2014年10月29日水曜日

God’s not Dead



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神は死んだのか Gods Not Dead
無神論の講義を取ってしまったジョシュ。最初の授業で、ラディソン教授は「神は死んだ」と書くように学生に強要した。ジョシュは、クリスチャンなので書けないと拒否するのだが…。ついに教授は「神がいることを証明しろ」と、ジョシュに命じるのだった。実話をもとに映画化。“神は死んだのか、死んでいないのか”をすべての人に問う作品。
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今年のクリスマスから来年にかけて、クリスチャン映画が目白押し。この作品の他に、「天国は本当にある」、福音書の映画化「The Son of God」それに携挙をテーマにした「レフトビハインド」、「ベンハー」のリメイク版や出エジプト記の「エキソダス」。また「大草原の小さな家」の映画化もされるそうです。NHKのドラマも同志社創立者、新島譲の妻の物語「八重の桜」に続き、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」とクリスチャンものが続いているのも興味深いですね。


今回は特に、私が試写会で見て来た「神は死んだのか?」について書いてみます。まず、このダイレクトなテーマ。ここでの神はキリスト=創造主という前提になっています。その神が存在するのか、しないのか、がテーマの作品。これを一般の配給会社が権利を買い取って一般劇場で上映しようという事実にまず、驚きます。70年代ならともかく、このようなダイレクトなテーマを今日上映するという事意味は何なのだろうか?



東日本大震災直後、セブン銀行の会長はこう語りました。

この大震災は日本の次の生き方を考えなさいと神が与えたチャンスと考えるべきだ。(安斎隆 セブン銀行会長  読売新聞2012年1月18日論点)

確かに、あの時は、神に意識を馳せるチャンスだったのでしょう。残念ながら、震災から4年半も経つと被災地以外では、あの惨事も人々の記憶から薄らいでいくようです。再び、「きのうが来るように、今日が来て、また明日が来る」というルーティンに戻っているような気がします。政府も次の生き方を考えるどころか、いつか来た道を繰り返すような歩みをしているようです。今、再び神を問いかける時期なのかも知れません。


この映画では、クリスチャン学生のジョシュが哲学の授業で「神存在の弁証論」をプレゼンします。よく議論される神存在証明の基礎要素をカバーしています。私なりに要約して説明します。


1.宇宙の起源。
ビッグバン理論は創造論に近づいています。アインシュタインの時代までは、宇宙は不変と思われていました。しかし、相対性理論を押し進めたロジャー・ペンローズとスティーブン・ホーキングは宇宙のはじめの質量ゼロ、エネルギー無限大という特異点(Singular point)を発見しました。また、宇宙は単に出来たのではなく、素晴らしく精巧に出来ているのです。これには偶然ではなく、微調整(find tuning)が必要です。知的存在を起源に考えないとあり得ないのです。さらに詳しく知りたい人は私のブログ「科学が聖書に近づいた」http://blog.livedoor.jp/digjinsei-science/ をご覧下さい。

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)

2.人格の起源。
  クリスチャン哲学者のフランシス・シェーファーが分かり易い説明をして
  います。もし、世界の始めに人格なる神がいなかったとすると・・・
  人格を持った人間=非人格+偶然+時間となります。偶然と時間さえ費や
  せば人格が生まれるのでしょうか? 無神論者でも自分が「非人格=石」
  とは違う人格を持った存在であることは知っています。いや、サルと同等
  扱いされても怒るでしょう。この映画でもプライド高い無神論者の教授は 
  自分の尊厳が傷つけられたことに怒るのです。それ自体、人格を認めてい
  ることになり、人格の起源を説明しなければならなくなります。

3.道徳の起源。
  なぜ、世界は、人身売買、子供売春、子供の虐殺に反対の声をあげるので
  しょうか?なぜ、社会悪や不平等に声を挙げるのでしょうか?精神科医の
  香山リカさんは、その著書「弱者はもう救われないのか?」で、そもそも
  どうして貧しい人々を助けなければならないのか?と疑問を投げかけ、結
  局、神様を考えないと答えは難しいと言っています。善悪を論じること事
  態、「義なる神=善悪の判断基準」があるという仮説に導かれます。ドスト
  エフスキーは、「神が存在しないなら、どんなことでも許される」と語って
  いますが、正に的を得た発言です。


3:11後は、「どうして神がいるならこんな悲惨な事が起るのか?」といった神への疑問も投げかけられました。それも又、神を「意識」する一つの形なのでしょう。この映画の中の無神論教授の無神論も信仰深かった母が祈っても答えられずに死んでいったことへの怒りと憎しみを原因としているのです。そして主人公のクリスチャン学生は「いないはずの相手(神)をどうして憎めるのか?」と切り返します。つまり、「いない」というより、祈りを聞いてくれない神を「神として認めたくない」のです。聖書の神(創造主)を否定してしまうと、愛、希望、信仰、善の基盤を失い、人間として相手の「人権」、「人格」を尊重する基盤を失うことにもなるのです。

聖書は「人は神の似姿に創造された」と言っています。すなわち、神が「知・情・意」を持つように、人間もそれら、すなわち人格を持つものとして造られたということです。無神論者は自分の無神論のごとく生きられなくなるのです。無神論を貫いて生きるためには、あたかも「人権」や「人格」が無いかのように生活しなければならなくなるからです。そのように正直に生きようとすると発狂するか、自殺するしかなくなります。誰でも人は、自分が「石」と違う事くらいわかっているのです。被災地では、ご遺体(死体とは言いません)を大切に扱います。人間の尊厳を認めているからです。

もう一つ、通称無神論者は神がいないというより、神にいて欲しくない場合が多いのです。不倫など、自分の不道徳な生活を非難されたくないゆえに、「神はいない」と都合がいいので、「いないこと」にしてしまうケースです。聖書の神はHoly(聖)、  Righteous(義)  Loving (愛)。この3つのコンビネーションは他の神には無いのです。神は「聖」であり、「義」ですから、不義や汚れを受け入れません。何でも許す好々爺ではありません。しかし、悔い改めた者をどこまでも赦す愛のお方です。宇宙の主は「聖」であり、「義」であり、同時に「愛」なのです。それは、何と安心できることでしょうか。


こう説明すると、何か難しい映画の印象があるでしょうが、実は、教室の弁証論の部分はほんの一部で、教室以外での感動的な人間ドラマが並行して描かれていて映画として楽しめます。ご心配なく。ただ、突っ込みどころも沢山あります。牧師の車のエンジンがかからないシーンが繰り返されますが、よく意味が伝わりません。また、映画では神=イエスキリストという前提で話が進みます。中国人学生が主人公ジョシュのプレゼンを聞いて神の存在を信じるようになるのですが、それが直、イエスを信じるという告白になっているのは、ちょっと唐突な感じがします。アジアや日本では、アニミズム的な神論への反論が別に必要となるのではないでしょうか?ともあれ、普段考えない「神がいるのか、いないのか」というダイレクトなテーマを話し合う善き機会になることは間違いありません。賛成であれ、反対であれ、映画鑑賞後、議論が盛り上がる事、必至です。是非、お友達と見に行ってください。
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映画公式サイト

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意味ある人間関係と祈りで広がるエクレシア
Tokyo Metro Community (TMC)

japantmc@gmail.com (栗原)

2014年10月21日火曜日

「至近距離」と「等身大」



顔と顔を合わせる交わり


「至近距離」と「等身大」これがオーガニックチャーチのキーワードです。大人数の教会に通っても少人数での深い交わりが無いとエクレシアの本質を味わえません。せっかくクリスチャンになって洗礼を受けて群れに加わったのに、友達ができなくて3年で去ってしまう人も多いと聞きます。インターネット上で繋がる機会は増えていますが、それだけに実体(顔を合わせて集まる交わり)が必要になってきています。「この一週間どうしてた?」「祈り課題は?」「あの祈りは聞かれた?」と話し合える交わりです。「どれだけその人が聖書的知識があるかではなく、どれだけ自分に関心を持ってくれている人なのか」が大事と言われます。大先生や聖書学者より、お互いを思いやれる人が必要なのです。東京では5割が一人暮らしだそうです。東京人はプライバシーも大事にしたいでしょう。でも顔を合わせる交わりにも渇いているはずです。かといって韓国式の合宿方式は東京人には合わない気がします。うまい具合にバランスが取れるといいですね。私達は丸の内で毎週水曜日の夜、会っています。そして、他の日でもフェイスグックを通して祈り課題や祈りの答えを分かち合います。

「説教が無いと、正しい教理や聖書解釈を学べないのでは?」と質問が出そうです。それこそ、現代はインターネット上にリソースは沢山あります。使えるツールは使いましょう。しかし、「顔を合わせる」エクレシアは取り替え不能であり、必要不可欠なものであることをしっかり心に留めましょう。


教会は小さいほうがいい?

私が多くを学んだ、ホープチャペルのラルフ・モア牧師は「教会は小さいほうがいい」「小さい教会を沢山つくったほうがいい」と言います。人間、至近距離の交わりができるのは少人数です。「深く」行くためには少人数のほうがいいのです。私達のエクレシアでも週によって全員が来られないことがあります。でも、かえって3名くらいの時のほうが深く突っ込んだ話ができ充実した時が持てたりします。だから人数を沢山集めることには関心がありません。むしろ、小さいエクレシアを都内に沢山つくりたいのです。また、そうすることでリーダーも沢山育ちます。分かち合い方式のバイブルスタディをすれば、専門家がいなくてもできます。ラルフ・モア牧師は日曜説教は30%、週日に信徒が行う「ミニチャーチ」が教会のやっている伝道牧会の70%であるべきだと言っています。どうも多くの教会では日曜説教が90%くらいの割合なのではないでしょうか。何とかこれを逆転できないでしょうか?「日曜クリスチャン」から「週日クリスチャンへ」です。教会内での活動が多くて、地域コミュニティとの接点が無い。これも逆転できないでしょうか?教会(エクレシア)は小さく、ミニストリー(神の国をこの世で広める活動)は大きく。


霊的成長はスモールグループを通して起る

厳密に言うと日曜礼拝という「プログラム」とイエスを中心とした少人数での「交じわり」、すなわちエクレシアとは違います。極端な話、大教会の日曜礼拝に出ているけれど、エクレシアの体験が無いということもあり得ます。それだと実はあまり意味がないし、霊的成長は期待できません。大宣教命令はあくまでも「弟子つくり」命令なのであって、チャーチプランティング命令ではありません。今までの海外からの弟子訓練プログラムは一対一のものが多いですが、日本ではコミュニティの中で弟子訓練するほうが効果的なようです。また、教材中心より人間関係中心(メンタリングスタイル)が効果的です。イエス様は12弟子と生活を共にする中で弟子訓練しました。弟子訓練とは教室でやるものでなく、人とのかかわりの中で行われることなのです。人を愛すること、人に仕えることを体験することなしに、弟子訓練はあり得ないし、霊的成長も無いのです。小グループの至近距離で祈りの答えを体験することで神様への信頼を深めることができます。また、小グループに参加したノンクリスチャンに自分の救いの証を語ることで信仰が強められていきます。日曜日のメッセージを聞くだけでは、知識は増えても、必ずしも信仰が成長するとは言えません。



正直な交わりは等身大

大きい教会のカリスマ牧師の場合、気軽に会って話せないでしょうし、どうしても距離感が出てきます。また組織ピラミッドの頂点に立つ人なので、虚像が描かれ易いのです。エクレシアでは「偉い先生」が一方的にしゃべるという事をしませんので、皆が「等身大」でいられます。そうしないと正直な交わりができなくなります。皆の中に聖霊が住んでいらっしゃいます。お互いの分かち合いを通して沢山教えられます。違う視点が与えられます。時にはノンクリスチャンからのコメントで目が開かれることもあります。イエス様は弟子に教える時に、よく質問されましたね。対話方式です。パウロは人々に語る時、多くの場合「論じた」のです。つまり、パウロは一方的に語るより、「どう思う?」という感じでインターアクティブに論を進めてメッセージをしていたようです。時に自分のことばかり喋るのは自己中心でさえあります。一方的に話さないことは相手への思いやりであり、尊重であり、謙遜を表すことです。相手を通して主が語る言葉に耳を傾けるようにします。人は自分が発言したことは覚えているので、テキスト箇所の聖書のメッセージをより覚えてられるのです。



宗教法人上の教会組織は地上にいる限り、とりあえず必要な型なのかも知れませんが、それイコール霊的エクレシアではありません。別物と考えた方がいいでしょう。エクレシアはあくまで「人々」のことであり、組織や建物ではありません。便宜上、集まれるホールは必要かも知れませんが、教会の本質は「人々」の交わりなのです。あなたにとってどこが「家族」と思える場所ですか?それがあなたのエクレシアです。


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2014年10月14日火曜日

「マージン」



 アメリカのキリスト教界では「マージン」という本が流行ったそうです。「マージン」とは「余白」、「余った時間」とでも訳すのでしょうか? 余った時間やスペースはもったいないとして、埋めてしまいたくなります。でも公園や美術館に行ってホッとするのはスペースを余分にとっているからなのです。ニューヨークにも真ん中にセントラルパークがあって救われていますよね。東京でさえ、代々木公園や新宿御苑など「無駄」なスペースが意図的に残されています。



最近の本は「マージン」を意図的に多めにとって読み易くしていますね。びっしり文字が詰まっていては読む気がしなくなります。主は1週間のうち、「非生産的」な安息日を設けて、守るように命じました。実はこの「非生産的」な時間こそ「生産的」であり、活力を与える時間なのです。のべつ幕無しに仕事をしていては「劣化」してしまいます。特に「クリエイティブ」な仕事をする人は「マージン」が必要なようです。


ネパールでこんな話があります。

日本人の旅行者が山登りのため現地の荷物運び屋を雇った。彼らには慣れた山道なので、ずっと先へ行って見えなくなってしまった。

やがて、旅行者が荷物運びの人夫たちに近づくと、彼らはしゃがみ込んでいる。「さすがに疲れましたかね?」と聞くと、こういう答えが返ってきた。「疲れたんじゃない。あまり早く歩きすぎて・・魂が追いつくのを待っているんです。」と。

私達も魂のキャッチアップが必要ではないでしょうか? 自分自身も30代40代突っ走ってきただけに、今は「マージン」を大事にしようと意識しています。魂にキャッチアップしたいと思っています。ハンドルには「遊び」がないと危険です。あまりキチンと生真面目に働き続けていると、いつかポキンと折れてしまいますよ。



若い時は手帳が予定でいっぱいで真っ黒だと、安心したものです。忙しいと「用いられている」気がします。スケジュールが埋まっていることによって自分は大事な存在なのだと錯覚します。しかし、忙しければ「実」が実るとは限りません。自分に余裕が無いとイライラして批判的になり、他の人の祝福になるのは難しいですね。時に仕事の成果によって神の自分への愛を計ろうとしてしまいます。神が自分のことを愛していると神学的には信じていますが、神が自分のことを「好き」で、自分の存在を歌を歌ってまで「喜んでいる」と本気で思っていますか? では、神が言っていることを聞いてみましょう。


「あなたの神、主はあなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌って、あなたのことを喜ばれる。」(ゼパニヤ 3:17)




そう、「あなたのことを」です。「あなたの仕事の達成」ではありません。是非、意識して手帳に「余白」を作りましょう。自分と向き合い、神様とデートする時間です。先日、私は山に行って一人野外礼拝しました。礼拝といってもプログラムがある訳ではありません。森に座って、目を閉じ、そよ風を肌に感じます。耳をすませて、虫の声を聞きます。そして魂に追いつきます。自分を取り戻します。蜘蛛の巣を見て、その知恵に驚きます。5ミリくらいの青虫が一生懸命前進しているのを見て「頑張ってるなあ」と思います。コスモスを見て純粋に「きれいだなあ」と思います。

 皆さん、これって「礼拝」なんです。教会の長椅子に座っている時だけが礼拝ではありません。神がこの大自然を創造したとき「よかった」と言われました。神の創られた自然に触れて「いいなあ」と心から告白するとき、神と心が同調しているのです。すてきなワーシップの時です。生きる力が湧き出てきます。

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2014年10月8日水曜日

日本文化と福音宣教



 もう10数年ほど前になりますが、フロリダでJapan Culture consultationというワークショップが開かれ、現代日本文化と福音宣教について話し合う機会がありました。日本宣教にかかわる宣教師、私を含め、日本人のクリスチャンワーカーも数名集いました。以下、話し合った内容です。多少、時代的に古いのですが、根本は変わってないような気がします。



福音伝達のさまたげとなっているもの

    1)神理解の欠如         汎神論的、多神論的、母性的神
    2)罪理解の欠如         相対的倫理観
    3)社会的プレッシャ-      仲間外れになりたくない。
    4)西洋のイメ-ジ
    5)宗教の悪いイメ-ジ
    6)浅い知識/低い献身度     3年クリスチャン
    7)祖先崇拝
    8)夫への忠誠心
    9)プライド/物質主義
   10)霊的戦い           サタンの支配
   11)日本の会社          会社が宗教
   12)論理的というより直感的    概念的でなく物語やビジュアルに反応する
                     心に届く福音の伝達が必要。
   13)クリスチャンが喜びある自由な生活をしてない。
   14)ホンネとタテマエ



日本社会では、人々は上の期待、回りの期待に沿うよう外圧によって行動する。

●世間体を気にしてシステムに生きれば→→→安全。皆と同じ。仲間意識。
                     しかし、このまま年をとることの不安。
●そのル-プからESCAPEしたい潜在的願望→→それは自由であるが危険と孤独を伴う。
                       つまり、孤立化への恐れ。


KEY:現在の自分を変身させ新しい自分になりたい願望と、そうすることで仲間はずれになる恐れ。答えは新しくなれて、しかも安全に受け入れられることの保障をすること。

                 つまりはGOD'S LOVE AND ACCEPTANCE.




日本人が価値を置くものと福音の接点


1)子供のような単純さ--他の人のため犠牲を払うこと。これは有無を言わさず説得力
        がある。                             →→キリストの十字架での身代わりの死。

2)何も言わなくてもすべてをわかってくれる。完全な理解は言葉を超越している。               →→神はすべてをご存じ。こころの悩みを知ってくださる。

3)文化のカベ(呪縛)を打ち破る。それには外的要因が必要。日本文化の開化は外発的  
      (ペリ-の来航による文明開化など)
                   →→聖書に触れる。キリストを信じる。

4)何かしたことへの報酬としての仲間に入れてもらえる。それで疲れてしまう。
                   →→キリストにある無償の交わり。

5)変貌したい願望。今の私を変えたい、逃れたい。
                   →→キリストにあって新しくつくられたもの。


適応 それらのニ-ズにあったトラクトや講演会のテ-マを選ぶ。



効果的な伝道方策:日本人が心開く時は
        1)外国にいるとき。海外でクリスチャンになる人も多い。
        2)外国人と交わってるとき。
        3)特別な場所(レストラン、マック、カラオケ、酒場)にいる時。
        4)プライベ-トな時間。一人でいる時間。

これらの時は社会的プレッシャ-から開放されている。期待される日本社会の規範から逃れられている。(旅の恥はかきすて)



あなたは、あなたのミニストリーにどう適用しますか? 例えば・・・

◎適応 

1)国際的な環境の中で福音に触れさせる。学問より、クリスチャンの「生き方」にふれ
       させる。

2)福音を聞いてクリスチャンになった人を仲間外れにしない工夫。コミュニティの必要

3)伝道する際もある決められた同類グル-プ(学生、ビジネスマン、主婦など)に、ク 
       リスチャン2人以上で、接してゆくアプロ-チが、効果的。ムーブメントを起こすには
       、ある程度のクリスチャンの人数(Critical mass)が必要。

4)プライベ-ト空間を用いた伝道。インタ-ネット、通勤電車の中でのコミックブック

5)自然との調和に価値を置く日本人に健康、いやし、創造主なる神、環境保護、動物と
        の触れ合いをテ-マにしたアプロ-チ。

6)期待されているごとく行動するEXTERNALな自分に対して、本当の自分、ホンネの 自分、深  層願望を探し出す心理学的アプロ-チ。職業適正テスト。などなど。



参考になりましたか? コメントお待ちしています。
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意味ある人間関係と祈りで深まり、広がるエクレシア

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