2021年7月29日木曜日

おいしい生活

 

「あなたがたは地の塩です。」 (マタイ5:13)

「あなたがたは世の光です。」(マタイ5:14)

 

「地の塩、世の光」となれってプレッシャー?

この言葉を聞くと、マザーテレサやキング牧師、日本の賀川豊彦を思い出します。素晴らしい証を社会に残しました。まさに、「地の塩」、「世の光」となった人々です。「地の塩」、「世の光」とは何か社会奉仕をすることのように思ってしまいます。その通りだよなと思いつつ、自分には出来ないなと思うのです。どうでしょうか?皆さんはこの言葉を聞いて、ちょっと重荷に感じませんか?

 

 

「光」は漏れる

「世の光」となると言っても、自分で、よし「光ってやろう」と頑張っても光れるものではありません。内なるキリストに輝いてもらうしかないのです。そして、イエス様が言われたのは、「世の光になれ!」ではなく「あなた方は、世の光です。」「地の塩になれ!」ではなく「あなた方は地の塩です。」なのです。イエス様にあって、もうそういう存在なのだと宣言されているのです。DoingよりBeingです。

 

「朱に交われば赤くなる」というフレーズがありますね。悪い友達と関われば、関わるほど、悪くなってしまうという意味です。私は「主に交われば白くなる」というフレーズを作りました。主イエス様と交われば、交わるほど、清いイエス様の性質に影響されるということです。イエス様はあなたのうちに住んでおられます。そして、光は漏れるのです。真っ暗な家でも、電気をつけている部屋の襖の隙間から光は漏れるのです。あそこには光がある。あの部屋は電気がついていると分かるのです。心配しないでください。私のすべきことはイエス様と交わり、たっぷり時間を過ごすことです。あとはイエス様が輝いてくださいます。

 

 

内なるキリストが仕事をする

自分ごとで恐縮ですが、私は高校2年の時、クリスチャンになりました。大学3年の時のゼミの合宿の時のことです。クリスチャンになって4年目です。同じゼミの女子学生がこう言ったのです。「栗原くんって、キリスト様みたいね。」

こんな褒め言葉があるでしょうか?ただ、大人しかったからなのか分かりませんが、ともあれ嬉しい褒め言葉です。「悪魔のよう」と言われなくて良かったです(笑)。また、クリスチャン生活10数年目でしたか、母が友人の年配の未信者の男性を私に紹介した時に、彼は私の顔を見るや、「いや〜、あなたの目は澄んでいますね。何か違いますね。」と言いました。そんな事言われたことないので、びっくりしました。学生達に「自分発見セミナー」を行なっていた時です。休憩時間に、ある学生が近寄ってきて言いました。「僕もカズさんのように、いつも笑顔でいたいです。」実は普段、無愛想なので、いつも家内に注意されているのですが、こんなありがたいコメントも頂きました。不思議です。「何も言わなくても、内なるキリスト様が証ししてくださるのですね。

 

 

他の人の人生を美味しくする

「地の塩」となるとはどういう事でしょうか。塩のある言葉とは、「社会の不義に鋭くメスを入れ正しい批判を言って正義を正す。」それが1つ。防腐剤としての役割ですね。確かに今のアメリカを見てもクリスチャンがいるお陰で、社会が悪くなりすぎないという面があります。

 

「塩」は「味付け」をする役目があります。それがもう1つ。「味付け」の方をちょっと考えてみましょう。無味乾燥な味が塩をかけることで急に美味しくなることがありますね。イエスは最初の軌跡として「水」を「ワイン」に変えました。「水」は味気ない意味のない人生とも考えられます。イエスが人の人生にタッチすると「水」は「ワイン」に、すなわち「祝宴」のある人生へと変えられます。イエスを宿す私たちクリスチャンも他の人の「退屈で意味のないドライな人生」を「祝宴」の人生に変えるお手伝いができるのです。



「あの人がいると何かいい雰囲気になる。」「楽しくなる。」「励まされる。」そういう人いますね。「いるだけで祝福」。そうなりたいです。ある時、ある団体で働いていると、そんなに親しいわけでもない女性から「カズさんは周りに安心を与える存在です。」と言われました。私自身はいつまでたっても神の憐れみがなければ、
stinky (臭い)な存在です。意図しなくても人を傷つけたり、親切心でやったことが裏目に出たり、迷惑をかけたり・・・そんなことをしています。でも私のうちにキリスト様がいらっしゃるのも事実です。この方に主導権を渡している時は、こんな私でも他の人の祝福となることもできるのです。

