2012年12月25日火曜日

新しいコミュニティの創出



 被災地の仮設では中高年の男性が孤独になる傾向がある。お茶会などをやっても圧倒的にご婦人が多い。一つは支援を受けたくないというプライドもあり、もともと交わりが下手な事もあり、部屋にひきこもり一日中酒を飲み、テレビを見ているか、外でパチンコをやるとう事になる。通常、男性は会社での「社縁」が強い。田舎では「血縁」「地縁」も強いだろう。しかし、震災で家を無くし、くじ引きで仮設に入れば、それらの「縁」を失ってしまう。それでも少しずつ仮設での自治会が出来、コミュニティが出来つつある。今度はそこから高層マンションに移ると、またコミュニティを失ってしまうという。

派遣村村長で、NPO反貧困ネットワークを推進する湯浅誠氏は、以上の「血縁」「地縁」「社縁」を超えた新しいコミュニティの創出の必要を訴えている。東京のような都会でも突然リストラに会い、ホームレスになってしまう人々がいる。ある精神科医の知人から聞いた話だが、ホームレスミニストリーで公園に行った時、ベンチの端と端に座っている2人のホームレスは何の言葉もかわす事無く1日そこに座っていたという。湯浅氏は日本には新しいコミュニティを創出するノウハウの蓄積が少ないと指摘している。

「地域や社会の中に居場所を失った中高年男性の生活が崩れてゆく事の影響は必ずその家族、地域、またその家族を通じて家族の地域、職場などに及んでいきます。妻に対するDVや子供に対する虐待などは直接的なので想像しやすいでしょうが、親の具合が悪くなる事で、子供の仕事や生活に影響が出る、周辺トラブルから周囲の人達も健康を害すなどといった例は、いくらでもあります。それは社会全体にとってマイナスをもたらしている、言い換えれば社会全体が損をしている、とういことです。」

課題先進国の日本では、「孤独死」「自殺」が後を断たない。子供の間の「いじめ」もその辺に問題がある。コミュニティは存在しても閉鎖的で同調しない者を排外する傾向にある。日本が右翼化し、日本=日本人というコアコミュニティが出来ると、少しでも同調できない者を非国民として排除してゆくようになるだろう。そして自己絶対化の罪に陥る。国民は政治に期待し、何度も失望してきた。湯浅氏は「ヒーローを待っていても世界は変わらない」で「おまかせ民主主義」の危険性と、自分達で、出来る事をやってゆく道を示している。今後は市民運動、NPOの役割はさらに大きくなると思われる。

「地域のみんなでまちづくり」を提唱する山崎亮さんの職業は何と、「コミュニティデザイナー」だとういう。(「コミュニティデザインの時代」中央公論)。地方活性化にNPOなどの地元コミュニティの活躍が欠かせないとする。また、孤独死や無縁社会という中で、今こそ人とのつながりを自らの手で築く必要があるという訳だ。


要は「居場所」と「役割」を作ることにある。


仮設でもボランティアに「してもらう」から一緒にイベントを「共催」するように変わってきている。先日、私が行ったいわきの仮設でも仮設自治会から頼まれてクリスマス会を自治会の主催、ボランティア団体、教会の協力で行った。「役割」があれば人は生きてくる。はたらくとは「はた」を「らく」にすることだそうだ。その精神で皆で協力すれば「生きてくる」。評論家の荻上チキ氏も最近の著書「僕らはいつまでダメ出し社会を続けるのか」の中でさまざまな社会問題に対して政府に「ダメ」を言っているだけでなく、その問題を生み出す社会環境を変革するため足下から行動を起こすことを提唱している。例えば、荻上氏は「ストップ!いじめナビ」を賛同者と始めている。行政がすべてできない。政治家がすべての分野での専門家でもない。我々市民が「シングルイシューのセミプロ化」で政治家に働きかけ、勉強会を始めるなど、「新しい公共」の姿を提案している。コミュニティの創出は、いろんな人達と出会う「きっかけ」作り。そんなに難しい事ではないが、創造性が必要だという。


