2022年12月29日木曜日

始まるのか、宗教統制?(1)


子供の信教の自由?

今年は、安倍元首相の狙撃事件があり、それをきっかけに、統一教会の悪が明るみに出され、予想外に大問題となった。カルトの恐ろしさと、それに対する注意が喚起されたのは良かった。そして、被害者救済法が成立した。しかし、「宗教2世問題ネットワーク」からすると、この救済法では不十分とするところがあるようだ。統一教会以外の2世の方は、親から宗教活動を強要され、小学校の頃、宗教の集会で居眠りした際、電気コードで打たれるなどしたという。

 

全国霊感商法対策弁護士会は、「2世問題の本質は、子供の信教の自由がカルト的団体によって侵害されている点にある。」と指摘している。親による子への信仰の強要は「虐待」であるとの認識だ。そういう流れの中で、「宗教を18禁にすべきである」という声もある。被害者救済法は統一教会にのみに適用されるのではなく、宗教全般、また宗教法人に限らず、すべての法人(NPO法人も)が含まれる。もし、「宗教18禁」となれば、クリスチャンの親は子供を礼拝や、教会学校へ連れて行けなくなる。自分は16歳の時、高校生伝道団体の主催する伝道キャンプで救われているので、18禁なら、救われていなかったことになる。カルト団体下の宗教2世の方々のお気持ちには痛く同感する。しかし、カルトへの注意喚起はいいのだが、それが「宗教」は怖いもの、「宗教」は取り締まるべきものと進んでいくと問題だ。

 

神学的異端とカルト化

神学的「異端」の場合、その線引きは「聖書的か?」ということになる。なぜ、統一教会、エホバの証人、モルモン教がキリスト教の3大異端かと言えば、「聖書的でない」ということだろう。つまり、「信仰のみによる救い」や、「キリストの神性」「三位一体」を否定するからだ。ただ、世界観的に言えば、異端とは言え、創造主が世界を創造したという共通の世界観があり、エホバの証人が主張するように、やがて神が支配する「楽園」がやってくるという歴史観も福音派が持っているものと変わらない。

 

カルト化となるとややこしい。教会員が「使徒信条」を唱えていても(つまり神学的には異端でなくとも)、教会運営がカルト的な場合もある。「教会がカルト化する時」でウイリアム・ウッド氏が書いているように、牧師が神格化され、牧師の言葉が神の言葉となり信徒をコントロールするケースが事実ある。それが嵩じて「セクハラ」、「パワハラ」となるケースもある。神学的「異端」と教会運営における「カルト化」は分けて考える必要があるのかも知れない。

 

どこで線を引くのか?

一般の人から見ると「線引き」は、「洗脳」「マインド・コントロール」という点だろう。聖書をまともに信じない自由主義神学の教会であっても、教会運営において信徒を支配していなければ、カルトとは認定されないだろう。自由主義神学の人は極めて「常識的なマインド」で奇跡を否定しておられる。「常識的」なので、「カルト」とは見なされないだろう。むしろ危ないのは聖書を神のことばとガチで信じる福音派のクリスチャンたちだろう。

 

作家でクリスチャンの佐藤優氏は産経新聞の記事の中でこう言っている。「カトリック教会、プロテスタント教会、正教会のいずれにおいても、生殖行為を経ずに生まれたイエスが十字架にかけられて、3日後に復活したと信じられている。このような信仰内容は自然科学的見地に反する。ある意味、キリスト教徒は、処女降誕、死者の復活というマインド・コントロール下に置かれた人たちなのである。」

 

ある時点、聖霊が働いて、そのトンデモ話(真実)が分かる時が来るのだ。しかし、一般的には説明できない。「牧師の話を聞いているうちに超自然な話を信じられるようになった。」とあなたが言ったら、「それは、つまりマインド・コントロールされたということですよ。」と言われるだろう。そして、その非常識な話(福音)を広める(伝道)ことに価値を覚えて「献金」するようになる。

 

クリスチャンは反社会的?

カルトかどうかを「反社会的=社会の秩序を乱す者」で判断するとなるとクリスチャンは微妙なのだ。事実、イエスご自身、信仰により家族が分裂することを預言しておられ、それは今日まで続いている。(ルカ12:49−53)初代クリスチャンたちは「世界中を騒がせてきた者たち」(使徒17:6)なのであり、事実、エペソではパウロの宣教により、町を挙げての大騒動になったのだ。(使徒19)そういう意味でレッテルが貼られるなら、クリスチャンは、カルトと見なされる可能性が大きい「危ない」存在なのだ。ローマ時代には危険分子と見なされ、迫害を受けた。

 

反キリスト思想が広まる現代では、クリスチャンは、自然科学的見地に反する「ヘンな事を信じる」、「ヘンな人たち」ということになる。そして、時代に逆らい、妊娠中絶の権利や、LGBTに反対する困った人たちでもある。さらに「携挙」だの「千年王国」だの信じているクリスチャンは完全に狂っているということになる。そんな狂った思想を無垢な子供たちに伝えていいのか!?ということになる。子供たちへの聖書教育が問題視されるだろう。「人は生まれつき罪人。」「罪からくる報酬は死。」と否定的なことを子供のうちから教えるのは虐待であり、「地獄」の存在を説くことは、恐れによるマインド・コントロールに繋がるとして教えることを禁ずるようになるだろう。「十字架で息子を見殺しにする父親像を子供に植え付けるな!」となる。進化論に反対するあまり、公立の小学校に子供を行かせずホームスクーリングで子供を教育するクリスチャン家庭は子供の人権侵害として批判されるだろう。あるいは、親の判断でクリスチャンのInternational schoolやチャーチスクールに入れる場合もある。それを「虐待」と認定されるとクリスチャン家族には、大きな制限がかかる。ただ、それなら根拠のない「進化論」を無批判的に公立の学校で教えることは「洗脳」ではないのか?

