2021年7月8日木曜日

宗教は嫌いです


先日、高田馬場で路傍伝道チームと一緒に伝道冊子を配布していると、ある高齢の男性がじっとこちらを見つめている。それで近寄って、冊子を渡そうとすると「私はすべての宗教が嫌いだ!」と捨てセリフを吐いて、去って行っていまいました。時間があれば「私も宗教は大嫌いです!」と答えてあげたかったです。

 

実はキリストも宗教が大嫌い。命の無い律法主義を広めていたパリサイ人に立ち向かったのはイエスご自身でした。彼らを「白く塗った墓」「まむしども」と厳しい言葉で呼んで非難したのです。彼らは父なる神のお心から遠く離れて自分の義を立て、人からの評判を得ることに夢中だったのです。

 

律法にはトーラーと呼ばれるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)、すなわち神の言葉と、それに付随する口伝律法(人の教え)があり、むしろ、そちらの方が大事になっていたのです。そして、神のお心から遠ざかっていたのです。(マルコ7:6−7)イエスご自身が語ったように、一番大事なのは神と人を愛すること(人格的関係)です。(マタイ22:36−40)

 

 

宗教ではなく、「関係」

私が高校2年の時、クリスチャンになって間もなく、ある人から缶バッジをもらいました。そこには英語で”Not Religion, but Relationship” と書かれていました。つまり、キリスト教は「宗教じゃない、生ける救い主、イエス・キリストとの関係だ」という事です。大変合点がいき、このフレーズが好きになりました。アメリカのバイブルスクールで「雅歌」を学んでいる時、信仰は男女の愛の関係になぞらえるのが一番近いと学ばされました。聖書はルールブックではなく、この神との関係を描いている書なのです。信仰の本質は神との「人格的関係」なのです。

 

三位一体(父なる神、子なるイエス、聖霊)は世の初めから、お互いの間に交わりを持っておられました。「愛」と「コミュニケーション」と言ってもいいでしょう。(Iヨハネ1:3)

 

「愛のないものは神を知りません。神は愛だからです。」Iヨハネ4:7)

 

これをはっきり大胆に主張しているのはキリスト教しかありません。「宗教」よりも「恋愛関係」の方に近いのです。哲学者の追求する「真理」ではないのです。神はit、ではなくHeです。「お方」なのです。神ご自身の本質は「愛」であり、「愛」とは他者との関わり、コミュニケーションなのです。

 

しかし、いまだに多くの人がキリスト教は「宗教」だと思っています。「戒律」だと思っています。「礼拝という儀式を守る」ことや「献金」を要求されることと思っています。パリサイ人と同じ思考です。そして、「宗教」なんて、どうせ人間が作った教理をあたかも真理のように吹聴し、人を騙していると思っています。あの路上のおじさんのように。「本質」が伝わっていないのは本当に残念です。

 

以前、書いたように、本来は「キリスト道」です。しかし、宗教化してしまった「キリスト教」が存在しているのも確かなのです。多くの日本人ノンクリスチャンが引っかかる十字軍の「罪」なども本来の「信仰」とは関係ない、宗教「キリスト教」が犯した「罪」なのですが・・・初代教会のクリスチャンの多くは非戦論者でした。暴力的な迫害にさえ抵抗するより従って殉教したのです。

 

 

危ない「宗教」胡散臭い「宗教」

多くの人は「宗教」と聞くと「怪しい」「胡散臭い」と思うのではないでしょうか?多くの未信者はこう言うでしょう。

 

  彼らは偽善者だ。一皮むけば権力と金と性を貪る「獣」が聖徒を装っている。

ハーレーのハンドブックには中世カトリックの教皇たちの蛮行が列挙されています。悲しいですが、このステートメントは往往にして当たっています。

 

  信徒をマインドコントロールして団体の目的のために信徒を利用している。

多くのカルト教団はそうでしょう。いやともすると福音派の教会でもそうなる危険性があります。盲目的に「カリスマ牧師」に従うと危険です。ウイリアム・ウッド師が「教会がカルト化するとき」(いのちのことば社)とう本を出しているくらいです。自分で「聖書を読む力」をつけておく必要があります。

