2012年10月18日木曜日

Kingdom Story 第4章


4章 - 回復、これからのこと

講読箇所:ヨハネの黙示録 21:1-11

最後の章は回復について書かれ、聖書はここで帰結します。ウィクリフ聖書注解はヨハネの黙示録21:1-2を次のように注解しています:

  さて、私たちは聖書の最後の章にやってきました。これは、何世紀にもわたって神がご自身の民を啓発してきたことが書きとめられている栄光に満ちたクライマックスです。この箇所を読むと、私たちは時間という制限されたものから永遠へと移されます。罪、死、そして神に敵対するあらゆるものは、永遠に消し去られるのです。

  このような記述は他のどのような古代文学の中に見られるものではありません。それはヨハネが新しい天と地を見るところから始まっています。新約聖書にはふたつのギリシャ語がここで新しく翻訳されて用いられています。それはneoskainosという語で、これは私たちの朽ちたひびの入った古い世界から湧きあがってくる新しいいのちという意味です。ですから、この箇所は天と地がここで初めて存在したと語っているのではなく、それらは新しい性格を持つようになったと教えているのです。

  古いエルサレムが「聖なる都」と呼ばれたように、新しいエルサレムは神に特別に任命されたものです。この時になって初めて贖われた人たちがどのような性格を帯びているかについて記述されるようになりました。それは神の全きご性質であるきよさに与ることであり、神の民が目標とすることでした。私たちの永遠の住まいは旧約聖書においても都と表現されています。(詩篇48:1,8;ヘブル書11:16)

贖いのプロセスを通して、すべてのものは永遠に神のご支配の下に置かれるようになります。罪は取り去られ、私たちは新しく創造された者として生きるようになります。自分の魂やまわりの世界に対してうめきを感じることもありません。御国には神に敵対するものは何もないのです。


この最後の章で、聖書が帰結しているいくつかの事柄を見ていきましょう。

1.贖いは完了し、神はご自身の民のためにきよさを全うしてくださいました。

キリストの死、復活、昇天は神の贖いのクライマックスですが、贖いのわざの最終的な結末ではありません。これは、創造における秩序は今も乱れ、人類は今も罪と死と戦っていることの所以です。神の贖いのわざはキリストが再び戻って来られて、すべてのものが新しくされるまで完成することはありません。

最後の章から、贖いはもたらされたが、完成したわけではないことがわかります。この世にあって、私たちは「すでに起こったこと」と「まだ起こっていないこと」の間、「現実」と「将来起こること」の間で、ジレンマを経験します。

このジレンマは聖化の中に見られます。私たちはすでに聖化され、今現在、聖化されつつあるという感覚があります。と同時に、私たちはいつか御国に迎え入れられた日、完全に聖化されることになります。

コロサイ書3章で、このことがうまく書き記されています。1-3節に、私たちはキリストと共に死に、キリストと共によみがえったと書かれています。キリストの死と復活に結び合わされることによって、私たちは罪に死に、いのちにある新しい歩みをするようになったのです。(ローマ書6:1-10)けれども、これはもはや罪を犯すことはないと言っているのではありません。罪を犯すのを止まらせるものが派生したという意味です。私たちはもはや罪の奴隷となって、その中で抑圧されることはないのです。罪が私たちを支配することはありません。私たちには正しく歩むことを可能にしてくださることのできる新しい主人がいます。罪に対して死ぬ前の私たちには、罪を犯さずにすむことは不可能でした。今や私たちはキリストにあって従順な歩みをすることができます。罪と格闘することがあっても、聖化へと進んでいっているのです。罪との葛藤は聖化を消し去るものではありません。

4節には、キリストが現れると、私たちも共に栄光を帯びて現れると書かれています。私たちはすでにキリストと共に上げられましたが、栄光を帯びるのを待っているのです。私たちはまだ栄光を帯びていないのです。10節を読むと、私たちはどのように進むべきかがわかります。パウロは私たちに新しい自分を着るようにと語っています。神に似せて新しく造られた存在であることを知って刷新されるという意味です。これはもうすでに為されています。現在でさえ、私たちは新しくされているのです。「私たちの創造主に似た」という表現に心を留めてください。私たちは最初だれに似せて造られたのでしょうか。贖いを通して私たちはだれに似せられているのでしょうか。いつか私たちはだれのイメージを反映させるのでしょうか。

