2014年10月21日火曜日

「至近距離」と「等身大」



顔と顔を合わせる交わり


「至近距離」と「等身大」これがオーガニックチャーチのキーワードです。大人数の教会に通っても少人数での深い交わりが無いとエクレシアの本質を味わえません。せっかくクリスチャンになって洗礼を受けて群れに加わったのに、友達ができなくて3年で去ってしまう人も多いと聞きます。インターネット上で繋がる機会は増えていますが、それだけに実体(顔を合わせて集まる交わり)が必要になってきています。「この一週間どうしてた?」「祈り課題は?」「あの祈りは聞かれた?」と話し合える交わりです。「どれだけその人が聖書的知識があるかではなく、どれだけ自分に関心を持ってくれている人なのか」が大事と言われます。大先生や聖書学者より、お互いを思いやれる人が必要なのです。東京では5割が一人暮らしだそうです。東京人はプライバシーも大事にしたいでしょう。でも顔を合わせる交わりにも渇いているはずです。かといって韓国式の合宿方式は東京人には合わない気がします。うまい具合にバランスが取れるといいですね。私達は丸の内で毎週水曜日の夜、会っています。そして、他の日でもフェイスグックを通して祈り課題や祈りの答えを分かち合います。

「説教が無いと、正しい教理や聖書解釈を学べないのでは?」と質問が出そうです。それこそ、現代はインターネット上にリソースは沢山あります。使えるツールは使いましょう。しかし、「顔を合わせる」エクレシアは取り替え不能であり、必要不可欠なものであることをしっかり心に留めましょう。


教会は小さいほうがいい?

私が多くを学んだ、ホープチャペルのラルフ・モア牧師は「教会は小さいほうがいい」「小さい教会を沢山つくったほうがいい」と言います。人間、至近距離の交わりができるのは少人数です。「深く」行くためには少人数のほうがいいのです。私達のエクレシアでも週によって全員が来られないことがあります。でも、かえって3名くらいの時のほうが深く突っ込んだ話ができ充実した時が持てたりします。だから人数を沢山集めることには関心がありません。むしろ、小さいエクレシアを都内に沢山つくりたいのです。また、そうすることでリーダーも沢山育ちます。分かち合い方式のバイブルスタディをすれば、専門家がいなくてもできます。ラルフ・モア牧師は日曜説教は30%、週日に信徒が行う「ミニチャーチ」が教会のやっている伝道牧会の70%であるべきだと言っています。どうも多くの教会では日曜説教が90%くらいの割合なのではないでしょうか。何とかこれを逆転できないでしょうか?「日曜クリスチャン」から「週日クリスチャンへ」です。教会内での活動が多くて、地域コミュニティとの接点が無い。これも逆転できないでしょうか?教会(エクレシア)は小さく、ミニストリー(神の国をこの世で広める活動)は大きく。


霊的成長はスモールグループを通して起る

厳密に言うと日曜礼拝という「プログラム」とイエスを中心とした少人数での「交じわり」、すなわちエクレシアとは違います。極端な話、大教会の日曜礼拝に出ているけれど、エクレシアの体験が無いということもあり得ます。それだと実はあまり意味がないし、霊的成長は期待できません。大宣教命令はあくまでも「弟子つくり」命令なのであって、チャーチプランティング命令ではありません。今までの海外からの弟子訓練プログラムは一対一のものが多いですが、日本ではコミュニティの中で弟子訓練するほうが効果的なようです。また、教材中心より人間関係中心(メンタリングスタイル)が効果的です。イエス様は12弟子と生活を共にする中で弟子訓練しました。弟子訓練とは教室でやるものでなく、人とのかかわりの中で行われることなのです。人を愛すること、人に仕えることを体験することなしに、弟子訓練はあり得ないし、霊的成長も無いのです。小グループの至近距離で祈りの答えを体験することで神様への信頼を深めることができます。また、小グループに参加したノンクリスチャンに自分の救いの証を語ることで信仰が強められていきます。日曜日のメッセージを聞くだけでは、知識は増えても、必ずしも信仰が成長するとは言えません。



正直な交わりは等身大

大きい教会のカリスマ牧師の場合、気軽に会って話せないでしょうし、どうしても距離感が出てきます。また組織ピラミッドの頂点に立つ人なので、虚像が描かれ易いのです。エクレシアでは「偉い先生」が一方的にしゃべるという事をしませんので、皆が「等身大」でいられます。そうしないと正直な交わりができなくなります。皆の中に聖霊が住んでいらっしゃいます。お互いの分かち合いを通して沢山教えられます。違う視点が与えられます。時にはノンクリスチャンからのコメントで目が開かれることもあります。イエス様は弟子に教える時に、よく質問されましたね。対話方式です。パウロは人々に語る時、多くの場合「論じた」のです。つまり、パウロは一方的に語るより、「どう思う?」という感じでインターアクティブに論を進めてメッセージをしていたようです。時に自分のことばかり喋るのは自己中心でさえあります。一方的に話さないことは相手への思いやりであり、尊重であり、謙遜を表すことです。相手を通して主が語る言葉に耳を傾けるようにします。人は自分が発言したことは覚えているので、テキスト箇所の聖書のメッセージをより覚えてられるのです。



宗教法人上の教会組織は地上にいる限り、とりあえず必要な型なのかも知れませんが、それイコール霊的エクレシアではありません。別物と考えた方がいいでしょう。エクレシアはあくまで「人々」のことであり、組織や建物ではありません。便宜上、集まれるホールは必要かも知れませんが、教会の本質は「人々」の交わりなのです。あなたにとってどこが「家族」と思える場所ですか?それがあなたのエクレシアです。


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意味ある人間関係と祈りで広がるエクレシア
Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com (栗原)

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