2022年6月30日木曜日

キリストにあるアイデンティティ

 

「赦された罪人」は聖書的か?(2)

 

クリスチャンは「罪人」?それとも「聖徒」?

キリストにあっての正しいアイデンティティを持つことは極めて重要です。つまり、自分はキリストにあって「誰」なのかという自覚です。サタンは検察官です。常に私たちを罪に定めようとします。そして、「ほら、お前は汚れた罪人だから、そうやって罪を犯すんだ。何も変わっちゃいない。汚れたままだ。そんなお前には神も愛想つかしてるぞ、お前は失敗者だ、ダメなクリスチャンだ。裁かれるぞ!」しかし、キリストは私たちの弁護人です。(Iヨハネ2:1−2)もはや、キリストにあるものが罪に定められることは無いのです。

 

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。  (ローマ8:1)

 

罪に定められない人を「罪人」と呼ぶのはおかしいですね。サタンは不当に私達を「罪あり」としたいのです。しかし、こちらには弁護人であり、大祭司であるイエスがおられ、取り成して下さっているので有罪にはならないのです。(ローマ8:34)むしろ、圧倒的な勝利者です。(ローマ8:37)この御言葉を持って、サタンの攻めに反論しましょう。

 

私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは 、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。  (ローマ6:6−7)

 

「罪人」だから「罪を犯す」のです。自分が罪人と思っていたら、「どうせ自分は罪人なんだから・・」と罪を犯すのです。私たちは罪を犯す可能性を持った「聖徒」です。基本「聖徒」なのです。神を喜ばせたいと思っている「神の子供」なのです。聖書は私たちのステータスを明言しています。(Iペテロ2:9)ここには、罪人というニュアンスは全くありません。

 

あなた方は・・・・

  選ばれた種族

  王である祭司

  聖なる国民

  神のものとされた民




「義認」は救いの1つの側面です。神の義の付与です。法廷用語です。「新生」(Regeneration)は内側の変化です。新しい命(神の種)の付与です。キリストが来られたのは罪人を義と認めるだけではなく、罪自体を取り除くためであるとヨハネは明言しています。

 

あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。  Iヨハネ3:5)

 

 

クリスチャンは罪を犯さない?

罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

                  (Iヨハネ3:8−9)

 

神から生まれたものが「罪人」でしょうか?神から生まれたもの(心から信仰に入ったもの)は、もはやキリストを否定するという最大の罪(SIN)を犯すことができません。(ヘブル10:29)この点、もはやサタンには同調しません。そもそも「罪=ハマルティア」は「的外れ」という意味で、脱線状態のことです。神を知らず、神を礼拝しない脱線状態から「本線」に戻されたのです。あなたが三位一体の神を礼拝しているなら、基本は「本線」を走る列車です。的は外れていないのです。

 

また聖霊に示された罪を犯しつづけることができません。神を喜ばせたいという思いが基調なのです。(クリスチャンなら故意にサタンを喜ばせようと思う人はいないでしょう。)神の愛に満たされている状態、すなわち、聖霊に満たされている状態では、故意に罪を犯せないし、犯さないのです。

 

ただ、現実、日常生活で罪(sins)を犯すことはあるのです。ではどうしてクリスチャン(聖徒)は現実、罪(キリストの律法=愛に反すること)を犯すことがあるのでしょう?何が起こっているのでしょうか?

 

  社会的未熟さや、無知のため 失礼で愛を欠く言動をすることがある。

 

  肉体の脆弱性:肉体そのものは悪では無いが、堕落の影響で「朽ちる肉体」となった。その結果、肉体に不快感や苦痛を与えることがある。加齢による記憶の喪失、膝や腰の痛み。病気によるストレス。空腹時や、生理、更年期などの時のイライラ。また仕事のストレスなどでメンタルのバランスが崩れている時、それらの時には、攻撃的になったり、批判的になりやすい。そのようにイエス様を愛していても、肉体の脆弱性から犯す罪がある。

 

  欲望にターゲットしたサタンの誘惑。人間の正常な欲求(食欲、性欲、生存欲、権力欲など)を逸脱したレベルへ向かわせる。イエスも誘惑に会った。誘惑に会うこと自体は罪ではない。記憶に残るこの世の価値観がキリストにある満足を侵害してゆく。もっと刺激的で楽しいことがあるように錯覚させられる。自分の立ち位置(キリストにあるアイデンティティ)を忘れ、揺るがされる。クリスチャンは誘惑に負けることもある。「一時的」にサタンの嘘に騙され、心が乱され、悪い思いや行動に出る可能性はある。ただし、「罪人」では無いので、告白して本線に戻ることができる。(Iヨハネ1:9)

 

  自己肯定感やセルフイメージへのサタンの攻撃。サタンは検察官。常に裁き、貶め「ダメ」な人間だと思わせる。クリスチャンに対してはもう権限が無いのに、権限を乱用してクリスチャンを攻めてくる。周りの人の言葉を用いて、落ち込ませることもある。「あんたは神の信頼を裏切った。神はもうあんたなんか愛しちゃいない。」と嘘を吹聴してくる。それに一時的に乗っかって信仰が揺らぐ可能性がある。

 

魂(地上でのクリスチャン)の救い(きよめ)は完成していません。きよさに与らせるため、霊の父は私達に試練を与えます。試練を通して訓練されます。(ヘブル12:9−10)常に主に頼ることを学ばされます。そうしてゆくうち、聖霊によりイエスの似姿へと変えられています。(IIコリント3:18)「聖徒」として整えられつつあります。「聖徒」だからとあぐらをかいているわけにはいきません。その意味でクリスチャンは「工事中」です。

 

常に謙遜に主に教えられつつ、主の前に歩むべきです。

 

===============================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

2022年6月23日木曜日

「赦された罪人」は聖書的か?(1)


「赦された罪人」は聖書的か?

「私たちは『赦された罪人』です。肉体にある限り罪は犯します。天国に行くまでは完全にはなれません。」

 

よく聞くフレーズです。そして、納得がいく説明のように思えます。罪を犯してしまう現実の自分をよく描写しているように思うからです。しかし、これは本当に聖書的でしょうか?

 

聖書を読む限り、信じて新生したクリスチャンを「罪人」呼ばわりしている箇所はありません。確かに、パウロは「私は罪人のかしらです。」と宣言しましたが、(Iテモテ1:15)コンテキストを見れば分かりますね。以前クリスチャンを迫害していた、まさに「罪人のかしら」であるパウロを救うためにキリストが世に来られたと言っている箇所であり、救われた後も「罪人」です、と言っているのではありません。あの問題多いコリントの教会のクリスチャンたちをパウロは「聖徒」と呼んでいます。(Iコリント1:2)「赦された罪人たちよ」とは言っていません。

 

肉体が罪の根源?

「肉体にある限り罪を犯す。」とすれば、肉体が悪ということになり、1世紀に流行った異端のグノーシス主義と同じ主張になりますね。肉体や物質世界を造った神は悪い神ということになります。聖書の主張は創造時、すべてが「非常に良かった」のです。(創世記1:31)肉体自体が悪いのではありません。それに付随する食欲、性欲、排泄欲も、それ自体悪いものではありません。そうであれば、「生めよ、増えよ、地に満ちよ!」と神は言われなかったでしょう。復活のイエスは肉体を持っており、焼いた魚まで召し上がっています。(ルカ24:42−43)

 

「赦された罪人」に託されたニュアンスは、自分は昔のまま。何も変わらない汚れた「罪人」。だけれど、十字架によって「赦されている」という事でしょう。

 

一見、謙遜で正しいようですが、本当に「何も変わらないまま」でしょうか?

 

 

以前と変わらない「罪人」?

イエスは「新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:3)と言われました。そしてイエスを信じるものは新しく生まれる(新生体験)のです。イエスを信じる者は「新しく造られた者」(IIコリント5:17)です。古いものは過ぎ去っているので、古いまま(元のまま)ではありません。

 

さらに、信者は「神の御住まい」、「神の宮」(エペソ2:21−22)とあります。キリストがうちに住まわれているのに、以前と変わらぬ「罪人」と言えるでしょうか。(コロサイ1:27)さらにローマ書では、「罪から解放されて、義の奴隷となった」(ローマ6:18、22、8:1)と明言しています。




イエスを信じて「神の子供」となったので、(ヨハネ1:12)信者の内には御霊が住むようになったのです。(ローマ8:15)天国へ行ったら「神の子供」になるのでありません。この聖句が示すように、この地上で信者は聖霊を宿す「神の子供」です。その御霊ご自身が私たちを「罪人」ではなく、「神の子」であることを証明してくださっているのです。(ローマ8:16)奴隷ではなく、「神の子供」なので、キリストと共に「御国の共同相続人」になっているのです。(ローマ8:17)

 

(つづく)

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

2022年6月16日木曜日

心で信じていればいいんじゃないの?


なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

                       (ローマ10:9−10)

 

私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。                                                                                         (IIコリント5:10)

 

これらの聖句を、現実生活の中で、どう解釈適用したらいいのでしょうか?


 

ケース1

会社で朝礼の時、神棚に向かって礼をさせられる。別に信じているわけじゃないので、形だけ従って、波風立てないようにしたい。そんなことで論議してもクリスチャンの評判を落とすだけで得にならない?

 

ケース2

東北の被災地のお宅をクリスチャンボランティアが掃除しに行った時、いきなり掃除を始めたクリスチャン達に、家の主人が怒って言った。「線香の1本もあげてから始められないのか!」ご主人は奥さんを津波で亡くされていた。その夜、宿舎に帰り、クリスチャン達の論議が2手に分かれて盛り上がった。1つのグループは、「仏教の宗教行事をクリスチャンはすべきでない」と言い、もう一方は「線香をあげることが愛を示す行為だ」と主張した。別に仏教徒になる訳じゃないし、形だけ線香をあげて相手が喜ぶなら、それでいいんじゃないかという意見。この場合、愛を示すとはどういうことだろうか?

 

ケース3

数年前、映画「沈黙」が話題になった。「踏み絵」を踏むことをどう思うか?「踏絵」は、偶像だから、心で信じていれば形だけ「踏絵」をしても構わない?形だけとはどういうことか?キチジローのように、嘘をついてでも迫害を生き延び、後で時代が変わってから多くの人に伝道する方が、結局はいいのではないか?

 

ケース4

キリスト教禁教のイランでインターネットを通してクリスチャンになった人がいる。聖書には「心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」(ローマ10:10)とあるがどう実行したらいいのだろうか?告白して死刑か?言わないで潜伏しながらイスラムの文化の中に留まりながら、密かに伝道するのがいいのか?アメリカに亡命して信仰生活を公にするのがいいか?しかし、そうすると国内のイラン人に対する伝道のチャンスを失ってしまう。

 

 

あなたならどう考えます? 結論が一方的に語られることより、こういったテーマを正直に語り合えることの方が大切ですね。スモールグループなどで、話し合ってみてください。

 

================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

2022年6月9日木曜日

いろいろな反応

 

昨年(2021)のオリンピック伝道から今年(2022)5月まで、30回くらい路上に立って伝道に加わりました。福音に対していろいろな反応が見えて興味深かったです。

 

攻撃的な人・絡む人

おそらく創価学会(あるは顕正会)の人でしょう、「伝道やめてください!」「あなた方は地獄に落ちます。」「あなた方が伝道するからコロナが蔓延するのです!」と面と向かって言われました。そして南無妙法蓮華経を唱えるよう言われました。福音が明確に語られるところでは敵も黙っていません。これはある意味、想定内です。伝道は霊的戦いだからです。しかし、このような明確な攻撃は、一度だけでした。あと、一度、酔っ払いに絡まれたことがあります。ちょっと聖書をかじっているだけに面倒でした。霊的に何も分かってないのに、上から目線で「あなたの言っていることは間違っている」と批判するのです。これも攻撃ですね。きっと心に傷があるんでしょうね。幸せそうな顔はしていませんでした。でも会話ができて感謝でした。実は無視されるのが一番辛いのです。反対でも、文句でも話しかけてくれると霊的会話ができるので、それはそれでいいのです。

 

無視する人

圧倒的に無視する人が多いです。歌を歌って、メッセージを語り、聖書をお配りしているのですが、多くの人は全く無視か、チラ見して知らんぷりです。「笛吹けど踊らず」のイエス様の気持ちがよく分かります。本当の「希望」を伝えているのに、「いのち」を提供しているのに、過ぎ去っていくのです。少なくも彼らのために祈れます。だから、それでも路上にいる意味はあるのです。

 

