2015年9月30日水曜日

「聞かれない祈り?」


 皆さんは祈りについてどんなイメージを持っているでしょうか? 徹夜祈祷、断食祈祷なんていうのもありますね。一生懸命お願いしているイメージではないでしょうか?ある人は、祈らなくては・・と祈り課題のリストを義務として祈っているかもしれません。

ある大会の分科会で「祈り」セミナーに出ました。その先生はセミナーの初っぱな、「神の声を聞いた事がありますか?一人ずつ、その体験を話してください」と言いました。ちょっとびっくりしました。そして、皆の話を聞いた後に、「祈りは聞く事です。」と言われたことが印象に残っています。

ダマスコ途上のパウロのように直接、神の声を聞いた人もいるし、印象として思いが来る場合もあでしょう。「日本の宣教に召された」と、日本に来る宣教師はある意味で神の声を聞いてやってきたのだと思います。

祈りは双方向ですね。祈りは本質的には神との交わり/コミュニケーションのことと言えるでしょう。キャッチボールなので神の声を聞き、神に申し上げるという双方向です。

それは信頼の中でかわされる会話です。信仰の関係は恋愛関係に例えるとよくわかります。恋人同士はお互いに話したいし、相手の言葉を聞きたいのです。そうやって愛を確かめます。神との愛の確認をするんです。

この祈りという行為には通常以下の4つの要素があります。(順番も大事。)


A: Adoration  神を慕うこと、礼拝や賛美を捧げる事
       まず賛美。神の大きさを思い起こす。神がどんな方か?

C: Confession  罪の告白をすること。神とのパイプをクリーン
T: Thanksgiving  感謝をささげる
S: Supplication: お願い


Adorationには声に出す賛美もありますが、静かに神を思いめぐらすことも含まれます。カトリックは瞑想を大事にしますね。プロテスタントももっと「黙想=メディテーション」を礼拝に入れた方がいいと思います。神を待ち望む姿勢は大事です。

そう待ち望むのです。多くの場合、玄関ベルを押して神様が出て来る前に玄関を去ってしまいます。本来礼拝はゆっくり神とお会いする時ですね。しかし、礼拝がプログラム化する危険があります。次から次へプログラムが目白押しで、プログラムを「無事終える」ことで安心してしまうような。でも、礼拝は本来、何か起る場所なのです。神に遭遇する場なのです。神が語る場なのです。神に出会い、神に取り扱われる場なのです。

さて、すぐに聞かれない祈りをどう考えたらいいのでしょう。ヨハネ5:1から38年間病に臥せっていた人の話が出てきます。あの池の周りには大勢の病人がいたのです。ユダヤの神殿隣接の回廊です。多くは神を信じていた人でしょう。当然、癒しを祈ったでしょう。祈っても、祈っても、癒されなかった多くの人がいた訳です。三浦綾子さんは13年カリエスでベッドに寝たままでした。星野富弘さん下半身麻痺で寝たきりとなりました。当然、彼らも癒しを祈ったでしょう。祈り続けたでしょう。

三浦さんも星野さんも、すぐに癒されない中で、恐らく彼らは沢山、神と会話したでしょう(文句も含めて)。沢山祈ったのです。神と交わったのです。時に文句、神への非難も。それさえも含めて神との会話がなされました。そして、神はそれを拒んでおられないのです。ですから、何でも祈ればいいのです。何でも話せばいいのです。祈りは神との会話です。ハワイのホープチャペルのラルフモア牧師は、「無責任に祈りなさい!」と言います。祈りに応えるのは私たちの責任ではありません。私たちはただ問題を神にもっていくだけです。祈りが会話であり、交わりが祈りの本質であれば、ある意味で「祈りの目的」は達せられているのです。

「お願い」は祈りの中の1つの要素にしかすぎません。祈り=お願い ではないのです。そこだけ取り出して、祈りが聞かれる、聞かれないという論争はあまり意味がありません。神との関係はどうなっていますか?が正しい質問です。実は賜物、いやし、問題解決より、神ご自身を求めて行くことが祈りの本質であり、神が喜ばれる事です。なぜなら問題は解決されても、また次の問題が来るからです。地上にいる限り問題は無くならないでしょう。

バンクーバーのリージェントカレッジのジェームス・ヒューストン教授も、「祈りは、神との交わりである。」と言っています。そして、その交わりを妨げるものとして、以下の3つを挙げています。

1.心の傷  親との関係など、父なる神のイメージがゆがむ。
2.行動主義  心の傷をかくすため、自分の弱さを直視しないため行動し   
       てしまう。神より先に動いてしまう。自分でやってしまう。
3.神への不信 神の無条件の愛を信じられない。「何かしないと神に受け入
       れられない。」と思っている。神の子供の特権を忘れている。

聖書は言っています。
主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
                           (詩編37:4)

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」と続きます。


このように、神との関係が祈りの答えに関連していることが分かります。神に信頼している時、神が成し遂げてくださるのです。神があなたの人生に責任もってくださいます。

ある意味では聞かれない祈りを通して神との交わりが深まることもあります。もちろん神は知っておられるのです。無視していないのです。

(6節、彼が伏せっているのを見、それが、もう長い間のことなのかを知って、彼に言われた。よくなりたいか?)

彼が伏せっているのを「見」、長い間のことなのかを「知って」その上で、語りかけたのです。ときどき、長いトンネルに入って「もう出られないのではないか。」と思うこともあります。しかし、神の目の前で起こらないことは何一つ無いのです。

あなたの髪の毛の数さえ知っておられる神は、あなたの問題も課題も、祈りの言葉に上る前から知っておられます。神の目の前で起っていない問題は無いからです。そして、神は、あなたのことを心配して(ケア)おられるのです。


「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第一ペテロ5:7)


何よりも神を信頼することが大事なのです。神は御子キリストさえ私達に下さったのです。それ以上何を惜しまれるでしょうか?正直にあなたの思いをなんでも神にぶつけてください。神は受け止めてくださいます。信頼関係がある友達には何でも言えますよね。ただ、何度も言うように、これは神との「関係」の話ですから、

繰り返しますが、あなたが祈る時、神は聞いています。無視している訳ではありません。でも時に答えをくださるまでに時間がかかる時があります。私が銀座を歩きながら都心でエクレシアを始めたいと主に願ってから、実現するまで10年かかりました。しかし、それは実現したのです。

では、祈りが妨げられる要因とは何でしょうか?動機が大事なのです。

   悪い動機で求める(ヤコブ4:3)自己中心の祈りは聞かれない。

   告白していない罪がある (第一ヨハネ1:10)
 兄弟を赦していない  (マタイ5:23−24)


こういった場合には祈り(神との関係)が妨げられます。5:14「もう罪を犯してはなりません」 折々罪と病が関係しているのです。特に「憎しみ」「赦せない心」です。この男も誰かを38年間赦せない思いがあったのかも知れません。あるいは、「直りたくない」直らないことによるメリットが直ることより大きかったのかも知れません。7節は、変な答えですね。すぐに「はい、直りたいです」ではないのです。病気であることで「働かなくていい」「ケアされ、注目しつづけられる」からなのか、家族が食事を運んでいたか?分かりませんが・・「してくれない病」という「病気」だったのかも知れません?いずれにしても主は「罪があった」と言われたのです。


それでも聞かれない願い?
あの大使徒パウロには祈っても取り除かれない「肉体の棘」があったというのです。(第二コリント12:7−9)あのパウロ大先生でさえ、「棘」が取り除かれない、つまり祈りが聞かれないという状況があったのです。しかし、神は「わたしの恵みはあなたに十分です。」とパウロに言われたのです。つまり、以下の3つのケースがあるのです。

1.祈って状況が変わる(祈りが聞かれる)あるいは、願ったものがそのまま与えられる(奇跡)
2.状況に対応する力(恵み)が与えられる。
3.祈った人が変えられる(忍耐など品性が練られる、神の視点が与えられるなど)

星野富弘、レーナマリア 片腕のソウルサーファー。彼らは、非常な困難の中を通りましたが、今は前向きに主と共に、笑顔さえ見せて、主のために歩んでいるのです。

祈りは神との関係なので、機械的なパターン(方程式)はありません。そして神の為さる事は不思議なのです。ワンパターンではありません。

ペテロは獄中から救い出され、ステパノは石打で死んだのです。どっちが信仰深かったという問題ではありません。神がそうお決めになったのです。日本のキリシタンもそうですが、多くの場合、迫害の中の人は助け出されず、殉教しています。

