2015年3月25日水曜日

「神の国運動」



 戦前の格差社会、軍国主義に向かう日本の中で、良心的な声をあげ、アクションを起こしたクリスチャンたちがいた。当時、日本政府は神社は宗教にあらずとして、国民として植民地の民に日本への忠誠、愛国の儀として神社参拝を強要していた。日本基督教を代表する立場である日本基督教会大会議長の富田満は、朝鮮に趣き、各地で講演し、日本政府に同調し神社非宗教論を唱え、神社参拝が愛国的国家儀式であると語り、韓国のキリスト教指導者の心を傷つけた。

多くのミッション系大学も生き残りのために妥協していった。そんな中、日清戦争を支持していた内村鑑三は日露戦争での現実に幻滅し、非戦論者になり覇権主義に反対した。大正デモクラシーの「旗手」「立役者」と呼ばれる吉野作造は、海老名弾正の牧する本郷教会へ出席していたクリスチャン。キリスト教の人間観、倫理観に立ち行動した。朝鮮統治への反乱として起った1919年3月1日の「3・1独立運動」にも「長年の伝統を忘れさせて強いて日本人にするのは無理である。・・・朝鮮人に言論の自由を与えよ」と好意的な主張をしている。内村鑑三は「平和は再臨によらずば到達しない。」として、再臨運動=平和運動を全国展開する。



さらに、言葉だけでなく、社会改革や、社会の底辺の人々の救済に立ち上がった救世軍の山室軍平や、賀川豊彦がいたことも忘れることはできない。賀川は労働運動、農民運動、生協運動、平和運動の先駆者にして「神の国運動」を全国展開した希有な伝道者/預言者でもあった。4年8ヶ月貧民街に住み、彼らと生活を共にし、その後アメリカに留学している。その後、その経験から貧しい労働者を救うには、社会改革としての労働組合の組織化が必要と導かれる。クリスチャンとしての賀川はあくまで非暴力による改革を目指すが、過激派から追われる身となってしまう。その後、田舎の貧困解決のための農民運動に身を注ぐ。さらに消費者組会である協同組合をも組織。平和運動に関しては、第一次大戦後に反戦、平和を主張し、タゴール、ガンディ、アインシュタイン、ロマン・ロランと共に「徴兵制廃止の誓い」に署名し、1928年には、全国非戦同盟を結成する。彼は日本キリスト教会の「キリスト教平和使節団」の一員として最後まで戦争防止のため努力した。戦後は日本国憲法第9条を守るための再軍備反対、非武装、原水爆禁止を訴えた。敗戦直後内閣参与となり、「国民総懺悔運動」を展開。1946年には超宗派的な「新日本建設キリスト運動」を宣言。1954年から3年連続でノーベル平和賞候補として推薦された。今日「新しい公共」という理念の下にNPO/NGO運動が盛んになっているが、賀川はその先駆者でもある。これだけ日本社会にインパクトを与えたキリスト者がいたことを誇りに思いたい。

労働運動も、農民運動も、無産政党運動も、消費組合運動も、すべては賀川にとって「社会悪」との戦いであった。それは突き詰めれば人間性の問題=罪であることを認識し、基本的には魂の救済であることを確信していた。しかし、賀川は魂の救済と生活の解放とを分離することができなかった。そういった二分法は存在しなかったのだ。イエスを模範とし孤独な戦いに入っていった。これはある意味で宗教改革でもあり、信仰を精神界に閉じ込め、福音を教会の中に安置しておこうとする当時の教会に対する革新運動でもあったのだ。彼は言う。


「私は今日の教会とは行く道を異にしております。それは今日の教会は小さい罪を八釜敷云うて、大きな資本主義の罪を脱がしていることです。私はこの点において今日の教会の行っている安易な道を歩きたくはありませぬ。・・私は近頃益々、今日までのキリスト教の行く可き道の間違っていることを思います。それと云うもの愛の生活が無いからです。教会に行っても助け合いが無いので、実に冷やっこいものであります。・・今日の教会の状態では、到底日本を救うことは覚束ない。そこには熱心さが欠けているし、愛が希薄である。」