 

 

祝福の基となる

アブラハムが召された時、神は「あなたは祝福の基となる」と言われました。英語ではblessed to be a blessingです。あなたや私の存在はキリストにあって他の人の「祝福」なのです。その笑顔で、その一言で、いやその「存在」そのもので他の人の祝福となり、他の人の人生を美味しく味付けする存在になり得るのです。あなたと会ったことで、その人の人生が「美味しくなる」って素敵じゃないですか?事実、あなたは、そのように召されているのです!神は出来ないことを命じません。内におられるキリストが仕事をします!

 

そして、それは自分が崇められるためではなく、最終的には「人々が、父なる神を崇める」ためです。(マタイ5:16)

 

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執筆者:栗原一芳

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2021年7月22日木曜日

人生は出会いで決まる

 

ペテロがイエスに出会った日

ペテロがイエスに初めてあった日はいつでしょうか?多くの人はマタイ4章のあの場面を思い浮かべるでしょうね。ガリラヤ湖で網を打っていたペテロにイエスが声をかけます。「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:16)そうすると、彼らは、すぐに網を捨ててイエスに従ったとあります。イエスの弟子リクルートですね。でも、ペテロは実はこれ以前にイエスに会い、弟子となっているのです!「えっ!」と驚くかもしれません。

 



ヨハネ福音書の貴重な情報

4福音書は4人の記者がそれぞれの視点で書いています。テオピロに捧げるため綿密に調べ、順序立てて書いているのがルカの福音書です。(ルカ1:3)ですから基本的には、ルカが時系列的には一番信用できるということです。マルコがイエスの福音宣教から始めているのに対し、ルカはかなりの紙面を使って、それ以前のこと、すなわちイエスの誕生や、少年時代についてもユニークな情報を与えてくれています。しかし、そのルカが省いてしまった情報、すなわちルカ3章終わりと4章の始めの間に起こった出来事については、ヨハネが提供してくれているのです。すなわち、イエスの洗礼からガリラヤ宣教が始めるまでの間です。

 

ヨハネだけは他の3つの「共観福音書」と違い、ユニークな視点で書かれていますね。1章の創世記1章を思わせる宇宙的な出だし、「初めに、ことばがあった!」で始まります。これは他の福音書にはありません。

 

バプテスマのヨハネはヨルダン川向こうのベタニアで人々にバプテスマを授けていました。(ヨハネ1:28)この活動に関してエルサレム本部からチェックが入ります。つまり、あなたは誰で、何の目的でこの活動をしているのか?と尋ねているのです。それに対しヨハネは、わたしの後に来られる方の道備へをしていると暗示します。(ヨハネ25−27)ここから時系列がはっきり書かれています。

 

その翌日(ヨハネ 1:29)

つまり、エルサレム本部から派遣された祭司たちとレビ人たちのチェックが入った日(1:19)の翌日です。この日にイエスはヨハネから洗礼を受けられます。(1:29—34)

 

その翌日(1:35)

「その翌日、ヨハネは再び2人の弟子と共に立っていた。」(1:35)イエス洗礼の翌日です。この二人の弟子とはヨハネの福音書を書いたヨハネとアンデレです。バプテスマのヨハネは、イエスが歩いているのを見て、「見よ、神の子羊!」(1:36)と言いました。それ聞いて興味を持ったヨハネとアンデレはイエスについて行ったのです。この時点までは、この二人はバプテスマヨハネの弟子だったことが分かります。ガリラヤにもバプテスマのヨハネの噂が広がり、敬虔なユダヤの神を信じる、この二人はユダのベタニアにまで下ってきて、洗礼を受けたのでした。実は、その後の記述を読むと、ナタナエルもペテロも一緒にベタニアに来ていたことが分かります。いろいろバプテスマのヨハネから教えを受けていたものと思われます。イエスは振り向き「あなた方は何を求めているのですか?」と聞きます。それに対し、二人は「先生どこにお泊りですか?」(1:38)と聞きます。これは宿泊場そのものを聞いているというより、「先生の弟子にしてください。」というユダヤ的言い回しだったのです。これに対して「あなたとわたしに何の関わりがありますか?」と言われたらNOと言う意味です。イエスは「ついて来なさい」(1:39)と答えているので、YESです。イエスからいろいろ教えて頂いている間に、彼らはイエスがメシアであると確信します。そうして兄弟シモンに証します。「わたしたちはメシア(訳すとキリスト)に会った!」(1:41)と。そうしてシモンをキリストの元へ連れて行きます。