 

一般社会の価値観とは違う価値観(聖書的価値観)に堅く立つクリスチャンは、世俗社会からは「ツッコミ」を入れられる要素が満載ということになる。「非常識」で線を引かれれば、クリスチャンはアウトになる。そう言う部分は、一般の人はどう統一教会やエホバの証人と福音派クリスチャンを区別できるのだろうか。いや、区別はせずに「子供を人権と自由を守る」という大義名分の下に宗教的統制をしてくる可能性がある。共産圏では、意図的にクリスチャン2世の信仰継承を難しくしてきた事実がある。次回紹介しよう。

 

(つづく)

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執筆者:栗原一芳

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2022年12月22日木曜日

聖書から見る「独身」という生き方

 

「教会の『三会』このままで大丈夫?」

「舟の右側」(2022年12月号)に掲載された水谷潔氏の「教会の『三会』このままで大丈夫?」という記事は興味深かったです。教会の「三会」すなわち、「壮年会」「婦人会」「青年会」です。これだと40代の独身者は「居場所」が無くなります。そして、そういう方は増えています。無理して入っても、話題が「子育て」や「夫婦関係」の話となるとついていけないでしょうね。また、今日、珍しくない「離婚者」や子供のいない夫婦は教会で肩身狭い思いをすることになります。さらに今後は「性同一性障害」の方のことも考えなければならなくなります。

 

また一時、もてはやされた結婚セミナーや恋愛セミナー講師のジョシュア・ハリスさんが離婚されたことにも触れ「正しいことを書いているけど、あまりに理想論で、逆に人を苦しめることになるから、柔軟な受け止めが必要だよ。」と以前からコメントしていたことが書かれています。重いコメントですね。

 

先日、こんな話を聞きました。日曜礼拝に親子で欠かさず参加していた家族。帰宅して食事の時、小学生の子供がこう言いました。「お父さんは教会に住んだらいいよ。」「なぜ?」と親が聞くと、「だって、お父さんは教会にいるときには優しいお父さんで、お母さんにも怒鳴らないし・・・」と言ったというのです。どうも教会ではいい顔をしてしまっているようですね。

 

それでは結婚と独身について聖書から見ていきましょう。

 

生めよ、増えよ

確かに創世記では神は「生めよ、増えよ」(創世記1:28)と結婚して子供を産むことを命じています。「基準」は結婚して子供を産むことだったのです。また神が命じているということは、「結婚」して男女が一体となることは、神の御心だった訳です。男女が愛し合い、子供を作るような体の構造を造られたのです。事実、旧約時代には子沢山であることが神の祝福と考えられていました。

 

パウロの考え

しかし、新約時代に入ると、今度は一転してパウロはこう言うのです。

「私が願うのは、すべての人が私のように独身であることです。」

                   (Iコリント7:7)

 

そのあとに「人それぞれの生き方があります。」と言い、結婚が唯一のライフスタイルではないことを説いています。さらに

 

「結婚していない人と、やもめに言います。私のようにしていられるなら、それが良いのです。」(8節)

 

独身のままで良いのだと言っています。そして、「欲情に燃えるより結婚する方がいいからです。」Iコリント7:9)随分と消極的というか、「仕方ない」という印象すらありますね。「結婚する人は良いことをしているが、結婚しない人はもっと良いことをしている」とまで言っています。(38節)

 

32節からは、普遍的な原則が書かれています。

 

「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです。独身の女や未婚の女は、身も心も聖なるものになろうとして、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。  IIコリント7:32−34)

 

主に喜ばれることを優先するなら、結婚しない方がいいとも取れます。これだけパウロが言っているにも関わらず、水谷氏も言うように日本の教会は「生めよ、増えよ」だけを強調し、メッセージをし、結婚し、家庭を持っていることの方を「良し」とする傾向があったように思えます。

 

ただし、7:25節以下を読むと、「差し迫っている危機のゆえに・・」とあり時代的背景、すなわち迫害が起こっている中であることを考慮して、独身を勧めていることが分かります。「ただし、結婚しても罪を犯すわけではない。しかし、結婚する人たちは身に苦難を招く」と言うのです。せっかく結婚しても、すぐに相手が迫害にあって殉教してしまったら悲しいことです。残された子供も不幸です。

 

現代社会での状況

初めは「生めよ、増えよ」で良かったのですが、罪がはびこると状況や環境が変わってきます。せっかく育てた青年たちが戦争に駆り出され、戦場で亡くなっていきます。悲しむ母親の顔を見たくありませんね。そして、犯罪、テロ、ブラック企業、誹謗中傷による自殺・・・・さらに、今、世界人口は80億!人間社会が出すCO2は森林が吸収する量の1.7倍だそうです。エネルギー問題、食料問題、どうなるんでしょうね。ただ、日本のように少子高齢化で人口が減少している国もありますね。

 

子供を取り巻く環境も激変しました。自分の小学校時代とはまるで違います。スマホ、ゲームが子供達の生活を一変させました。また、虐待、いじめ、家庭内暴力・・・子供を健全に育てるのが難しい世の中になってきました。子供を持ちたくても経済的に難しかったり、女性も仕事を諦めたくなかったりと状況も変わっています。

 

水谷氏によると、現在、日本では生涯、結婚しない女性は2割近くいて、5人に1人は結婚しない。また5.5人組に1組の夫婦に子供が与えられていない。そして3組に1組が離婚するというのです。つまり、結婚をして、離婚しないで、しかも子供がいる女性は40数パーセント、半分以下です。ですから「婦人会で集まりましょう」と言っても難しいというのです。育休の理解は、少しは進んだものの、賃金は上がらず、物価は上昇、それに教育費は大変なものです。そうなると経済的にも余裕のある人しか子供を育てられない状況です。

 

また、アメリカではクリスチャンの間の離婚率はノンクリスチャンと変わらないといいます。大騒ぎして結婚して、すぐ離婚する芸能人たちのことを見ています。離婚の悲劇や家庭内暴力を見てきた子供たちは、結婚しようと思わなくなるかも知れませんね。また、結婚したとしても、その中身が大分、変わってきています。先日、ある番組で若い人たちが「結婚しても寝室別々はありだよね。」と言っていました。同棲や事実婚も増え、結婚とは役所に出す「紙」のことになってしまった感があります。確かに結婚していれば「幸せ」という訳でもないようです。最近は「夫源病」と言って、夫が原因で体調不良になる妻がいます。結婚しているゆえに「孤独」を感じている夫婦も少なくないでしょう。特に日本人の男性は退職すると会社付き合いも無くなり、近所に友達がいるわけでもなく・・という状態になります。必要なのは「コミュニティ」ですね。

 

都会では「おひとり様仕様」が多くなり、独身生活が便利になりつつあります。個人的「自由」やプライバシーを重視する傾向もあります。結婚に強い必要性や願望を持たない人も増えているんでしょうね。一人でいる「自由」を選びたい人が増えているのではないでしょうか。「2次元オタク」のようにアニメ世界で満足している人もいます。今後、男女関係は、面倒くさい生身の人間関係より、AIメイトや、メタバースなど、ネットの中で済ます人も出てくるでしょう。

 

イエスの独身に関しての考え

家庭を持つことがそれほど重要な絶対的な価値であるなら、どうしてイエスご自身は家庭を持たなかったのかと言う疑問が出てきます。家庭を持って理想の家庭のモデルを見せて欲しかった!しかし、イエスは独身を貫きます。当時ユダヤでは男子は13歳で成人式を迎え、親は結婚相手(許嫁)を探し始めます。

しかし、イエスは十字架にかかる33歳頃まで独身であった訳です。そして、独身に関してイエス様の見解はこうです。

 

母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。

               (マタイ19:12)

 

つまり

  独身者として生まれた (障害などで結婚が難しい人?)

  人から独身者にさせられた(離婚や死別)

  御国のために自分から独身者になった人

 

3番目は、「それが受け入れることができる人は、それを受け入れなさい」と勧められています。もちろん、家庭を持つことは祝福です。しかし、同時に夫婦関係や子供達の問題で宣教に集中できなくなる牧師や宣教師達もいます。独身者にチャレンジや問題がないわけではないですが、宣教のために自由に使える時間は多いでしょう。

 

ただ、この3つのカテゴリーに必ずしも当てはまらない人もいるのではないでしょうか。結婚したいと願いつつも、出会いがない人。御国のために献身はしているが、独身を貫くことを決めている訳ではない人。強い願望はないけれど、ふさわしい人が現れれば、結婚しようと思っている人など・・・。

 

 

復活の時は御使のよう

イエスは私達が復活時に体を頂く時は「御使」のようになると言っています。

 

復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです  (マタイ22:30)

 

復活時には結婚の制度自体が無くなるのです。つまり結婚は今、この地上にいる限りの制度だということです。だからといって大切じゃない訳ではありませんが、永遠、絶対の制度でもないのです。デスペンゼーション主義者の多くは、千年王国は、「復活の体」を持った信者と、患難期に生き残った「地上の体」を持った信者のミックス状態だと考えています。ちょっと違和感があるかも知れませんが、復活のイエスは、地上の体を持つ弟子たちと会話や会食をしています。ミックス状態です。また、現在でも結婚する人もいれば、独身で通し、子供を産まない女性たちも多くいます。今も、既婚者、未婚者のミックス状態です。そう考えれば、千年王国の状態はさほど不自然ではないのです。千年王国はこの地上の続きですが、新天新地では永遠の秩序に変わるので、そこでは全員、「復活の体」=「御使のよう」になっています。そこでは結婚制度はなく、再生殖もないでしょう。

 

差し迫っている危機?

パウロはローマ時代の激しい迫害の時を指して「差し迫っている危機」と言っています。今日の状況も「差し迫っている危機」と言えないでしょうか。これに関しては、近日中に詳しく書きたいと思っていますが、患難時代に向けて、クリスチャンにとっては、さらに難しい時代になるでしょう。反キリストは「まだ」現れていませんが、不法の秘密は「すでに」働いています。(IIテサロニケ2:7)そろそろパウロの言葉をもう一度、考えてみる時なのかも知れません。

 

兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。未婚の人たちについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより信頼を得ている者として、意見を述べます。差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態にとどまるのがよい、と私は思います。あなたが妻と結ばれているなら、解こうとしてはいけませ ん。妻と結ばれていないなら、妻を得ようとしてはいけません。しかし、たとえあなたが結婚しても、罪を犯すわけではありません。たとえ未婚の女が結婚しても、罪を犯すわけではありません。ただ、結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。兄弟たち、私は次のことを言いたいのです。時は短くなっています。今からは、妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。 Iコリント7:24−29)

 

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2022年12月15日木曜日

捕囚としての生き方(3)〜異教徒の中で生活する

 

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イスラエルの民(神の民)は、捕囚時、異教のバビロニア帝国での生活を強いられた。バビロンはもともとニムロデ帝国があり、悪名高い「バベルの塔」が建てられたところだ。「神の民」が「異教のセンター」に置かれたのだ。世の終わりには「獣」と言われる反キリストが現れ、バビロン(現在のイラク)が世界支配のセンターとなる。その悪の帝国の準備は着々と進められている。私達、クリスチャン(神の民)は、現代のバビロンでの捕囚生活を強いられている。イエス・キリストを救い主として崇めない文化の中で暮らしている。それどころか「この世の神」であるサタンが空中を支配している世界に生きている。クリスチャンの価値観とは相対する世俗の価値観の中で生活している。その葛藤の中で、どう生きればいいのだろうか。希望はあるのだろうか。

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現代の預言者として

旧約の王朝時代には王の役割(政治)と預言者(宗教)の役割が分かれていた。真の預言者は憚らず王に神の御心を伝えた。残念ながら、南北朝時代には多くの王は預言者の声に聞かなかった。ますます偶像礼拝に陥っていった。しかし、忠実な預言者たちは使命を全うした。革命は起こさないが、荒野での「声」となった。教会が政治をコントロールするのではなく、預言者の声としてメッセージを発し続けるのだ。来るべき王であるキリストを宣言し、聖書的価値観を発信していく。そして為政者のために祈る。(Iテモテ2:1)来るべき「お方」は究極の「王」であり「預言者」だ。

 

教会が政治である

「舟の右側」(2022年12月号)に掲載されたフェリス女学院大学教員の徳田信氏の「現代神学に学ぶ教会形成」という記事の中で「教会が政治である」という主張をしておられ、大変、興味深く思ったので、少し引用しよう。

 

「ヨーダーによると、新しい共同体としての教会が存在するに至ったこと自体が、宣言されるべき福音の使信です。・・・・・なぜなら福音それ自体に社会的使信が明確に含まれているからです。教会という新しい社会的現実こそ歴史を動かし、新しい文化を広く生じさせるのであって、その逆ではありません。もし民族や文化間を含め、人々の和解が生じないのなら、福音の真理をそこに認めることはできないのです。すでに存在する新しい社会的現実に参与すること、それが洗礼という政治的行為の中心的意味です。」

 

ある家庭集会に証に行った時、一人のノンクリスチャンの方が「こんな世界があるんですねえ〜」と感動しておられた。そう「こんな世界」。この世とは違う世界。いじめも中傷も、差別も見下されることもない世界。営業成績や、生産性で判断されるのではなく、お互いの「存在」を喜び合う世界。エクレシアにはそれがある。そういうコミュニティが、この社会に現実に存在する自体が「政治=社会変革」であると言っている訳だ。政治運動に参加しなくても、エクレシアへの参与で、すでに来るべき理想の社会をデモンストレートしているのだ。

アメリカ人、日本人、韓国人、中国人、ロシア人、ウクライナ人が1つとなってキリストを礼拝している姿は、もう「政治」であり、「革命」なのではないだろうか。

 

異教徒の中で生活する

同時に、もう一度思い出してみよう。ダニエルは役人として通常はバビロンに仕えていた。バビロンの社会システムの中で「神の民」は生活していたのだ。愛を持って人々に、そして社会に仕えることは大きな「証」だ。神の御心はユダヤ人(神の民)が、異教の国(バビロン)で「祝福」となることだった。

 

イエスは「宮清め」はしたが、社会的革命や社会変革をしなかった。弟子たちにヘロデやピラトの暗殺なども指示しなかった。パウロも再臨を待望しつつも落ち着いた生活をするように勧めている。

 

そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。兄弟たち、あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい。  (IIテサロニケ3:12−13

 

イエスご自身も今の時代、苦難の中で勇気を持つよう勧めておられる。

 

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに 

 世に勝ちました。」    (ヨハネ16:33)

 

邪悪な世界であることを認識しつつ、(Iテモテ3:1)今は、その中で生きることが勧められている。

 

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。  

                 (ピリピ2:15−16)

 

捕囚の民が70年の終わる頃、不思議な神の介入でパレスチナの地に帰還したように、現代のバビロンに捕囚状態にされている我々も、いつまでここにいるのではない。万物の改まる時が来る。回復の時が来る。究極の「グレートリセット=世直し」はキリストが再臨時に行う。

 

そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。このイエスは、神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

          (使徒3:20−21)

 

万物が改まる、その日まで、私達はひたすら「神を愛し」、「人を愛し」、「キリストの弟子」を作り、天に召されるまで淡々と地上で「生活」し、この地の「祝福」となる。

 

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2022年12月8日木曜日

捕囚としての生き方(2)〜善と悪、混在の時代


 

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私達、神の民は、ある意味「現代のバビロン」での捕囚生活を強いられている。

イエス・キリストを救い主として崇めない文化の中で暮らしている。それどころか「この世の神」であるサタンが空中を支配している中に生きている。クリスチャンの価値観とは相対する世俗の価値観の中で生活している。その葛藤の中で、どう生きればいいのだろうか。希望はあるのだろうか。

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善と悪の混在の時代

時代認識をすることが重要だ。今はどんな時代なのか?今が「千年王国」と主張する人もいるが、今の時代、サタンは、まだ底知れぬ穴に縛られ活動を制限されている訳ではない。世界の状況を見ると、サタンは大活躍している。悪は、はびこっている。悲惨な事が毎日起こっている。これが現実だ。それでは善はないのか?神はいないのか?それも結論を出すには早すぎる。

 

今は「混在」の時代なのだ。サタンも悪も、神と神の国と共に共存している。この世は「サタンの王国」のグローバリズムと「神の国」のグローバリズムが勢力争いをしている空間なのだ。キリスト教界にも「麦」と「毒麦」が共存している。だから、統一教会など異端が存在するのはある意味、想定内なのだ。キリスト教界に「背教」が起こるのも預言されている以上、想定内なのだ。大変、悲しい事ではあるが、驚きすぎてもいけない。背教は起こるのだ。また、患難時代に向けて、闇の帝国は広がるのだ。キリストの地上再臨に向けて、闇の力はマックスになる。もう一度、まとめてみると・・

 

  私たち神の民は「しばらくの間」この世にいる。

  この世は「善と悪」「麦と毒麦」の混在状態。

 

その中で、聖書は希望のメッセージを語っている。すべて精算される時が来る。新しい時代がやってくる。悪は滅ぼされ、メシアが世界を義と愛で支配する時代が来るということだ。

 

分かってはいるけれど・・・

聖書的には終末に向けて闇の世界(反キリスト的価値観)は広がっていく。先日のG20に「グレートリセット」を主張する世界経済フォーラムの創立者シュワッブ氏が出席していた。世界のリーダーは世界経済フォーラムの提唱する流れに向かっていくのだろう。もはや、右とか左、保守とか革新ではなく、グローバリズムと反グローバリズムの戦いと表現する人もいる。反キリスト思想のグローバリストの支配が近づいている?統一政府に向かっての動きが始まっている?大方そういう事だろう。やがて近いうちに世界的なデジタル管理社会がやって来ることは避けられないのだろう。

 

分かってはいるが・・かといって、それに反対してどうなるのだろうか?インターネットが発明され普及したことも、言うなれば、デジタル管理社会の足がかりだった訳だ。しかし、世界統一政府に反対する人たちもインターネットを使ってyoutube, FB, ツイッターで発信している。キャッシュレス社会のツールとしてのスマホも使っている。インターネットによりコロナ渦でもzoomでクリスチャンが集うことができている。インターネットやSNSで福音が、今まで届けなかった人々にも届いている。テクノロジー自体はニュートラルでキリストのためにも、反キリストのためにも使えるのだ。間違いなく、コンビニやスーパーはキャッシュレスになる。マイナンバーカードに反対する人は、その前段階であるスイカやパスモは使わないのだろうか?おそらく使っているだろう。自分はマイナンバーカードが免許証や保健所と紐づけられれば、便利なので使うだろう。個人情報の流出?すでにFacebook, Amazonで吸い取られている。それを知りつつ、自分は使っている。

 

一体、どこまで、何を反対すればいいのだろうか?

 

産業革命以降、都市化、世俗化が急激に進んだ。その分、信仰者には、チャレンジも多い。しかし、その現代のバビロンの中で、クリスチャンたちは信仰を保ちつつ、都市化の利便を受けながら生き抜いてきた。福音も広めてきた。

 

反対に関しては是々非々があるだろう。しかし、時代の認識は必要だ。(マタイ24:32−33)

 

クリスチャンとしての「踏み絵」

クリスチャンにとっての踏み絵は「獣=反キリストを拝め!」と命じられた時だろう。その時は、断固として拒否するべきだろう。シャデラク、メシャク、アベデネゴのように。また、「創造主に祈るな!」と命じられたら、ダニエルのように拒否するべきだろう。ただし、それは自分の意思力ではできない。その時に与えられる恵み(不思議な力)によることになる。(IIテモテ1:7、2:1)そして主は、その力をきっと与えてくださる。だから心配しなくてもいい。3度もイエスを拒んだ臆病者のペテロは、宣教を禁止された時には、「人に従うより神に従うべきです!」(使徒5:29)と大胆に告白した。私たちも「踏み絵」的な状況にあっては、神の恵みによって、そうすべきなのだ。

 

そして、常に王なるイエスを思い、繋がり、(IIテモテ2:8)イエスへの信仰を告白し、希望について弁明できる用意をしておくことだ。(Iペテロ3:15)

 

(つづく)

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執筆者:栗原一芳

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2022年12月1日木曜日

捕囚としての生き方(1)

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私達、神の民は、ある意味「現代のバビロン」での捕囚生活を強いられている。

イエス・キリストを救い主として崇めない文化の中で暮らしている。それどころか「この世の神」であるサタンが空中を支配している中に生きている。クリスチャンの価値観とは相対する世俗の価値観の中で生活している。その葛藤の中で、どう生きればいいのだろうか。希望はあるのだろうか。

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繰り返し現れるパターン

元の地での平和な生活から問題が起こり(多くは罪を犯して)、そこから追い出され、苦しい思いをし、しかし、最終的に故郷に戻るというパターン。聖書の中には繰り返しこのパターンが現れる。

 

  カナンの地にいたヤコブの家族は、飢饉が来てエジプト(異国)での生活をするようになる。ヨセフを知らない王が即位してからは、ユダヤ人は奴隷となり辛い生活を強いられる。やがてモーセにより出エジプトし、シナイでの試練を通って約束の地であるカナンへ戻る。

 

  カナンの地でソロモンの時代、平和に暮らしていたユダヤ人は、偶像礼拝に陥り、その罪のためにバビロン(異国)に捕囚となる。異国での試練の生活を強いられるが、70年後、預言通り異邦人王のクロスの命令により、カナンの地への帰還が許される。そこで神殿を再建し、城壁を築き、街を回復する。

 

  エデンの園にいたアダムとエバは罪を犯し、エデンの外へ追い出される。その後は「この世の神」であるサタンが支配する世界で、試練ある生活を強いられるが、最終的にキリストの再臨と共に、悪が滅ぼされ、キリストが直々に治める千年王国が樹立される。こうしてエデンが回復され、そこに帰還する。

 

イスラエルの民は「しばらくの間」、エジプトにいた。「しばらくの間」バビロンにいた。「しばらくの間」苦しみの期間を通った。宗教も価値観も文化も違う異国に住んでいた。我々は今、「しばらくの間」エデンの外で生活している。クリスチャンの価値観、文化とは違う日本に住んでいる。ただし、まず知るべきは、ここに永遠にいる訳ではないという事だ。クリスチャン人口1%と言われ、クリスチャンは肩身の狭い思いでいるが、しばらくすると神の支配が全世界に及ぶ「御国」=Kingdom of God(千年王国)がやってくるのだ。(使徒3:20−22)

 

「カナンの地の占領」と「バビロン捕囚」の違い

カナンの地の占領とバビロン捕囚には以下の違いがある。

 

1.      そこが神の約束の地であった。

2.      そこでイスラエルの国を確立することが神のご計画であった。

3.      そこにいる異邦人を追い払う(あるいは抹殺する)ことは神の御心であった。イスラエルが従順であれば、そこで「御国」を確立できた可能性もある。

 

それゆえ、この歴史的な特別な時期だけ、「聖絶」が許され、行われた。しかし、バビロン捕囚時は、

 

1.      ユダヤ人の罪ゆえに連れてゆかれた地であった。

2.      そこでは「ある期間」だけ滞在することが神のご計画であった。

           (エレミヤ29:10−11)

3.      神の御心は、バビロンの異邦人を抹殺することではなく、そこで町の繁栄を祈り、その中で平和に暮らすことであった。

 

神は預言者エレミヤを通して「この国の平和を祈れ」と言われた。

 

「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』   

                (エレミヤ29:4−7)

 

異教の国の平和を祈る

異教の国の平和を祈る?そう70年の捕囚期間、ユダヤ人はそこで民を増やし、生き残ることが御心であったのだ。もちろん、ネブカデネザル王の金の像に礼拝を強要された時は断固として拒否した。祈りを禁止されてもダニエルは隠れもせず日に3度祈っていた。その結果、ライオンの穴に落とされた。引かないところは命をかけても引かないが、ダニエルは役人としてバビロンに仕えていたのだ。偶像の宮を破壊したり、門柱に墨を塗ったりもしなかった。日本にある神社、仏閣、新興宗教の宗教施設に墨を塗ったり、火を放ったりすることが御心だろうか?異教の地、バビロンやエジプトにいたユダヤ人に神は、それを命じただろうか? 異教の国だからといって政府を転覆したり、王を暗殺したりはしなかったのだ。時代は変わりペルシャ帝国の時代になって、エステルは王妃となったし、モルデカイは王の側近としてペルシャ帝国に仕えた。(エステル9:4)ユダヤ人が一致団結してペルシャ帝国の体制をぶっ壊すことはしなかったし、それが御心でもなかったのだ。真の神への信仰を表明し妥協はしないが、全てに反対するのではない。

 

これは今の時代を生きる私達「神の民」にとっても大きな示唆となっている。「時代=アイオーン」を変えるのは神なのだ。「神の国」は「来る」のであって、人間の努力で「もたらす」のではない。神の力により「神の国」が来るのだから、それに向けて「思い改め=方向転換しなさい」が聖書のメッセージなのだ。(マタイ3:2)

 

今はこの地で生きることが御心なのだ。基本は、置かれた場所(国、社会、職場)で、うまく付き合うという姿勢だろう(*)。世の人と一切関わるなというなら、この世から出ていかなければならなくなる。(Iコリント5:9−11)「分離主義」を取れば自分たちの信仰を清く保つことはできるだろうが、世にインパクトを与えることはできない。

                                                                                    (続く)


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(*)興味ふかい記事


第二列王記5章には有名なナアマン将軍の癒しが記されている。皮膚病が癒されたナアマンは「主=ヤーウエ」以外の他の神々(エロヒーム)に生贄を捧げることをしないことを誓う。つまり、完全に「ヤーウエ」に改心した。しかし、異教徒の王が偶像礼拝(リモン神)する時の手伝い(職務)をする時、それを拒む訳にはいかないので許してくれとエリアに申し出ると、エリヤは「安心して行きなさい。」とそれを許している。

 

どうか、主が次のことについてしもべをお赦しくださいますように。私の主君がリンモンの神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏します。私がリンモンの神殿でひれ伏すとき、どうか、主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように。」エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」

II列王記5:18−19)

 

もちろん、アナマンがリモン神への信仰告白を強要されれば、「NO」と答えただろう。しかし、ここに臨機応変な態度を見ることもできる。

 

 

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執筆者:栗原一芳

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2022年11月24日木曜日

キリスト教は三位一体教!

 

クリスラムとは?

クリスラムとはキリスト教とイスラム教の両立が可能であるという主張であり、同時にキリスト教徒とイスラム教徒でいられるという主張です。ローマ教皇

フランシスコは、2015年9月24日、マンハッタンのパトリック大聖堂での演説で、この思想を支持し、世界統一宗教を目指すことを明らかにしたとか。また、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教を1つの屋根の下に集めた「1つの家」建設計画がドイツの首都ベルリンで進行中という話も。このクリスラムに福音派の著名な牧師も賛同していると言う話も聞いています。世界統一宗教に向けた動きでしょうかね。

 

キリスト教は「三位一体」教

よく同じ1神教として同じものに括られますが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の神は同じなのでしょうか?イスラム教ではイエスは預言者の一人として認知されていますが、神ではありません。神はアラー以外に無いのです。キリスト教は一神教というより、正確には「三位一体教」です。イエスは父なる神、聖霊なる神と共に「神」そのものなのです。大きな違いですね。クリスチャニティ・ツデイの調査では「神は他の宗教の礼拝も受け入れる」が福音派で56%。半数以上が他宗教を認める動きに。しかし、聖書では「この方以外に誰によっても救いはない!」(使徒4:12)と明言しているのです。「そりゃ、排他的すぎる」という事で、福音派の中でさえ、聖書信仰の土台はすでに崩されつつあります。

 

イエス・キリストは被造物?

クリスチャニティ・ツデイの調査によると43%は「イエスは偉大な教師ではあるが、神では無い」と思っているというのです。これは歴史的論争の中で退けられた異端アリウス主義と同じ主張です。この数字が本当なら、もはや「福音派」とは言えないし、クリスチャンとも言えないでしょう。イエスを被造物と考える「エホバの証人」を異端扱いできなくなります。私が大学の頃、流行っていた作家、遠藤周作や神学者の八木誠一などの著書には「イエスは神ではなく、ただの人だが、人に寄り添う哀れみ深いお方だ」という主張がなされていました。しかし、それらはいわゆる現代哲学の影響を受けた「自由主義神学」の流れで、「仕方ないな」と思っていましたが、なんと今回は、福音派のクリスチャンが、このような事を言い出したことは由々しき事態です。

苦肉の三位一体論

確かに、三位一体は人間の頭では理解できません。これを説明するため、いろいろ苦肉の策が取られてきました。今日でもこのような説明があります。「水は個体、液体、気体に変化しますが、同じH2Oですね。同じように神は3つの形がありますが、同じ神なのです。」これは分かりやすいのですが、注意が必要です。「時に個体、時に液体、時に気体として現れる」を適用すると「神は時に、父として、時に御子(人間)として、時に聖霊として現れる」となり、これは

サベリウス主義という異端思想になってしまいます。人間の理性でスッキリ分かろうとすると逆に、異端的になってしまいます。聖書では三位一体の神が同時に現れている箇所があるのです。

 

イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」     (マタイ3:16−17)

 

そして、3人の別の神々がいる(多神教)という教えも、聖書は支持していません。確かに創世記1:1、「はじめに神が天と地を創造した」の「神」はエロヒームで複数形ですし、1:26では人間の創造に当たって「われわれの似姿に造ろう」と神は仰せられています。しかし、申命記6:4では「主は唯一である。」英語では” The Lord is one”. となっています。また有名な大宣教命令で、

「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け・・」(マタイ28:19)、英語では”in the name of the Father, and of the Son and of the Holy Spirit”Nameは単数形になっています。普通、3人の名前であれば、namesですよね。したがって3つのご人格(神格?)で1つの神の考えがサポートされています。

 

 

イエスは神なのか?

これはキリスト教の救いの重要な部分と連結しています。なぜなら、イエスが単なる人間なら、我々と同じく罪人であり(ローマ3:23)、自分の罪からの報酬である死を受けるだけで、他人の救いの贖いをすることはできないのです。(ローマ6:23)イエスは聖霊によって妊めるマリヤより生まれたので、アダムの原罪を引き継いでいないのです。また、人の罪を赦す権威を持っているのは神だけなので、(ルカ5:21)中風の人を癒し、「罪の赦し」の宣言をしたということは、ご自身を「神」と宣言されたことと同じなのです。

 

パウロもローマ書の冒頭(ローマ1:3−4)でイエスの神人両性について説明しています。ヨハネの福音書は、イエスが神であることを証言することにフォーカスを置いています。(ヨハネ20:31)ここでの「神の御子」とは、本質において「神」であるとの意味です。

 

また、ヨハネ福音書の冒頭にはこうあります。

 

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

                 (ヨハネ1:1—3)

 

イエスご自身、ユダヤ人との論争の中で、はっきり神性を証言します。

 

わたしと父とは一つです。 *「1つ」とは、同一の本質の意

                 (ヨハネ10:30)

 

ヨハネの手紙にはこうあります。

 

私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。 Iヨハネ5:20)

 

かなり明白に語っていますね。さらに使徒の働きの中でルカはこう述べています。

 

神が、ご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。  (使徒20:28)

 

血を流したのは誰でしょう。イエス様ですね。ここでは「神がご自分の血を持って買い取られた(贖われた)」と言っています。つまり、イエスは神ということです。

 

このように聖書的にはイエスが神であることは明白なのです。第1世紀にはグノーシスという霊肉2元論の異端が流行っていました。霊は善、物質は悪という教えです。肉体は悪なのです。イエスが神なら罪深い肉体を持つはずがないとして、人となったイエスを否定したのです。今とは逆ですね。ヨハネは、「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちは反キリストである」と明言しています。(IIヨハネ7節)

 

つまり、聖書的にはイエスは人となった神であり、100%神であり、100%人なのです。そして、聖書の神は「三位一体」なのです。

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

2022年11月17日木曜日

花嫁を迎えに来る花婿  


ヨハネ14:2−3

わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

 

コロナで結婚式が延期されてしまったカップルが大勢いたことでしょう。どんなにか、結婚式を待ちわびたことでしょうか?キリストと教会(私たちクリスチャン)は結婚関係に例えられていますね。

 

「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。

                     (エペソ5:31−32)

 

ヨハネが福音書で、カナの婚礼を最初に持ってきているのには意図があるように思えます。それは、キリストのミニストリーの意図がそこにあるからです。キリストは花嫁を探しに地上に来られ、花嫁をサタンの手から贖い出し、再び繋ぎ合わせ婚約関係とし、そして、最終的に天で、結婚式をあげ、花嫁と1つとなるのです。サタンの邪魔が入らない「キリスト」と「教会」の蜜月期間、それこそ「千年王国」における「婚礼=セレブレーション」期間なのです。救いの歴史はそこに向かって動いています。

 

ガリラヤの結婚式のしきたり

このように結婚のしきたりと救いのしきたりが重なっています。ヨハネ14章も、当時の結婚のしきたりを背景にしているのです。イエスも弟子たちもガリラヤ人だったのです。ガリラヤの文化的背景を前提として話し合っていたのです。ですから、当時のガリラヤ地方の結婚のしきたりを理解することが重要なのです。ヨハネ14章でイエス様が言っていることは、ガリラヤ人の弟子たちにはピンときたのですが、私たちは背景を知らないと十分に理解できません。幸いな事に、最近の考古学研究で明らかになってきました。

 

1.イスラエルでは13歳で男子は成人を迎える。男女共、その年齢になると、親同士で息子、娘の結婚の相手を探し始める。「いいなずけ」の関係にする。

 

2.相手が見つかると、町の門(公共の場所、大勢の人の前、特に長老たちの前)で「婚約」する。長老が承認することで正式なものとなった。男性は女性に儀式用のワインカップを渡す。女性がそのカップを受ければ、婚約成立となる。選択権は女性にある。婚約は、実 質的な結婚を意味し、他の人と付き合うことは許されない排他的な関係に入ることになる。(雅歌2:16)

 

3.花婿の父は、花嫁の父に育ててくれた感謝として「花嫁料」を払う。

 

4.婚約してから最低1年間は離れて暮らす。花婿は住まいや家具を用意する。通常は父の家に建て増しをする。花嫁は花嫁衣裳や花婿の衣類などを用意する。花嫁は花婿がいつ迎えに来るか分からない。日時は知らされない。結婚式は突然起こるイベント。花嫁は、いつ花婿が来てもいいように準備して待っている。

 

5.用意ができると、花婿が花嫁を迎えに行く。ただし、その日は花婿の父しか知らない。花 婿の父が許しを出し、花婿は花嫁を迎えに行く。当時のガリラヤでは、通常、父が息子に伝えるのは、真夜中だった。

 

6.夜中、ないし、明け方、花婿は友人たちと群れをなして出てゆく。ショーファーいう角笛を鳴らし町中を進む。結婚式に招待している人々を起こすためでもある。

 

7.それを聞いた花嫁は目覚め、迎えが来たことを知る。

 

8.花婿は花嫁の家には入らない。花嫁が家の外に出て花婿と出会う。1年ぶりの再会となる。感激のシーン。

 

9.友人たちが家の前に出てきた花嫁をイス付きの台に担ぎ上げて、父の家まで連れて行く。花嫁は地面から引き上げられ、台に乗せられ、父の元に運ばれる。事実、古代ガリラヤで「花嫁を、父の元へ飛んで連れていく」という言い回しがあった。

 

8.花婿は花嫁を連れて、父の家に帰る。そして結婚式(婚姻)をあげ祝福される。通常、祝宴(披露宴)は7日間続いた。ついに、二人は一緒に住み1つとなる。

 

 

ガリラヤの結婚の霊的解釈〜(キリストと教会の関係)

それでは、これをキリストと教会という関係に置き換えて見てみましょう。

 

1.      イエスは地上に花嫁を探すために来られた。

2.      イエスは地上生活において結婚しなかった。

3.      なぜなら、教会がキリストの花嫁だから。

4.      イエスは花嫁料として十字架で血を流し、罪の代価を払った。

5.      最後の晩餐、過越の祭の食事でのワインは、一体となる「血の契約」。

6.      血の契約の盃を受けるか、受けないかは本人次第。キリストを救い主として信じるかどうかは私たちの選択にかかる。信じる時に婚約成立。

7.      イエスは十字架の御業を終え、復活し、天に戻られた。地上を離れた。

8.      今、キリストの花嫁である教会は、婚約状態ではあるが、物理的にキリストと同居してはいない。

9.      キリストは天で住まいを用意している。地では教会は結婚式に備え、清められるプロセス(聖化の過程)にいる。もう他の偶像に心奪われることはできない。

10.人の子の到来(携挙)の日時は、御父だけが知っている。(マタイ24:36)その時が来ると、花嫁を迎えに、キリストは天から下って来る。「夜中の盗人」のように来る!当時のガリラヤでは文字通り、夜中に来た。

11.携挙の詳細はIテサロニケ4:16−17にある。

 

すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 

花婿が途中まで来られるように、キリストも空中まで来られる。ラッパが鳴る。花嫁が台に担がれて運ばれたように、私たちも地上から「引き上げられ」キリストのおられる空中まで運ばれる。「引き上げられ」(ギリシア語でハルパゾー)は「引っこ抜く」を意味する。そして、天(父の家)に連れていかれる。

 

10。その後、花嫁の家(地上)には戻らず、天の父の家に行く。


11。そして、天にてキリストと教会の結婚式が行われる。

           (黙示19:7−8)


12。黙示録19:9の披露宴(婚宴)は、サタンの邪魔のない、キリストと教会の蜜月期間祝いの期間、すなわち、千年王国のことと思われる。


13。新天新地では教会は単なる花嫁ではなく、「子羊の」(黙示21:9)と呼ばれている。新天新地が始まる前の時点で、結婚式が行われるという事だ。

 

これを背景に考えるとヨハネ14:2−3が見えてきます。

 

わたしの父の家(天)には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたし(花婿)が行って、あなたがた(花嫁)に場所を用意したら、また来て(再臨)、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。 (地上には戻らない)

 

主を待ち望む生き方

最近は聖書の超自然的な事象(いわゆるトンデモ話)を削除する傾向があるようです。しかし、私達は、弟子達が信じたように、信じるべきです。イエス様自身「わたしは来る」と約束されたのです。パウロもペテロも明確にキリストの再臨を語っているのです。ですから、大胆に、はっきりと「再臨、携挙」について語るべきなのではないでしょうか。終末時には「再臨」の教理は侮られるのです。聖書はこう言って警告しています。

 

まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。                   (IIテサロニケ2:3)

 

まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」   

                         (Iペテロ3:3—4)

 

聖書は背教が起こると言っています。今日、その通りになって来ています。真の信仰者は常に「レムナント=残されたもの」であり、それは常に少数派なのです。イスラエルがバアル礼拝に走った時代、神は「バアルに膝をかがめぬ7000人を残している」と約束されました。私たちはシンプルに聖書の言葉を信じ、聖書が言っている通りに、主のお出でを、待ち望んで行きましょう。

 

あなたがたに場所を用意したら、「また来て」、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

 

参考資料 

「御怒りの前に」

https://rumble.com/v1emb1h-85021541.html

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com