退廃する日本社会の中で、しだいに彼の声に賛同する者が出て来た。沈滞したキリスト教界は、新しい「神の旋風」を待望していた。彼は教会の沈滞を憂い、労働階級や農民のように教会も「協同戦線」に結集する必要を痛感していた。

「私はこの際団結して大運動を起こすべき時が来たと思います。今のように教会が家庭会のようであったり、牧師が家庭教師のような状態では、時代に対する予言者的行動は取れません。すべてを投げ出して猛進すべきではないかと思います。」こうして様々な社会活動の後には宗教運動に熱中するようになった。
「当分の間は飯も食わずに伝道するつもり」とまで言っている。こうして1928年から1929年の間、日本全国を廻り伝道講演会を開催し、千人単位の人々が決心していった。1929年11月には東京で「神の国運動」全国協議会が開かれるまでになった。こうして神の国運動は日本の各教派をうって一丸とする全日本キリスト教会の伝道運動へと発展した。この全国協議会の夜、日比谷公会堂で開かれた「宣教70年記念、神の国運動宣言信徒大会」で「日本教化の理想」と題して講演した。


「絶望するな、神は我々が絶望する時に、希望を備え給う。聖霊は日本国土を覆っている。我々の要求するのは実行である。物を云わぬ代わりに、善きサマリヤ人の親切である。従って、これからの神の国運動は、農村に、役場に、街に、工場に、我々が無言の十字架を背負って帰って行くことである。我々はこの愛の運動にもう一度帰らねばならない。」


「神の国」は賀川の生涯を貫く中心テーマであった。神の国は抽象的、観念的世界ではなく、衣食住をも支配する具体性をもつ世界だった。神の国が霊的な世界であると共に経済的、社会的なものでもあり、両者の統一として理解されている点では始終異なることはなかった。その意味で労働運動も農民運動も彼にあっては神の国運動の一翼にほかならなかった。

「宗教家であるのに、社会運動をするのは俗物だとある人は云うかも知れぬが、イエスの弟子であるから、私達は社会運動をするのである。」

「イエス・キリストは、『御国を来らせたまえ』と祈る事を教えておられる。宗教が1つの社会性を帯びていることを疑ってはならない。我々はイエスの運動が神の国運動であったことを記憶する必要がある。」


賀川は伝道が、教会堂のなかに閉鎖され、個人主義に毒されていることにその不振の原因があると確信していた。3:11以来、東北では宣教ではなく、「宣証」、そして、教会は「よき業、宣証共同体」であるという運動が起っているが、賀川の「神の国運動」を思い起こさせる。今だからこそ、もう一度賀川に学ぶ必要があるのではないだろうか?

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推薦図書
「賀川豊彦」隅谷三喜男 岩波現代文庫

賀川豊彦WEB博物館
http://www.kobe.coop.or.jp/about/toyohiko/
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2015年3月18日水曜日

イエスの宣教



 イエスの来られた目的
「わたしが来たのは、ひつじが命を得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)
「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」 (ヨハネ10:15)

私達へのチャレンジ:あなたが地上にいる目的は何ですか?あなたのため命を捨てた方を、あなたの人生の主として歩んでいますか?自分のための人生ですか?他の人への祝福となるための人生ですか? 他の人のため自分の時間や心を用いてますか?



イエスのミニストリーの対象
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:13)

「それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たち大ぜい、イエスや弟子たしといっしょに食卓に着いていた。こういう人々が大ぜいいて、イエスに従っていたのである。」(マルコ2:15)

私達へのチャレンジ:私達は誰と食事をしていますか? 沢山のノンクリスチャンと関わっていますか? 