 

イエスはシモンを見つめて言われます。「あなたはヨハネの子、シモンです。あなたはケファ(言い換えればペテロ)と呼ばれます。」(1:42)これがペテロとイエスの初遭遇です。そして、イエスの弟子となります。ただ、この時点ではペテロは漁師という職業があり、言わば、パートタイム弟子だったのです。

 

その翌日(1:43)

イエスはガリラヤへ行こうとされていましたが、ピリポを見つけて弟子とします。(1:43)ピリポはナタナエル(別名バルトロマイ)を見つけて証をします。(1:45)こうしてナタナエルも弟子入りします。(1:49)こうしてみると、すでにある人間関係を用いて伝道が進んでいる様子が分かります。

 

そして、ガリラヤの場面

それではマタイ4章に戻りましょう。このような出来事の後に「人間をとる漁師」の場面になるのです。つまり、ガリラヤ湖畔を歩いていたイエスはすでに知っていたペテロとアンデレに声をかけたことになります。そして単なる弟子ではなく、「人間をとる漁師」となるのです。彼らはその意味をすぐ理解しました。そして、職業の「漁業」を捨てて(マタイ1:20)、「人間をとる漁師」すなわち、フルタイム弟子となったのです。職業を捨てることは大変、勇気のいることです。職業を捨て、家族を残して文字通りフルタイム献身したのです。(1:22)よっぽどイエスに対する信頼がないとできません。いきなり初対面で、これは起らないでしょう。これを解く鍵はヨハネ2章のカナの婚礼の奇跡です。

 

カナの婚礼

ヨハネは時系列的にこの辺の出来事を書いています。

 

それから3日目に、(ヨハネ2:1)

つまり、ナタナエルがイエスに弟子入りした日から3日目です。もともとイエスはガリラヤに戻る予定でした。(1:43)ユダからガリラヤは3日の道のりと言われているので、おそらく、ガリラヤに戻ってすぐにカナ入りし、婚礼に参加したものと思われます。ATロバートソンの「4福音書の調和」によるとこのような時系列です。

 

1.      イエスの洗礼

2.      荒野の誘惑

3.      イエスの最初の弟子たち

4.      イエスの最初の奇跡(カナの婚礼)

5.      人間をとる漁師に召された4人

 

つまり、フルタイム献身の前にカナの婚礼の奇跡があったのです。イエスも弟子たちも、この婚礼に招待されていました。(2:2)この時点での弟子たちは、ペテロ、アンデレ、ピリポ、ナタナエル(バルトロマイ)の4人だけです。ここでイエスは神の子としての栄光を現されました。(2:11)つまり、メシア的奇跡を行なったのです。ヨハネが用いる「しるし」とはメシアであることを証明をする「奇跡」のことです。弟子たちは「奇跡」を目撃したのです。「弟子たちはイエスを信じた。」(ヨハネ2:11)とあります。これはイエスをただの教師ではなく、奇跡を行う人間以上のお方として信じたということでしょう。弟子たちのメシア理解は漸次的であり、だんだんと深まりますが、この時点では、まだ幼稚な理解だったでしょう。それでも大きなインパクトを残したに違いありません。この体験を経た上で「人間をとる漁師」に召されたのです。水をワインに変える方についていけば、食いっぱぐれることも無いだろうと思ったかも知れません。また直後にペテロの姑の癒しが起こり、献身して残していく家族も顧みられることを確信したのでしょう。(マルコ1:30)神様は理不尽な導きはなさいませんね。ちゃんと段階を追って献身へと導かれます。




その後のペテロ

この後、ペテロはイエスの救いのご計画を十分理解しないまま、何度も失言し、失敗するのですが、ついにはイエスを3度も知らないと言って裏切ってしまいます。ヨハネ福音書はここでもユニークな情報を提供して、ちゃんとフォローしています。ガリラヤ湖畔でイエスとペテロをはじめとする弟子たちが朝食を共にし、「赦し」と「和解」があり、さらにはペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と「使命=ミッション」を与えていることが分かります。(ヨハネ21)

 

その後、ペンテコステで聖霊を受け、説教し、3千人が弟子となります。初代教会のリーダーとして活躍します。新約聖書に含まれる「ペテロの手紙1.2」を執筆します。最後、ペテロは十字架刑で殉教しますが、イエス様と同じでは申し訳ないと「逆さ十字架」にかかって死んだと言われています。

 

「人生は出会いで決まる」と言いますが、人生一番大切な出会いはイエス様との出会いです。その時点では未熟でも、イエスに出会った人の最後は楽しみです。大きく用いられたペテロのように。

 

参考本の紹介

A.T.ロバートソン

「4福音書の調和」

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執筆者:栗原一芳

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2021年7月15日木曜日

「ディスタンス」蔓延防止法

 Social distanceという違和感

またまた緊急事態宣言!まだまだ「3密」を避け、マスクの生活が続くと思うとうんざりしますね。集会も会食もできない日々。世の中どこも、distance, distance, distance! そもそもsocial distanceと言う言葉は嫌な響きがあるのです。Physical distanceは、「身体的」に距離を取ることですが、Social(社交)に距離を取るとは、「疎遠」になるということです。以前のブログ記事で「3密」を避けるsocial distanceは「反愛」か?と書きました。コロナ渦が続くとボディブローのようにクリスチャンの関係にも障害が出てくると予測されます。コロナ前から、教会の統合・合併・閉鎖が始まっているのです。さらに追い討ちをかけるようにこの状況です。大変シリアスな状況が始まっているのです。


  「愛」の反対語は「無関心」

愛の反対語は「憎しみ」ではなく「無関心」と言われます。「憎しみ」や「嫉妬」は愛の一部だからです。神も「憎んだり」「妬んだり」します。しかし、神は決して人に対して「無関心」にはならないのです。無視しないのです。一人ひとりを名前で覚えておられます。罪人をさえです。神の前に「存在していない」人はいないのです。「忘れ去られている人」はいないのです。神の前では「死んでいる人」はいなからです。そのことを人が知る、つまり神の前で自分が生きていると認識できることが「救い」なのです。この認知関係が「永遠の命」です。(ヨハネ17:3)しかし、神の愛を拒み続けた場合、その人が行くところは、憐れみのない、忘れ去られた「火の池」です。死とは「離別」です。Distanceです。神との断絶。それが究極の裁きなのです。(マタイ27:46)

 

 

愛は社会通念を超える

「サマリアの女」の場面は大変示唆に富んでいます。当時の文化的、社会的ルール下では考えられないことが起こったのです。ルールを破って、イエスは、1)サマリア人に 2)女性に(しかも怪しい背景の女)3)弟子たちがいない場面、つまり女と二人だけで、会話を始めておられます。会話を主導したのはイエスご自身です。ルール通りにしていれば、あの女はメシアに出会うことはなかったでしょう。わざわざイエスがサマリアを通ったのは、この女に会うためだったと言っても過言ではありません。イエスの愛は社会的通念やルールを超えたのです。当時の通念になっていた男女のSocial distanceさえ破りました。サマリア人はユダヤ人にとって「存在してはならない存在」であり、「付き合いをしてはならない相手」だったのです。しかし、イエスはこの女を無視できなかったのです。しかも、なぜわざわざサマリアの「女」なのでしょう。男性社会の中で、わざわざ「女」に話しかけるリスクを取る必要はなかったのですが、イエスは近づいて、話しかけたのです。この女にリーチすることで、「死んでいた」この女を生かしたのです。

 

ルカ7:38には、これまた当時の通念を覆す場面が描かれています。パリサイ人の家に招かれ食事中であったイエスに罪深い女が入ってきて、イエスの足元に座り、涙で濡らし、髪の毛でイエスの足をぬぐい、足に口づけして香油を塗ったのです。こんな女が、パリサイ人の家に入ってくるだけでもびっくりなのに、女のPhysical touchをイエスは受け入れておられるのです。パリサイ人は女に対して規定通りのsocial distanceをとっていたのですが、イエスは「女よ、男に触れてはいけません。それはルール違反です。」とは言われず、この女の行為を受け入れ肯定しているのです。これを杓子定規なパリサイ人に見せつけるかのようにStopさせなかったのです。ここでも愛がルールを超えています。「無視」し「排除」するのではなく「関わった」のです。パリサイ人にとっては「罪人」=「関わるべきでない人」=「縁のない人」=「自分にとって存在していない存在」だったのです。イエスは「人間」対「人間」として関わったのです。

