2021年9月30日木曜日

聖書が分かるようになる7つの視点(2)


前回は1。聖書を「世界観、歴史観」として読む、 2。聖書を「救いのストーリー」として読むことを取り上げました。今回は聖書を読み解く鍵となる「神の国」の理解です。

 

3.  聖書を解く鍵〜「神の国」

神の国とは何でしょうか?「神の国」、「天の御国」、「御国」は基本的に「神の支配」を意味する同義語です。英語ではKingdomです。ですからそこには「King=王」がいます。誰がこの世界の「王」なのかが重要です。このテーマは、歴史の中で漸進的(Progressiveに展開してゆきます。

 

神は創造主であり、全宇宙(被造物)は神の支配の下にあります。その意味で元々、全宇宙は神の国です。神が真の王なのです。

 

しかし、歴史は、その王座を奪おうとする戦いの歴史です。サタンにより罪が入り、人が神を押しのけて王になることを欲したり、神でない偶像を礼拝したりするようになるのです。現在でも人は神を排除し、神なしで世界を統治しようとしています。唯物論や、進化論で神を抹殺しようとしています。戦いは続いているのです。旧約時代のイスラエルでは、神が治める国家=神政政治を通して神の国の雛形をお示しになりました。

 

やがて預言通りキリストが来られ、贖いの御業を十字架で成し遂げ、聖霊が降り、教会時代が始まりました。新約時代の教会を通して「奥義としての御国」が実現したのです。この時代、教会(神の国)では選民、異邦人の壁は崩されています。性別、人種、地位を超えてキリストの体が形成されています。十字架の下に「信仰による神の家族」が実現したのです。




これは、やがて地上に実現する御国=メシア王国=千年王国の前味でもあります。今の時代は「麦」と「毒麦」が共存する時代です。悪の勢力は増大します。そして、艱難時代には反キリスト(獣)が王となってこの世を支配します。獣の王国です。しかし、その時代は長くは続きません。キリストは来臨し、反キリストを滅ぼし、王として聖徒達と共に全地を治めます。これがメシア王国=千年王国=御国です。その時代の終わりに、サタンは滅ぼされ、呪われるものが全く無い新天新地(完成された御国)が訪れます。もはや、神の王座を狙うものはいなくなるのです。このように歴史は王座争いであることが分かります。

 

ちなみに、死んだクリスチャンが行く「天国」と私たちが呼ぶところは、「パラダイス」のことで、キリスト地上再臨までの一時的休息場と考えられています。単に「神の国=天国」ではないことを理解することが重要です。

 

まとめてみますと・・・神の国は、

 

  全宇宙は、神の被造物なので、元々「神の国」

  神はイスラエルを選び、神中心の政治形態(神政政治)を通して「神の国」を表された。ただし、これはイスラエルの不信により失敗に終わっている。

  キリストの十字架により隔ての壁が壊され、キリストの体としての

教会を通して、人種、文化を超えた「神の国」が現在、表されている。

  やがて地上では獣(反キリスト)が王権を握り世界を支配するが、キ

リスト来臨により滅ぼされ、キリストが直々に治める「メシア王国=千年王国」が実現する。これにより可視的な「神の国」が実現する。

  千年王国後、最後の敵であるサタンとハデスが火の池に落とされ、白

い御座の裁き(最後の審判)を経て、「新しい天と新しい地」が創造され、そこに贖われた者たちが復活の体を持って永遠に住むことになる。これが最終的な「神の国」

 

(次回に続く)

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

2021年9月23日木曜日

聖書が分かるようになる7つの視点(1)


聖書が分かるようになる7つの視点 

1.      聖書は世界観、歴史観を提供している。

2.      聖書66巻は「救いのストーリー」

3.      聖書を解く鍵「神の国」

4.      新しい契約(新約)の理解

5.      福音書の分水嶺ベルゼブル論争

6.      聖書の背景、文脈を大切にして読む

7.      ヘブル的背景を理解する。

 