しかし、聖書は言っています。「神を愛する者には神はすべての事を働かせて益としてくださるのです。」(ローマ8:28)すべてを働かせて益とする。それは必ずしも自分中心の欲を満たす意味での「益」ではなく、神のご計画の中での、神の「益」という意味です。

神の思いは私達の思いより高いのです。繰り返しになりますが、祈りの目的が単に、問題の解決なら、また問題は来るのです。問題のただ中で、神が共に居る。それを確認するのが祈りです。そして主の答えはいつも

「わたしはあなたと共にいる」


人生の次のステージへ
5:15 この病を癒された人は、人々にイエスの事を伝え始めました。ただ、伏して自分の事だけ考えていた人が立ち上がり、他の人に祝福を分つ者と成ったのです。今までとは違う生活へ移行したのです。違うライフステージへ進んだのです。そして、神に働く余地を与えるなら、すべての人に転機があるのです。

もうステージに立てないのか?お役にたてないのか?寝たきりで、終わりなのか?引退なのか?星野さんはそう思ったでしょう。でも神の時があるのです。例え肉体的に癒されなくても魂がよみがえり、リフレッシュされ、活き活きとした人生のステージに入るのです。イエスを信じる人生は「そのままでは終わらない人生」なのです。That is not the end!


最後に御言葉に聞いてください。

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)

「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
                        (マタイ28:20)

「わたしはあなたがたのために建てている計画をよく知っているからだ。それは、わざわいではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ。」(エレ20:11)

---------------------------------------------------

祈りと意味ある人間関係で広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ(TMC)
japantmc@gmail.com

ブログ執筆者:栗原

2015年9月22日火曜日

日本の大課題—貧困!?



ショッキングな事だが、今、この日本で6人に1人の子供が貧困だという。さらに現在、一億2700万の人口が2100年には4600万人(半分以下)になってしまう。ただでさえ、少子化で少ない子供が危機に面している。子供だけではない。超高齢化社会の中で、「貧困老人」「下流老人」という言葉も出てきている。(「下流老人」藤田孝典 朝日新書 帯には「年収400万でも将来、生活保護レベルの暮らしに!?—忍び寄る「老後崩壊」の足音。日本人の9割は他人事ではない!」とある)年金があまりに少なく、一人暮らしで高い家賃を払い続け、病気をすれば医療費がかさむ。さらに子供がブラッック企業で鬱になったり、ひきこもったりで、働かないまま同居するケースも増えている。そして、長生きするほどに預金は減っていく。悠長な老後生活はそこには無い。

そして、貧困女子と貧困シングルマザー。母子家庭の半分は年収200万円代だという。これには、DVや精神障害などが関連している。格差社会の中で底辺層はさらに増えるだろう。

明治時代は福祉の暗黒時代と言われ、富国強兵に突っ走る中、弱者への救済は後回しにされていた。そういう必要に目を向け、行動を起こしたのはクリスチャンだったのだ。現在のような養護施設が出来たのは明治の中頃。石井十次(1865−1914)キリスト教社会事業家で、孤児院の創設者)が明治20年に始めた岡山孤児院が皮切り。以来、幸いにも福祉といえばキリスト教というイメージができてきた。日本のキリスト教界は来たるべき高齢者社会問題に先駆けて老人養護施設「キングスガーデン」を設立し運営してきた。

経済大国と言われる日本の大問題が貧困といっても結びつかないかも知れない。しかし、あの池上彰氏が、「日本の大課題子供の貧困」社会的養護の現場から考える。」(ちくま新書)という本を出している。現在は親が物理的に(病気など)養育できないケースより、親の精神的問題や虐待によるケースが増えているという。

   親が物理的に養育できないケース 3割
   虐待など精神的課題があるケース 6割
   養育放棄            1割



全国で所在不明子供が5000人。多くは家庭内暴力の夫から他の町へ逃れた母子が夫に居場所を知られないように転入届をしないというケース。住所が無ければ職にもつけず、手っ取り早い風俗へと流れてゆく。貧困と幼児虐待は強い相関関係にあるようだ。池上氏は多重逆境という言葉を使っている。

A養護施設の場合、4分の3が親が離婚のケース。4−5割の母親が精神疾患を抱えている。子供は父親不明で父親を知らない。親子共に社会的に孤立し、父親のDVから逃れるため, 引っ越しを繰り返し、町々を転々とする。シングルマザーが働くために子供は預けられる。ぎりぎりの生活の中で、少しでも安い保育所を探すことになる。ネットで調べた安価な保育所で子供が殺害されてしまった事件もあった。「そんなところに預けて!」と批判することは容易いが、母親の状況をどれほどわかっているのだろうか?母親が精神的病気のケースも多く、親も低学歴なので、子供もスタート地点からハンディを負う。この背景で、社会性やコミュニケーション能力が低下。当然、将来の進学、就職に不利な環境が作られてゆく。これを自己責任論だけで片ずけられるのだろうか?


