2022年6月9日木曜日

いろいろな反応

 

昨年(2021)のオリンピック伝道から今年(2022)5月まで、30回くらい路上に立って伝道に加わりました。福音に対していろいろな反応が見えて興味深かったです。

 

攻撃的な人・絡む人

おそらく創価学会(あるは顕正会)の人でしょう、「伝道やめてください!」「あなた方は地獄に落ちます。」「あなた方が伝道するからコロナが蔓延するのです!」と面と向かって言われました。そして南無妙法蓮華経を唱えるよう言われました。福音が明確に語られるところでは敵も黙っていません。これはある意味、想定内です。伝道は霊的戦いだからです。しかし、このような明確な攻撃は、一度だけでした。あと、一度、酔っ払いに絡まれたことがあります。ちょっと聖書をかじっているだけに面倒でした。霊的に何も分かってないのに、上から目線で「あなたの言っていることは間違っている」と批判するのです。これも攻撃ですね。きっと心に傷があるんでしょうね。幸せそうな顔はしていませんでした。でも会話ができて感謝でした。実は無視されるのが一番辛いのです。反対でも、文句でも話しかけてくれると霊的会話ができるので、それはそれでいいのです。

 

無視する人

圧倒的に無視する人が多いです。歌を歌って、メッセージを語り、聖書をお配りしているのですが、多くの人は全く無視か、チラ見して知らんぷりです。「笛吹けど踊らず」のイエス様の気持ちがよく分かります。本当の「希望」を伝えているのに、「いのち」を提供しているのに、過ぎ去っていくのです。少なくも彼らのために祈れます。だから、それでも路上にいる意味はあるのです。

 

避ける人

思ったより少ないのですが、やはりカルトのことが頭にあるのでしょうね。「さわらぬ神に祟りなし」とばかりそそくさと私たちを避けて通ります。頑として聖書を受け取りません。ただ、路傍伝道ネットワーク代表の菅野さんが、ギターを弾きながら賛美歌、ときにセキュラーソングも織り交ぜてミニコンサートをやりながら、フレンドリーに語りかけるので、同じ路傍でも「エホバの証人」との違いはすぐ分かります。また黄色と黒の「キリスト看板」を掲げている人とも違います。彼らの録音メッセージはモノトーンで、言っていることは正しいのですが、愛を感じません。ちょっと怖いのです。私たちの路傍には子供が寄ってきます。悲壮感ではなく、喜びを持って楽しくやっているので、その雰囲気の違いは分かっていただけているのではと思います。



照れる人・茶化す人

ニヤニヤして通り過ぎる人がいます。なんか恥ずかしいんでしょうね。ある時、女子高校生のグループが通りかかり、「イエス・キリストはあなたを愛している」のサインを見て、「キャー、キリストが愛してるってよ!ハハハ・・」と笑い転げながら過ぎて行きました。それでも一応、メッセージは頭に入ったのでしょう。先日、おじさんが「アーメン、ソーメンか」と茶化して通って行きました。でも、無関心の人よりよっぽどいいですね。何か心をくすぐっている訳ですから。

 



立ち止まる人

私たちの路傍は、路上コンサート形式なので、イベント感があるのです。それで振り向いてくれる人が多いです。「何やっているんだろう?」と思うのでしょう。私たちは隠し立てせず、「はい、キリスト教です。」「伝道しています。」「聖書をお配りしています。」とストレートに言います。また、中には立ち止まって音楽を聴いてくれる人もいます。菅野さんがすかさず「立ち止まってくださりありがとうございます。私たちは選挙じゃなくて、宣教をやっています。・・・かっこいい帽子ですね。」などと冗談を交えながら「個人的」に話しかけます。ノンクリスチャンが投げ銭(献金?)してくれることもしばしばあります。基本的には「いい感じ」で受け止められています。実は、面と向かって嫌な顔をする人はあまりいません。

 

クリスチャンの人

時々、「私クリスチャンです。頑張ってください!」と励ましを受けることがあります。通りかかりの牧師が聖書配布に参加することもあります。また、「いつくしみ深き」を歌っていると「小さい頃教会学校に行っていた。」と懐かしがって聞いてくれるおばあちゃんがいたりします。「賛美の中に住みたもう主」と聖書にありますが、賛美をしていると駅前の空間が清められ、何か特別神様に守られている「空間」が出現するのを体験します。賛美の中で自分も大胆になれます。

 

求める人

自分から寄ってきて聖書を受け取る人もいます。「これ、家に持って帰ってもいいんですか?」「もちろんです。無料です。」とお渡しします。「うちの主人にも」と2冊もらっていかれるおばあちゃんもいました。さらに、聖書を受け取ってから戻ってきて「聖書って難しいんでしょ?」と話しかけてくる年配の女性もいました。それで簡単に福音の4つのポイントを語りました。「地獄は本当にあるんですか?」と訪ねてきた女性と長時間会話しながら福音を語ったこともあります。最後に「イエス様を信じてください」と言って別れると、笑顔で去って行きました。このように路上で見知らぬ人に福音を個人的に語れるチャンスもあるのです。神が備えてくださっている人はいるのです。

 

祈りを必要としている人

ある時、年輩の女性に聖書を渡すと、その方は身の上話を始めました。息子さんがコロナワクチンの副反応で、近くの病院に長期入院しているとのことで大変心配されていました。ご主人もなくなり、一人息子が入院です。それで、「今、祈っていいですか?」とお尋ねして、ご婦人のため、息子さんのため祈りました。祈りの後に「あなたとお話しできて、心がスッキリしました。」と笑顔で語ってくださいました。このように、必要ある人のために祈るチャンスもあります。

 

シンプルに伝える

「路上でトラクト撒いても、あまり効果がない」「教会にはつながらない」「そんなことすると、キリスト教に対して悪い印象を与える。」そういう批判があるかも知れません。批判する人は実際に路傍伝道の体験がない人が多いのではと思います。自分は昨年から参加するようになって、感じるのは、人々は思ったより「好感」を持ってくださっているということです。ノンクリチャンが「投げ銭」してくれるのです!そして毎回、必ず聖書を受け取ってくれる人がいます。「生ける神の言葉」である聖書を受け取ってくれる人がいる限り、やる意味があるのではないでしょうか。そして、関心持って話しかけてくる人々もいるのです。実際、個人伝道の機会もありました。路上でそんなことができるのか?と思いますが、できるのです。

 

より「効果的」な伝道方法を探ることは大切です。綺麗にカッコ良く見せたいという気持ちもあるでしょう。しかし、カッコ良くやりたい、反感を買いたくない、愚かに見られたくない、は誘惑にもなり得るのです。カッコ良く、大衆受けするようにトーンダウンしてメッセージを語りたくなります。そうやって文化の一部になってしまい、文化を貫通(Break Through)する使命を果たせなくなります。

 

クリスチャンといえども、路傍伝道に参加する人というのは、ある意味「イっちゃている人」なんでしょうね。あるいは「ヘンな人」。しかし、この日本の分厚い日常の「のっぺり」した霊的壁を貫通するには、非日常的なことが必要なのではないでしょうか?日曜日に教会に行って礼拝して帰ってくる。それだけでは日常の一部になってしまうのではないでしょうか。「えっ、何これ、何やってんの?」見上げると「イエス・キリストはあなたを愛している」のサイン。デジタルの時代にわざわざ路上で語る。目を合わせて「キリストはあなたを愛しています!」と語る。それっていいなと自分は、思うのです。

 

対面式のストレートな伝道を続ける意味はあるのです。本気度を伝えることができます。そして、福音の種は蒔かれなければ実を出さないのです。「信仰は聞くことから始まる」(ローマ10:17)とあるごとくです。


 

十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ること  がありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。

                                                                      Iコリント1:18−24)

 

 

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。

彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。
                                                                        IIコリント4:1−5)

 

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執筆者:栗原一芳

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