2021年11月25日木曜日

裁きの神がいて良かった!?

 

「力」の無い正義は無能

よくこういう質問が出る。「なぜ、愛の神がいるなら、こんな悲惨な世の中なのか?」「義の神がいるなら、なぜ悪が世界にはびこるのか?」「神は何をやっているのか?」

 

路上で、か弱い女性が暴漢に襲われているところに、通報を受けた警察官が到着したとしよう。その警察官が暴漢に「女性を襲うことは悪いことです。」と言ったまま立ち去ったらどうだろうか?暴漢は「だから何?」と言って続けて女性に乱暴をする。警官が「力」を行使しないなら、警官として役に立たない。人を助けられない。

 

最近、こういうフレーズを聞いた。「正義の無い力は暴力であり、無能。しかし、力の無い正義も無能で役立たず。」いわゆる「言うだけ番長」で、何もしないなら問題の解決にならないのだ。

 

つまり、神が「裁きの神」でなければ、何の解決もないまま終わってしまう。

 

彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」 (黙示録5:10)

 

 

聖書の神は、「裁く神」

神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」                      (黙示録6:17)

また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。ここに神の憤りは極まるのである。

                          (黙示録15:1)

 

第二ペテロ2章は歴史上起こった神の裁きの幾つかが列挙されている。神は罪を犯したもの(悪)を放置しない方であることが明確に書かれている。(IIペテロ2:4)

 

聖書のフィナーレである「黙示録」は悪への裁きの書だ。黙示録が無ければ、初頭の質問は答えられないまま、うやむやに終わってしまうだろう。神は最後に清算する。神の悪への怒りは極まり、裁きへの時はもう延ばされることがない。そして、「事は成就」するのだ。(黙示16:17)まず、「偽預言者」と反キリストである「獣」が裁かれ(黙示19:20)千年の時を経て「サタン」自身も裁かれる。(黙示20:10)これで神への抵抗勢力は全て滅ぼされることになる。(そもそもサタンは堕落した御使、つまり被造物なので創造主の対等な敵でさえないのだ。)そのようにして神の「義」は証明される。だからこそ、現在に生きるクリスチャンは、勝利と希望を確信できる。ヒーローものの映画を見ると途中、ドキドキ、ハラハラするが、最後に勝利してハッピーエンドで終わることを知っているので、ある意味では安心して観ていられるのである。

 

「全能」かつ「正義」のコンビネーション

映画のヒーローは「正義の味方」であり、悪を制する「力」を行使する。ゆえに、ヒーローなのだ。このコンビネーションは大変重要で、そうでないと次のどれかになり、希望がなくなる。

 

 神は全能かつ悪  この場合、神は「全能」の「暴君」となる。これは最悪。

           世界は正義の無い、真っ暗な混沌=最悪な状態となる。

           彼に打ち勝てる者はなく、全く希望が無くなる。

           サタンが「全能」でないことに感謝!

 

  神は愛であるが、全能ではない。  

         愛や義を唱えても力の無い神=裁けない神=役立たず。

           ニコニコした好々爺であっても、悪を裁けないので、悪

           の勢力の言い成りになる。やはり世界は混沌となり、希

                                         希望が無くなる。

                                                                                                                                                              

 「屠り場に引かれていく羊のよう」(イザヤ53:7)このイエスは初臨の「受難のメシア」のイメージであって、再臨の王なるイエスのイメージ(黙示録1:16、19:15)の側面を忘れてはならない。イエスがゲッセマネの園で捕らえられた時、ご自身こう言われた。

 

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。 (マタイ26:53−54)

 

「この時」は、聖書の成就のために敵の言うままに従った。意図的に「力」を行使しなかったのだ。しかし、同じイエスは再臨時には、御使の軍団を連れて降臨し、反キリスト軍を滅ぼされる。(黙示録19:14−15)つまり、「力」を行使される。常に「力」はいけない、「報復」はいけないということではない。

 

事実、イエスは福音に従わない人々に「報復」する。(IIテサロニケ1:8−9 新改訳第三版)悪を放置することではなく、悪を裁き、滅ぼすことは「正しい」ことなのだ。聖書の神は裁く神であることを感謝しよう。指を咥えて悪をただ傍観する方ではない。(ルカ18:6−7)実際に天を押し曲げて降りてこられ、ご自分の矢を持って敵を散らし、凄まじい稲妻を持って敵をかき乱す方。(詩篇18:7−15)裁きの「力」を行使される方なのだ。

 

真理はこうだ・・


  神は愛であり、(第一ヨハネ4:16)

  神は全能であり、(ルカ1:37、マタイ20:26)

  神は義である(ローマ1:17、3:21。)

 

ゆえに希望がある。神は悪を放置しない。悪は滅ぼされ、義と平和と愛が支配する御国が来る。

ハレルヤ!

