2011年6月29日水曜日

「実存主義 — Existentialism」



神はいない。そして、人間は死んでいる。消極派は虚無的なニヒリズムとなる。しかし、積極派は、ならば、価値を作り出そうと。実存主義は、ニヒリズムを超越する努力と言える。「存在は本質に先立つ」自分の行動で生きる意味や実感を作り出せ!そこでは選択や意思による決断が大事になってくる。政治への参加で、世界を変えてゆく事も出来る。この世界観のポイントは・・・

1)
客観的な世界では、宇宙は物質のみで成り立っている。神はいない。しかし、意識を
持つ人間は主体的に「今」を生きる事が出来る。人間がコントロールできる「意識」
世界で価値や意味を作り上げることができる。

2)
「存在は本質に先立つ」。人間は自分のあり方(存在)を作り上げる事が出来る。

3)
個々人は全く自由である。個人の主観的な世界においての王である。考え、夢見、行動 を起こす事が出来る。価値はその人の内にある。

4)
客観的な世界は、主体的人間に対して、そこに存在するが、それは「ばからしい」意味 のないものである。しかし、人は、死に向かう存在であるという緊張の中に「生」を生きなければならない。意味のない世界に対抗し、自ら価値を作り出さなければならない。従って「良き行動」とは「意識的に選択した」行動のことである。


ただし、ここが実存主義の問題の1つで、理論的には「意識した行動」とは善であっても悪であってもいいことになる。しかし、サルトルは政治への参加で、社会的善のほうを目指すし、カミュの「ペスト」の主人公のタルーも目の前の病人を直してペストの撲滅に協力する。なぜ、悪でなくて、社会的善の方向を向くのか?それに答える事が出来ない。


大変、重要なので、ここでカミュの「ペスト」を取り上げよう。実存主義実験小説として傑作であり、相当の説得力がある。アルジェリアのオラン市にペストが蔓延する。街は閉鎖されるが、これは哲学的には「神なき閉じられた世界」のショーケースとなる。なぜ、この街に、今、ペストが流行るのか。子供までが死んでゆくのか?ここで客観的世界は「馬鹿らしい意味のないもの(不条理)」として描かれる。酒場の賑わいに見られるように、人はこの「生」を愛するものとして存在しているが、同時に「死」が確実という緊張の中にいる。神なき不条理の世界にほっぽられた登場人物は様々な反応をする。アパートの門番、ミッシェル老人はネズミ(不条理な世界)の存在をはじめは否定するが、認めざるを得なくなったとき、死んでしまう。ある人は50歳で退職してベッドから出ず、毎日、豆を剥いている。その繰り返し。この狂人的行動は、ニヒリストの象徴。他者の苦しみを軽減するよう助けるよりも、それを利用したタルーは神なき世界の「悪人」である。一方、ペストが存在する「馬鹿らしい世界」で、人助けに奔走する、神なき世界の「聖人」を演ずるのが医師リウーとタルーである。信者も未信者も災害時には救援のために最善を尽くす。

結局、信仰があっても無くても同じ行動をするなら、神はいなくても同じではないかとの、チャレンジがこの書にはある。しかし、カミュの閉じられた世界には「善」と「悪」が存在するではないか。なぜ人は「生」を肯定し、それを破壊するペスト自体が「悪」として描かれるのか。なぜ、カミュは善を選ぶのか。晩年、カミュはキリスト教的説明が正しいと、だんだん感じるようになり、洗礼まで望んだという。

実存主義はニヒリズムを超越できたのか?どうもモラルという点で、その根拠を提示できないままのようだ。「実存」を感じるには「善」でも「悪」でもどちらでもいいはずだが、どうしてカミュもサルトルも「善」の方向性を向くのだろうか?
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2011年6月19日日曜日

世界観(4) Naturalism –自然主義



前述の有神論から自然主義への移行は1600年から1750年の間に起こる。その主張は・・・

1.神はいない。この宇宙(物質)がすべて。物質だけが永遠に存在する。

2.宇宙は、閉じられたシステム(超越者がいない)での因果関係で動く。

3.人間は複雑ではあっても機械であり、人格も何らかの化学作用によるものであり、やがて解明されるであろう。

4.死は個人の終わり。人間も物質にすぎない。死んで終わり。

5.歴史は因果関係により結びつけられた一連の出来事の流れであり、それを包括するような目的は特にない。

6.倫理は人間世界に限ったものであり、しかも、あまり重視されていない。
(婚前交渉、不倫、堕胎、安楽死、個人が選択する自殺などに好意的態度)


ラ・メトリーの「人間機械論」が、この時代の象徴的書物だ。神の代わりに人間理性を置く、世俗的ニューマニズムやマルクス主義なども、この範疇に入る。ここでは、神は「人間の願望の投射」に格下げされる。しかし、F.シェーファーが鋭く指摘したように、「神」の死は「人間」の死であることを認識しなければならない。つまり、神を殺した後は、「愛」「希望」「意味」「価値」「人間らしさ」などはアクセス不可になってしまったのだ。もはや、人間は機械でしかなく、因果関係による決定論でしかない。だから、これが次のニヒリズム(虚無主義)に転落してゆくのは目に見えている。しかし、そうは生きられないので、根拠無きヒューマニズム(愛は地球を救う的発想)に飛躍する。どうもがこうとも、なるようにしかならない。そして、すべてに対して冷笑的になっていく。意欲を失う。自殺か発狂しかなくなる。しかし、意味のない人生をあえて肯定しつつも、自分の取るアクションで意味を作ってゆこうとする流れが出てきた。これが実存主義である。(次回へ続く)
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お薦め本
Reason for God  By Tim Keller
ニューヨークでのベストセラーとなった、リディーマー教会牧師のティム・
ケラーによる著。現代に神を問う。現代人の投げかける質問に答えてゆく。
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2011年6月12日日曜日

