集め、囲み込む」スタイルだと書いていた。会堂を建てて、そこに人を集め、信徒を囲い込み、管理する。

信徒のほうも「水族館教会」で飼い慣らされてしまう。牧師の説教頼みで、自分で聖書から糧を得ることができなくなってしまう。すべての教会ではないにしろ、「ともみん」が語るように、時に「囲い込まれた」信徒が管理され、献金を半強制されたり、不当に奉仕をさせられたりと、カルト化したり、ブラック企業化している場合もある。

 

TMCは、ある意味、「会いに行く教会」だ。大きな会堂に人を集め、囲い込むより、こちらが出てゆき、会いに行く。スモールグループの中で、「等身大」、「至近距離」の交わりをする。儀式より、人を大事にする。「意味ある人間関係」を重視する。出て行って、個人的に会ってコーヒー飲みながら、お互いに分かち合いをすることもある。これもエクレシア。キリストを中心にその人と一緒に人生を歩む。そうする事で、エクレシアのメンバーもまた、クリスチャン、ノンクリスチャンと個人的に会って時間を過ごすようになる。その中で自然に「証」がなされていく。福音が出て行く。

 

ベクトルを変えませんか?

確かに「集まる」ことは大切だ。聖書はそのように勧めている。(ヘブル10:25)しかし、それはルーティン化した「儀式」に参加するためではなく、生きたキリストの体として、お互いの愛を実践するためであるべきだ。そのためには大教会である必要はなく、むしろ「お互いに」が実践できるスモールグループであるべきなのだ。スモールグループこそエクレシアの本質を発揮できるのだ。

 

人を集めて「大きくする」方向性を変えませんか?また、内向きから、外に出る方向へ変えませんか?

 

自分は、山手線祈祷に参加し、東京のために毎週祈っているが、もっと日本人牧師に参加して頂きたいと願っている。しかし、実際は、海外からの宣教師さんたちが主体だ。新宿福興教会の菅野さんと一緒に路傍伝道にも参加しているが、彼のように路上に出て福音を語る牧者は、東京広し、と言えども、ほんの数名だ。圧倒的に「出て行かない」牧者で満ちている。そのくせキリスト業界の会議には忙しい。

 

宣教師が牧師化してしまうこともある。宣教師には本来の使命である開拓的な働きをして頂きたい。私の知り合いの宣教師は、コミュニティに「出て」行って児童館で英語を教えたり、子供食堂を手伝ったりして未信者との関係作りをしている。素晴らしい。

 

最近、ヤクザから救われた二上英治さんの動画を見た。会堂を持たずに人助けをし、スナックで福音メッセージを語る。こういう姿を見ると感動する。こっちの方がイエス様に近いだろう。

 

路傍伝道なんて効果的じゃない?そんな恥ずかしい事しなくても・・?そんなことより生活で証を?もっと学びを?まず神学校へ?しかし、神学校に行き、お勉強をし、賢くなると路傍伝道なんて「おバカな事」はしなくなってしまうようだ。

 

 

私たちの主であるイエスは言った・・

 

「出て行って福音を伝えなさい!」

 

 

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「会いに行く教会」についての動画

https://www.youtube.com/watch?v=2n-26J-iOlA

 

スナックで説教する元ヤクザ牧師

【親分はイエス様】小指無し、金無し、教会無し夜の街が俺の教会夜回り「懺悔」に耳を傾けてみた。

 

自生・直結・増殖する神の民

「野生のキリスト教」 福田充男 著 いのちのことば社

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年3月7日木曜日

反面教師 サウル (3)

 

続けて、反面教師としてのサウル王から学んでみましょう。第一サムエルを開いてください。

 

猜疑心に満ちた孤独な王

ダビデには多くの友がいました。当時、敵対していたサウル王の息子ヨナタンとの友情は有名ですね。「ヨナタンは自分を愛するほどにダビデを愛していた」I

20:17)とあります。こんなに愛されているとは羨ましいですね。また、フシャイという人がいますが、彼を記述する言葉は「ダビデの友、フシャイ」です。(II

15:37) 素敵なタイトルですね。フシャイはダビデに献身的で、敵であるサウルの家に入り込み、ダビデのためにスパイ活動をする人です。また、戦場でダビデの「ベツレヘムの門にある井戸の水が飲みたい」との声を聞いて、命令を受けた訳でもないのに、ペリシテの敵陣営を突き抜けてベツレヘムの門の井戸から水を汲み、ダビデのもとに運んできた三人の勇士がいました。ダビデのためには命をかけて、それをしたのです。(IIサムエル23:16〜)ダビデには友がいたのです。また、ダビデを愛するゆえに従った人々がいたのです。これは真のリーダーの姿です。