先日、いわきで会ったアメリカ人クリスチャンのボランティから聞いた話だ。彼はストリートに出て行ってミニストリーしている。しかし、多くのクリスチャンは守りの姿勢で出て行かない。アメリカの教会は地元の必要に答えていない。人々が多くの問題、困難の中にいるのに助けてくれない教会を憎み始めている。そのうち教会への迫害が起るであろうと。先の湯浅氏はリーマンショック後にリストラされホームレスになった人達のために日比谷公園に「派遣村」を作って年末に食べ物と住処を提供した。アクションを起こした。神は時にクリスチャンでない人を用いて神のご計画を推進される。(旧約のネブカデネザル王、ペルシャのクロス王など)クリスチャンの私は大きなチャレンジを受けた。3:11以降はクラッシュジャパンなどクリスチャンのボランティア団体がアクションを起こしたことは嬉しい。その中で神からのメッセージを聞いて、コミュニティと教会の壁を崩して、コミュニティの中へと入って行っている牧師達がいる。教会の奉仕部門をNPO化した教会もある。救世軍は元々、その両車輪で働きをしている。我々東京のクリスチャンは3:11の神からのメッセージをどう聞いているだろうか?

今、日本では以上のようなコミュニティ創出へのビッグニーズがある。「血縁」「地縁」「社縁」を超えたコミュニティが必要だという。人と人との触れ合いが必要だという。いろんな違う分野の人々との横の連携(ネットワーク)が必要だという。「役割」と「居場所」が必要だと社会が叫んでいる。教会はどう答えるのだろうか?

東京のど真ん中に神のコミュニティ(エクレシア)を創出してゆく。これがTMC(Tokyo Metro Community)のビジョンなのです。教会という組織の自己保存ではなく、神に呼ばれたクリスチャンとノンクリスチャンが共に「居場所」と「役割」が与えられ、そこにキリストが受肉され、新しいコミュニティが創出されてゆくのです。
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感想をお待ちしております。
asktmc@gmail.com(栗原)

2012年12月13日木曜日

「自己を知り、自己を生かす」   




皆さんは自分の事をどれくらい知っていますか? 過去5年間に自分に関して変化したことは何でしょう?(例えば、服装、価値、友達、読む本・・・)

「文明化した社会の平均的な人は通常、神から与えられた能力の7%-10%しかその生涯の中で使っていない。なぜ?それは彼らが自分の与えられている能力を正しく評価してない、また弱さや罪を処理する方法を知らないからだ」 Dr. Ron Jenson

人は自分が思っているような人間になるのです。自分が鶏だと思っていればいつまで経っても飛べません。ある人はワシのように羽ばたくのです。あなたは自分自身をどれくらい知っていますか。今の自分を形作るのに、あなたの人生に影響与えた人たちは誰だったでしょう?それは、どんな出会だったでしょうか?

共産主義化のロシアでは70%の10代の女の子が職業として売春を選んだというのです。なぜなら「神はいない、魂は無い」という思想に影響されていたからです。実際的にいかに早く、簡単にお金を稼げるかだけに注目していたのです。自分をどう見ているか、自己の価値観、セルフイメージがライフスタイルをきめてゆきます。自分が意味のない存在なら、自分を安売りするような生き方になるのです。自分のセルフイメージを形成するのに、どういう影響をどういう人から受けてきたかがカギとなります。かなり大きい部分は自分の親ではないでしょうか。ここで質問です。

1)  あなたは自分をどう見ていますか?神様はあなたをどうご覧になっていると思いますか?

2)  自分を自分らしくしているよい部分、強みは何だと思いますか? 必ずあります。長所は短所にもなりうるし、短所は長所にもなりうるのです。

3)  あなたの興味あることは? 神から与えられた才能あるいは情熱燃やせるものとは?

