2012年10月25日木曜日

王様マインドと危機管理



 8月31日、内閣府中央防災会議が南海トラフ地震被害予測の見直しを正式発表しました。それが各新聞のトップニュースになりました。東京新聞には「最悪で死者32万人、7割が津波被害。しかし、対策、避難で6万人に」との見出しが付きました。「国難」とも言うべき大災害です。人間が地震そのものを止めることはできません。しかし、対策を取る事で大幅に死傷者を減らす事は出来るのです。上の新聞記事にあるように、死者32万人が6万人になるのです。ここに防災の意味があります。

クリスチャンにとって危機管理は、さらに大きな意味があります。ビジネス書を出版しているサンマーク出版から最近出された、「王様マインドと奴隷マインド」という本があります。著者は日本で最大の投資顧問会社の社長であり、クリスチャンである松島修氏。奴隷マインドはリスクに無頓着、王様マインドは危機管理ができているというのです。「王様は、国民を守るために、突然の災害や、敵の侵略などに対処する危機管理能力を持つ者です。これは仕事でも家庭でも適用できます。危機管理能力とはリスクを先読みして、それに備えるということです。」(P.140)企業にとっては、サーバーがダウンすれば大変な損失になります。リスクを先取りして社長の立場でものを考え提言する人が必要だというのです。一社員であっても、与えられた分野で王になるという「王様マインド」です。それが、企業を救い、日本を救うことに繋がるのです。奴隷は他人任せで、事が起った時、被害を嘆き、人のせい(あるいは神のせい)にするだけです。

神の国シリーズでも見て来たように、もともと人は神の似姿に造られたのです。そして、エデンの園を「管理」するように命令されました。そうする能力が与えられているからです。動物に名前を付けたことは、管理能力の一つの現れでしょう。人は神に背いて園を追い出されました。神の救いのご計画の中で、時至って救い主キリストが来られ、購いの業が為され、人間の被造物管理権は回復されたのです。教会はキリストをかしらとする「キリストの体」なのです。この地上で「神の国」を表す出先機関なのです。私達は長兄であるキリストと共に、今の地を、そしてやがて相続する「地」を統治し、管理する責任があるのです。聖書の言う「御国」は一般で考えられている「死んだらフワフワした天国で遊んで暮らしている」というイメージとは違うようです。むしろ、ナルニア国物語でペベンシー家の普通の子供達がナルニア国では剣を持ち、王として国を統治しているあの姿のほうが近いのです。だからイエス様がタラントの話をされたように、今から管理能力が問われるのです。

「3:11大震災をクリスチャンは聖書的に信仰的にどうとらえたらいいのか?」のテーマを真正面から取り組んでおられる大野バプテスト教会の中澤啓介師の提言はこうです。

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これまでの福音派は、人間が被造物に侵害した問題については「キリスト者の社会的責任」として取り上げてき た。しかし、自然災害については、手をつけてこなかった。人間に責任があるわけではないし、神に責任を問うわけにもいかなかったのである。とはいえ、もしキリストの贖いが、被造物すべての管理権を人間に回復したというの であれば、自然災害を避けることはできない。自然災害は、自然の法則(あるいはリズム)の中で生じるものであり、それを防ぐことはできない。被造物の管理者としては、ただそれをそのまま受け止め、どのように対処すべきか考えるだけである。

西欧のキリスト教神学においては、自然災害は伝統的に「悪の問題」として扱われてきた。すると、神の義を守 るために、人間の罪が自然災害をもたらしたということになり、神の裁きにまでいってしまう。さすがにそこまでには行けない人たちは、結局「不可解」という結論を出してお茶を濁す。それでは、これから日本が直面せざるを得ない厳しい状況に対し、何の役にも立たない。

そこで私は、自然災害は「悪」の問題ではなく、「自然法則」あるいは「自然のリズム」がもたらすものであり、 人間の「被造物管理権」に属する問題と提唱したい。

そうすれば、日本のキリスト者と教会は、自然災害を迎え撃つ準備ができる。そこまでいかない神学など、机上の空論に過ぎない。
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さらに、中澤師は、「王様マインド」についても、次のように整理されています。

この後のヘブル 2:15 では、キリスト者以前の人間の姿を「奴隷」と描写している。その言葉と本節の「子たち」とは何が違うのか。子どもには相続権があるが、奴隷にはない、ということである。「相続権」とはむろん、「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」(ローマ 8:15-­17)が受け取るものである。キリスト者は、神の子になったのだが、 その意味は、被造物の相続権を受けている者たち、ということである。新約聖書は、贖われたキリスト者は「王」であり、「祭司」であると述べている。これは、驚くべき表現である。自分を「王」と見立てて信仰生活を送っているキリスト者はどれくらい いるだろうか。「王」とは明らかに支配権を持つ者である。これは今後、永遠に続く立場である。黙示録はキリスト者のことを、「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった」(20:4)とか、「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる」(20:6)、「彼らは永遠に王である」(22:5)などと、「王」として描いている。 前の二箇所は「千年王国時代(それがどのようなものかは、今は問わない)」のキリスト者像であり、三番目は「新天新地」におけるキリスト者像である。贖われた民は、千年王国時代でも、新天新地の時代でも「王」として描かれている。これ以下のキリスト者生活を送ってはならない。」
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片手に「聖書」、片手に「新聞」という言葉もあるが、この世で起っている事と自分の信仰生活とは関係があるのです。信仰生活とは日曜朝のプログラムに出席することではない。24時間、7日間、創造主をあがめ、意識し、「王様マインド」で、「天に御心が成るように、地でも成させたまえ」と祈りつつ、地で御心が成るように(つまりは、この地の管理が為されること)、この世とかかわり、行動してゆくことなのではないでしょうか?
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コメントお待ちしています。
asktmc@gmail.com (栗原)

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