2023年3月30日木曜日

神はエモい方

 

心震わされる聖書箇所

エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができるだろうか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができるだろうか。どうしてあなたをアデマのように引き渡すことができるだろうか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができるだろうか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。 (ホセア 11:8)

 

ここを読むとこちらの心が熱くなってくるのです。神のお気持ちが伝わり、震えてくるのです。ここでは、イスラエルに対しての神の心情が吐露されています。創造者、全能者なる神が、「心を沸き返らせ」、「胸を熱く」しているのです!

 

愛してやまないご自分の民であるイスラエルが偶像に走って行く時、嫉妬さえする神なのです。このホセア書では、イスラエルを他の男に走っていく不倫の女として描いています。それでもあきらめることができない心情を描いているのです。

 

神は鎮座まします、無表情な方ではないのです。悟りすました方ではないのです。憐れみで「心を震わせる」ことができるお方なのです。神は単なるフォース(宇宙の力)ではないのです。言ってみれば、「ご人格」を持っておられるのです。

 

人は神の似姿に造られた

聖書には神が人間的に表現される箇所が多々あります。例えば、「神が悔やまれた。」という表現。全知全能の神が「悔やむ」ことは、本来あり得ないのです。しかし、人間に分かるように、人間らしい表現を使っているのだと解釈されます。それでは、先ほどの箇所も人間に分かるように、表現しただけなのでしょか?本当は、神は心を熱くすることなどないのに、人間的に表現しただけなのでしょうか。最近、私は逆なのではないかと考えるようになりました。

 

「人は神の似姿に造られた。」(創世記1:26−27)とあります。人が知・情・意を持つのは、神がそれらを持っておられるからです。人が喜怒哀楽を表現するなら、神がしないと考える方がおかしいのではないでしょうか。人が神のコピーであるなら、感情表現の元は神にあるのです。実際、神は喜び、怒り、悲しみ、楽しまれる方。そういった表現が聖書には出てくるのです。神を擬人化したのではなく、神はそういう方であり、人が神をコピーしているのです。

 

憐れまれるキリストのお心

では、新約からキリストのお心を見てみましょう。

 

また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。  (マタイ9:36)

 

ここでの「深くあわれまれた」は直訳すると「はらわたが揺り動かされる」という意味です。ホセア 書にある「あわれみで胸が熱くなっている」と同じですね。これが私たちの神なのです。こういうお方なのです。

 

また、死がラザロを支配している状態を見て、

 

霊に憤りを覚え、心を騒がせて、「彼をどこに置きましたか」と言われた。・・・イエスは涙を流された。(ヨハネ11:33−35)

 

とあります。神が「心を騒がせる」?しかも、「涙を流される」? はい、イエスはそういうお方なのです。涙する神。そんな神がいるでしょうか?

 

悲しまれる聖霊

神の聖霊を悲しませてはいけません。(エペソ4:30)

 

聖霊もご人格を持っておられるので、人に語ったり、人を助けたり、人の罪を悲しんだりなさいます。しかし、きわめつけはこれです。

 

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。(ローマ8:26)

 

聖霊は「うめく」のです。そのお心はいかに?「ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださる」というのです。なんという事でしょう。これほどまでに私たちの事を思い、うめき、とりなしてくださるのです。

 

放蕩息子の父(父なる神)はボロボロになって帰ってきた放蕩息子を「大喜び」して迎えました。ここにも失われた魂がご自身の元に戻ってくる時の神の「感情のほとばしり」を見ることができます。「仕方がないから迎えてやろう」ではないのです。

 

三位一体の神はエモい神

つまりは三位一体の神はエモい神だということです。大変、emotionalな方なのです。神の感情が表現されることはとても大事です。上記の放蕩息子の話で分かるように、神は「神学的」に仕方ないから「罪人」の私を愛して救ったのではないのです。「神の子供」の資格を無表情で下さったのではないのです。よく、ボディランゲージが大事と言います。言葉で伝わるのは30%、ボティランゲージで伝わるのが70%と言います。単に言葉で「ありがとう」と言われるのと、涙を流して、手を握って、声を震わせ「ありがとう」と言われるのでは大違いですね。放蕩息子の父は息子をハグしてキスして迎えたのです。私たちは「神の子供」のステイタスだけを機械的に頂いたのではありません。「アバ=お父ちゃん」と呼べる父との「関係」を頂いたのです。もう一度言います。神の感情すなわち、お心を知ることは大事です。

 

あなたの神、主はあなたのただ中にあって、救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる(ゼパニヤ3:17)

 

分かりますか、神のお心? 神は神学的に仕方ないから、あなたを愛しているのではないのです。あなたのことを「喜んで」いるのです。あなたの存在が嬉しいのです。あまりに嬉しくて、「歌って」しまうほどにです。分かりますか?

神の感情。あなたのことを「少し」は喜んでくれていますか?いいえ、「大いに喜んで」います。きっと神様が目の前に現れたら「満面の笑顔」でしょうね。そして、ハグしてキスして「愛してよ」と声をかけてくださるでしょう。

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

2023年3月23日木曜日

オーガニックチャーチの誤解


教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ1:23)

 

ここから教会の本質を模索するため、制度的教会、組織的教会から離れて、いわゆるオーガニックチャーチを求める人達がいます。それは正しい方向性だと思いますが、何事でも極端に行き過ぎる事もあります。大事なことは聖書的であるという事です。

 

完全に「フラット」という訳ではない

米国のオーガニックチャーチの推進者、フランク・バイオラの著作を読むと、イエス・キリストだけが教会の頭であり、エクレシアメンバーは完全にフラットという印象を受けます。彼の著作には大変影響を受けましたが、同意できない点もあります。バイオラは、霊的に成熟した人が若いクリスチャンを助けるようなSpiritual Accountability (霊的にチェックし合う関係)を否定するし、賛美リーダーの存在すら否定するのです。しかし、聖書を読んでみると、長老、監督という教会のリーダーシップの役が明記されており、それらの役を任命するようにパウロは勧めているし、その資格についても書かれているのです。(Iテモテ3章、テトス1章)

 

「聖霊のみによって導かれる」は、聞こえはいいのですが、人の集まりにはリーダー的存在は必要です。ただ、そのリーダーはサーバントリーダー(仕える僕)でなければならないのは言うまでもありません。特に日本のコンテキストでは、世話人がいないと動かないようです。

 

第一世紀の教会が理想という訳でもない

確かに、313年のミラノ勅令でキリスト教が公認宗教になって以来、(特にコンスタンチン皇帝によって)純粋な信仰形態がディフォルメされていったことは事実です。しかし、パウロの時代の教会でも、コリントの教会のように「問題のデパート」というような教会もあったのは事実です。黙示録2章—3章の7つの教会を見ても、主キリストから「お褒めの言葉」と共に「お叱りの言葉」も頂いていますね。単純に第1世紀の教会だからいいという訳ではないのです。聖霊に導かれつつ進んではいましたが、信徒たちは罪を犯すし、教会運営も試行錯誤でした。実際、使徒6章のような問題も生じていたのです。初代教会に学ぶべきところは大きいです。しかし、初代教会といえども、完全な教会ではなかったのです。

 

初代教会をマネしなければならない訳ではない

教会はペンテコステ(使徒2章)の日に始まったと言われます。誕生したのはエルサレムであり、最初の信徒たちは12弟子を含め、基本、ユダヤ人でした。

当時の問題はユダヤ教(律法主義)との葛藤であり、迫害はまずユダヤ人から始まったのです。このような状況と今の日本とは当然、環境が違います。また使徒2章に見られる「原始共産主義=私物を持たない」的な生活を現代に適応することもできません。聖書に書いてあるからといって「聖なる口づけをもって挨拶」(Iコリント16:20)を実践している教会は無いでしょう。また礼拝に参加する女性が被り物をしている(Iコリント11:6)教会も少ないでしょう。慎重に当時の文化的なものと聖書的命令とを見極める必要があります。

 

名前を変えればいい訳ではない

いくら牧師を「牧仕」に言い換えても、「人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マタイ20:28)というキリストのマインドセットがないなら意味がないのは当然です。場所を家に移しても牧師のメッセージ中心の集会なら「ハウスチャーチ」ではなく伝統的な「家庭集会」と何ら変わらないでしょう。オーガニックチャーチと名付ければいい訳ではなく、「本質」があるかどうかなのです。会堂で集まっていても限りなくオーガニックに近い教会もあります。新約で言う「お互いに」を実践するスタイルがあるかどうかが1つの重要な鍵です。牧師のワンマンショーではいけません。

 

以前も書きましたが、特に牧師、宣教師の方々がオーガニックチャーチを始めるときに大事なのは「いかに喋らないか」と言うことです。メッセージする事に慣れているので黙っているのは難しいのです。しかし、「お互いに」教会で大事なことは、いかにメンバーが自主的に積極的に参加するかなのです。これには忍耐と知恵と決意が必要です。ある時、婦人たちがオーガニックチャーチを始めたいというので助けに行ったことがあります。いつものスタイル(分かち合い形式)でバイブルスタディをやろうとしてのですが、その婦人たちはあまりにも「先生」からメッセージを聞くことに慣れていて、自分から喋ってくれませんでした。わたしも新参者でまだ信頼関係が築けてなかったこともあるでしょう。意味ある人間関係を築くには忍耐と時間がかかります。

 

 

義務感はいらないが、献身は必要

オーガニックチャーチでカフェやレストランで会っているとなると、「気楽で気軽な」イメージがあるでしょう。そして、「行きたい時に行けばいいや」的な気持ちになりがちです。しかし、コミットして参加することはメンバーに対しての「愛」なのです。義務感は必要ないですが、キリストの弟子となるにはキリストへの、そしてキリストの体であるエクレシアへの献身は必要です。英語では「コミットメント」と言いますね。メンバーが常に出入りしていたら、そこにコミュニティを築くことは難しいでしょう。TMCエクエシアでは「意味ある人間関係と祈りで深まり、広がるキリスト中心のコミュニティ」を掲げています。意味ある人間関係を築くには、コミットメントを持った関わりが必要になってきます。愛とはコミットメントとも言えます。

 

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執筆者:栗原一芳

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2023年3月16日木曜日

あなたは王になる


イエスが王として来られるのは知っているでしょう。しかし、あなたも王になることをどれだけ理解しているでしょうか?

 

新天新地において王となる

最終的に新天新地において、「神のしもべ達」は神に仕え、同時に「王」として治めることが明記されています。

 

彼らは世よ限りなく王として治める。(黙示録22:5)

 

「彼らは」とは文脈上、「神のしもべ達」で信者の事です。つまり、王はキリストだけではないのです。私たち信者は「王」となるのです。そして、「世よ限りなく」とあり、永遠の秩序であることが分かります。また、諸国の民がいることも明記されており、新天新地はイスラエルだけではないことも分かります。

 

こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都(新エルサレム)に携えてくることになる。(黙示録21:26)

 

 

千年王国で王となる

 

また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。   

                          (黙示録20:4)

 

「彼ら」は、この文脈からは患難期を通って殉教した信者のことであることが分かります。

 

しかし、同時に、

 

この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。 (黙示録20:6)

 

ここでの「彼ら」は「第一の復活」に預かるものであり、第二の死(白い御座の裁きで裁かれる)に会わない者、すなわち全ての信者(聖徒)と考えられます。それは私たちクリスチャンを含んでいるのです。そして、もう1つ明確なのは、地上に成就する千年王国での統治期間は、「千年」という期間限定です。

 

ここで大事なのは、「王となる」というステイタスの話だけではなく、王として「治める」と役割を執行することが書かれている点です。「行政的」な仕事をするのです。そして、治めるためには「治める側」と「治められる側」の人々がいるということです。

 

補完し合う「旧約預言」と「新約預言」

旧約聖書と新約聖書は補完し合っています。特に「ダニエル書」、「エゼキエル書」、「ゼカリヤ書」と「黙示録」は密接な関係があります。というより、これらの旧約預言書なしに、黙示録を正確に理解することはできないし、黙示録なしに、これらの預言を正確に理解することができないのです。

 

例えば、ダニエル12:7の「それは一時と二時と半時(3年半)である。聖なる民の力を打ち砕くことが終わるとき、これらすべてのことが成就する」とありますが、これは黙示録13:5−7と関連しています。「この獣には・・・42ヶ月(3年半)活動する権威が与えられた。・・・獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された。」そして、この獣は7年間の患難期の終わりに再臨するキリストによって滅ぼされ、御国(千年王国)が「成就」するのです。

 

イザヤ書65章−66章は千年王国の記述と思われます。「新しい天と新しい地」という表現が出てきますが、「百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる」(イザヤ65:20)また、「わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく」(イザヤ65:22)とあり、寿命があるのです。永遠の秩序である新天新地とは違う世界であることが分かります。つまり、この地上だということです。なぜ、千年王国には死ぬ者がいるのかは、後で説明します。