4)  あなたの潜在的な能力を十分発揮させていない妨げとなっているもの、弱みとは何でしょう。

弱い部分にうまく対処してゆく必要があります。前に進むのに妨げになっているものを認知し、対処するのです。船を進ませるには、強い追い風をもらうことが一つですが、前から吹いてくる逆風の抵抗をいかに小さくするかという面もあるのです。障害を認知し、取り除くのです。弱みや罪を自他ともに認めること。それが解決のカギです。隠しているかぎり前進はないのです。

1)  あなたは個人的な批判を受けたとき、どう対処していますか? 普通、私達は弱み(Sore spot)に触れられると痛いのです、そして、弱みを指摘されるとイライラしたり、防御的になるのです。でも、弱みを指摘されたら感謝しましょう。それが、成長する機会となるのですから。問題が分かることは問題が50%解決したことだと思いましょう。

前進しているプロセスにフォーカスしましょう 工事中であることを認めると楽になります。実際すべての人は工事中なのです。神以外、完全者はいないのです。聖書は全ての人は「脱線状態にある、あるべき理想状態からずれている」と言っています。でも、内側の御霊は確実にあなたを神の願う姿に変えてくださっています。ローマは1日にして成らず。成長はプロセスです。

自分の情熱、能力、個性、経験を知ると楽になります。あれこれ手を出さなくてよくなります。強みで勝負できるようになります。自分がやるべきことを自信をもってやるようになります。やっている事を楽しめます。自分の強み、弱みを知ると、YES,NOはっきり言えるようになります。ストレスも減るでしょう。自分が誰か分からない、何をしていいかわからない。これがストレスとなるのです。


自分を知る基本
リック・ウオレン牧師が書いたベストセラー「5つの目的」(Purpose driven life) によると・・・

1)あなたは神の手造りによる芸術作品である。

  聖書では「あなたは私の目に高価で尊い、私はあなたを愛している」と断言していま   す。God makes no junk. 神はグズを作らないのです。神がつくったものはすばらしいの  です。あなたを作られた神が太鼓判を押して「大丈夫」と後押ししてくださっていま   す。神の作品に失敗はないのです。

2)あなたは特別にデザインされた、世界にただ一つしかないオリジナル作品である。

あなたは、大量生産の規格品ではないのです。神の形につくられているのです。だから創造力があるのです。ある意味で神のマネができるのです。神に愛されている存在。そして、世界中でただ一人の夫、父、娘、息子。60億の2人として同じ人がいないというのは驚きです。そうユニークなのです。だから比較には意味がないのです。

3) あなたらしさを発揮して神に仕え、人に仕えてゆくことができるよう、神は慎重
 あなたを形作られた。

  ですから、You can make difference. あなたはあなたにしか出来ない方法で、周り       に影響を与えることができる。あなたはどんな香りを放っているでしょうか?あなたは      周りの人の祝福ですか?あなたは周りの人々を引き上げているでしょうか?それとも引き     下げているでしょうか?あなたは他の人々の人生に「良き影響」という遺産を残すことが     できるのです。

3)神は人生に起こる全てのことを用いてあなたを整え、神と人に仕えるものとしてくださる。

ピンチはチャンスとも言います。人生には良い事も、悪い事も起ります。すべてを用いて神は神のご計画を実現されるという信仰の視野を持つ事が大事です。受身的に文句を言って一生終わるのか、愛の神がくれたチャレンジとして受け取り前進するのか?辛い事もありますが、神はそれらを通してあなたを練り鍛え、もっと魅力ある人間に、キリストの姿へと変えてくださるのです。

Achieving your significance in God.

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お役に立ちましたか?
asktmc@gmail.com

2012年11月28日水曜日

コーチングのPowerful Questions



Focus the Conversation
相手の意思を尊重して、話し合う内容をフォーカスする。

1.今日は何を話しましょうか?
2.今、話したい緊急と思われる課題がありますか?
3.いろいろあるでしょうが、どれが優先順位のトップでしょうか?
4.この時間を一番有効に用いるにはどうしたらいいでしょうか?
5.あなた自身にとって一番必要を感じている事は?