 

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執筆者:栗原一芳

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2021年11月18日木曜日

政治的王なるイエス(2)


前回、「舟の右側」に掲載された日本同盟キリスト教団中原キリスト教会牧師、山口希生氏の記事から「福音」には「王の即位を宣言する」意味があることを見てきた。従ってイエスの福音とは「イエスが私たち世界の王となられた!」という内容であることを確認した。(記事からの引用文はの「 」内)

 

新しい王に仕える人々

教会(エクエシア)は「キリストのからだ」と言われる。キリストは弟子たちを通して世界を統治するのであり、それゆえ「信じる」だけでなく「信仰による従順」が求められる。実は聖書的には2つの人類が存在する。第二のアダムであるキリストによって生まれ変わった「新人類」であるクリスチャン達。彼らは新しい世界の「王」に忠誠を誓う。生まれ変わっていないアダム系の「旧人類」は、「この世の神=サタン」(IIコリント4:4、エペソ2:1−3)という「王」に仕え、彼と同じ結末を迎えることになる。(黙示録20:10、15)

 

「では、イエスの家臣、部下とはいったい誰なのか?それは、世界中にいるクリスチャンに他ならない。それ以外に誰がいるというのだろうか?パウロがローマ書の中で、人々に単に『信仰』ではなく、『信仰による従順』を求めていたことに注目していただきたい(ローマ1:5、15:18)ただ信じるだけでなく、従うこと、それが使徒パウロを通じて王なるイエスが要求していることなのである。」

 

と山口氏。聖書もこう語る。

 

IIコリント5:14−15

「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや、自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」

 

クリスチャンになったということは、自分のために死んでよみがえった方、「王」なるイエスのために「生きる」ことである。このリマインダーは重要だ。そうでないとイエスの命は無駄になる。彼が死んだのは私たちが「生きる」ため。そして、それは新しい王のために「生きる」ためだ。パウロは言う。

 

「もはや、私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる

 のです。」(ガラテヤ2:20)

 

クリスチャンといっても「自分の人生の足しにになるので」信仰をやっている人もいるだろう。しかし、イエスは「弟子」として十字架を負って従ってくることを命じている。

 

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

                       (マタイ16:24)

 

そして、行いに応じた報いがあることも明言されている。

 

人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。    (マタイ16:27)

 

 

王なるイエスはどう世界を統治するのか?

新天新地ではイエスは「子羊」として描かれている。(黙示録21:22)呪われるものは何もないので、(黙示録22:3)「裁き主」として機能する必要が無いからだ。新天新地は神の「愛」と「義」が完全に支配する世界である。しかし、「現在」はどうなのだろうか? 山口氏は「現在」も、王なるイエスは弟子たちを通して愛による世界統治を実践していると考える。

 

「キリストは警察や軍隊のような武力や強制力を用いて世界を統治しようとはしておられない。イエスは、ご自身に逆らうものを十字架につけて従わせようとするようなことはしないのである。むしろ、イエスは敵を敵として扱わず、敵をも愛する愛によって敵意を乗り越えようとされたし、ご自分に従うものにも同じようにすることを願っている。これは単なる理想論ではない。実際にイエスはそのように生きたし、パウロもそれに従った。」

 

しかし、現在、台湾のように実際に隣国が自国に攻めてくるという現実問題の中に生きている人々がいる。クリスチャンであっても自衛戦争については意見が分かれるところだろう。獣化した国に対して「敵をも愛する愛によって敵意を乗り越える」ことが可能なのだろうか?愛による世界統治はサタンが千年間縛られること無しに可能なのだろうか?(黙示録20:2−3)

 

もう1つ、付け加えておきたい。イザヤ書53章に描かれるイエスは「受難のメシア像」であり、メシアの1つの側面ではあるが、もう1つの側面、「裁き主、王」としてのイエス像(黙示録1:14−16)と調和させる必要があるということ。上記のライフスタイルは、神が最終的に悪を裁くという「希望」の上に成り立つものであり、(黙示6:10、第二テサロニケ1:8—9)「力の伴わない義は役立たず」という考えも考慮すべきだろう。王の権威には「裁き」の権威も含まれる。実際、最後には、神は力を行使して悪を裁かれる。(黙示録15:1)*このテーマに関しては次回のブログで書く予定です。

 

 

王なるイエスの世界統治の時期

政治的王なるイエスは「いつ」その役割を実践されるのだろうか?「今」イエスは「政治的王」として君臨し、世界を治めているのだろうか?それとも、「来るべき」御国でそれを実践されるのだろうか?実践の時期に関しては、意見が割れるところだろう。山口氏はこう書いている。

 

「ここで注意したいのは、パウロはキリストが世界の王として地上世界を統治するのは再臨の後だとは言っていないということだ。反対にこの地上世界を王として統治するのは再臨の時までだと明言している。」

 

山口氏は、Iコリント15:25を引用し、

 

「従って、王であるイエスへの不服従が世界中で認められている今は、キリストが王として治めている時なのである。再臨ですべての不服従が終わりを告げる時、キリストはその王的支配を父なる神に渡されるのである。」

 

としているが、ここも意見が分かれるところだろう。黙示録には再臨後、王なるキリストが世界統治することが書かれている。(黙示録19:11−20:6)おそらく山口氏は「無千年王国=今が千年王国」説だろう。再臨とともに父に権威をお返しし、「新天新地」が訪れるというシナリオだろう。

 

デスペンゼーション神学の立場では、再臨後、反キリスト勢力を滅ぼし、文字通りの「千年王国」がこの地上に樹立されると考えるので、今、サタンが大活躍するこの時代は「千年王国」とはとても思えないとなる。(サタンが千年間縛られるので、地上にはキリストが諸国の民として君臨する千年王国が樹立されると考える。)また現在、イエスの家臣、部下であるクリスチャン達が勝利しているようにも思えない。「現在の教会による支配=イエスの王国」なら随分と頼りない。時代はますます暗くなり悪くなり、反キリストの力は強くなるだろう。聖書はそう語っている。御国(イエスの統治)は始まってはいるが、完成(完全統治)していないと見るべきだろう。

 

油注がれたもの(メシア)としてのイエスは初臨においては、「預言者」として、昇天後(現在)は「大祭司」として、再臨時には「王」として役割を果たされると考えるほうが順当のように思える。今は「隠された奥義としての御国=教会」の時代で、イエスの権威によって派遣されるイエスの弟子たちが「福音」を伝える時代。また、良きわざを通して、やって来る「御国」の前味をデモンストレートしていく時代なのではないだろうか。確かにイエスは政治的王である。しかし、その役割は「再臨の主=王なるイエス」とやってくる「御国」において実践されるものと思われる。

 

何れにしても、今回、山口氏が「政治的王としてのイエス」の即位を「福音」の内容と指摘された重要性は高く評価したい。

 

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執筆者:栗原一芳

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2021年11月11日木曜日

政治的王なるイエス (1)

 

今回は最近「舟の右側」に掲載された日本同盟キリスト教団中原キリスト教会牧師の山口希生氏の記事を分かち合うことにします。「福音とは何か」シリーズの最終回で「イエスが王となられた!」というタイトルです。大変重要な内容なので、2回に分けて分かち合いたいと思いました。記事からの引用にコメントをつける形にしていきます。(記事からの引用文はの「 」内)

 

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「福音=エバンゲリオン」は政治的な用語として使われていた

 

「福音という言葉のギリシア語の原語はエバンゲリオンで、今や日本語としてもすっかり定着したようにも思えるが、この言葉は紀元1世紀のギリシア・ローマ世界では新しいローマ皇帝が即位するという『喜ばしい知らせ』を伝える言語として用いられていた。」

 

当時、皇帝の即位に使われていた言葉で、宗教的というより、もともと政治的な用語だったのだ。実際に皇帝アウグストが即位された時に、彼が世界に平和や秩序をもたらしたことが「福音」(エバンゲリオン)と呼ばれていた。また当時は、皇帝が「救い主」「神」と呼ばれることも多々あったようだ。

 

「したがって、使徒パウロが『キリスト・イエスの福音』と述べる時、それはイエスという方が王として即位された、世界の王になられたことの布告という意味合いを、当時のギリシア・ローマ世界の人々は感じ取ったであろう。」

 

そういう政治的コンテキストで「福音」が使われていたのだから、当然イエスの福音は「王の即位」という意味になる。また、キリスト=メシアは称号であり、旧約では「王」「祭司」「預言者」が即位するときに「油注がれる」ことに由来している。

 

メシアには政治的解放者としてのイメージが強い。ローマからのユダヤ独立のため戦ったバルコクバはラビによりメシアと認定された。実際、メシア(キリスト)は歴史的に沢山、出現したと山口氏は語る。例えば、バビロン捕囚からイスラエル人を解放して祖国に帰還させたアケメネス朝ペルシアの創始者キュロス大王は「キリスト・キュロス」と呼ばれていたことを指摘している。

 

 

福音の内容は「イエスが世界の王として即位した!」こと

「福音」と聞くと私たちは「罪赦されて天国に行けること」と理解するが、歴史的、言語的には、世界の王の即位のことなのだ。「福音」を「個人的なもの」に限定してしまうと本来の全体像が見えなくなる。

 

『イエスが、私たちの世界の王となられた!』、これこそが福音の内容であり、私たちの救いとはイエスが王となられたことに伴う結果の1つなのである。

 

この理解は大変重要だ。黙示録1:5ではヨハネはイエスを「地の王たちの支配者」と紹介しているが、誠に的を得た表現なのだ。「天」の支配者ではなく、わざわざ「地の王たちの支配者=諸国の王」としてのキリストが描かれている。それは歴史的な「メシア」、「福音」の用語の使い方からは当然の描写だろう。また黙示録11:15では「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。」という表現もある。まさに山口氏が指摘しているように「私たちの救いとはイエスが王となられたことに伴う結果の1つなの」だ。「贖い」も同じように「個人」の贖いを超えて「全宇宙」「全被造物」の贖いが視野に入っている。「救い」を個人的なものに矮小化しないよう注意が必要だ。

 

この記事ではローマ書の冒頭部分のNTライト訳が紹介されている。

 

王であるイエスの奴隷、使徒として呼び出され、神の良き知らせのために分けられたパウロより。神はこの良き知らせを、聖典の中で神の預言者を通して前もって約束しました。この知らせは、肉のつながりという点ではダビデの子孫にあたる神の子に関するものです。この方は、聖なる霊により死者の間からよみがえらされ、神の子として力強く宣言された、イエス、王、我らの主です。私たちはこの方をとおして、その名のゆえに、信仰による従順をすべての国々へもたらすため、恵みと使徒としての役割を授けられました。そこには、王であるイエスによって呼び出されたあなたがたがも含まれています。

 

山口氏は新改訳聖書2017年版と比較して、ライト訳の方が宗教的というより、政治的色合いが濃い(より原意に近い?)ことを指摘している。

 

この新しい王の即位のニュースに、当時の政治的リーダー達が穏やかでいられなかったことは想像に難くない。

 

「このように考えるのなら、ローマ書は宗教的な信仰を呼びかける書であるのみならず、政治的な忠誠の向かうべき先を問う文書、絶大な権威を誇るローマ皇帝よりも、その皇帝によって無残に殺されたユダヤの王にこそ忠誠を示すべきだとローマ市民に呼びかけている書だということになる。かつて太平洋戦争中の日本においても、秘密警察に取り調べを受けたキリスト者が『天皇とキリストとどっちが偉いのか?』と尋問を受けたと言われているが、ローマ書は同じような問いをローマのキリスト者に向かって投げかけているのだ。」

 

パウロはキリストを王として伝えていたので、反対者達はこう言ったのだ。

 

「彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」(使徒17:7)

 

イエスを放っておくと、群衆が「王」として崇めるので、ローマが介入してくるのをユダヤのリーダー達は心配した。(ヨハネ11:48)「メシア」は「政治的解放者」であるとの認識があったからだ。覇権国ローマを不快にさせる政治的問題に発展する可能性があると見たのだ。だからイエスを十字架につけた。だいたい宗教的リーダーの即位というだけなら「世界中を騒がせてきた者たち」(使徒17:6)という騒動になるだろうか。

 

「つまりパウロは、イエスを単に宗教的な信仰の対象としてではなく、ローマ皇帝(カエサル)に勝る政治的な王としてイエスを宣べ伝えていたということだ。」

 

つまり、クリスチャン信仰には、イエスという「世界の王」へ忠誠を誓うという側面があるので、歴史的に「この世の王」から迫害を受けてきたのだ。また大艱難時代に反キリスト(政治的、経済的、宗教的グローバルリーダー)から激しい迫害を受けることなる。クリスチャン信仰には「信仰は単なる心の問題だから・・」では済まされない要素があるのだ。

 

(次回に続く)

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2021年11月4日木曜日

分からないと言う人たち

日本宣教の鍵?

福音を聞いても、「難しい、分からない」という人が多い。また、教会に長年通っていても、決心を迫ると同じことを言う人がいる。もちろん、聖書の背景が日本とは違うユダヤの背景があり、違う文化や世界観があるので異質に感じるだろう。しかし、一方、ストレートな福音を聞いて、すぐに信じる人もいる。最終的には霊的な問題だ。霊的に用意のできている人は日本人だろうが、どの国の人だろうが、福音に応答する。

 

自分も振り返ってみると、高校2年の時に福音を聞き、すべてが理解できたわけではないが、決心を迫られた時、「信じならこのお方だ」という不思議な確信が与えられ、手をあげて招きに応答した。聖霊のお働きとしか言いようがない。後で考えれば、キリスト教系の学校に行っていたなど、いろいろ伏線はあったし、先行的恩寵があったことも分かる。

 

長年、宣教団体のスタッフとして伝道活動に関わってきた者として、海外からの宣教師やワーカーによく聞かれた。「日本では何が効果的か?」「日本宣教の鍵は?」と。それが分かれば苦労しないのだ。表面的な答えはできても実は難しい。今になっても、よく分からないし、逆に聖書の世界観や歴史観が分かってくるほど、この膨大な情報をどうお伝えできるのだろうかと悩んでさえいる。

 

イエスへのPoint of contact (接点)は癒しでも、「4つの法則」でも、コンサートでも何でもいいのかも知れない。むしろ、決心してから聖書的世界観、歴史観をバイブルスタディの中で築いていくことが大事なのだ。

 

 

全ての人が信じるわけではない

「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。」

                (ローマ10:16)

 

残念なことに、神からのメッセージを聞いた全ての人が信じるわけではない。ノアの洪水の時、人々は神のメッセージを無視した。旧約時代、預言者は常に迫害された。イエス様が地上で宣教した時でさえ、笛を吹いても踊らなかったし、雌鶏が雛を集めようとしたが、人々はそれを望まなかった。(マタイ23:34−37)。また、あのパウロが昼夜説得しても、全てのユダヤ人が信じたわけではない。

 

そこで彼らは日を定めて、さらに大勢でパウロの宿にやって来た。パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった (使徒28:24)

 

残念だが、「信じようとしない」人々は常にいる。それはある意味、仕方のないことだ。伝道して信じないからといって心配しすぎなくてもいい。人々は光よりも闇を愛する性質がある。イエス・キリストの福音というのは人を2分する。(マタイ10:34−35)イエスに救われ、イエスを愛する人々とイエスを拒否し、憎む人々。終わりの時代は、それが極端に分かれていく。

 

ただ、蒔かないところからは芽は出ないので種まきは必要だ。(ローマ10:14)だから私達は「ただ単に、聖霊の力でキリストをお伝えし、結果は神にお委ねする」ことが重要なのだ。

 

 

福音を拒む理由

福音を体験した者から言うと、何でこんな「良い知らせ」を拒むのだろうと思ってしまうが、拒む理由はいくつか考えられる。

 

1.      福音に覆いがかかっている。

霊の戦いであり、敵であるサタンは福音を聞かないように、根付かないように働いている。宣教の前に祈りが必要な理由がここにある。真理はシンプルなのに、サタンは未信者を複雑な迷路に導き入れる。聖書が分からないからと書店に行って聖書関係の本(多くはリベラル神学に基づく)を読むと余計に分からなくなり、懐疑的になる。

             (IIコリント4:4、マタイ13:4)

 

2.      求めがない。偽りのもので満足してしまっている。

そもそも求めがない、乾きがなければ、キリストの下には来ない。無理強いしても、信じない。祈って、時を待つのが必要なこともある。もっとも、それは偽りの満足なので、やはりサタンの騙しのテクニックにやられているということだろう。(エペソ2:1−2)

 

3.      罪を認めたくない。

聖書の矛盾を指摘したり、十字軍の罪や、カトリックとプロテスタントの違いなどを質問してくる人は、個人的な罪の問題を避けるため自分に関わらない話題に終始している場合が多い。罪人には光を憎む性質がある。(ヨハネ3:19−20)信じられないのではなく、信じたくないのだ。