イエスのミニストリーの態度
「わたしが来たのが、仕えられるためでなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、購いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

私達へのチャレンジ:あなたのミニストリーはあなたの名誉や実績のためでしょうか? それともあなたが砕かれるためでしょうか? 伝道やミニストリーを「する」というより、単に心から周りの人々を愛し、仕えていますか?



イエスのミニストリーの動機
「また、群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)

私達へのチャレンジ:あなたがミニストリーをする時、憐れみの心が先に動いているでしょうか?



イエスのミニストリーの内容
「それから、イエスは、すべての町や村を巡って会堂で教え御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」(マタイ9:35)



私達へのチャレンジ:あなたのミニストリーは包括的福音を言葉と行いで表しているでしょうか? 伝道において「神の国」を説いているでしょうか?


 つまり、宣教教育癒し。実際、日本では、キリスト教主義の学校が建てられ、キリスト教主義の病院が建てられ、そして、教会が宣教を担ってきました。残念なことはその連携が十分でなかったことでしょう。また、「福音を伝える」という言葉が少々誤解されてきた感があります。イエスの語った「御国の福音」という言葉に留意すべきなのです。単なる神・罪・救いの救霊メッセージだけではなく、「神の国」、すなわち、神の平和、義、愛の支配が、すでに始まっており、やがて全的支配が全被造物に及ぶという壮大なメッセージが語られているのです。イエスの宣教の開口一番は

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

だったのです。

「その後、イエスは、神の国を説きその福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。12弟子もお供をした。」(ルカ8:1)

ここでも「神の国」が先で、神の国に関する福音(グッドニュース)を伝えておられる。ルカの福音書を読むと「神の国=神の支配」の到来の証としての悪霊追い出し病気の癒しの記事が、これでもかというほど出てきます。

「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」(ルカ11:20)



イエスの弟子のミニストリーの内容





イエスがミニストリーなさる時、初めは、弟子達がお共していました。イエスのお働きを観察していたのです。ルカの9章を見ると、いままで観察していた弟子達が、今度は派遣されることになります。ここでも言葉だけの宣教ではないことが明白です。

「イエスは12人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威をお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」(ルカ9:1)

「こうして12人が出てゆき、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し大ぜいの病人に油を塗っていやした。」(マルコ6:12−13)

力ある業は付随的に少々起ったのではなく、多く、大勢の人に起ったのです。弟子のミニストリーの大きな部分だったことがわかります。福音が神の国(神の支配)をもたらすことを証するためです。

「なぜなら福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」(Iテサロニケ1:5)


10章に進むと今度は、イエスご自身の働きを70人に分担して、お遣わしになっています。

「その後、主は別に70人を定め、ご自分が行くつもりであったすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。」(ルカ10:1)

ここでも宣教の内容は「神の国」の到来でした。(ルカ10:9)そして、弟子達の報告で悪霊が追い出されたことが分かります。(ルカ10:17)12弟子以外の弟子達の宣教も、言葉だけの宣教ではなかったようです。

イエスの昇天後も弟子達は聖霊に満たされ、多くの不思議なわざと奇跡によって宣教が進められていきました。(使徒2:43)イエス昇天後も癒し(使徒3:1−8)、悪霊追い出し(使徒16:18)が行われていたことがわかります。

ちなみにパウロの伝道においては「論じた」(使徒17:2)、「人々と語り合い」(使徒20:7)などという言葉が用いられており、一方的な宣言というより、インターアクティブなスタイルであった印象を受けます。



結論
イエスの宣教のテーマは「神の国」でした。そして、悪霊追い出し、病気の癒しが伴ったことは明白です。12弟子の宣教にも悪霊追い出し、病気の癒しが伴ったことを見てきました。イエス昇天後の使徒たちの宣教にも悪霊追い出し、病気の癒しが伴っていました。知的に福音を語るだけでなく、霊の問題を真っ正面から取り扱っていました。(占いの霊につかれた女の話、使徒16:16など)また、それは、相手の感情を無視しても「福音」を宣言すれば、それで良しとの宣教ではありませんでした。相手の直近のニーズ(病気、悪霊つき)に対処しつつ、人々に「仕えつつ」神の国の到来を語ったのです。なにより、イエスのミニストリーの動機は「深い憐れみ」でした。(マタイ9:36)日本の福音派教会は、ことばだけの宣教に偏っていたのではないでしょうか? 今一度、「福音」「教会」「宣教」について再考する時期なのかも知れません。



「なぜなら福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」(Iテサロニケ1:5)

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2015年3月12日木曜日

「ミニストリーの心」



前回、「大宣教命令」が実は「弟子育成命令」であることを見て来た。さて、弟子とは「学ぶ者」。それで、命令後半の「イエス様が命じられたこと、イエス様が教えられたすべてのことを事を教えなさい」が意味を持ってくる。弟子(Learner)となるためには教えられる必要があるからだ。

 イエス様はどんなことを教えましたか?どんなことを命じましたか?

   「主の祈り」を通して祈り方を教えた
   死後に場所が備えられていること。天に住まいを備えてから私達を迎えに来られること。
   小さいことに忠実なものは大きなことにも忠実、タラントの話=管理の重要性を教えた。などなど。

 さて、今回はすべてのことをする基盤、一番基本となる部分。すなわち弟子としての「心」。ミニストリーの「心」について見てみましょう。 ミニストリーをやる「動機」について考えてみたい。



イエス様の宣教の動機

マタイ9:35−36
イエス様は様々なミニストリーを展開した。それは群衆の姿を見て「心」を動かされたから。「かわいそうに思われた」から。心が先に動いている

「かわいそうに思われた」は、「深く憐れまれた」とも訳せる。これは「スプランクニゾマイ[]」の訳で、「思いやりのこころでいっぱいになる、深い同情を寄せる」という意味。そして、名詞は、内臓を意味する言葉「スプランクノン」。「はらわたが捻れるほどの同情」とでも言おうか。イエスは安全な所にいて、「おかわいそうに」といって憐れむ方ではない。他者の苦しみを自分の苦しみとして受け止めて痛むお方。その苦しみに徹底的に寄り添うお方。十字架はイエスが我々の罪に徹底的に「寄り添った」結果だという神学者もいる。

私たちは、時に、数字が大事になってしまう。「何人に伝えた」「何人救われた」というように、伝道が営業のようになってしまう。手柄主義。人との比較・・・しかし、本当に、目の前の魂に内蔵が痛むほどのあわれみを感じているだろうか? あなたのミニストリーの動機はなんだろうか?



「あわれみは好むが、いけにえは好まない」

マタイ9:13 「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とある。

「いけにえ」とは、自分の側で神にささげるもの=自分の業績、努力、結果、量、とも言えないだろうか? それらは人の前に見える形で差し出せる。しかし、「憐れみ」は外目には計れない。ある金持ちが有り余る中から、献金をした。他の人の目には相当な額だっただろう。一人のやもめがレプタコインを1つチャリンと献金箱に投げ入れた。人々は「何だそれだけしか出せないのか?」と思っただろう。しかし、イエス様は「この女は誰よりも多く捧げた」と真理を見抜かれた。イエス様はこの女の「心」を見られた。「いえにえ」は誤摩化せる。しかし、「憐れみの心」は誤摩化せない。神を侮ることはできない。

どれだけささげたか?どれだけやったか?どれだけの結果があったか、どれだけ数字が取れたか?「先生の教会の礼拝何人ですか?」それで較べて安心したり、落ち込んだり。「オレじゃだめなのか」と自己嫌悪に陥ったり。しかし、主はいけには好まない。「人間がどんなもんだい」と差し出すものは好まない! どれだけという目に見える結果より、大事な質問はこれだ。イエス様ならこう尋ねる。「わたしの心があわれみで満ちているように、あなたの心もあわれみで満ちてますか?」 



そもそもミニストリーとは?

そもそも「ミニストリー」とは何だろう? 英語のMinisterは、「仕える」という意味。 大臣は英語ではミニスター。外務大臣はForeign minister. 大臣はバッジを付けて威張るのではなく、本来は、国民に仕える者なのだ。ミニストリーは「仕える」こと。ミニスターは「しもべ」、「お助けマン」。私達は周りを見渡し、人々の「必要」を見ているだろうか? 思慮深く、愛をもって、ケアしているだろうか?

何か神のための働きをやっていることを見せるため、イベントやプロジェクトに走る誘惑もある。しかし、人に仕えてる事が「伝道」であり、人を愛することがミニスターの「仕事」である。

マタ25:31−46
ここは聖書中、非常にユニークな箇所だと言えよう。ここだけ読むと「行いによる救い」と受け取られかねない。もちろん信仰の実としての行いの話だ。ヤコブが言う「行いのない信仰は死んでいる」ということだろう。信仰に中身が無ければ、憐れみが無い。そして、憐れみを行いで示すことをしなければ、永遠の火という、厳しい結果となることが明解に書かれている。「憐れみ」は、将来の永遠の行き先を決めるほど、重要なことなのだ。聖書中に、「何人に伝道して、何人を救いに導かなければ地獄です。」とは一言も書いてないが、「憐れみ」を示さないと永遠の火であるとはっきり書いてあるのだ。



「宣教」か「支援」か?

東北の被災地での伝道に関していろいろ意見があるだろう。あるクリスチャングループは「宣教」が至上命令と、被災者の気持ちを考えない一方的な伝道をし、悪評を買って、仮設の出入りを禁止された。一方、黙々と奉仕したクリスチャンボランティアもいた。そのうち、「教会さん、よくやってくれるね」との声が聞かれるようになった。他のボランティアがいなくなっても続けて来てくれる。それが信頼に繋がった。自分も仮設訪問で「聞く」奉仕をした。被災者は話すことで癒しを体験してゆく。「傾聴」は、神の愛を示す働きであり、広い意味で宣教。「寄り添う事」は宣教なのだ。短期間に成果を挙げたい誘惑もあるだろう。数字を出したい誘惑もあるだろう。しかし、じっくり信頼をつくり、地元教会におまかせしゆく、宣教のプロセスのある部分を担わせて頂く、それでいい。自分が刈り取らなくても良い。

先日、「支援と宣教」というセミナーで、東北の牧師の話を聞いた。その牧師は「支援」と「宣教」を分けないことにしたという。3:11以来、「支援」と「宣教」なのか、「支援」から「宣教」なのか、いや、「支援」は「宣教」なのか、といろいろ議論されてきた。3:11以来、東北の福音派教会は主によって変えられた。その「福音理解」「教会論」「宣教論」が問われた。そして、ある牧師達のグループは「宣教」という上から目線の言葉を止めて、「宣証」を使い出した。教会は、「よき業、宣証共同体」であるという。

イエスは会堂で教え、病人を癒し、悪霊を追い出した。イエスにとって宣教と教育と癒しは三位一体であった。イエス様に学ぶなら、「宣べ伝える」ことだけを切り取れない。救世軍ははじめから、「社会福祉」と「宣教」の両輪を動かしていた。その結果、ニューヨークの同時多発テロの時、唯一、グランドゼロの制限区域内に入って、消防士や警察官にコーヒーを差し出し、話を聞いてあげるミニストリーをする許可を政府からもらった。政府/社会の信頼があったのだ。

よく、日本宣教の鍵は?戦略は?という議論をする。しかし、「群衆を見てかわいそうに思われた」というイエス様のお心が何より大事なのではないだろうか? 本当に「愛とあわれみ」を動機にやっているのか? それとも、自分の教団の教会が大きくなるのが目的なのか? 地元コミュニティの人々を愛し、彼らに仕え、愛を示しているのだろうか? そこが問われているのではないか?ひょっとしたら、隔離された神学校に入って、卒業して「先生」と呼ばれるより、地元コミュニティの消防団に入って地元のために活躍しながら主の働き人として、On the job trainingされるほうが有効的なのかもしれない?