Explore Options
選択肢をいろいろ想像してみる

1.この時間が終わった時、どんな結果が出る事を期待していますか?
2.起こりえる一番いい事は何でしょう?
3.失敗があり得ないとしたら、どうしますか?
4.他の人が、その分野でうまくやっているのを観察したことがありますか?彼らはどうしていますか?
5.それは1つの選択でしょう。他に何かアイディアありますか?

Plan the work
やることを絞る
1.いろいろな選択の中で、一番あなたにグッとくるものは?
2.初めに何をすべきですか?
3.成功させるため、何が必要でしょう。誰を仲間に入れるべきでしょう?
4.誰と話す必要があるでしょう?
5.そういった行動は、あなたが達成しようとしている目標にどう貢献しますか?

Address Obstacles
障害となるものを知る

1.あなたの成功をさまたげているものは何ですか?
2.何が足りないのでしょうか?
3.どんなリソースが必要でしょうか?
4.それについてあなたの会社(組織)の誰と話すべきでしょうか?

Review
確認する

1.あなたがこれからしようとしている事を言ってください。いつまでにそれ
をしますか?
2.今回の話し合いを通して、何を得ましたか?何を適用しますか?
3.次回会うまでに、何を達成しますか?
4.次回はいつ会えますか?
5.あなたがしようとしている事をサポートするため、私に何をしてほしいですか?

コーチングのスキル
1.相手が言葉で表していない部分を汲み取る。
2.以上の効果的な質問を用いる。
3.愛をもって真理を語る
4.常に励まし、結果を一緒に喜ぶ。

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参考になりましたか?
asktmc@gmail.com (栗原)

2012年11月8日木曜日

「再びオーガニックチャーチを考える」



今回のおすすめ本
Missional Renaissance – changing the scorecard for the CHURCH
By Reggie McNeal

教会というより、Missional Communityという表現が最近よく使われる。特に日本の教会の場合、信仰持つ事で家族との軋轢も生まれ、あちこちから個人が集まって教会を形成しているケースが多い。しかも、電車に乗って日曜礼拝に集うとなると、教会堂が存在する地域コミュニティとの関係が薄くなる。励ましの場としての合同礼拝や聖書からのティーチングは、日曜にやるにしても、週日、生活の場でクリスチャンが少人数で集まり、深い交わりを持ち励まし合い、生活圏でクリスチャンの影響を周りに及ぼしてゆく「場」がどうしても必要になってくる。ホープチャペルのラルフモア師は、これをミニチャーチと呼んで推進している。

上に挙げた本は「この世」に置かれた「使命を持った」クリスチャンの集まりとしての宣教的コミュニティを提案している。前回Beyond Christianityで述べたように、キリスト教が文化となり、習慣化して、自らの運営にフォーカスしているあり方から、使命をもって地元コミュニティへのインカーネーション(受肉)してゆく方向性が必要なのではないか?

伝統的教会が衰退する中で、この本は教会の新たな方向性を示している。


The change of mindset on CHURCH  
教会のあり方を変革する

- Kingdom focused  神の国指向  生活の場、社会、世界が舞台。

- Connectors     組織の会員という考えより、人々を結びつける方向性

- Program to people  プログラムから人へフォーカスを移す。

- Attractional to Incarnational 魅力あるプログラムでこちらに引っ張り込むのではなく、コミュニティに出て行って、そのただ中で影響を与える。著者は地元少年野球のコーチとして奉仕することや、NPOなどで地域奉仕活動に参加することを勧めている。

- Proclamation to Demonstration 説教より、行いで見せていく

- Institutional to Organic  制度的教会から生命体としての教会へ。

- From church job to Kingdom assignment 神の奉仕は教会内の奉仕、仕事という考えから、神の国を広めるため、この世に使命をもって遣わされているという意識。この世の仕事の再評価。

- Life is mission trip 信仰生活は日曜だけでなく、生き方そのもの。生活、人生そのものが神と共に歩む宣教旅行。

- The way of life それは生き方そのもの

- From Worship service to Service as worship
日曜朝の礼拝という儀式から、人々に仕えることが礼拝という意識へ。実際、礼拝は24 hours/7daysであるべき。(ローマ12:1−2)



私達、TMCではオーガニックチャーチを試みている。著者によるとオーガニックチャーチの特徴は・・・

Organic church
- Decentralized 中央集権ではない

- Simple シンプル

- not membership driven 会員制度を強調しない

- synched with normal life routines 日常生活と同期している

- not dependent on clergy  教職者に頼らない

- focused on the spiritual development of the participants 活動の多さよりも参加者の霊的成長にフォーカスする。

- The people are the church. (not “attending the church”, not “going to the church” nor “supporting the church”. 教会は「人々」なので、「教会に出席する」「教会に行く」「教会をサポートする」という言い方はしない。


例えば、私達は毎週水曜日、銀座のレストランで集まっている。「銀座エクレシア」と呼んでいる。エクレシアは「教会」と訳されるが、新約では会堂の意味で使われたことは一度もない。常に人々を指している。1つの場所で人数を増やすことを目的とせず、深い、正直な関係を築くことを目的としている。多くても8人。一人の牧師が常にメッセージするということをしない。(新約聖書にその例は見出せない)宣教師がいても、ビジネスマンが進行役を勤める。レストランという日常の雰囲気の中で、分かち合いが為され、食事をし、聖書が開かれ、祈り合う。プログラムはいたってシンプルでフレキシブル。新来会者がいれば、その人の話を聞いて終わる事もある。先生と呼ばれる人はいない。正直になれる安心感がある。集うのはビジネスパーソンなので、必然的に会社の話やビジネス戦略の話も出る。日常生活にシンクロしている。特別なマスクをつけなくていい。変に霊的に繕わなくていい。みことばが開かれ、1)気になったところ、心に留まったところを分かち合う。2)疑問に思えるところを分かち合う 3)アクションポイントが示されれば分かち合う。全ての人が参加し、コメントを言う。一方的に聞いたメッセージより心に残る。時々、ノンクリスチャンも参加する。彼らも自由に聖書の言葉から感じた事を分かち合う。最後は、実生活での必要を分かち合い、祈り合う。ビジネスの成功も祈る。仕事関係で出会うノンクリスチャンのためにも祈る。そのような中で参加者は解放され、霊的成長を体験する。自分にとっての霊的命のオアシスとなる。人生を共に歩む「友」が与えられる。水曜以外でもお互い自由に会って交わったり遊んだりする。メンバーの一人は他の新しく始められたビジネスマン向けの教会の開拓を手伝うことになった。ここにとどまらず、神の国の働きが広がっている。そういうことが起っているのです。
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コメントお待ちしています。
asktmc@gmail.com (栗原)

2012年11月1日木曜日

Beyond Christianity?



 2012年10月7日のクリスチャン新聞によると、日本全国のプロテスタント教会の数は一昨年より33減って、7948。一教会あたりの礼拝出席者は40名。2010年以降、首都圏の教会数さえも減少。東京の教会は978で礼拝者数は一教会あたり平均66名。東京の人口が5万人ほど増加していることを考えると、人口増加には追いついていない。一方、バングラディッシュではイスラム文化圏で500万人がイエスに従うムーブメントにかかわっているという。しかも、それは英会話やゴスペルクラスという魅力的なプログラムによる訳でもないし、宣教団という組織によるものでもない。ちょうど、中国で宣教師が追い出された後、家の教会ムーブメントが始まったように、聖霊の働きである。

私達は通常、教会開拓というとまず、建物を確保して集会をやって人に来てもらいますよね。10名程だと「伝道所」と呼ばれ、50名くらいになって経済的に独立すると「教会」と呼ばれる。それ自体、おかしな事ですが、マタイ28章の大宣教命令は「弟子作り」命令なのであって、教会建設命令ではないのです。弟子をつくれば、信徒の群れである教会は結果として生まれるのです。宣教戦略家の福田充男氏は、今までのやり方を「囲み理論」として説明します。つまり、何かをやって人を「集め」、独自のキリスト教教会文化とルールに合った人を仲間として認識し、「外」の人との壁を作ってゆく。従って、クリスチャンになって数年もすると友人はクリスチャンだけになるというのです。それでも何とか囲みの中に入れこもうと人々を引きつけるため「プログラム」をやるようになる。福田氏はこの型では、日本の福音化には限界があると考えています。

今、イスラム圏や仏教圏では「インサイダームーブメント」というのが起っています。自分の文化に留まりつつ、イエスを主として従ってゆく運動です。自分が仏教圏やイスラム圏に生まれたのは自分のチョイスではなく、神のご計画された事だからです。そこで神の栄光が表されるためです。VIPインターナショナル会長の市村氏の話ではあるクリスチャンの世界大会に行った時、袈裟姿のお坊さんが手をあげてハレルヤと賛美していたといいます。与えられた文化を尊重し、感謝しつつ、悪いところは捨て去り、良いところは清めていただき神のために用いて頂く事が出来ます。日本文化にある奇麗な着物や謙遜な茶道の作法などをクリスチャンになったからといって捨て去る必要は無い訳です。

実は反対方向のことも起っています。キリスト教自体が過去2000年の歴史の中で厚化粧して余計なものを身につけてしまったということです。それで、宗教としてのキリスト教を超えて、もう一度、聖書で言っているオリジナルに戻ろうとするBeyond Christianityという動きも出て来ているのです。宗教としてのキリスト教で、誰もがイメージするのは十字架の付いた教会という建物。そして、そこで行われる礼拝というプログラム。コンスタンティンがAD323教会堂を建て始めるまでは、初代教会は家々で集まっていたのですが。(それどころか、使徒時代は今、手にしているような27巻の整った形の製本された新約聖書は無かったのです。使徒2:42にあるように言葉として語られた使徒たちの教えを固く守っていたのです。一般の人は聖書という教典なしにキリスト教は考えられないと思うでしょうが、興味深いことに、聖書が本として与えられる前にクリスチャンムーブメントは聖霊によってすでに始まっていたのです!)さて、教会の原語は「エクレシア」ですが、新約に114回出てくる中で建物、集会に言及している箇所は1つもないのです。常に人々のかかわり合いの意味で使われています。「オイコス」も家庭集会ではなく、家族そのものを指しています。「コリントにある教会」と言った場合は1つの建物ではなく、コリントの町にいるクリスチャンの総体を指して使っています。だから日曜の朝、「礼拝」に行くというのは正しいですが、「教会に行く」というのは本来聖書的におかしい表現ということになります。私達自身が「教会」だからです。 初代教会は特別な伝道プログラムはしなかったけれど、信徒同士に見られる愛とキリストをあがめる敬虔な生き様を通して野火のごとく広がって行ったのです。今のクリスチャンのように日曜の朝と月曜からの週日を区別するような生き方ではなく、24時間、7日間、主と共に生き、証ししていたのです。

Beyond Christianityの推進者のジョン・リッジウエイ氏によるとIdentityにおいて宗教としてのキリスト教と神の国ムーブメントではこんなに違ってきます。

宗教としてのキリスト教では・・・   神の国ムーブメントでは・・・
1)I am a Christian                         I am a follower of Jesus
2)Denomination                           Kingdom
3)I go to a Baptist church            We are the church
4)Sunday as a holy day               24 hours/7 days
5)Conversion/decision                 Journey  (イエスを探す旅に出る)

解説
イスラム文化圏ではクリスチャンと言っただけで、会話が断たれてしまいます。今ではクリスチャンというのはキリスト教文化圏にいるという意味で他文化に壁を作ってしまう作用をしてしまうのです。一方、キリスト教国ではクリスチャンといっても名ばかりで、イエスに コミットして従ってない人も大勢います。キリスト教文化圏でもあまり意味をなさなIdentityになっています。神の国ムーブメンンとでは教団教派を超えています。聖書的には教会は「行く」と所ではなく、私達です。日曜を特別の「聖なる」日とすることで、結果的に週日を「俗の日」としてしまう。伝道集会で手をあげさせて「決心」させ、教会員とするやり方は個人は属しているコミュニティから切り取られ、教会のコミュニティに移される。初代教会では必要に答えることで、人から人へ、ことに家族単位で福音が広がって行った。一回の決心にフォーカスすると教会に繋がってからの主と共に成長するというプロセスが薄くなる。ムーブメントでは自分の置かれた「場」で、コミュニティで、人々と寄り添い、仕え、一緒に生活することにフォーカスが置かれる。