 

4.      周囲からのプレッシャーと恐れ

日本人は同調圧力に弱い。クリスチャンになることは時に家族の中で、会社の中で、軋轢を生む。信じることをためらっていた学生に、宣教師が「あなたの心の願う通りにしなさい。」と言っていたのが印象に残っている。ただ、同調圧力ということはクリスチャン人口が25%を超えれば、クリスチャンでいることはさして稀なことではなく、さらに過半数を超えれば、クリスチャンでいる方が得だという見解になってくるということで、本質的な問題というより、環境が変われば解決する問題でもある。

 

5.      プライド

正に人が罪人であるとはこのことだろう。自分を神より上に置いて上目視線で神を見下す。自分の基準で神を評価し、査定し、判定する。被造物が創造者に判定を下す。「十字架から降りてきてもうおう、そうしたら信じるから。」(マタイ27:42)的な態度だ。これと対照的なのがピリピの獄の看守の言葉だ。「救われるためには何をしなければなりませんか?」(使徒16:30)神はへりくだる者に恵みを賜う。高慢な心では神が分からない。聖書が分からないのは、自分が世界の中心におり、自分の論理の世界へ神を引っ張り入れようとするからだ。自分が神の下にへりくだり、聖書の世界へ入るなら全く違った世界が見えてくる。

 

死んで4日経ったラザロの墓の前で、イエスは「石を取り除きなさい」と言われた。心の石を取り除き、「出てきなさい!」というイエスのお言葉に応答する時、奇跡が起こり、死人は復活する。霊的生まれ変わり(Born again)を体験し、聖霊を受け救われる。救われるとは「聖霊を受ける」霊的体験であり、知的理解だけではない。

 

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私に洗礼を授けてくれた母教会の牧師の救いの証。

Kさんは若い頃から弁が立つ理論家だった。学生時代に伝道会に誘われた。無神論だった彼は「よし、牧師を論破してやろう」と意気込んで伝道会に参加した。それだけ自信があったのだ。伝道集会が終わると、説教者との個人的な会話が始まった。Kさんは1時間ほど、なぜ自分は無神論者かを得々と弁論した。説教者は黙って聞いていたが、最後に「時に、Kさん、あなたは幸せですか?」と聞かれた。Kさんは答えた「いや、幸せじゃないです。」すると説教者は「それではお祈りしましょう。」と言って頭を垂れてしまった。数分の沈黙。Kさんは腹が煮えくり返った。今、1時間もかけて等々と無神論をぶちかました自分に対して「祈れ」とは何事ぞ!しかし、次の瞬間、全く予期しない言葉が口をついて出た。「イエス様、傲慢でした。十字架のゆえに感謝します!」そして彼はクリスチャンになり、なんと翌日の集会の献身の招きに応答して牧師になる決心をしてしまったのだ。周りからは「パウロ的回心だ!」と言われたそうだ。説教者が議論で反撃していたら信じなかったかも知れない。心を変えるのは聖霊のワザなのだ。議論に負けて、聖霊で勝つ。

 

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Believe and receive!

聖書はBelieve and receive。永遠の命とは神とイエス・キリストとを知ることだが(ヨハネ17:1)、この「知る=ギノスコー」は言語では体験的に知るという意味だ。「知的に理解しろ」ではない。だいたい、知的に三位一体を理解することは不可能だろう。どうやって体験するのか?Believe and Receiveだ。

 

聖書は「信じるものは救われる」のである。ただし、この信仰は盲信ではない。神が人類に送ったメッセージである聖書の言葉を信じることだ。自分も福音のメッセージを信じてキリストを受け入れた。(福音の3要素:イエスが私の罪のために十字架で死に、葬られ、3日目に蘇った。)聖書を空想非科学小説だとヤジっていた自分が、御言葉を愛するものに一瞬で変えられた。翌日からは熱心に聖書を読みだした。それが楽しくなった。信じたら見えてくる世界がある。キリスト教弁証論は、むしろ、信じた後に役立つことが多い。後で勉強することで、自分の立っている岩がいかに堅固なものか分かってくる。さらに、その後の主との歩みの中で、確信が深まる。

 

聖書の目的は知識を増すことではなく、命を与えることだ。

 

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。  (ヨハネ20:31)

 

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