 

またエゼキエルの神殿から流れ出る生ける水の描写(エゼキエル47章)は、黙示録20章の千年王国の描写と思われます。「生ける川」の描写は新天新地にも出てきますが、新天新地には神殿がない(黙示録21:22)ので、これは新天新地ではなく、この地上に成就する千年王国であることが分かります。また、「海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。」(エゼキエル47:9)とあり、ここからも、これがこの地上に成就する千年王国であることが分かります。なぜなら、新天新地には海がなく(黙示録21:1)、呪われるものは何もない(黙示録22:3)ので「悪い水」が「良くなる」ことはあり得ないのです。

 

ともあれ、このように旧約預言が、黙示録の預言を補完し、より詳細にわかる手助けをしていることが分かります。

 

ゼカリヤ書から読み解く黙示録

さあ、そしてゼカリヤ書です。旧約最後の書であるマラキ書の1つ手前にある書です。後ろから探すと探しやすいです。特に14章に注目してみましょう。

 

まず「主の日」という表現は主が偶像礼拝や悪を「裁く」日を表わします。2節には「すべての国々を集めてエルサレムを攻めさせる」とあり、これは黙示録16:16「こうして汚れた霊どもは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めた」また、「また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方とその軍勢に戦いを挑むのを見た。」(黙示録19:19)に呼応しており、反キリストとキリスト軍との最終戦、(ゼカリヤ14:3)いわゆる「ハルマゲドンの戦い」の描写です。「すべての国々」が攻めてくるので、国名が限定されている「エゼキエル戦争」(エゼキエル38章)とは違います。ちなみに、「ハルマゲドンの戦い」は諸国が戦い合う世界大戦のことではなく、天と地の戦い、すなわち天から来るキリスト軍と「獣」率いる諸国の反キリスト連合軍との戦いの事です。

 

その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。(ゼカリヤ14:4)

 

キリストの初臨の時、確かにオリーブ山を訪ねてはいますが、このような大地震が起こった記録はないので、これは再臨時であることが分かるのです。すべての聖徒達(すでに天に挙げられていた)も主と共に下ってきます。(ゼカリヤ14:5)キリストは反キリスト軍を滅ぼし、オリーブ山で勝利宣言をされます。反キリストは偽預言者と共に捕らえられ火の池に投げ込まれます。(黙示録19:20)「残りの者達」、つまり獣=反キリストだけではなく、反キリスト軍の軍隊も滅ぼされます。(黙示録19:21)ただし、反キリスト軍が全人類ではないので、全世界の民間人がどうなっているのかは定かではありません。しかし、このような説明もあります。

 

エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る (ゼカリヤ14:16)

 

このような事は人類の歴史上まだ起こったことがありません。従って、これもキリストの地上再臨後の千年王国での出来事である事がわかります。この聖句から分かるのは、ハルマゲドンの戦いの後、「生き残った者」がいるという事。おそらく諸国の民間人でしょう。そして、その者達は、万軍の主である王キリストを礼拝し、仮庵の祭り(千年王国の成就)を祝うためにエルサレムに上ってくるとあります。つまり、心から信じていなくても、強制的にでも王キリストに従わされるという事です。そうしないと雨が降らないという呪いを受けてしまうのです。(ゼカリヤ14:17−18)「千年王国」後のサタンが解放された時、エルサレムに攻め入る反抗的な人々がどこから出てくるのか(黙示録20:7−8)これで、説明がつきます。

 

ハルマゲドンの戦いで、反キリスト軍がエルサレムに攻め入りますが、ユダヤ人の中にも「残される人々」がいるのです。「しかし、残りの民は都から絶ち滅ぼされない。」(ゼカリヤ14:2)患難期に「生き残った」ユダヤ人たち、また「生き残った」諸国の民は、その肉体(朽ちる肉体)のまま千年王国に入ります。それで、千年王国で、自然環境が良くなるので長寿にはなるけれど、死ぬ人はいるのです。これで説明がつきます。私たちクリスチャンは患難期前の携挙の時に、すでに復活の体、朽ちない体に変えられるので、キリストの地上再臨後の千年王国には復活の体で、この地上に戻ってきます。

 

あなたも王になる

千年王国では、もちろんキリストが真の王として世界を治めます。

 

主は地のすべてを治める王となられる。(ゼカリヤ14:9)

 

しかし、黙示録を見ると、同時に私たちもキリストと共に地を治めることが分かってきます。

 

この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。(黙示録20:6)

 

私たちは、王となるだけではなく、「王」として「治める」のです。復活の体を持つ者は「治める側」となり、そうでない民は「治められる側」となるでしょう。諸国の民で「生き残った者」(ゼカリヤ14:16)たちは、直前まで反キリストに従っていた人たちなので、純粋な信仰を持って王なるイエスに仕えている訳ではないでしょう。つまり、生まれ変わって復活の体を持っている訳ではないのです。千年王国では「死ぬ人たち」がいるのです。また結婚して子供を作る人たちもいるのです。これらの人々は「統治される側」となります。

 

信者は復活の体を持っています。御使のようです。復活の体を持つ者は、イエスのように消えたり、瞬間移動したり、壁をすり抜けたりという身体能力もさることながら、脳も劣化せず、神とつながっているゆえの知恵も豊富なので朽ちる肉体の人から見ると超人のようでしょう。イエスも復活時には御使のようになると言っておられます。そして何よりキリストの愛で満たされているので、野望によってではなく、愛を持って統治することが可能となるのです。能力と責任は表裏一体です。「能力」が与えられるということは、それを持って地を治める「責任」もあるということです。千年王国でも新天新地でも「王」として治める「仕事」があるのです。

 

そう、あなたは王となるのです。王として地を治めるのです。今から批判ばかりする「奴隷マインド」ではなく、自分が王ならどうするだろうという、「王様マインド」で過ごしましょう。今の期間は、王の「見習い人」なのですよ。

 

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執筆者:栗原一芳

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2023年3月9日木曜日

この預言の書を封じるな


黙示録はユニークな書

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである(黙示録1:3)

 

聖書66巻、もちろんどれも神の言葉であり、読むものは祝福を受けます。しかし、わざわざ、読む者は「幸いである」と冒頭から記されているのは黙示録だけです。そして、最終章の22章7節で、「幸いである」が繰り返されています。

 

「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」

 

旧約には「封じられた」メッセージがあります。ダニエルに与えられた預言の言葉は「終わりの時まで秘められ、封じられているからだ」とあります。(ダニエル12:9)しかし、ヨハネに与えられた預言の書は「書き記せ」(黙示録1:19)「封じてはならない」(22:10)と言われているのです。その理由は「時が近づいているから」(1:3、22:10)だというのです。終わりの時代に生きている、私達が読まなければならない書なのです。

 

そもそも、この書は「イエス・キリストの黙示」(1:1)なので、「黙示録」と呼ばれていますが、この「黙示」は、実は「覆いを取り除ける=啓示」という意味です。中国語聖書には「啓示録」と正確に訳されているようです。つまり、神が終末時代にどうしても人々に知らせたい内容なので、明らかにされたのです。そして、このタイミングで、この書を読む者は幸いだというのです。

 

しかし、実際、どうでしょう?「黙示録は難しいから」後回しにしようという人が多いのではないでしょうか。神のお心を汲んでください。神は知って欲しいのです。理解して欲しいのです。だから「封じてはならない」と命じられたのです。

 

さらにユニークなのは、この書の改ざん禁止命令が明記されているということです。まず、勝手に追加してはならないという命令です。

 

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。 (22:18)

 

そして、削除禁止命令です。

また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、 その者の受ける分を取り除かれる。 (22:19)

 

このようなことが詳細に明記されている書は他にありません。つまり、書かれている内容を過不足なく、正確に受け取って欲しいという神の願いです。患難期に世界大の裁きがあること、反キリスト(獣)が現れること、キリストの地上再臨があり、サタンは縛られ、千年王国が地上に実現すること、白い御座の裁きがあること。ハデスと死とサタンは火の池に投げ込まれること、新天新地が来ることなどを文字通り受け取らなければならないのです。それをトンデモ話だからと削除するものは聖なる都(新天新地)には入れないのです。

 

黙示録がなかったら・・・

創世記は「初め」の書です。世界の初め、人間の初め、罪の初めが書かれています。聖書66巻の最後の本は黙示録です。ここには、世界がどう終わるのか、サタンはどう処理されるのか、人間はどう回復され、完全なものにされるのかという「結末」が書かれた書です。つまり、黙示録がないと聖書のストーリーは完結しないのです。また旧約預言のピークはイスラエルの回復、すなわち「メシア王国」です。黙示録がないと、それがどう成就されるのか分かりません。旧約のメシア王国預言は千年王国(黙示録20章)にて成就されるのです。これは失われたエデンの園の回復といってもいいかもしれません。そして、神はこの地を回復するだけではなく、さらにバージョンアップした永遠の秩序、「新天新地」をもたらすのです。これは黙示録で、初めて明らかにされた「奥義」です。

 

先ほど見たように「時が近づいているからである。」とあります。つまり、黙示録がないと、その時間軸を読めないのです。詳細に記されている事項を読み解く時に、人類は今、どの時点にいるのかが分かります。例えば、患難時代が始まって7年後にキリストの地上再臨があるのです。反キリスト(獣)の支配は永遠に続くのではありません、反キリストが正体を現してから3年半で、キリストが再臨し、み口の息吹により反キリストを滅ぼされます。黙示録を読むことで、永遠に悪が存在するのではなく、悪が清算されることが分かります。サタンと死が滅ぼされることが分かります。最後がハッピーエンドであることが分かります。そこから逆算して、現在の私達クリスチャンの歩みを見る視点が与えられます。だから忍耐と希望を持って生きることができるのです。

 

結論は再臨

黙示録の最後の21節は祝祷なので、実質、黙示録は以下の20節の言葉で終わっているのです。

 

これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

 

これが結論です。歴史を通して、すべてのクリスチャンの希望はここにあります。主の再臨です。初代教会の挨拶は「マラナタ!」でした。この意味は「主よ、来てください!」です。この挨拶を交わしてお互い励まし合っていたのです。終末論の詳細については意見の違いがあるでしょう。しかし、再臨を否定することは許されません。黙示録だけでなく、新約の書簡で多々述べられているからです。主、ご自身、戻ってこられると約束されました。

                                                                                                                (ヨハネ14:3)


これは明白な神の約束なのです。そして、その時はさらに近づいているのです。

 

そういう訳で、今こそ、黙示録を学ぶ時なのです。そして、読むものは幸いなのです。



 

この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです。

                        (黙示録22:10)

 

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執筆者:栗原一芳

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2023年3月2日木曜日

日本人の死生観

 

死という言葉を使わない日本人

日本人は「死」という言葉を直接使わずに言い回しで表現するという。「息をひきとる」「お迎えが来る」「往生」「永眠」など。

 

 


                 (Abema TVより)

 

癌の宣告など、欧米では正直に言うことが多いが、日本では本人に隠すことが多いという。また「死んだら無になる」と考えている日本人も半分くらいいるようだ。そう考えると楽だからかも知れない。それでも、死はやはり怖いのだろう。そこで根拠なしに「天国に行っている」と言ってみたり、「無」になると考えてみたり。結局は死に直面することから「逃げている」のではないだろうか。「無」になるのだから、今、一瞬一瞬を大事に生きよう。一瞬、「生きている」という経験ができれば、それでいいという実存主義的な考えもある。それもあるだろうが、「無」になるのであれば、人生も結局、虚しいということにならないか。

 

日本人の死生観については、僧侶で作家の玄侑宗久氏の「アミターバ〜無量光明」という小説のご一読をお勧めしたい。小説なので、難しい哲学的な内容が、関西弁のお母さんの口を通して絶妙に語られている。

 

死んだら天国に行く?

日本でコロナが始まった2020年、志村けんさんが亡くなり日本中にショックが走った。昨年(2022年)もエリザベス女王やアントニオ猪木さんなど有名人が亡くなり話題となった。巷で言われるのは「天国にいる〇〇さんが・・・」という表現だ。天国に行っている事が前提となっている。誰でも死んだら無条件に天国に行くものと考えている。やっぱり天国には行きたいのだ。しかし、この世で成功するためには知恵を尽くしてリサーチするのに、死後、天国に行くことは、いつも後回し。こんな大事なテーマなのに、真剣に探求する人が少ないのが現実だろう。

 

やっぱり再会したい

「つなぐ」「黄泉がえり」「今、会いに行きます」「4日間の奇跡」「コーヒーが冷めないうちに」など、自分の愛する人と、あるいは人間関係でもめて解決できなかった人と再会するという筋書きの映画が流行る。人々の関心あるテーマだからだ。やはり、出来るものなら再会したいのだ。言えなかった感謝や赦しの言葉をかけたい。愛する者たちとずっと一緒にいたいのだ。大林監督の「異人たちとの夏」のすき焼きの場面は何度見ても涙が出る。死は愛する者たちを無情に引き裂いてしまう。そうなってくると死は、あってはならないものという思いになる。