以前、このブログで紹介したフランク・バイオラの本の中にも紹介されていたごとく、今日の教会では「牧師(本来的には牧者)」と「教師」という2つの賜物だけが重要視され、従って、特別に選ばれた人が、神学校にいって資格をとって牧師となり、有給の牧師というポジションが誕生することになってしまったのです。そして、今日ビリーグラハムのような「伝道者」は認めるにしても、エペソ4章11節にある残りの2つ、「使徒」、「預言者」が忘れ去られることになったのです。本来、これら5つの賜物は神から「与えられた」ものであり、ポジションではなく、ファンクション(機能)として一般信徒に与えられ神の国の拡大のため用いられるべきものでした。ローカルチャーチの牧者、教師は普通に仕事をしていた人達だったのです。99%がノンクリスチャンという日本では「使徒」や「預言者」の働きこそが必要なのではないでしょうか?これらの賜物がもっと解き放たれると神の国は前進するのではないでしょうか?

もう一つ、聖書の原典には章、節はありません。新約27巻は別々に書かれたもので、はじめからあの順番で出来上がっていたものではありません。現在、私達が手にしている聖書は時間系列ではありませんので、わかりにくのです。また、章が無いマニュスクリプトで読むともっと流れのあるドラマとして迫ってきます。あたりまえに教えられて来た教会文化が実は、聖書に基づいている訳ではないものも多くあります。バイオラが言うように、キリスト教の伝統はあまりに重く、走っている機関車を止めるのが難しいように、なかなかすぐには変革できないのでしょう。しかし、そろそろ気づき始めた人が出て来ています。上記の日本のキリスト教の状況を打開する手だては無いのでしょうか?それは、シンプルに聖書が言っている通りの事に戻ることなのではないでしょうか?

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asktmc@gmail.com (栗原)

2012年10月25日木曜日

王様マインドと危機管理



 8月31日、内閣府中央防災会議が南海トラフ地震被害予測の見直しを正式発表しました。それが各新聞のトップニュースになりました。東京新聞には「最悪で死者32万人、7割が津波被害。しかし、対策、避難で6万人に」との見出しが付きました。「国難」とも言うべき大災害です。人間が地震そのものを止めることはできません。しかし、対策を取る事で大幅に死傷者を減らす事は出来るのです。上の新聞記事にあるように、死者32万人が6万人になるのです。ここに防災の意味があります。

クリスチャンにとって危機管理は、さらに大きな意味があります。ビジネス書を出版しているサンマーク出版から最近出された、「王様マインドと奴隷マインド」という本があります。著者は日本で最大の投資顧問会社の社長であり、クリスチャンである松島修氏。奴隷マインドはリスクに無頓着、王様マインドは危機管理ができているというのです。「王様は、国民を守るために、突然の災害や、敵の侵略などに対処する危機管理能力を持つ者です。これは仕事でも家庭でも適用できます。危機管理能力とはリスクを先読みして、それに備えるということです。」(P.140)企業にとっては、サーバーがダウンすれば大変な損失になります。リスクを先取りして社長の立場でものを考え提言する人が必要だというのです。一社員であっても、与えられた分野で王になるという「王様マインド」です。それが、企業を救い、日本を救うことに繋がるのです。奴隷は他人任せで、事が起った時、被害を嘆き、人のせい(あるいは神のせい)にするだけです。