「最貧困女子」鈴木大著(幻冬舎新書)によると、貧困女子には3つの縁が切れているという。つまり・・

1.家族(DVやネグレクトで、家庭の体を為していない)
2.地域社会(差別の目、もともと人間関係が苦手、トラブルメーカー)男性ホームレスの場合も経済的貧困だけでなく、コミュニティの貧困が問題。
3.制度(補導され、自宅に戻される=解決にならない)

さらに障害を持っているケースも多い。

1.メンタル(精神的に病んでいる)
2.知的障害
3.発達障害 (アスペルガーや多動症)

もともと社会で「生きにくい」人たちなのだ。貧困シングルマザーのメンタリティはこうなっている。

1.            DVの夫からは養育費は取れない。訴えて投獄されても出て来てからの 
  復讐が怖い。
2.            民生委員は地域の目、噂の発信地。知られたくない。
3.            生活保護受給者は差別の目で見られる。
4.            仕事ない、給料安い。子供をかかえて生活できない。
5.            介護の仕事は重労働
6.            生活保護、子持ち、定収入は再婚の妨げ


子供の心理状態はどうなるのだろうか。離婚による親からの離別や引っ越しによる友達との離別を繰り返すが、その悲しみをまとめていく暇もなく、(喪失したものや人を悲しむ感覚をまとめていく作業ができない。)次の離別が来る。第一ネグレクトが、第二ネグレクト(構われなかった自分が今度、自分をも構わなくなるーどうにでもなれ、場当たり的低いセルフイメージ)が起こる。

つまり、単なる貧困ではなく、このように恒常的なコミュニティの貧困が起こっているのだ。世界への敵対意識あるいは、強度の防衛機能。遮断。引きこもり。社会不適応。ついには自分について考えることをやめてしまうのだろう。

東京都内の児童相談書でのケースのうち、親の精神疾患が7割だという。以上のような環境で子供たちは「生活の連続性の喪失」を味わう。思い出を親と分かち合えない。自分のアイデンディディが作り難い。継続して住むことのできる養護施設は「共」に生きることで、「思い出の共有つくり」を通し「生活の連続性の担い手」になるのだそうだ。あるいは養子縁組や里親制度で「生活の連続性」を提供することもできる。


まずは、「居場所」つくり、安定。そして自分を考える機能の回復。「自分が変われる可能性を知る体験」、「ダメな自分からの脱却」を助けられる環境を提供する必要がある。家庭から逃走した女子が必要なのは、住む場所、食事、携帯だという。間違ってはいてもセックスワークはこれらを提供してくれるシェルターなのだ。夜の新宿で声をかけてくれるのはセックス産業のスカウトだけだという。クリスチャンの「夜回り隊」ができないだろうか?

子供の貧困、シングルマザーの貧困、そして貧困老人。今までも政府が手が回らない部分に教会やNPOが手を差し伸べてきた。これからの日本社会、ますます、「良き業共同体」としての教会、「宣教」ではなく、「宣証」が求められるのではないか? インタビューした女子達からは「学童が夜も使えたら。」「家庭内暴力があったときの逃げ場があったら」「夕食が食べれたら」という声があったそうだ。彼らが必要なのは、「居場所」。安全で詮索されない「住む場所」と「愛してくれる人」なのだ。

私が参加している土曜朝の代々木公園ホームレス礼拝も「居場所」を提供している。そこでは普段、誰とも話さない年配の男性達が口を開く。「ここに来ると皆、笑顔で暖かく迎えてくれる。」と何かを感じている。先週、一人の男性が受洗した。


「父なる神の御前で、きよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」
                          (ヤコブ1:27)

——————————————————————————— 

意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロコミュニティ(TMC
japantmc@gmail.com (栗原)