今回は7つのうち1と2を取り上げます。

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1.  聖書は世界観、歴史観を提供している。

聖書は単なる道徳の本ではありません。聖書は私達がどんな存在で、この世界はどうなっていて、私達の立ち位置はどこなのかを教えてくれます。世界観とは「私はどこから来て、どこへ行くのか?」「この世界はどうやって始まり、どこに向かうのか?」「悪はどう始まり、どう処置されるのか?」「人は死んだらどうなるのか?」などを扱うものです。聖書によれば、人は偶然の産物ではなく、神がご自身の似姿に造られた傑作品です。神に愛されている存在です。この観点は、その人の人生を大きく変えます。

 

また歴史観には、この世界は、どんどん悪くなり最後は滅亡するという「悲観的歴史観」、逆に世界はどんどん良くなり地上天国が実現するという「楽観的歴史観」があります。聖書は「悲観的楽観論」です。人の罪ゆえに世界は悪くなりますが、キリストの来臨で悪が滅ぼされ、義と平和と愛が満ちる「御国」が到来するという史観です。その意味で聖書預言を学ぶことは聖書的歴史観を身につけるのに大変重要です。



2.  聖書66巻は「救いのストーリー」

創世記から黙示録までの66巻は「救い」の物語。物語には「起承転結」があります。聖書にも始めと終わりがあります。4つのポイントにまとめると、「創造」「堕落」「回復」「完成」です。神は世界を調和(シャローム)ある良きものとして創造されました。始めから今のような悪の満ちる世界ではありませんでした。反抗者サタンが神の最高傑作である人を誘惑し、罪を犯させ、堕落させたのです。罪は全人類、そして被造物世界にまで及びました。神はメシア(救世主)、イエスを世に遣わし、十字架で罪の贖いをさせました。それは同時にサタンの敗北を意味します。贖いのワザを成し終えイエスは復活し、昇天しました。イエスは再び来られ、サタンとその勢力を滅ぼし、御国(地上の千年王国、それに続く永遠の新天新地)を確立し、救いの歴史は完成するのです。

 

聖書には、目に見えぬ世界での戦い、すなわち「霊的戦い」、光と闇の戦いというテーマが貫かれています。地上で起こる歴史的出来事の背後には霊的な戦いがあるのです。ヨハネの福音書1章は、創世記1章を彷彿とさせますね。ヨハネの福音書は特に「光」と「闇」の戦いを強調しています。神は光ですが、今の時代は「闇の王国」も同時進行しているのです。敵であるサタンが活動中で、いわば戦闘状態なのです。(Iペテロ5:8)だからクリスチャンは、この「霊の戦い」のため武装するよう勧められています。(エペソ6章)闇の勢力は人の思いを暗くし、福音の光を輝かせないようにしています。(IIコリント4:4)まさに闇の役割ですね。しかし、光の勝利は約束されています。ヨハネの結論はこうです。

 

「この方(キリスト)にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」

 

(次回に続く)

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2021年9月16日木曜日

救われない人も定められている?


クリスチャンになると一度は頭を悩ませる問題。それが「予定説」。つまり、「救われる人は世の始めから決まっている?」じゃ、なぜ伝道するの?また、当然の論理的帰結として、「それじゃ、救われない人も世の始めから決まってる?」となる訳で、穏やかではいられません。一応、整理してみましょう。

 

カルビン主義神学のTULIP



カルビン主義神学では、神の「主権」を土台に置きます。そうすると、こういう論理展開になるのです。

 

T (Total Depravity) 人間の全的堕落

U(Unconditional Election) 神の無条件の選び

L (Limited Atonement) 限定的贖い

I (Irresistible Grace) 抵抗できない恵み

P(Perseverance of the Saints) 聖徒の堅持=救いが保たれる

 