 

 

Distanceのベクトル」と「愛のベクトル」

今の世はDistanceが大流行り。人を「疎遠」にさせる力が蔓延しています。この力の「蔓延防止」が必要です。人々を引き離すDistanceのベクトル(← →)は、愛のベクトル(→ ←)とは正反対です。

 

罪を犯したアダムは神とdistance(← →)になり、もはや、今までのinnocentな関係ではなくなりました。アダムとエバはお互いを責め合い、男女の心の間にdistance(← →)が生まれました。偶像礼拝に走ったイスラエルの民は神の御心から離れていきました。(← →)AD70に神の子イエスを退けた裁きとしてエルサレムの神殿は破壊され、ユダヤ民族は世界に散らされてしまいました。離散とはdistance(← →)です。 今の社会は夫婦が、親子が、会社員同士が、政治家と国民が、国と国がdistance(← →)の方向性へ向かっています。罪の結果はdistanceなのです。離婚は増え、子供が親を殺し、差別、偏見、無視、仲間はずれが横行する。これはdistance(← →)のベクトルです。選民イスラエルと「異邦人」も大きな壁によりdistance(←→)のベクトル が働いていました。




しかし、イエスの十字架により、隔ての壁が崩され、異邦人もユダヤ人もイエスにあって1つになったのです。離散ではなく、集合したのです。これは愛のベクトル(→ ←)です。愛のベクトルは、近づくことであり(close)、離れているものを近づけるベクトルなのです。関係においてFriendlyであることです。 様々なBroken relationshipは十字架による「和解」と「癒し」で回復されていきます。「ひとつとなるため」これがイエスの使命でした。(ヨハネ17:21−23)「ひとつになる」とは、究極の愛のベクトル(→ ←)ですね。



初代教会は「密」だった!

罪の結果はdistance(← →)というベクトル。無関心、忘却。存在の抹殺。「愛」のベクトル(→ ←)は「近づく」こと、1つとなること。初代教会のクリスチャンたちは毎日、会っていたのです。(使徒2:46)そうやってLove communityを形成したのです。1年に1−2度会っているようではLove communityは形成できないのです。アメリカでは多くのクリスチャンがクリスマスとイースター、年2回しか礼拝に来ないそうです。それではお互いの愛の関係は築けません。貧困なコミュニケーション、表面的で形だけの関係、それはdistance(← →)の方向です。「関係」は生き物なので、耕して「深まる」か「疎遠」になるかなのです。

 

イエスの弟子たちはイエスと「一緒」に生活していました。初代教会では男女間でも聖なる口づけを頬にしていたそうです。(Iコリント16:20) 兄弟姉妹として純粋に愛し合っていました。やがて、教会が組織化すると、「教職」は「信徒」と別に食事をするようになります。

 

愛は「密」なんです。しかし、現代の都会の生活は「孤立」していく方向にあります。一言で言うとDistance. (← →)。クリスチャンでさえ、コロナ渦では週一度1時間のzoom礼拝でかろうじて繋がっている状況です。これでは心は離れていくでしょう。そろそろオンライン疲れで脱落する人も出てくるでしょう。愛のベクトルが動かないのです。今、ものすごい勢いでdistance(← →)のベクトルが動いています。愛を破壊する方向で動いています。集まれない、ハグできない、声を出して共に賛美できない。教会=エクレシアは相当、意識して愛のベクトル(→ ←)を動かさないと、人々はどんどんdistant(← →)になっていきます。

 

 

愛することは関わること

クリスチャンセミナーで具体的に「『愛する』こととは、どうすることでしょうか?」と講師が質問すれば、おそらくこんな答えが返ってくるでしょう。

 

  一緒に時間を過ごすこと (Giving your time and yourself)

  よく話を聞いてあげること (Active listening)

  たまに用事がなくても「どうしてる?元気?」と聞いてあげること

                                           (Showing genuine concern)

  誕生日などを覚えていて祝福してあげること。(Occasional blessings

  実際面で必要に答えて助けを与えること。(Giving practical help)

  笑顔を見せたり、肩タップやハグをすること。(Physical touch)

 

Reach outという言葉も使われますね。「近づく」ベクトル(→ ←)です。これらはDistance(← →)の反対です。「ハイテク」の時代だからこそ、「ハイタッチ」が必要と言われています。しかし、タッチの機会が奪われています。

 