避ける人

思ったより少ないのですが、やはりカルトのことが頭にあるのでしょうね。「さわらぬ神に祟りなし」とばかりそそくさと私たちを避けて通ります。頑として聖書を受け取りません。ただ、路傍伝道ネットワーク代表の菅野さんが、ギターを弾きながら賛美歌、ときにセキュラーソングも織り交ぜてミニコンサートをやりながら、フレンドリーに語りかけるので、同じ路傍でも「エホバの証人」との違いはすぐ分かります。また黄色と黒の「キリスト看板」を掲げている人とも違います。彼らの録音メッセージはモノトーンで、言っていることは正しいのですが、愛を感じません。ちょっと怖いのです。私たちの路傍には子供が寄ってきます。悲壮感ではなく、喜びを持って楽しくやっているので、その雰囲気の違いは分かっていただけているのではと思います。



照れる人・茶化す人

ニヤニヤして通り過ぎる人がいます。なんか恥ずかしいんでしょうね。ある時、女子高校生のグループが通りかかり、「イエス・キリストはあなたを愛している」のサインを見て、「キャー、キリストが愛してるってよ!ハハハ・・」と笑い転げながら過ぎて行きました。それでも一応、メッセージは頭に入ったのでしょう。先日、おじさんが「アーメン、ソーメンか」と茶化して通って行きました。でも、無関心の人よりよっぽどいいですね。何か心をくすぐっている訳ですから。

 



立ち止まる人

私たちの路傍は、路上コンサート形式なので、イベント感があるのです。それで振り向いてくれる人が多いです。「何やっているんだろう?」と思うのでしょう。私たちは隠し立てせず、「はい、キリスト教です。」「伝道しています。」「聖書をお配りしています。」とストレートに言います。また、中には立ち止まって音楽を聴いてくれる人もいます。菅野さんがすかさず「立ち止まってくださりありがとうございます。私たちは選挙じゃなくて、宣教をやっています。・・・かっこいい帽子ですね。」などと冗談を交えながら「個人的」に話しかけます。ノンクリスチャンが投げ銭(献金?)してくれることもしばしばあります。基本的には「いい感じ」で受け止められています。実は、面と向かって嫌な顔をする人はあまりいません。

 

クリスチャンの人

時々、「私クリスチャンです。頑張ってください!」と励ましを受けることがあります。通りかかりの牧師が聖書配布に参加することもあります。また、「いつくしみ深き」を歌っていると「小さい頃教会学校に行っていた。」と懐かしがって聞いてくれるおばあちゃんがいたりします。「賛美の中に住みたもう主」と聖書にありますが、賛美をしていると駅前の空間が清められ、何か特別神様に守られている「空間」が出現するのを体験します。賛美の中で自分も大胆になれます。

 

求める人

自分から寄ってきて聖書を受け取る人もいます。「これ、家に持って帰ってもいいんですか?」「もちろんです。無料です。」とお渡しします。「うちの主人にも」と2冊もらっていかれるおばあちゃんもいました。さらに、聖書を受け取ってから戻ってきて「聖書って難しいんでしょ?」と話しかけてくる年配の女性もいました。それで簡単に福音の4つのポイントを語りました。「地獄は本当にあるんですか?」と訪ねてきた女性と長時間会話しながら福音を語ったこともあります。最後に「イエス様を信じてください」と言って別れると、笑顔で去って行きました。このように路上で見知らぬ人に福音を個人的に語れるチャンスもあるのです。神が備えてくださっている人はいるのです。

 

祈りを必要としている人

ある時、年輩の女性に聖書を渡すと、その方は身の上話を始めました。息子さんがコロナワクチンの副反応で、近くの病院に長期入院しているとのことで大変心配されていました。ご主人もなくなり、一人息子が入院です。それで、「今、祈っていいですか?」とお尋ねして、ご婦人のため、息子さんのため祈りました。祈りの後に「あなたとお話しできて、心がスッキリしました。」と笑顔で語ってくださいました。このように、必要ある人のために祈るチャンスもあります。

 

シンプルに伝える

「路上でトラクト撒いても、あまり効果がない」「教会にはつながらない」「そんなことすると、キリスト教に対して悪い印象を与える。」そういう批判があるかも知れません。批判する人は実際に路傍伝道の体験がない人が多いのではと思います。自分は昨年から参加するようになって、感じるのは、人々は思ったより「好感」を持ってくださっているということです。ノンクリチャンが「投げ銭」してくれるのです!そして毎回、必ず聖書を受け取ってくれる人がいます。「生ける神の言葉」である聖書を受け取ってくれる人がいる限り、やる意味があるのではないでしょうか。そして、関心持って話しかけてくる人々もいるのです。実際、個人伝道の機会もありました。路上でそんなことができるのか?と思いますが、できるのです。

 

より「効果的」な伝道方法を探ることは大切です。綺麗にカッコ良く見せたいという気持ちもあるでしょう。しかし、カッコ良くやりたい、反感を買いたくない、愚かに見られたくない、は誘惑にもなり得るのです。カッコ良く、大衆受けするようにトーンダウンしてメッセージを語りたくなります。そうやって文化の一部になってしまい、文化を貫通(Break Through)する使命を果たせなくなります。

 

クリスチャンといえども、路傍伝道に参加する人というのは、ある意味「イっちゃている人」なんでしょうね。あるいは「ヘンな人」。しかし、この日本の分厚い日常の「のっぺり」した霊的壁を貫通するには、非日常的なことが必要なのではないでしょうか?日曜日に教会に行って礼拝して帰ってくる。それだけでは日常の一部になってしまうのではないでしょうか。「えっ、何これ、何やってんの?」見上げると「イエス・キリストはあなたを愛している」のサイン。デジタルの時代にわざわざ路上で語る。目を合わせて「キリストはあなたを愛しています!」と語る。それっていいなと自分は、思うのです。

 

対面式のストレートな伝道を続ける意味はあるのです。本気度を伝えることができます。そして、福音の種は蒔かれなければ実を出さないのです。「信仰は聞くことから始まる」(ローマ10:17)とあるごとくです。


 

十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ること  がありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。

                                                                      Iコリント1:18−24)

 

 

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。

彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。
                                                                        IIコリント4:1−5)

 

路傍伝道ネットワークに関心ある方はこちらを



Facebook
https://www.facebook.com/groups/725359987641943

===============================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

2022年6月2日木曜日

「神は愛」はキリスト教だけ?!

  

「神は愛」はキリスト教だけ?!

「神は愛です。」(Iヨハネ4:16)実はこのステートメントは大変大胆であり、ユニークなのです。ニューヨークのリディーマー教会のティム・ケラー牧師はキリスト教だけが、はっきり「神は愛」と宣言していると述べています。確かに、「ブッダが愛」とは「アラーが愛」とか聞いたことがありませんね。ビーナスなど「性愛」の女神はいても、自分を犠牲にするアガペーの愛を持った神は聖書の神だけなのです。ちなみに、「お釈迦様の慈悲」とか「慈悲深い菩薩」などの仏教における「救い主」の概念は、1世紀、使徒トマスによるインド宣教の影響を受けて仏教が取り入れたものでカウントできません。オリジナルの仏教は「無神、無霊魂」で、救いや愛とは関係のない「哲学」でした。

 

作家の三浦綾子さんは「愛とは自分の一番大切なものを人にやってしまうことだ。」と言いました。神はその一人子を世に送り、罪人のために十字架にかけたのです。ここに愛があるのです。(Iヨハネ4:10)神が弟子の足を洗う「仕える愛」を示されたのです。(ヨハネ13:4−5)これは凄い事なのです。

 

愛は人格間に起こる

キリスト教では人は「交わりの中」に救われるのです。(Iヨハネ1:3)神は三位一体の神であり、父、御子、御霊はお互いにコミュニケーションを交し、愛し合っています。つまりコミュニティ(家族)なのです。従って教会(エクレシア)とはキリストの体であり、エクレシアは、神(三位一体)の家族の拡張家族なのです。新約聖書では「お互いに」という言葉が60回以上出てきます。とても大事な概念なのです。お互いに愛し仕えるのです。ひとりぼっちのクリスチャンはありえません。

 

「交わり」の中に救われ、「交わり」の中で育てられます。神は見たものはいませんが、私たちが互いに愛し合うなら、「神の愛」はそこに全うされるのです。(Iヨハネ4:12)そこで体験できるのです。神はいるのですが、神は愛なので、愛のないものに神は分からないのです。(Iヨハネ4:8)神は単にForce(力)ではなく、itという哲学的な真理やモノではありません。神は人格(神格?)を持っておられ、人格的な「関係」を持たれる方です。哲学書の中には神はいないのです。

 

先行する神の愛

はじめに神が天と地を創造しました。そして、人を土から造り息を吹き込み、生けるものにしました。(創世記2:7)「存在」において神が最初にアクションしたのです。「愛」においても同じです。「愛」の起源は神です。愛は神から出ているのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛したのです。(Iヨハネ4:10)私達がお願いする前から、神が先回りして罪人を愛し、なだめの捧げ物としての御子を遣わしたのです。ここに愛があるのです。(Iヨハネ4:10)私たちが「良い子」になったから愛してくださったのでしょうか?いいえ、私たちがまだ罪人であった時、にです。この聖句が明言しています。

 

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たち のために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

                           (ローマ5:8)

 

「赦し」が先、それから「教え」

 

ザアカイの例(ルカ19章)

ザアカイはイチジク桑の木の上でイエス様がお通りになるのを見ていました。イエス様はこう言ったでしょうか?

 

「ザアカイ、お前が盗人なのは知っている。財産の半分を貧しい人に、脅し取ったものは4倍にして返しなさい。そうしたらお前の家に泊まってあげる。」

 

いえ、何と「ザアカイ急いで降りてきなさい、わたしは今日、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われたのです。

 

名前を呼ばれたザアカイはびっくりです。当時、収税人や売春婦は「罪人」のカテゴリーであり、パリサイ人は絶対に彼らの家の敷居をくぐらなかったのです。「あなたの家に泊まる」とはザアカイを愛し、赦し、受け入れたという意味です。もちろん、ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えました。愛が先です。赦しが先です。もう心が開かれましたね。道々、仲良く肩を組んでお話しされたかも知れません。自宅でザアカイは人に言われたわけでもないのに、自ら「財産の半分を貧しい人に、脅し取ったものは4倍にして返します。」と宣言したのです。

 

放蕩息子の例(ルカ15章)

弟は父が死ぬ前から財産をくれと失礼な要求をしました。父は「とんでもない、ここで3年しっかり働いたらあげよう。」とは言わずに財産を分けてやりました。おそらく、父は息子が放蕩するのを知っていたでしょう。それでも行かせました。戻ってきた時、「だから言わんこっちゃない。バカ息子めが、今後は奴隷として働いて渡した財産を返済しろ!」と言ったでしょうか?そう言っても良かったのです。正しい判断じゃないでしょうか?しかし、父は息子が帰ってきたことを喜び、迎え入れたのです。パーティまで開催したのです。父の元に帰ってきた(悔い改め=方向転換)したのを見ただけで満足したのです。愛が先です。赦しが先です。もう心が開かれました。こんなにまで歓迎された息子はきっと、その後、父のために「喜んで」仕え、働いたでしょうね。

 

姦淫の女の例(ヨハネ8章)

姦淫の現場で捕まった女は石打ちにされようとしていました。イエスはこう言ったでしょうか。「そうだお前は罪を犯した汚れた女だ。そういう商売をやめてまともになったら赦してあげよう。」いいえ、むしろ

 

「わたしもあなたにさばきを下さない。」と宣言しました。女は驚いたでしょうね。そして、安心したでしょうね。もともとパリサイ人の仕組んだ囮で捕まったのかも知れません。ともあれ、女はイエスに愛され、赦され、受け入れられたことが分かったのです。心が開いたのです。そのあとに「これからは、決して罪を犯してはなりません。」と教えられました。もちろん女は心から「はい」と答えたでしょうね。「教え」が先ではなく、「赦し」が先だったのです。教えや裁きが先だと人々は心を閉ざし、頑なになってしまいます。

 

この愛が人生を変革する!

これが神の愛です。この愛に感動してヒッピーやヤクザもクリスチャンになりました。この愛が人の人生を変革するのです。この先行する愛を語るから「福音」なのです。他の宗教のように「行い」によって到達できる「救い」とは違うのです。また、私たちの「奉仕」量で神の愛の「量」が変わるのでもありません。イエス様を信じているなら、あなたはもう「愛され」「赦され」「受け入れられて」いるのです!だから神のために働きたいと思うのです。

 

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです Iヨハネ4:7−10)

 

=========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com