「ミニ Jesusの養成」

「大宣教命令」は単なる「宣教命令」ではない。また、「教会を建てよ」という命令でもない。「弟子を作れ」である。弟子が集まったら、そこは「教会」になる。イエスの心を持った人を再生産する。イエス様のような人を育てる。(単なる伝道のスキルを持った人じゃない)「憐れみの心」で愛のアクションをする、ミニJesusが世界に満ちる事が結局、神の国を拡げることになる。ただ、イエスのようには、頑張っても成れません。自分を通してイエスが現れてくださるように、自分が砕かれるしかありません。そのために人生を分かち合う「顔と顔」を合わせるスモールグループ活動と愛を示す慈善/福祉活動とにかかわることが弟子養成の鍵となるのではないかと思います。


「それゆえあなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」

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2015年3月3日火曜日

「大宣教命令」は本当に「宣教」命令?



 大宣教命令のミステリー

マタイ28章の19−20節。「大宣教命令」と言われている箇所だ。これは、イエス様が天に上られる前に弟子たちに語られた最も大切な命令と受け取られ、すべてのクリスチャンへの「伝道命令」として解釈されることが多い。

さて、そこで、もしそれほど重要な命令ならさぞ、マタイだけでなく、他の3つの福音書にも記されているのだろうと見てみると、ヨハネには全く、その命令が書かれていない。マルコにはあの有名な「全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」(マルコ16:15)があり、勇ましく弟子達が出てゆくイメージが受け取れる。まさに大宣教命令だ。しかし、新改訳聖書には9節から20節が括弧で括られている。その意味はこの部分を欠く写本があるという意味。聖書のオリジナルは失われているので、多々在る写本からオリジナルテキストを復元する訳だが、この部分を欠いている写本があるとなると、オリジナルにあったのかが疑われる。後に追加された可能性もある。さらに別の追加文が8節あとに注入されているものもあると説明されている。どうも9節以下はあやしいのだ。それからルカを見ると、それらしき部分が24章の47−49だ。しかし、47節では、「罪の赦しを得させる悔い改め」が主語になっており、弟子達への直接命令ではない。48節もこれから神がなさる業の証人となりますというニュアンスで「お前達に託したぞ、世界宣教はお前達の手にかかっている!」というニュアンスとはほど遠い。

果たして、ここで約束されている御霊がペンテコステの日に弟子達に下り、突然外国語を話し出す。あの臆病ペテロが突然大胆なメッセージを語り出し、一日に3000人が弟子となる。多分、一番驚いたのは弟子達だろう。神の一方的な働きが始まり、弟子達はその潮流に流されていたというイメージだ。「あれよ、あれよ」という間に事が動いていった。サーフィンの波に乗るように。事実、「使徒行伝」は正確には「聖霊行伝」だろう。フォーカスは弟子達ではない。聖霊様だ。弟子達が「頑張って」伝道している姿ではない。2階の部屋で、3000人救霊の伝道計画を練っていた訳でもない。It happened!


さて、本題マタイの箇所に戻るが、まず、誰に向かって語られているかだ。主イエスがオリーブ山から昇天する直前に親しい弟子達に語られている。あの5000人の給食の場ではない。一般大衆にではない。限られた11人の弟子達が聴衆だった。そう弟子達(後の使徒)に向かって語られている。しかし、私たちはここから「だから、クリスチャンは皆伝道すべきです!」と説教する。ちょっと飛躍しすぎてないか。そして、もしこれがすべてのクリスチャンに語られているなら、次に続く「そして、父、御子、御霊によってバプテスマを授け、」をどう解釈するのか?「言って弟子とする」のはすべてのクリスチャンの責任。でもバプテスマは牧師だけの特権という区別がここで語られているだろうか?