Zoom会議でビジネスオンリーでは、メンタルに障害が出てきます。人には雑談、冗談、仕事以外のムダ話が必要なのです。本会議の後の休憩時間に本音が出るものですよね。そして、そこで人間性を取り戻します。マスクでの会話も表情が分からず、人間性を大きく阻害します。

 

しかし、こんな時代だからこそ、聖書は変わらずに勧めています。


 

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし

 合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ます

 ます励もうではありませんか。」   (ヘブル10:25)


 

もちろん、感染防止は大切です。しかし、流されっぱなし、やられ放題でいいとも思いません。知恵が必要です。それ以上に情熱が必要です。ますます、クリスチャンは「愛のベクトル」の加速に励むものでありたいですね。


 

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執筆者:栗原一芳

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2021年7月8日木曜日

宗教は嫌いです


先日、高田馬場で路傍伝道チームと一緒に伝道冊子を配布していると、ある高齢の男性がじっとこちらを見つめている。それで近寄って、冊子を渡そうとすると「私はすべての宗教が嫌いだ!」と捨てセリフを吐いて、去って行っていまいました。時間があれば「私も宗教は大嫌いです!」と答えてあげたかったです。

 

実はキリストも宗教が大嫌い。命の無い律法主義を広めていたパリサイ人に立ち向かったのはイエスご自身でした。彼らを「白く塗った墓」「まむしども」と厳しい言葉で呼んで非難したのです。彼らは父なる神のお心から遠く離れて自分の義を立て、人からの評判を得ることに夢中だったのです。

 

律法にはトーラーと呼ばれるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)、すなわち神の言葉と、それに付随する口伝律法(人の教え)があり、むしろ、そちらの方が大事になっていたのです。そして、神のお心から遠ざかっていたのです。(マルコ7:6−7)イエスご自身が語ったように、一番大事なのは神と人を愛すること(人格的関係)です。(マタイ22:36−40)

 

 

宗教ではなく、「関係」

私が高校2年の時、クリスチャンになって間もなく、ある人から缶バッジをもらいました。そこには英語で”Not Religion, but Relationship” と書かれていました。つまり、キリスト教は「宗教じゃない、生ける救い主、イエス・キリストとの関係だ」という事です。大変合点がいき、このフレーズが好きになりました。アメリカのバイブルスクールで「雅歌」を学んでいる時、信仰は男女の愛の関係になぞらえるのが一番近いと学ばされました。聖書はルールブックではなく、この神との関係を描いている書なのです。信仰の本質は神との「人格的関係」なのです。

 

三位一体(父なる神、子なるイエス、聖霊)は世の初めから、お互いの間に交わりを持っておられました。「愛」と「コミュニケーション」と言ってもいいでしょう。(Iヨハネ1:3)

 

「愛のないものは神を知りません。神は愛だからです。」Iヨハネ4:7)

 

これをはっきり大胆に主張しているのはキリスト教しかありません。「宗教」よりも「恋愛関係」の方に近いのです。哲学者の追求する「真理」ではないのです。神はit、ではなくHeです。「お方」なのです。神ご自身の本質は「愛」であり、「愛」とは他者との関わり、コミュニケーションなのです。

 

しかし、いまだに多くの人がキリスト教は「宗教」だと思っています。「戒律」だと思っています。「礼拝という儀式を守る」ことや「献金」を要求されることと思っています。パリサイ人と同じ思考です。そして、「宗教」なんて、どうせ人間が作った教理をあたかも真理のように吹聴し、人を騙していると思っています。あの路上のおじさんのように。「本質」が伝わっていないのは本当に残念です。

 

以前、書いたように、本来は「キリスト道」です。しかし、宗教化してしまった「キリスト教」が存在しているのも確かなのです。多くの日本人ノンクリスチャンが引っかかる十字軍の「罪」なども本来の「信仰」とは関係ない、宗教「キリスト教」が犯した「罪」なのですが・・・初代教会のクリスチャンの多くは非戦論者でした。暴力的な迫害にさえ抵抗するより従って殉教したのです。

 

 

危ない「宗教」胡散臭い「宗教」

多くの人は「宗教」と聞くと「怪しい」「胡散臭い」と思うのではないでしょうか?多くの未信者はこう言うでしょう。

 

  彼らは偽善者だ。一皮むけば権力と金と性を貪る「獣」が聖徒を装っている。

ハーレーのハンドブックには中世カトリックの教皇たちの蛮行が列挙されています。悲しいですが、このステートメントは往往にして当たっています。

 