 

ダビデは敵対していたサウルの家の者にも親切にします。ヨナタンの息子のメフィボシェテを王宮に呼び、王の食卓に着かせます。(IIサムエル9章)こんなダビデの人柄に惚れて、献身的になる人が多かったのでしょう。

 

サウルは対照的です。前回見たように権威を乱用し、国民を困らせ、怒りっぽく、すぐ怒鳴り散らすリーダーでした。サウルには友達がいなかったようです。猜疑心の強い権威主義の独裁者の特徴ですね。人のことを思いやるより、「誰も自分のことを思ってくれない!」という自己中心な思いなのです。特に、ダビデが戦果をあげ、人々が「サウルは千人を打ち、ダビデは万人を打った。」Iサムエル18:7)と言っているのを聞いた時、メラメラと嫉妬心が湧き上がったのです。それでダビデに敵意を抱き、殺そうとさえします。人類初の殺人は嫉妬心からでしたね。(創世記4章) 

 

サウルに関しては、すでに主の霊が去り、悪い霊に悩まされるようになっていましたが、嫉妬心が悪い霊の働きに油を注ぎ、家の中で狂い、わめくようになります。(18:10)何とも惨めです。もうダビデとサウルの明暗がここではっきりします。(*主からの悪い霊とは、主がサウルに対する悪霊のアタックを許されたと言うことでしょう。)

 

さて、主の霊はサウルを離れ去り、主からのわざわいの霊が彼を怯えさせた。

                    (サムエル16:24)

 

ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼と共におられた。

                    (IIサムエル5:10)

 

結局、このダビデへの嫉妬が不必要な国の分断を招くことになります。敵に囲まれている状況で国益を損ずる方向性です。リーダーの態度は国の方向性にも影響を与えます。そして、ついに主からのお答えが無くなります。(サムエル28:6)困り果てたサウロは自分が追い出した女霊媒師の元へお伺いをたてに行くのです。ここまで落ちぶれてしまいました。まったく惨めな暗い結末です。

 

現代的適応

こういうフレーズがあります。

 

Leader is Lover, Lover is Leader

 

まさにダビデですね。リーダーとは人々を愛する人。愛する人はリーダーなのです。権力で従わせる孤独な独裁者サウルのようではなく、へりくだった愛の人としてのダビデのようなリーダーが求められます。リーダーは時に孤独です。崇められる「偉い牧師先生」ほど危ないのです。初代のクリスチャンたちは「聖なる口づけ」を持って互いに挨拶していました。至近距離だったのです。誰もが兄弟姉妹として同じ「交わり」の中にいたのです。それが中世カトリックの宗教指導者たちは「高く、遠い」存在になっていき、一般会衆から離れていくのです。今日でも、ある聖会で、「牧師先生たち」だけ別の部屋で食事をする光景を見たことがあります。そのように「一般信徒(?)」と距離が生まれていくのです。牧師=牧者という「役割」が、「ポジション」と「権威」になってしまうのです。

 

リーダーは孤独です。だからこそ、「友」を作る必要があるのです。クリスチャンリーダーは、スモールグループのフラットな関係の中で祈り、祈られる「交わりの中」にいることを強くお勧めします。そうするには人が寄ってくるキャラ(approachable)でないとダメですね。ふんぞり返って、権威を振るう人には近づきたくないですからね。また、「祈ってください」と言える謙遜さがないとダメです。偉い先生は「祈ってあげる」という一段高い立場になってしまうのです。

 

聖書的リーダーはサーバントリーダー

すべては神の恵みです。この原点から離れないようにしましょう。キリストを離れては、私たちは何もできないのです。(ヨハネ15:5)

 

2つの聖句を挙げておきましょう。

 

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

                   (マタイ20:25−28)

 

主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)

 

 

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執筆者:栗原一芳