 

  時に宗教は暴力的になり、社会に害を及ぼす。

1992年の「オウム真理教」の惨事は記憶に新しいですね。

 

宗教は献身(全てを捧げる事)を要求します。だから間違ったものに献身すれば身を滅ぼし、社会を滅ぼすことにも成りかねません。確かに危ないのです。そして人間が作った教えなら、胡散臭いのです。

 

正しい信仰とは、自分の「信心」の力ではなく、正しい信仰の対象(真の神)を信頼することです。信仰の対象が「イワシの頭」では、いくら信心が強くともダメなのです。

 

 

人から出たのか、天から出たのか?

よく言うように人「が」作った神なのか、人「を」造った神なのかで、天地の差が出てくるのです。

 

イエスは神殿でパリサイ人に尋ねました。「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。」(マタイ21:25)

 

ですから、この質問は大変、重要です。パウロは福音が人間から出たものではない事を強調しています。「わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではありません。」(ガラテヤ1:11)

 

ただ、多くの新興宗教やカルトの教祖は、「天から出た」と主張します。大本教の教祖、出口なおは、読み書きができなかったにもかかわらず、ある日、突然筆を持つとスラスラと教本「お筆さき」を執筆したというのです。天理教教祖の中山みきは、親神が体に入り込み、「神のヤシロ」となり、人々を指導するようになったといいます。しかし、どう主張しようとも、聖書ははっきり宣言しています。

 

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほ

 かに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

                          (使徒4:12)

 

モルモン教の教祖ジョセフ・スミスは直接イエス・キリストから地上の教会は間違っているので、新しい教会を始めるようにと預言者として任命されたといいます。自分達の教会だけが正しいとするカルトの典型です。「実」による吟味が必要です。(マタイ7:16−20)また教えが「聖書的」か、吟味する必要があります。

 

 

「宗教」VS「福音信仰」

  宗教は人を縛り、「不自由」にします。福音信仰は人を「自由」にし、解放します。

  宗教は「恐れ」で人を支配します。福音信仰は「愛」で恐れを締め出します。

  宗教はもっと伝道しろ、もっと献金しろと「強制」します。福音信仰は赦され、愛されているので、「自ら進んで」奉仕したくなるのです。

  人の作った宗教は「偽り」の平安、救いを提供します。それは死に直面した時、変わらずに「平安」と「救い」を提供しますか?福音信仰は信頼すべきお方を信頼するので、「真」の平安、「救い」を得られます。

 

あなたの信仰は自由ですか?「クリスチャン」という看板を背負うのが辛いですか?あなたの教会は「愛」が支配していますか、「恐れ」が支配していますか?あなたの「奉仕」の動機は何ですか?今、やっている奉仕や献金を全部辞めても神はあなたを愛してくださると信じられますか?一度解放されたのに、また律法の奴隷になっていませんか?(ガラテヤ5:1)「死」を超えた「希望」を確信できていますか?

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。         

                         (ヨハネ3:16)

 

初めに愛されたのは神です。(第一ヨハネ4:10)初めに犠牲を払ったのは神です。(ローマ5:8)

 

結局、月並みだけど結論は・・・

                 Jesus loves you!

     

=============================================

お勧めクリスチャンムービー(英語のみ)

 

イエス・キリストがビジネスマン姿で今日現れたら? 仕事、家庭でのストレスを抱える宗教嫌いの女性にイエス・キリストと名乗る男性からディナー招待が・・ノンクリスチャンの疑問を会話スタイルで自然な形で答えてゆく。クリエイティブな手法のキリスト教弁証論。

 

映画Perfect Stranger

https://www.youtube.com/watch?v=9HYOdPPvjrc




 

こちらは続編です。悩みを抱えるティーンエイジャーの飛行機の席にJesusが乗り合わせる。

 

映画Another Perfect Stranger

https://www.youtube.com/watch?v=xTiEt9dEkOA

 

============================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

0 件のコメント: