2022年12月15日木曜日

捕囚としての生き方(3)〜異教徒の中で生活する

 

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イスラエルの民(神の民)は、捕囚時、異教のバビロニア帝国での生活を強いられた。バビロンはもともとニムロデ帝国があり、悪名高い「バベルの塔」が建てられたところだ。「神の民」が「異教のセンター」に置かれたのだ。世の終わりには「獣」と言われる反キリストが現れ、バビロン(現在のイラク)が世界支配のセンターとなる。その悪の帝国の準備は着々と進められている。私達、クリスチャン(神の民)は、現代のバビロンでの捕囚生活を強いられている。イエス・キリストを救い主として崇めない文化の中で暮らしている。それどころか「この世の神」であるサタンが空中を支配している世界に生きている。クリスチャンの価値観とは相対する世俗の価値観の中で生活している。その葛藤の中で、どう生きればいいのだろうか。希望はあるのだろうか。

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現代の預言者として

旧約の王朝時代には王の役割(政治)と預言者(宗教)の役割が分かれていた。真の預言者は憚らず王に神の御心を伝えた。残念ながら、南北朝時代には多くの王は預言者の声に聞かなかった。ますます偶像礼拝に陥っていった。しかし、忠実な預言者たちは使命を全うした。革命は起こさないが、荒野での「声」となった。教会が政治をコントロールするのではなく、預言者の声としてメッセージを発し続けるのだ。来るべき王であるキリストを宣言し、聖書的価値観を発信していく。そして為政者のために祈る。(Iテモテ2:1)来るべき「お方」は究極の「王」であり「預言者」だ。

 

教会が政治である

「舟の右側」(2022年12月号)に掲載されたフェリス女学院大学教員の徳田信氏の「現代神学に学ぶ教会形成」という記事の中で「教会が政治である」という主張をしておられ、大変、興味深く思ったので、少し引用しよう。

 

「ヨーダーによると、新しい共同体としての教会が存在するに至ったこと自体が、宣言されるべき福音の使信です。・・・・・なぜなら福音それ自体に社会的使信が明確に含まれているからです。教会という新しい社会的現実こそ歴史を動かし、新しい文化を広く生じさせるのであって、その逆ではありません。もし民族や文化間を含め、人々の和解が生じないのなら、福音の真理をそこに認めることはできないのです。すでに存在する新しい社会的現実に参与すること、それが洗礼という政治的行為の中心的意味です。」

 

ある家庭集会に証に行った時、一人のノンクリスチャンの方が「こんな世界があるんですねえ〜」と感動しておられた。そう「こんな世界」。この世とは違う世界。いじめも中傷も、差別も見下されることもない世界。営業成績や、生産性で判断されるのではなく、お互いの「存在」を喜び合う世界。エクレシアにはそれがある。そういうコミュニティが、この社会に現実に存在する自体が「政治=社会変革」であると言っている訳だ。政治運動に参加しなくても、エクレシアへの参与で、すでに来るべき理想の社会をデモンストレートしているのだ。

アメリカ人、日本人、韓国人、中国人、ロシア人、ウクライナ人が1つとなってキリストを礼拝している姿は、もう「政治」であり、「革命」なのではないだろうか。

 

異教徒の中で生活する

同時に、もう一度思い出してみよう。ダニエルは役人として通常はバビロンに仕えていた。バビロンの社会システムの中で「神の民」は生活していたのだ。愛を持って人々に、そして社会に仕えることは大きな「証」だ。神の御心はユダヤ人(神の民)が、異教の国(バビロン)で「祝福」となることだった。

 

イエスは「宮清め」はしたが、社会的革命や社会変革をしなかった。弟子たちにヘロデやピラトの暗殺なども指示しなかった。パウロも再臨を待望しつつも落ち着いた生活をするように勧めている。

 

そのような人たちに、主イエス・キリストによって命じ、勧めます。落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。兄弟たち、あなたがたは、たゆまず良い働きをしなさい。  (IIテサロニケ3:12−13

 

イエスご自身も今の時代、苦難の中で勇気を持つよう勧めておられる。

 

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに 

 世に勝ちました。」    (ヨハネ16:33)

 

邪悪な世界であることを認識しつつ、(Iテモテ3:1)今は、その中で生きることが勧められている。

 

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。  

                 (ピリピ2:15−16)

 

捕囚の民が70年の終わる頃、不思議な神の介入でパレスチナの地に帰還したように、現代のバビロンに捕囚状態にされている我々も、いつまでここにいるのではない。万物の改まる時が来る。回復の時が来る。究極の「グレートリセット=世直し」はキリストが再臨時に行う。

 

そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。このイエスは、神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

          (使徒3:20−21)

 

万物が改まる、その日まで、私達はひたすら「神を愛し」、「人を愛し」、「キリストの弟子」を作り、天に召されるまで淡々と地上で「生活」し、この地の「祝福」となる。

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

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