2021年7月15日木曜日

「ディスタンス」蔓延防止法

 Social distanceという違和感

またまた緊急事態宣言!まだまだ「3密」を避け、マスクの生活が続くと思うとうんざりしますね。集会も会食もできない日々。世の中どこも、distance, distance, distance! そもそもsocial distanceと言う言葉は嫌な響きがあるのです。Physical distanceは、「身体的」に距離を取ることですが、Social(社交)に距離を取るとは、「疎遠」になるということです。以前のブログ記事で「3密」を避けるsocial distanceは「反愛」か?と書きました。コロナ渦が続くとボディブローのようにクリスチャンの関係にも障害が出てくると予測されます。コロナ前から、教会の統合・合併・閉鎖が始まっているのです。さらに追い討ちをかけるようにこの状況です。大変シリアスな状況が始まっているのです。


  「愛」の反対語は「無関心」

愛の反対語は「憎しみ」ではなく「無関心」と言われます。「憎しみ」や「嫉妬」は愛の一部だからです。神も「憎んだり」「妬んだり」します。しかし、神は決して人に対して「無関心」にはならないのです。無視しないのです。一人ひとりを名前で覚えておられます。罪人をさえです。神の前に「存在していない」人はいないのです。「忘れ去られている人」はいないのです。神の前では「死んでいる人」はいなからです。そのことを人が知る、つまり神の前で自分が生きていると認識できることが「救い」なのです。この認知関係が「永遠の命」です。(ヨハネ17:3)しかし、神の愛を拒み続けた場合、その人が行くところは、憐れみのない、忘れ去られた「火の池」です。死とは「離別」です。Distanceです。神との断絶。それが究極の裁きなのです。(マタイ27:46)

 

 

愛は社会通念を超える

「サマリアの女」の場面は大変示唆に富んでいます。当時の文化的、社会的ルール下では考えられないことが起こったのです。ルールを破って、イエスは、1)サマリア人に 2)女性に(しかも怪しい背景の女)3)弟子たちがいない場面、つまり女と二人だけで、会話を始めておられます。会話を主導したのはイエスご自身です。ルール通りにしていれば、あの女はメシアに出会うことはなかったでしょう。わざわざイエスがサマリアを通ったのは、この女に会うためだったと言っても過言ではありません。イエスの愛は社会的通念やルールを超えたのです。当時の通念になっていた男女のSocial distanceさえ破りました。サマリア人はユダヤ人にとって「存在してはならない存在」であり、「付き合いをしてはならない相手」だったのです。しかし、イエスはこの女を無視できなかったのです。しかも、なぜわざわざサマリアの「女」なのでしょう。男性社会の中で、わざわざ「女」に話しかけるリスクを取る必要はなかったのですが、イエスは近づいて、話しかけたのです。この女にリーチすることで、「死んでいた」この女を生かしたのです。

 

ルカ7:38には、これまた当時の通念を覆す場面が描かれています。パリサイ人の家に招かれ食事中であったイエスに罪深い女が入ってきて、イエスの足元に座り、涙で濡らし、髪の毛でイエスの足をぬぐい、足に口づけして香油を塗ったのです。こんな女が、パリサイ人の家に入ってくるだけでもびっくりなのに、女のPhysical touchをイエスは受け入れておられるのです。パリサイ人は女に対して規定通りのsocial distanceをとっていたのですが、イエスは「女よ、男に触れてはいけません。それはルール違反です。」とは言われず、この女の行為を受け入れ肯定しているのです。これを杓子定規なパリサイ人に見せつけるかのようにStopさせなかったのです。ここでも愛がルールを超えています。「無視」し「排除」するのではなく「関わった」のです。パリサイ人にとっては「罪人」=「関わるべきでない人」=「縁のない人」=「自分にとって存在していない存在」だったのです。イエスは「人間」対「人間」として関わったのです。

 

 

Distanceのベクトル」と「愛のベクトル」

今の世はDistanceが大流行り。人を「疎遠」にさせる力が蔓延しています。この力の「蔓延防止」が必要です。人々を引き離すDistanceのベクトル(← →)は、愛のベクトル(→ ←)とは正反対です。

 