 

Plan75の投げかける課題

現代日本社会における「死」を考えさせられる重い内容の映画だ。78歳の主人公(倍賞千恵子)、体は元気なので、ホテル清掃の仕事をやっていたが、契約が切れて職を失う。仕事が無く、収入が無いと、アパートを借りられないと言う現実。しかし、78にもなると採用してくれるところは無い。仕方なく夜間の警備員をやるが、それでは体が持たない。やがてPlan75という政府の提供するプランを知る。これは少子高齢化の日本で、75歳以上のお年寄りには安楽死する選択を与えるというもので、申し込むと相談員によりカウンセリングや自由に使える10万円がもらえる。そのように終活し、死の準備をしてく。主人公も若い女性の相談員との会話に一時的に「生きる意味」を感じてしまうが、契約期間が終わり「相談」も打ち切られる。

 

少子化が進むと、高齢になってから繋がれる子供や孫がいなくなってしまう。また離婚などで関係を失ってしまうケースもあるだろう。この主人公も一人暮らしで、それなりに友人はいるが、家族の絆を失っている。それで、考慮の上、Plan75に登録し、やがてその日が来る。ベッドに横たわりマスクから薬が注入され、無意識状態となっていく。しかし、隣で死にゆく老人を見ながら、死にたくないという思いがむくむくと沸き上がり、起き上がり、施設を脱出してしまう。朝焼けを一人眺めながら「生きている」実感を感じている?シーンで終わる。

 

人間が「生きる」とは物理的、身体的に命が延ばされることではない。この映画を通して感じるのは、「話し相手」や「コミュニティ」が必要なこと、そして、「死を超えた希望」が必要なことだ。クリスチャンには、同じ信仰の仲間がいる、コミュニティがある、死を超えた復活の希望がある。何と幸いかと思わされた。

 

最後の敵である死

この世でいかに成功し、お金持ちになり、有名になっても、それらすべてを置いて、去っていかねばならない。強靭なプロレスラーでも死には勝てない。死が全てを終わらせる。その死の恐怖の奴隷となっている。まさに、死は全ての人を黙らせる、完全無欠の「最終の敵」と言ってもいいだろう。

 

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を  解放するためでした。(ヘブル2:14−15)

 

この死に勝つ方法はないものだろうか? まさにイエスが来られたのは、この聖句にあるように、死の恐怖に一生涯奴隷として繋がれていた人々を解放するためだったのだ。聖書が提示する内容は仰天の希望なのだ。

 

死んでも生きる生き方

イエスは言われた。

 

わたしを信じるものは死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)

 

これはものすごい言葉だ。死がすべてを終わらせるのに、死んでも生きると言われる。完全無欠の死のその上を行く生き方だ。キリストを信じるものは永遠の命を頂く。(ヨハネ3:16)。永遠の命とは時間的に永遠もあるが、質的な意味もある。

 

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。 (ヨハネ17:3)

 

クリスチャンになり、新生し、御霊を頂くと人生の質が変わる。滅びるアダム族の生き方(神の霊に生かされることなく、古い人の力にのみ頼る生き方)からキリスト族(御霊によって生きる新しい人)へ種族変換された。

 

永遠の神、命の源なる神との交わりの中に生きる、もっと言うと神であるキリストの体に属するもの(エクレシア)となるので、すでに永遠の存在になってしまっている。神の命の一部になってしまっている。なので、滅びることがない。(黙示録2:11)やがてキリストにあるものは「朽ちない体」も頂く。すでにエクレシアの一部となっているクリスチャンは、確実に「再会」するし、もう「永遠に一緒」なのだ。

 

あまりにも大切な「永遠の命」はお金では買えない。英語ではPricelessという言葉がある。あまりにも価値があり、お金では買えないとう意味だ。神の子イエスの十字架での犠牲という、あまりにも大きな犠牲が払われ、死の代価が支払われたので、私たちは「信じる」ことで、この「命」を頂ける。信じるだけで頂ける。だから福音。信じる以外に方法はない。

 

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執筆者:栗原一芳

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