神の国シリーズでも見て来たように、もともと人は神の似姿に造られたのです。そして、エデンの園を「管理」するように命令されました。そうする能力が与えられているからです。動物に名前を付けたことは、管理能力の一つの現れでしょう。人は神に背いて園を追い出されました。神の救いのご計画の中で、時至って救い主キリストが来られ、購いの業が為され、人間の被造物管理権は回復されたのです。教会はキリストをかしらとする「キリストの体」なのです。この地上で「神の国」を表す出先機関なのです。私達は長兄であるキリストと共に、今の地を、そしてやがて相続する「地」を統治し、管理する責任があるのです。聖書の言う「御国」は一般で考えられている「死んだらフワフワした天国で遊んで暮らしている」というイメージとは違うようです。むしろ、ナルニア国物語でペベンシー家の普通の子供達がナルニア国では剣を持ち、王として国を統治しているあの姿のほうが近いのです。だからイエス様がタラントの話をされたように、今から管理能力が問われるのです。

「3:11大震災をクリスチャンは聖書的に信仰的にどうとらえたらいいのか?」のテーマを真正面から取り組んでおられる大野バプテスト教会の中澤啓介師の提言はこうです。

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これまでの福音派は、人間が被造物に侵害した問題については「キリスト者の社会的責任」として取り上げてき た。しかし、自然災害については、手をつけてこなかった。人間に責任があるわけではないし、神に責任を問うわけにもいかなかったのである。とはいえ、もしキリストの贖いが、被造物すべての管理権を人間に回復したというの であれば、自然災害を避けることはできない。自然災害は、自然の法則(あるいはリズム)の中で生じるものであり、それを防ぐことはできない。被造物の管理者としては、ただそれをそのまま受け止め、どのように対処すべきか考えるだけである。

西欧のキリスト教神学においては、自然災害は伝統的に「悪の問題」として扱われてきた。すると、神の義を守 るために、人間の罪が自然災害をもたらしたということになり、神の裁きにまでいってしまう。さすがにそこまでには行けない人たちは、結局「不可解」という結論を出してお茶を濁す。それでは、これから日本が直面せざるを得ない厳しい状況に対し、何の役にも立たない。

そこで私は、自然災害は「悪」の問題ではなく、「自然法則」あるいは「自然のリズム」がもたらすものであり、 人間の「被造物管理権」に属する問題と提唱したい。

そうすれば、日本のキリスト者と教会は、自然災害を迎え撃つ準備ができる。そこまでいかない神学など、机上の空論に過ぎない。
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さらに、中澤師は、「王様マインド」についても、次のように整理されています。

この後のヘブル 2:15 では、キリスト者以前の人間の姿を「奴隷」と描写している。その言葉と本節の「子たち」とは何が違うのか。子どもには相続権があるが、奴隷にはない、ということである。「相続権」とはむろん、「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」(ローマ 8:15-­17)が受け取るものである。キリスト者は、神の子になったのだが、 その意味は、被造物の相続権を受けている者たち、ということである。新約聖書は、贖われたキリスト者は「王」であり、「祭司」であると述べている。これは、驚くべき表現である。自分を「王」と見立てて信仰生活を送っているキリスト者はどれくらい いるだろうか。「王」とは明らかに支配権を持つ者である。これは今後、永遠に続く立場である。黙示録はキリスト者のことを、「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった」(20:4)とか、「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる」(20:6)、「彼らは永遠に王である」(22:5)などと、「王」として描いている。 前の二箇所は「千年王国時代(それがどのようなものかは、今は問わない)」のキリスト者像であり、三番目は「新天新地」におけるキリスト者像である。贖われた民は、千年王国時代でも、新天新地の時代でも「王」として描かれている。これ以下のキリスト者生活を送ってはならない。」
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片手に「聖書」、片手に「新聞」という言葉もあるが、この世で起っている事と自分の信仰生活とは関係があるのです。信仰生活とは日曜朝のプログラムに出席することではない。24時間、7日間、創造主をあがめ、意識し、「王様マインド」で、「天に御心が成るように、地でも成させたまえ」と祈りつつ、地で御心が成るように(つまりは、この地の管理が為されること)、この世とかかわり、行動してゆくことなのではないでしょうか?
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コメントお待ちしています。
asktmc@gmail.com (栗原)