罪を犯したアダムは神とdistance(← →)になり、もはや、今までのinnocentな関係ではなくなりました。アダムとエバはお互いを責め合い、男女の心の間にdistance(← →)が生まれました。偶像礼拝に走ったイスラエルの民は神の御心から離れていきました。(← →)AD70に神の子イエスを退けた裁きとしてエルサレムの神殿は破壊され、ユダヤ民族は世界に散らされてしまいました。離散とはdistance(← →)です。 今の社会は夫婦が、親子が、会社員同士が、政治家と国民が、国と国がdistance(← →)の方向性へ向かっています。罪の結果はdistanceなのです。離婚は増え、子供が親を殺し、差別、偏見、無視、仲間はずれが横行する。これはdistance(← →)のベクトルです。選民イスラエルと「異邦人」も大きな壁によりdistance(←→)のベクトル が働いていました。




しかし、イエスの十字架により、隔ての壁が崩され、異邦人もユダヤ人もイエスにあって1つになったのです。離散ではなく、集合したのです。これは愛のベクトル(→ ←)です。愛のベクトルは、近づくことであり(close)、離れているものを近づけるベクトルなのです。関係においてFriendlyであることです。 様々なBroken relationshipは十字架による「和解」と「癒し」で回復されていきます。「ひとつとなるため」これがイエスの使命でした。(ヨハネ17:21−23)「ひとつになる」とは、究極の愛のベクトル(→ ←)ですね。



初代教会は「密」だった!

罪の結果はdistance(← →)というベクトル。無関心、忘却。存在の抹殺。「愛」のベクトル(→ ←)は「近づく」こと、1つとなること。初代教会のクリスチャンたちは毎日、会っていたのです。(使徒2:46)そうやってLove communityを形成したのです。1年に1−2度会っているようではLove communityは形成できないのです。アメリカでは多くのクリスチャンがクリスマスとイースター、年2回しか礼拝に来ないそうです。それではお互いの愛の関係は築けません。貧困なコミュニケーション、表面的で形だけの関係、それはdistance(← →)の方向です。「関係」は生き物なので、耕して「深まる」か「疎遠」になるかなのです。

 

イエスの弟子たちはイエスと「一緒」に生活していました。初代教会では男女間でも聖なる口づけを頬にしていたそうです。(Iコリント16:20) 兄弟姉妹として純粋に愛し合っていました。やがて、教会が組織化すると、「教職」は「信徒」と別に食事をするようになります。

 

愛は「密」なんです。しかし、現代の都会の生活は「孤立」していく方向にあります。一言で言うとDistance. (← →)。クリスチャンでさえ、コロナ渦では週一度1時間のzoom礼拝でかろうじて繋がっている状況です。これでは心は離れていくでしょう。そろそろオンライン疲れで脱落する人も出てくるでしょう。愛のベクトルが動かないのです。今、ものすごい勢いでdistance(← →)のベクトルが動いています。愛を破壊する方向で動いています。集まれない、ハグできない、声を出して共に賛美できない。教会=エクレシアは相当、意識して愛のベクトル(→ ←)を動かさないと、人々はどんどんdistant(← →)になっていきます。

 

 

愛することは関わること

クリスチャンセミナーで具体的に「『愛する』こととは、どうすることでしょうか?」と講師が質問すれば、おそらくこんな答えが返ってくるでしょう。

 

  一緒に時間を過ごすこと (Giving your time and yourself)

  よく話を聞いてあげること (Active listening)

  たまに用事がなくても「どうしてる?元気?」と聞いてあげること

                                           (Showing genuine concern)

  誕生日などを覚えていて祝福してあげること。(Occasional blessings

  実際面で必要に答えて助けを与えること。(Giving practical help)

  笑顔を見せたり、肩タップやハグをすること。(Physical touch)

 

Reach outという言葉も使われますね。「近づく」ベクトル(→ ←)です。これらはDistance(← →)の反対です。「ハイテク」の時代だからこそ、「ハイタッチ」が必要と言われています。しかし、タッチの機会が奪われています。

 

Zoom会議でビジネスオンリーでは、メンタルに障害が出てきます。人には雑談、冗談、仕事以外のムダ話が必要なのです。本会議の後の休憩時間に本音が出るものですよね。そして、そこで人間性を取り戻します。マスクでの会話も表情が分からず、人間性を大きく阻害します。

 

しかし、こんな時代だからこそ、聖書は変わらずに勧めています。


 

「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし

 合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ます

 ます励もうではありませんか。」   (ヘブル10:25)


 

もちろん、感染防止は大切です。しかし、流されっぱなし、やられ放題でいいとも思いません。知恵が必要です。それ以上に情熱が必要です。ますます、クリスチャンは「愛のベクトル」の加速に励むものでありたいですね。


 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

 

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