2021年11月18日木曜日

政治的王なるイエス(2)


前回、「舟の右側」に掲載された日本同盟キリスト教団中原キリスト教会牧師、山口希生氏の記事から「福音」には「王の即位を宣言する」意味があることを見てきた。従ってイエスの福音とは「イエスが私たち世界の王となられた!」という内容であることを確認した。(記事からの引用文はの「 」内)

 

新しい王に仕える人々

教会(エクエシア)は「キリストのからだ」と言われる。キリストは弟子たちを通して世界を統治するのであり、それゆえ「信じる」だけでなく「信仰による従順」が求められる。実は聖書的には2つの人類が存在する。第二のアダムであるキリストによって生まれ変わった「新人類」であるクリスチャン達。彼らは新しい世界の「王」に忠誠を誓う。生まれ変わっていないアダム系の「旧人類」は、「この世の神=サタン」(IIコリント4:4、エペソ2:1−3)という「王」に仕え、彼と同じ結末を迎えることになる。(黙示録20:10、15)

 

「では、イエスの家臣、部下とはいったい誰なのか?それは、世界中にいるクリスチャンに他ならない。それ以外に誰がいるというのだろうか?パウロがローマ書の中で、人々に単に『信仰』ではなく、『信仰による従順』を求めていたことに注目していただきたい(ローマ1:5、15:18)ただ信じるだけでなく、従うこと、それが使徒パウロを通じて王なるイエスが要求していることなのである。」

 

と山口氏。聖書もこう語る。

 

IIコリント5:14−15

「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや、自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」

 

クリスチャンになったということは、自分のために死んでよみがえった方、「王」なるイエスのために「生きる」ことである。このリマインダーは重要だ。そうでないとイエスの命は無駄になる。彼が死んだのは私たちが「生きる」ため。そして、それは新しい王のために「生きる」ためだ。パウロは言う。

 

「もはや、私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる

 のです。」(ガラテヤ2:20)

 

クリスチャンといっても「自分の人生の足しにになるので」信仰をやっている人もいるだろう。しかし、イエスは「弟子」として十字架を負って従ってくることを命じている。

 

それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

                       (マタイ16:24)

 

そして、行いに応じた報いがあることも明言されている。

 

人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。    (マタイ16:27)

 

 

王なるイエスはどう世界を統治するのか?

新天新地ではイエスは「子羊」として描かれている。(黙示録21:22)呪われるものは何もないので、(黙示録22:3)「裁き主」として機能する必要が無いからだ。新天新地は神の「愛」と「義」が完全に支配する世界である。しかし、「現在」はどうなのだろうか? 山口氏は「現在」も、王なるイエスは弟子たちを通して愛による世界統治を実践していると考える。

 

「キリストは警察や軍隊のような武力や強制力を用いて世界を統治しようとはしておられない。イエスは、ご自身に逆らうものを十字架につけて従わせようとするようなことはしないのである。むしろ、イエスは敵を敵として扱わず、敵をも愛する愛によって敵意を乗り越えようとされたし、ご自分に従うものにも同じようにすることを願っている。これは単なる理想論ではない。実際にイエスはそのように生きたし、パウロもそれに従った。」

 

しかし、現在、台湾のように実際に隣国が自国に攻めてくるという現実問題の中に生きている人々がいる。クリスチャンであっても自衛戦争については意見が分かれるところだろう。獣化した国に対して「敵をも愛する愛によって敵意を乗り越える」ことが可能なのだろうか?愛による世界統治はサタンが千年間縛られること無しに可能なのだろうか?(黙示録20:2−3)

 

もう1つ、付け加えておきたい。イザヤ書53章に描かれるイエスは「受難のメシア像」であり、メシアの1つの側面ではあるが、もう1つの側面、「裁き主、王」としてのイエス像(黙示録1:14−16)と調和させる必要があるということ。上記のライフスタイルは、神が最終的に悪を裁くという「希望」の上に成り立つものであり、(黙示6:10、第二テサロニケ1:8—9)「力の伴わない義は役立たず」という考えも考慮すべきだろう。王の権威には「裁き」の権威も含まれる。実際、最後には、神は力を行使して悪を裁かれる。(黙示録15:1)*このテーマに関しては次回のブログで書く予定です。

 

 

王なるイエスの世界統治の時期

政治的王なるイエスは「いつ」その役割を実践されるのだろうか?「今」イエスは「政治的王」として君臨し、世界を治めているのだろうか?それとも、「来るべき」御国でそれを実践されるのだろうか?実践の時期に関しては、意見が割れるところだろう。山口氏はこう書いている。

 

「ここで注意したいのは、パウロはキリストが世界の王として地上世界を統治するのは再臨の後だとは言っていないということだ。反対にこの地上世界を王として統治するのは再臨の時までだと明言している。」

 

山口氏は、Iコリント15:25を引用し、

 

「従って、王であるイエスへの不服従が世界中で認められている今は、キリストが王として治めている時なのである。再臨ですべての不服従が終わりを告げる時、キリストはその王的支配を父なる神に渡されるのである。」

 

としているが、ここも意見が分かれるところだろう。黙示録には再臨後、王なるキリストが世界統治することが書かれている。(黙示録19:11−20:6)おそらく山口氏は「無千年王国=今が千年王国」説だろう。再臨とともに父に権威をお返しし、「新天新地」が訪れるというシナリオだろう。

 

デスペンゼーション神学の立場では、再臨後、反キリスト勢力を滅ぼし、文字通りの「千年王国」がこの地上に樹立されると考えるので、今、サタンが大活躍するこの時代は「千年王国」とはとても思えないとなる。(サタンが千年間縛られるので、地上にはキリストが諸国の民として君臨する千年王国が樹立されると考える。)また現在、イエスの家臣、部下であるクリスチャン達が勝利しているようにも思えない。「現在の教会による支配=イエスの王国」なら随分と頼りない。時代はますます暗くなり悪くなり、反キリストの力は強くなるだろう。聖書はそう語っている。御国(イエスの統治)は始まってはいるが、完成(完全統治)していないと見るべきだろう。

 

油注がれたもの(メシア)としてのイエスは初臨においては、「預言者」として、昇天後(現在)は「大祭司」として、再臨時には「王」として役割を果たされると考えるほうが順当のように思える。今は「隠された奥義としての御国=教会」の時代で、イエスの権威によって派遣されるイエスの弟子たちが「福音」を伝える時代。また、良きわざを通して、やって来る「御国」の前味をデモンストレートしていく時代なのではないだろうか。確かにイエスは政治的王である。しかし、その役割は「再臨の主=王なるイエス」とやってくる「御国」において実践されるものと思われる。

 

何れにしても、今回、山口氏が「政治的王としてのイエス」の即位を「福音」の内容と指摘された重要性は高く評価したい。

 

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執筆者:栗原一芳

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