ちなみに、第二テモテ4:2「みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしっかりやりなさい。・・・」を用いて、「すべてのクリスチャンが、日々伝道すべき!」とメッセージすることがある。しかし、これはパウロが弟子であるテモテに個人的に書き送った手紙であり、「伝道者」テモテに向けて書いていることは明白。しかも、4節からのところを見ると分かるように、「救霊」のコンテキストではなく、偽りの教えが流行る中で、聖書全体から、みことばの真理を伝えるよう言われている。

それから、よく、マタイ19:19を「伝道命令」として用いるが、後半をどれだけ重視しているだろうか。誰でもわかるようにこれは全体で1つのパッケージメッセージなのだ。



「大宣教命令」より「弟子育成命令」

 ここには4つの命令が書かれている。「行きなさい」「弟子としなさい」「バプテスマを授けなさい」「彼らを教えなさい」。しかし、ギリシャ語を見ると、動詞は1つで、1つの命令であることが分かる。「弟子としなさい」が命令となっている。その他は分詞でかかっており、こんなふうに訳すのが正確だろう。

「行って」「人を悔い改めに導いて、バプテスマを授け」「教える」ことによって、すべての国の人々を「弟子としなさい。」

その他の3つは、弟子にしていく方法であるとも言える。イエスの弟子をつくること。従って、この箇所は「大宣教命令」というより、「弟子育成命令」と言うにふさわしい。弟子とはイエスの心を持つ人。すなわち愛と憐れみの心をもって愛することを実践する弟子を育てる命令と読む事が妥当のように思われる。



Doing よりBeing

よく引用される使徒の働き1:8「しかし、聖霊があなた方の上にくだるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、及び地の果てまで、わたしの証人となります。」ここでも注意深く読むと、「伝道しろ」とは言っていない。むしろ、証人となる、すなわちdoingよりbeingが強調されている。最近、イスラム教からクリスチャンに改宗する人もいるようだが、それは説得されたからではなく、愛の行為を受けたからだと言う。聖書のメッセージは実は「伝道しろ」ではなく、「イエス様のように変えられて、愛を実践しなさい。」なのではないだろうか?「愛しなさい、仕えなさい」のメッセージはあちこちにあるが、すべてのクリスチャンに向かって「伝道しろ」と直接命令している箇所を探す方が難しい。

 むしろ御言葉の薦めは真の「キリストの弟子」となるということ。それなしの伝道は実を結ばないし、次の弟子が育たない。よく英語では、Caught than taughtという。「弟子は師の後ろ姿を見て学ぶ」とでも訳そうか。いくら高名な教えを説かれても、愛されていないと受け入れられない。People don’t care how much you know until they know how much you care. そして、Leader is lover, lover is leader. とも言う。弟子とはイエスの心を持つ人。それはマニュアルでは育たない。イエス様と一緒に歩み、イエス様に従う弟子達と一緒に歩む必要がある。そこでじっくり醸成される。

「宣教」というと、救霊のための「神、罪、救い」をパッケージで語り、イエスを信じるか信じないかを迫る事と解釈されることが多い。いわゆる「福音」の内容を伝えることが大事なのであって、我々の責任は「伝える」こととされる。そういう意味では、ここマタイ28章19−20節は「宣教命令」でさえない。一方的な「宣教」だけでは弟子は育たないからだ。弟子を育てるには、時間をかけて弟子の人生にかかわらなければならない。

この箇所の本当の意味を知るには、マタイが前までの章で書いてきたことをレビューしてみる必要がある。次回、このテーマをもう少し、掘り下げたい。



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