  信徒をマインドコントロールして団体の目的のために信徒を利用している。

多くのカルト教団はそうでしょう。いやともすると福音派の教会でもそうなる危険性があります。盲目的に「カリスマ牧師」に従うと危険です。ウイリアム・ウッド師が「教会がカルト化するとき」(いのちのことば社)とう本を出しているくらいです。自分で「聖書を読む力」をつけておく必要があります。

 

  時に宗教は暴力的になり、社会に害を及ぼす。

1992年の「オウム真理教」の惨事は記憶に新しいですね。

 

宗教は献身(全てを捧げる事)を要求します。だから間違ったものに献身すれば身を滅ぼし、社会を滅ぼすことにも成りかねません。確かに危ないのです。そして人間が作った教えなら、胡散臭いのです。

 

正しい信仰とは、自分の「信心」の力ではなく、正しい信仰の対象(真の神)を信頼することです。信仰の対象が「イワシの頭」では、いくら信心が強くともダメなのです。

 

 

人から出たのか、天から出たのか?

よく言うように人「が」作った神なのか、人「を」造った神なのかで、天地の差が出てくるのです。

 

イエスは神殿でパリサイ人に尋ねました。「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。」(マタイ21:25)

 

ですから、この質問は大変、重要です。パウロは福音が人間から出たものではない事を強調しています。「わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではありません。」(ガラテヤ1:11)

 

ただ、多くの新興宗教やカルトの教祖は、「天から出た」と主張します。大本教の教祖、出口なおは、読み書きができなかったにもかかわらず、ある日、突然筆を持つとスラスラと教本「お筆さき」を執筆したというのです。天理教教祖の中山みきは、親神が体に入り込み、「神のヤシロ」となり、人々を指導するようになったといいます。しかし、どう主張しようとも、聖書ははっきり宣言しています。

 

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほ

 かに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

                          (使徒4:12)

 

モルモン教の教祖ジョセフ・スミスは直接イエス・キリストから地上の教会は間違っているので、新しい教会を始めるようにと預言者として任命されたといいます。自分達の教会だけが正しいとするカルトの典型です。「実」による吟味が必要です。(マタイ7:16−20)また教えが「聖書的」か、吟味する必要があります。

 

 

「宗教」VS「福音信仰」

  宗教は人を縛り、「不自由」にします。福音信仰は人を「自由」にし、解放します。

  宗教は「恐れ」で人を支配します。福音信仰は「愛」で恐れを締め出します。

  宗教はもっと伝道しろ、もっと献金しろと「強制」します。福音信仰は赦され、愛されているので、「自ら進んで」奉仕したくなるのです。

  人の作った宗教は「偽り」の平安、救いを提供します。それは死に直面した時、変わらずに「平安」と「救い」を提供しますか?福音信仰は信頼すべきお方を信頼するので、「真」の平安、「救い」を得られます。

 

あなたの信仰は自由ですか?「クリスチャン」という看板を背負うのが辛いですか?あなたの教会は「愛」が支配していますか、「恐れ」が支配していますか?あなたの「奉仕」の動機は何ですか?今、やっている奉仕や献金を全部辞めても神はあなたを愛してくださると信じられますか?一度解放されたのに、また律法の奴隷になっていませんか?(ガラテヤ5:1)「死」を超えた「希望」を確信できていますか?

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。         

                         (ヨハネ3:16)

 

初めに愛されたのは神です。(第一ヨハネ4:10)初めに犠牲を払ったのは神です。(ローマ5:8)

 

結局、月並みだけど結論は・・・

                 Jesus loves you!

     

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お勧めクリスチャンムービー(英語のみ)

 

イエス・キリストがビジネスマン姿で今日現れたら? 仕事、家庭でのストレスを抱える宗教嫌いの女性にイエス・キリストと名乗る男性からディナー招待が・・ノンクリスチャンの疑問を会話スタイルで自然な形で答えてゆく。クリエイティブな手法のキリスト教弁証論。

 

映画Perfect Stranger

https://www.youtube.com/watch?v=9HYOdPPvjrc




 

こちらは続編です。悩みを抱えるティーンエイジャーの飛行機の席にJesusが乗り合わせる。

 

映画Another Perfect Stranger

https://www.youtube.com/watch?v=xTiEt9dEkOA

 

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