これら5項目の頭文字をとって、TULIP(チューリップ)と呼ぶ。つまり、神は絶対的主権者である。T=人は完全に堕落しており、自分の方からは救いに達することはできない。U=救いは人の側の条件(善行など)ではなく、全く神の側の選びとなる。つまり、世の始めから救われる人は決定されている。・・ということは、L=十字架の贖いは救われる人のためであり(つまり限定的)、救われない人のために贖いを為すのは意味のないこととなる。人の側からは神に選ばれた人は、どうあっても救われるので、I=人は神の恵みに抵抗できない。神の主権で選ばれているので、P=その救いは保たれ、一度救われたら、救いから落ちることはない・・となる。

 

聖書には確かに、世の始めから「選ばれている」ことが記されています。

 

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって 私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。 (エペソ1:4)

 

 ただし、これを論理的に進めると、伝道しても、しなくても救われる人は救われるし、救われない人は救われないとなります。さらに論を進めると・・・救われない人も世の始めから決まっている・・となります。ただし、「救われない人」に関して、そのように明確に書かれている箇所は聖書にはありません。


 

アルミニウスが異議を唱える


カルビンの弟子のテオドール・ベザは事実、論理を進め、救われない人も予定されているとする、いわゆる「二重予定説」に行き着いたのです。それに対し、ベザの弟子であったオランダの神学者、アルミニウスは、それに異議を唱えました。彼らの運動はカルビン派本隊からは「反抗者」(レモンストラント)と呼ばれました。アルミニウスはエラスムスの自由意志論に影響を受け、救いには人の意志も関与すると考えたので、TULIPがこのように変更されました。

 

T (Total Depravity) 人は堕落したが、人間の自由意志が腐敗した。

C (Conditional Election) 救いの条件は人間の側の応答による。人間が自由意志を発動して、神の救いの計画に参与できる。

U(Unlimited Atonement) 神は全ての人に無制限に贖罪の機会を与えている。

R(Resistible Grace) 人間は神の恵みを拒否することができる。

P (Possibility of Apostasy) 救われたものが自分の意思で背教し、救いを失うことができる。

 

確かに聖書にはこんな箇所もありますね。

 

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者 となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。(ヘブル6:2)

 

その後、「救い」を失うのか、失わないのかでキリスト教界が2分されてきました。当時、アルミニアンは異端的神学として排斥されたのでした。しかし、18世紀の説教者ジョン・ウエスレーは、アルミニウス主義を取り入れ、さらに「先行的恩寵」の概念を追加して、単なる自由意志論ではなく、救いに至る神の先行的恵みを強調したのです。日本の宣教に大きな影響を与えたホーリネス教団などの「きよめ派」はウエスレアン・アルミニアンの流れを汲んでいます。

 

私もこの系列の教会で洗礼を受け、その神学背景のバイブルスクール(米国)で教育を受けました。そこでは、「救われて」、その後「きよめられる」ことが強調されていました。「きよくなければ主を見ることができない」がよく引用されました。そして、「救い」も「きよめ」も失うことが可能で、何度でも失い、また悔い改めて戻ることができたのです。神学生達が、夏休みに帰宅して世俗のロックなどを聞いて「堕落?」し、バイブルスクールに戻り学期が始まる日の礼拝で、涙ながらに悔い改め「今日、救われました!」と証しする学生を何人も見ました。私はここで、「これは如何なものか」と疑問を持ったのでした。主の御前で自分の信仰状態を常に省みる緊張感があるのはいいのですが、これだと救いの確信に立ち続けるのが困難になります。

 

論理の限界

人間の論理には限界があるのです。1つが3つで、3つが1つ。三位一体を人間の理性できちんと説明することはできません。聖書全体から、その真理を信じ受け入れるしかないのです。イエスが100%神で、100%人というのも論理では受け入れがたいですよね。それは正に「神秘」でしかありません。聖書は原典において神の霊感を受けており、絶対的に正しいのです。しかし、同時に神は不完全な人を通して聖書を書かせた訳で、しかも、それぞれの筆者の個性を用いて書かせたのです。無意識状態で、機械的に神のタイプライターとなった訳ではありません。さて、それでは、不完全な人間が書いたものが、「神の言葉」なのか?ここでも論理が立ちません。

 

神の主権から出発するカルビン主義のTULIPは論理的に正しいのです。しかし、論理的帰結は「2重予定説」となってしまいます。また救われる人が決まっているなら、そして、人の意志が関わらないなら、伝道する必要もなくなってしまいますね。しかし、聖書は伝道するように命じています。それでは、TULIPに対抗したアルミニウスの5項目が絶対的に正しいのでしょうか?

 

ここで覚えておかなければならいのは、神学も文化(人のわざ)であり、どの神学も、それ自体で霊感を受けた聖書と同等には置けないということです。神学は、時代の哲学にも影響を受けます。また、いくら探求しても解明できない神の神秘は残されるのです。それでいいのです。人間が神を分かりきってしまうなら、人間は神を超えてしまいますから。救いに関して、神が世の始めから救われる人を選んでいることも事実、そして、福音を聞いて信じる「決断」をする人の側の要素が関与することも事実でしょう。神の分100%、人の分100%という「論理的絶対矛盾」の中に真理があるように思えます。

 

ペテロの魚

今でもガリラヤ湖に行くと、「ペテロの魚」という料理があるそうです。マタイ19:27に出てくるペテロが釣った魚だそうです。この魚の口の中にスタテル銀貨1枚があって、ペテロとイエスの分の神殿税として納めた話です。しかし、なぜイエスは、ペテロをわざわざ湖に行って魚を釣らせ、その中に見つけた銀貨を支払わせたのでしょうか?この論争があった時に、さっと銀貨を出して渡すことも出来たはずです。5つのパンで5千人を養うことのできるイエス様です。水をワインに変えることのできるイエス様です。その辺の石をとって銀貨に変えるくらい朝飯前だったでしょう。しかし、ペテロの職業であった魚釣りをして魚を取らせて、そこに銀貨を備えられたのです。イエスは銀貨を備えたが、ペテロ側にも「やる」ことがあったという事です。

 

よく「神が養ってくださるから心配ないよ」と言います。それは怠惰に仕事もしないで賛美していれば、神が天から月20万円降らせてくださると言うことではありません。基本的には、神が養うとは、与えられた仕事を忠実にする事で神が必要を満たしてくださると言う事でしょう。パウロも怠惰を戒め、仕事をすることを命じています。(IIテサロニケ3:10)神は備えるが、人も働くのです。エデンの園の時代からそうなのです。(創世記2:15)

 

聖書を見ると、いつもこの2面性があります。神が働く、人も働く。神がやる分と人がやる分があります。物事はオートマチックに動くのではないのです。人は神のロボットではないのです。エデンの園の「知恵の木」の実を取るかどうかは、アダムとエバの選択にかかっていたのです。自分の選択として「実」を取ったので、罪の責任を問われた訳です。神は「堕落」を予知していたが、「堕落」を予定していた訳ではないのです。同じように、神は救いを全人類に備えたが、人はそれに応答し、「信じ」なければならないのです。「信じる」ためには先ず、福音を聞かなければならないのです。福音を伝える人がいなければならないのです。(ローマ10:13−17)「救い」のために、神は御子を世に遣わされました。それに応答し、信じる人は滅びることなく、永遠の命を持つことになるのです。

 

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない (ヨハネ3:14−20)

 

永遠の運命は「信じる」、「信じない」という人の決断にかかっています。また、光より闇を愛したのは人の選択でしょう。光の方に来ないのも彼の意志的選択と言えます。

 

こんな話があります。

 

「自分の意志で『救いの門』をくぐって救われたが、振り返って見ると、門の裏側には『あなたは世の始めから選ばれていた』と書かれていた。」

 

そういう事でしょうかね。

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興味深い考察

それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。』

                       (マタイ25:41)

 

この聖句から分かるのは、地獄は元々、「悪魔とその使い(悪霊)」のために用意されていたことだ。悪魔と悪霊には「贖い」の備えが無いので、滅びが「定め」られている。そして、予定通り処置される。(黙示録20:10)悪魔に身も心も売ってしまった「偽預言者」「獣=反キリスト」も運命を共にしている。黙示録20:11からは最終審判「白い御座の裁き」の記述だが、数々の書物が開かれ、慎重に審査されている様子が分かる。オートマチックに決定されているのではない。「審査」がされているのだ!ここから推察されるのは、審査にパスしていれば、「火の池」に落ちなくてもいい訳で、「火の池」に落ちない「可能性」があるということだ。「可能性」はあるが、現実には悲しいかな、「悪魔(竜)=この世の神」、「獣=反キリスト」、「偽預言者」、に従ってしまう人々がいるということだ。一人として滅びることを願わない神(ヨハネ3:16)が、悪魔に従う人を「決定」しているとは思えない。イスカリオテのユダも最後の最後まで悔い改めのチャンスはあった。「最後の晩餐」の場面まで、イエスはそこにいた。そして、手を差し伸べていたのだ。「行いに応じて」裁かれる(黙示録20:13)ためには「自由意志」による「行い」が問われなければならないだろう。

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

2021年9月9日木曜日

「こんな世界があるなんて」


もう1つの世界

2階建ての一軒家に住んでいる人が、ある日突然、物置の奥にある階段を見つけました。何と登ってみると屋根裏に3階があったのです!しかも、洋風の素敵な部屋でステレオが置いてあり、ソファーまであります。彼は得した気分になったでしょうね。ある訳ないと思っていた上階があったのですから・・・



クリスチャンになるとは3階を見つけた人のようです。多くの人は2階までしかないと思って生活しています。天上の世界を知りません。後に来る世があるとは知りません。神が世界を創造されたという世界観を知りません。目に見える世界以上の世界があるとは知りません。毎日の日常生活以上のものは無いのだと思っています。

 

ある家庭集会に行って証をさせて頂いた時のことです。そこに一人のノンクリスチャンの方がおられました。集会後、話をしていると彼が、「こんな世界があるんですね〜」と感心しておられました。あるバイブルスタディのメンバーは「ここに来ると会社と180度違うんですよね。」と言いました。そう、そんな世界があるんです!その世界を体験することができます。

 

私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。Iヨハネ1:3)

 

「目が見たことのないもの、 耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。  Iコリント2:9−10)

 

 

私も受けた福音Iコリント15:3)

福音は、概念ではなく、個人的に「体験」するものです。私は高校2年の時、Hi-BA(高校生に伝道している団体)のサマーキャンプに参加して、初めてクリスチャンという人々と会いました。今まで自分が付き合ってきた人々と何か違うのです。なんて素敵な人々なんだろうと思いました。何の偏見もなく、自分を受け入れてくれました。自分のために祈ってくれる人までいて感動しました。それで心が開かれていったのです。数日後のキャンプの夜の集会のメッセージに応答してイエス様を信じクリスチャンになりました。

 

自分は、この社会に生きていて何か違和感を感じ、疎外感を感じ、不安でした。生きる目的もわからないまま、大人になり、社会に出てゆくことが怖かったのです。しかし、やっと自分の魂の故郷、自分の本当の「居場所」を見つけたのです。「自分がありのままの姿で居て良い場所。」、そう「こんな世界が・・・」あったのです。

 

そういう意味ではクリスチャンになるとは究極の「異文化体験」です。もっと正確には、「異次元体験」です。今まで慣れ親しんできた価値観とは違う、世界に入るからです。クリスチャンになるとは単に道徳的に良い人になる、といったちっぽけな変化ではありません。住んでいる世界(宇宙)が変わるのです。つまり、世界観や歴史観が変わるのです。

 

神を知らなかった自分が神のいる世界を体験したのです。聖書の神がいるとは、「愛」があるということ。「希望」があるということ。「真実」があるということ。そして、自分は神の家族の一員となり、イエス様にあっての兄弟姉妹を得たのです。一緒に祈れる仲間を得たのです。もう感動です。このキャンプから帰宅して1週間くらいは、あまりの喜びに浮かれていました。

 

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。 Iペテロ1:8)

 

「生まれ変わり」としての回心

鎖国していた江戸時代に住んでいた日本人の多くは、同じ地球の上にアメリカやヨーロッパの国々のようなライフスタイルがあるなんて夢にも思わなかったでしょうね。クリスチャンになるのは異文化体験なので、ある意味、いくら口で説明しても分からない部分があるのです。長年勉強している求道者が「でも、分からないんです。」を連発する理由はここにあります。イエス様ご自身も言われました。「新しく生まれ変わらなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3:3)

 

自分にとっては、あのキャンプで同い年のクリスチャン達に会ったことが一番のインパクトでした。彼らに触れ、一緒に遊び、会話し、交わったことで心が開かれていきました。こういう「世界」があることを体験したのです。そして、信じた瞬間に聖霊を頂き、それ以来、聖書の言っていることに納得がいくようになったのです。霊的生まれ変わりです。(Born again体験クリスチャンになるとは「勉強」の結果ではなく、まさに「生まれ変わり」なのです。聖霊が心に住まわれるという「霊的体験」なのです。創造主なる神との直通電話が開通するというエキサイティングな出来事なのです。

 

御国がやってくる!

イエス様の宣教内容は「御国の福音」であり、「神の国の到来」でした。(マタイ4:17、9:25)真のエクレシア(クリスチャンの交わり)があるところでは、「御国」の前味を味わうことができます。しかし、それは「前味」なのであり、「実態」はこれから来るのです。(エペソ1:11−14)福音の真髄は「KINGDOM=御国」の到来です。「主の祈り」で祈った「御国が来ますように!」が実現することです。

 

最近は、「愛」や「平和」や「義」という言葉に陳腐な響きがありますね。不法がはびこり、愛が冷めていく世の中。周りには暗いニュースばかり。何かすべてが嘘くさい。希望なんてない、愛なんてない・・そう思って希望を失い自死してしまう人も後を絶ちません。でも「この世界」以上の世界があるんです。この時代の後に来る、「世界」があるのです。

 

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 (エペソ1:21)

 

イエスも「この時代」が過ぎ去り、次の時代が来ることを示唆されています。(マタイ24:34)

 

近日、総裁選がありますが、誰が総理になっても常に問題はあります。しかし、御国ではイエスご自身が「王」となります。天の話ではありません。イエスは地の王たちの支配者です。(黙示録1:5、19:16)そこではスキャンダルも、賄賂もありません。イエスご自身、究極のサーバントリーダーとして国を治めます。犠牲的な愛を持って国民に仕えて下さいます。党利党略も、政治家の私利私欲はもう無いのです。また、「平和の君」として治める国には殺戮や戦争もありません。人権は保護され、自由が確保されます。朽ちない体が与えられ、私たちにはもう老いも、病気も無くなるのです。やってくる将来の確証としてイエスは民のあらゆる病を癒されました。(マタイ4:23)もう一度、言います。福音の真髄は「御国の到来」なのです。イエスの「十字架」も「復活」も、その布石です。そこで止まってしまってはいけません。The KING is coming! 「主の来臨」と「御国の到来」は、うまく作り出した空想話では無いのです。(IIペテロ1:16)

 

私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。 IIペテロ1:16)

 

「そんな世界」があるんですか?はい!だから「福音」なのです。グッドニュースなのです。宣べ伝える価値があるのです。驚くべき希望なのです。

 

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執筆者:栗原一芳

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2021年9月2日木曜日

「2人、3人集まるところにわたしもいる」の本当の意味

 

コンテキスト、コンテキスト、コンテキスト!

こんな冗談があります。ある聖書箇所を開くと「ユダは首をくくって死んだ。」とあり、また別の箇所を開くと「あなたも行って、同じようにしなさい。」とあります。聖書の言葉だからとその通り実行すると大変な事になりますね。もちろんこれは極端な例ですが、私たちは結構、文脈を無視して読んで、適応していることがあります。

 

前も書きましたが、聖書の原点には章や句がありません。あとで印刷屋が読みやすいように区切ったものです。章や句があるゆえに、開きやすくて便利な反面、聖書の意図しない区切りができてしまうこともあります。すでにこのブログでも指摘しましたが、マタイ17章の「イエスの変貌」は16章28節との繋がりで読まないと28節の意味が分かりません。また、有名はヘブル11:1も10章37−38節の流れで読まないと、自分の願望を信仰と呼ぶ、勝手な解釈になる可能性があります。

 

今回は文脈を無視してよく引用される箇所について見てみましょう。

 

 

教会の定義ではない

二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。 (マタイ18:20)

 

2人でも3人でもクリスチャンが集まるところに主はおられる。すなわち、エクレシア(教会)があるという解釈です。いわゆるオーガニックチャーチを立証、推進するのに引用される箇所ですね。自分も実はそう思って引用していました。

 

しかし、この箇所の文脈は「教会の定義」を語っている箇所ではありません。罪を犯した兄弟をどう扱うかと言うテーマです。(マタイ18:15−20)

 

この箇所の前後の文脈

18章3節から20節までは「 」で括られており、イエス様が1つのテーマでお語りになったメッセージであることが分かります。初めのテーマは「つまずきを与える者への裁き」(18:6−14)であり、次の話は「迷い出た1匹の羊」を探し、群に回復する話です。神は人が滅びることを願わないからです。(18:14)回復への神の御心が述べられた後、今回の箇所です。そして、今回の箇所の後に続くのは有名な「7の70倍」の「赦し」というテーマです。「その時」(18:21)ペテロがイエスに質問したのであり、イエスの前のメッセージを聞いてのリアクションであることが分かります。

 

今回、扱うのは「罪を犯した兄弟」に対する処置というテーマですが、前後の文脈から根底にあるメッセージは、この兄弟に対しての「赦し」と群への「回復」であることが分かります。単なる裁きの規定ではないのです。だから、この人が聞き入れるなら、「自分の兄弟を得た事になる。」(15節)という群への回復のメッセージになっているのです。

 

 

「罪を犯した兄弟」の扱い方の順番

1.    二人だけのところで個人的に指摘する。

 

2.    聞き入れない場合、2人か3人の証人の証言により罪を立証する。

証人は複数必要です。

 

3.      それでも聞き入れない場合は、教会に伝え、教会としての判断を下す。

しばらくは教会の交わりから外す。(18:17)本人が痛みを通して

悔い改めることが目標なのであって、単なる冷たい仕打ちではないのです。

 

ちなみに、「キリストは裁くな、と言っているのだから・・」と言って罪を放置するも間違いです。アナニアとサッピラは聖霊に背いたので、裁かれました。パウロもIコリント5章で「兄弟」と呼ばれながら罪を悔い改めない者への適正な裁きについて語っています。教会メンバーを守るためにも適切な処置は必要です。ただし、自分の基準で裁いてはいけません。判断には複数の証人が必要なのです。

 

18節での「つなぐ」「解く」は許可や禁止を表します。教会の長老たちには教会の問題に関しての許可や禁止の判断が委ねられているということでしょう。

 

その文脈で19節があります。大事な決断は一人で下してはなりません。二人以上が心を1つにして祈るなら、解決への判断が与えられます。

 

 

「二人か三人がわたしの名において・・・」の意味は?

さて、その流れの中で、今日の20節です。この「2人〜3人」は16節の「2人〜3人」の証人に対応しています。つまり、2〜3人の証人が集まって祈って、判断した事に、キリストも同席され、その判断を承認するという意味です。この文脈上はそうなのです。



 もちろん、2人〜3人集まるところに主はおられる、主にある交わりが存在することは事実です。「教会は建物ではなく、キリストを信じる人々のコミュニティなのだ。」そういった2次的適応はできます。しかし、これをもって3人いれば「教会」という定義は難しいのです。新約の手紙を読むと教会には「長老」「執事」「監督」(Iテモテ3章、テトス1:5)などがおり、スタバでの単なる任意の集まりだけではないからです。責任持って、へりくだって群れを牧する長老の存在が必要です。(Iペテロ5:1—5)

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com