世界観(3) Deism – 理神論


伝道で、どうApologetics(キリスト教弁証論)を用いてゆけるかについては、Norman GeislerConversational Evangelismをお勧めする。ノンクリスチャンとの会話を通して、どう伝道できるか実践的な本になっている。ポイントは一方的な福音の提示ではなく、まず、質問をし、相手にしゃべらせ、相手の世界観を知るというステップを踏む。それから、その世界観に立っている場合、矛盾してくるような部分の質問を入れてゆく。

今回ご紹介する、理神論は、同じ創造主なる神を信じている訳だが、実際の日常の信仰生活においては大きな違いが出てくる。理神論のポイントを見てみよう。

1.超越的な第一原因としての創造主なる神がいる。

2.自動運行できる宇宙として造られている(閉じられたシステム)ので、一度、造られ宇宙は自らの因果関係のみで動き、超自然的な奇跡はありえない。

3.人間も時計仕掛けの宇宙の一部であり、その中のシステムにしかすぎない。確かに、人間は人格を持っておりユニークな存在ではあるが、神との個人的な関係は持てない。

4.宇宙はノーマルなものとして造られ保たれ、堕落していない。人間は、観察、研究によって宇宙を知る事が出来る。

5.堕落がないので、あるがままの宇宙のありかたが正しい。そこにある姿が正しいことになり、「悪」の存在が基本的に無くなる。論を進めると善悪の区別もなくなる。しかし、この世界の「悪」は現実だし、ボードレールが言うように、「もし、神が存在するなら、それは悪魔である。」という事になってしまう。堕落という概念がないと、ここで無理が出る。

6.創造の時の初期値設定により、宇宙は時間軸にそって運行され、終わりを
迎えることになる。それは、神の裁きではなく、造られたごとくに、動き、終わるだけ。

神は創造時に仕事を終えておりあとは、無関心で、この世に関与しない。宗教に深入りしたくない、インテリには向いている思想だが、この世界観は容易に次のステップ、Naturalism (自然主義)に移行してゆくことになる。つまり、第一原因としての神だけなら、はじめから宇宙がそのようにあったのだ、という神なしの閉じられたシステムに容易に移行してしまうからだ。
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2011年6月5日日曜日

世界観(2)キリスト教的有神論



聖書の世界観とはどういうものだろうか? 大きく言って、時間軸に沿って、創造、堕落、購い、完成というステップを踏む。


1)
始めに人格的な神(三位一体)が世界を無から創造した。それは良かった。目に見える 物質や肉体、世界は本来、良きものである。

2)
人の罪(不従順)ゆえに、この地が呪われた。罪の報酬として死が入った。

3)
ゆえに、神は悪の創造者ではない。人の罪、罪による地の呪い、同じく神の反抗し、堕  落した天使である悪魔が引き起こす悪行により悪がある。

4)
神は人を愛し、一人子、キリストを地に送り、十字架で人の罪の罰を身代わりとして受 け、信じるものに赦しを、そして、神の子となる特権をお与えになった。キリストに対 する信仰により、信者は神の家族となる。

5)
キリストは私達の復活の初穂としてよみがえり、死を越えた希望が与えられた。もはや人は死に縛られない。被造物すべてが、やがて購われる。新天新地が来る。購われた人々はそこに入る。

6)
信者は聖霊を内住し、その力によって神とともに、この地上での神の国の拡大に参与する。神の喜ぶ愛と善行に励み、福音を伝える。すべては神の栄光のためである。


非常に特徴的なのは、人は「神のかたちに創造された」という点である。それゆえ、知情意といった、いわゆる人格の基盤があることになる。さらに、神は三位一体で、永遠から永遠に、お互いを愛し、お互いを喜び合っている「関係」の中におられる。ここに愛とコミュニケーションの基盤がある。これは同じ、一神教といってもイスラムのそれとは違う、ユニークさと持っている。それで、人間も関係存在としていることになる。

また、神の創造の後、世界をご覧になった時、「すべては良かった」のである。善と悪の区別がありつつ、神を悪の作者とする必要がなくなる。後の述べるが、東洋的汎神論では結局、善も悪も1つであり、1つのリアリティしかない。また、ゾロアスター教では、善と悪、光と闇が同等に永遠に存在しており、善の勝利は約束されない。聖書では、神は、私達が今見ているような世界を創ったのではない。もし、そうなら、ボードレールが言うように、「神は悪魔である。」となる。しかし、今、見ている世界は、神も望まないものだった。人の堕落ゆえに地が呪われたのだ。しかし、憐れみ深い神は、自らの一人子が罪の罰を受けるというやり方で、これを解決されようとした。神は悪を手をこまねいて見ておられる方ではない。

やがて、苦しみの無い、新天新地が来る。それでは、魂の救いだけが大事で、この地上の現在の生活は無意味なのだろうか? あのエデンの園で神は人に「地を治めるように」命令された。堕落後も、その命令は有効なのだ。不完全ではあっても、人に与えられた能力を用い、人は地を治めるべきである。それには、日常の仕事も含まれる。仕事も神からの召しであり、神の喜ぶことである。

日曜礼拝の時だけでなく、私達はなす事すべてにおいて、神の栄光を表すよう勧められている。教会はキリストの体であり、地上でキリストの愛と癒しの業を行うエージェンシーである。教会は神の国の出先機関である。従って、キリストのお出でを待ち望みつつも、クリスチャンが地上ですべきことは沢山ある。死後に関しては、人は死んで、さばきを受けることが定まっている。死んで、肉体を離れても個々の霊は存続する。個人のアイデンディディは消滅しない。やがて、御霊の体をもらって、御国で愛する兄弟姉妹と共に住まう。

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