完全な回復が成されたあと、私たちの永遠の状態とはどんなものかウィクリフ聖書注解書を見てみましょう。「神の大いなるご性質を現わすきよさは、神の民が最初から定めている目標です。」


2.人間の壊された人間関係は回復され、神は人々の心の中にとどまってくださいます。

私たちは堕落のあと、罪が入り込み、人間関係は損なわれてしまったことをすでに学びました。(創世記3:9-16)恥と恐れがアダム、エバと神との関係に入り込んでしまったのです。アダムとエバの間にあった信頼関係は互いを咎めるものになってしまいました。これは、自分を欺くものであると同時に、他人を欺いてしまう性質をも表しています。

ヨハネの黙示録19章を読むと、神の民は神の花嫁と表現されています。神は王となって私たちに君臨される存在、羊に対する羊飼いのような存在であるだけではなく、夫と妻の関係になぞらえておられるのです。結婚における夫と妻の関係は、他のどのような関係よりも親密です。その関係は法的に結ばれており、お互いの人生のあらゆる分野に影響し合っています。信頼と愛に基づいた関係です。夫婦はそれぞれひとりでいる時よりも、その存在ははるかに価値あるものとなります。この関係には協力するという要素があります。ひとりの花嫁(神の民)は多くの人々によって成り立っています。関係には互いの協力が欠かせません。お互いがその関係によって癒され、回復されるためです。


3.最後の日に刷新され、回復されると被造物のうめきはなくなります。ローマ書8章とヨハネの黙示録21章を較べてみてください。

ローマ書8:19-22:被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

ヨハネの黙示録21:1-2:また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

ウィクリフ聖書注解は次のように記述しています。「この箇所は天と地が初めて存在するようになったと教えているのではなく、新しい性質を持つと教えているのです。」


4.神の御国は決して危険にさらされることはありません。但し、抵抗する力が働いています。

被造物が回復される時、キリストの王権とご支配の下で完全な回復が行われます。神の御国は再び平和になるのです。

回復の要点ポイント:

― 人生において、私たちはすでにあることと、これからあることの間にある緊張感を経験します。ですから、回復はまだ完全な形ではなく、最終的な回復はまだ来ていないのです。
― 最終的な回復が来ると、死も罪も消え去ります。
― 回復の時、創造されたものは、あるべき形になるのを見るでしょう。
― 聖書は新しい天と地が初めて存在するようになるとは教えていません。そうではなく、元々創造された天と地が新しい性質を帯びるようになるのです。


結論

人類の歴史は、楽園から都の堕落、贖いと刷新を経て聖なる都へと移っていきました。神が最初私たちに意図しておられたことは、私たちがきよく*なることで、私たちが永遠に住む所は聖なる都と呼ばれています。ですから、私たちの人生や歴史は、この4つの章から成る御国物語の中で進められてきました。これが福音と呼ばれるものです。

このカリキュラムを通して私たちは、福音のフレームワークを用い、私たちの個人的状況、また世界の出来事を分析、解釈してゆくことを求め続けるのです。「本来のあるべき姿」「現状」「どうなりうるか」「将来、どうなるのか」これらひとつ、ひとつについて私たちは福音のどの章と関わりがあるかすぐ見つけることができます。そして、福音を世界で現実に起こっていることに関わらせ、他の人々と、どのように通じる会話へと導いていけばよいか知ることができるようになります。

Campus Crusade for Christ, Leaders led movement 教材より
------------------------
ご感想、コメントお待ちしています。

銀座で毎週水曜日、オーガニックチャーチやってます。ご関心ある方はメールください。
asktmc@gmail.com (栗原)

0 件のコメント: