2017年4月19日水曜日

「死にゆく人は何を想うのか」


 霊園は都会のオアシス

いきなりですが、最近、霊園が心地よいのです。東京都心には青山墓地、谷中墓地、雑司ヶ谷墓地、染井墓地などがあります。激しく変化する都会の雑踏の中、墓地は数十年前と変わっていません。天気の良い日にはとてものどかです。まさに都会のオアシスです。

僕は巣鴨に生まれ育ち、生家のすぐ近くに染井墓地があります。小学生の時の遊び場でした。今も走り回った頃の墓石がそのまま同じ配置で置いてあります。タイムマシーンに乗ったようです。最近はベンチなども備えてあり散歩者にも利用しやすくなっています。お昼時、近くの墓の少々お線香の匂いのするベンチにすわって、青い空と流れ行く白い雲を見上げます。とても平安な気持ちになれます。小学校の時、見上げた青空、大学の時、見上げた青空が今も同じに広がっています。このまま平和が続くといいなと思います。


墓地が平和なのは、みんな死んでおり、争う人々、憎み合う人々が「いない」からです。みんな静かに眠ってます。(笑)アメリカと北朝鮮の緊張が高まる中、人がいなければもう少し地上は平和だったのかなと思ってしまいます。創造の時、すべてはシャロームだったんですけどね。





墓石は生き様を語る

年のせいか、最近は結婚式より葬式のほうが心にグッときます。葬式ではその人の生き様が語られます。そして、墓地ではその「生き様」が今も語っています。特にクリスチャンの墓石には御言葉が書いてあったりして、信仰のあり方さえ伝わってきます。ある墓石には「神の僕、とありました。」そういう生涯だったんだろうなと想像します。「神の子イエスの血、すべての罪を清む」と福音のメッセージを語っているものもあります。雑司ヶ谷墓地にはクリスチャンの墓が多いのですが、それを見るたび、この人たちは「死んでない、眠っているだけで、主の再臨のとき、起き上がるんだ。」と思わされます。希望があるのです。


自分は17歳(高校2年)の時、クリスチャンになり教会に通い始めました。通い始めてすぐ、牧師のお父様が亡くなり、教会で葬儀が行われました。初めてクリスチャンの葬儀に参列しました。まず、葬儀なのに、歌を歌うことにびっくりしました。そして、シンプルですが、その清らかさ、明るさにはっきりと希望を見ました。故人は天国に行ったのだと確信しました。今まで自分が経験した仏教の葬式と180度違ったのです。クリスチャンの葬儀はパワフルです。ものすごい証なのです。


雑司ヶ谷には「聖心会」の修道女たちの墓があります。アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアから日本の女子高等教育機関設立のため奉仕しました。1916年から1953年までに没した24名が埋葬されています。遠く母国を離れ、異国の地で、その民を愛し、宣教地で没し、埋葬されているのです。その墓が母国からは遠く離れた日本にあるのです。メールもインターネットも無い時代です。異国は本当に遠い異国だったのです。彼らの愛と献身を思い胸が熱くなりました。自分にはできないなと思わされました。彼らも「生き様」を今も伝えています。ぜひ、最近来た若い宣教師さんたちに見学して欲しいです。




「死に逝く人は何を想うのか」

さて、最近、「死に逝く人は何を想うのか」 (音楽療法士、佐藤由美子著)という本を読みました。まず、死にゆく人に音楽で奉仕する臨床音楽療法士という存在があること初めて知りました。素晴らしいです。音楽は思い出、感情、を引き出し、また癒しを与えることができますよね。殺風景な病院に大事な働きだと思いました。佐藤由美子さんはこうして、1200名以上の方を見送ったといいます。ここで鍵となるのがスピリチュアルペイン。

「スピリチュアルペインとは、簡単に言えば、自分らしく生きられなくなった悲しみや、人生の意味を見出せない苦しみ、人生を振り返ってやり残したことへの後悔、大切な人との関係を修復できない苦悩などを指す。」(p.5)

これは興味深いですね。人間であるからこその苦悩ですね。「死体」ではなく「遺体」なのです。単なるエントロピーの法則に従う「時間の経過」ではなく、「人生」の終わりなのです。「終活」とうい言葉さえあります。「エンディングノート」が流行っていますね。人は自分の人生の締めくくりをしたいのです。死へのスピリチュアルな準備をしたいのです。筆者はスピリチュアルは宗教とは違うといいます。宗教は特定の団体のものだが、スピリチュアルはすべての人が持つ、いわば人間ゆえにつきまというものという解釈です。このアプローチなら全ての人に通じます。



「スピリチュアリティとは神聖なものと自分、世界と自分との関係性を指す。他人を思いやる気持ち、感謝の気持ち、自分を生き生きとさせるもの、人生に意味を与えるもの。そういうものがその人のスピリチュアリティと言える。つまり、すべての人に宗教心があるわけではないが、スピリチュアリティは誰もが持っているものなのだ。」(P.94)

被災地で被災者や死にゆく人々に寄り添う「臨床宗教師」がいます。誰もが意味ある人生を生きたい。大事な人に感謝したい。自分と他者の関係性を回復(ゆるし、いやし)したい。それがスピリチュアルという側面だという訳です。そして著者は言います。

「実際、他者といい関係を築き、満足した人生を送った人ほど後悔は少ない。そして、そういう人ほど死を恐れないものだ。」(P.94)

やり残したことを解決することが不安や恐怖を軽減する上でとても大切だというのです。

「人は死に直面した時、自分の過去から逃げることはできない。後悔、怒り、罪悪感、悲しみなどの感情がよみがえり、それがいわゆるうつ状態につながる場合もある。」(p.139)

そこで「ライフレビュー」のサポートが必要となると言います。その人の「ライフストーリー」聞いてあげるのです。そこではいちいち批判や説教はしません。「大きな器」となる必要があるのです。被災地での「傾聴」と同じです。そこで人は自分の人生を整理し、再解釈し、意味付けをしてゆくのです。それは大切なミニストリーだと言えませんか?

「自分の価値観、判断、思想や信条を押し付けたりするのではなく、ただ愛情と尊敬を持って相手に接し、受け止め、理解しようと努めるのだ。そうすれば患者さんは、あなたに『わかってもらった』と感じられる。彼らの心にプラスの変化が起こるとしたらそのときだろう。大きな器の存在こそが、自分を『癒す』ために必要な『力』を引き出すのである。」(p.154)



死に際して苦しむのは単に肉体的苦痛だけではく、スピリチュアルな場合もあるといいます。あの人に「ありがとう」を言えなかった。あの人に「ごめんなさい」が言えなかった。など。人の最後にはこの「ありがとう」「ごめんなさい」「許します」の3つの言葉が意味を為すといいます。それが言えたあと人は安らかに逝くのだそうです。

愛するから別れは辛い、しかし、愛さないなら人生に意味がない。

死を迎える人は「否定」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」(キューブラー・ロス)のプロセスを通るといいます。それは自然で誰もが通るプロセスなのです。癌と宣告されたらどうでしょう。初めは信じられず、そして信じたくない。「どうして自分が?!」という怒り(まわりへの怒り、イライラ=本人が不安で辛いから)が発生します。信仰を持っていても初めはこのプロセスを通るのではないでしょうか。そして、神との取引、しかし、変えられない事実を知り、抑うつから受容へ。

「死とは、すべてのコントロールを失うことに等しい。いつ、どこで、どのような最後を迎えるのかわからず、患者さんは自分の人生の舵をとれないような感覚に襲われる。」(p.84)

今までできていたことが1つ1つできなくなる。1つ1つ食べられなくなる。他人である医者の手に自分の命が預けられてゆく。

いずれにしても大事なのはあなたの存在の質。Quality of your presence。クリスチャンなら神に赦され、受け入れられ、愛されている自分を確認することができます。

「神に愛されている子どもにふさわしく、神にならうものになりなさい。(エペソ5:1)」

そう私たちのアイデンティティは「神に愛されている子ども」です。大会社の社長さんも「会社辞めればタダの人」です。しかし、「神に愛されている子ども」としてのアイデンティティは失われません。また闘病生活で孤独ではあっても神との会話(ヨブのように神への疑いや文句も含め)が続いてゆくのです。やはり信仰は大きな助けですね。

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