2015年3月12日木曜日

「ミニストリーの心」



前回、「大宣教命令」が実は「弟子育成命令」であることを見て来た。さて、弟子とは「学ぶ者」。それで、命令後半の「イエス様が命じられたこと、イエス様が教えられたすべてのことを事を教えなさい」が意味を持ってくる。弟子(Learner)となるためには教えられる必要があるからだ。

 イエス様はどんなことを教えましたか?どんなことを命じましたか?

   「主の祈り」を通して祈り方を教えた
   死後に場所が備えられていること。天に住まいを備えてから私達を迎えに来られること。
   小さいことに忠実なものは大きなことにも忠実、タラントの話=管理の重要性を教えた。などなど。

 さて、今回はすべてのことをする基盤、一番基本となる部分。すなわち弟子としての「心」。ミニストリーの「心」について見てみましょう。 ミニストリーをやる「動機」について考えてみたい。



イエス様の宣教の動機

マタイ9:35−36
イエス様は様々なミニストリーを展開した。それは群衆の姿を見て「心」を動かされたから。「かわいそうに思われた」から。心が先に動いている

「かわいそうに思われた」は、「深く憐れまれた」とも訳せる。これは「スプランクニゾマイ[]」の訳で、「思いやりのこころでいっぱいになる、深い同情を寄せる」という意味。そして、名詞は、内臓を意味する言葉「スプランクノン」。「はらわたが捻れるほどの同情」とでも言おうか。イエスは安全な所にいて、「おかわいそうに」といって憐れむ方ではない。他者の苦しみを自分の苦しみとして受け止めて痛むお方。その苦しみに徹底的に寄り添うお方。十字架はイエスが我々の罪に徹底的に「寄り添った」結果だという神学者もいる。

私たちは、時に、数字が大事になってしまう。「何人に伝えた」「何人救われた」というように、伝道が営業のようになってしまう。手柄主義。人との比較・・・しかし、本当に、目の前の魂に内蔵が痛むほどのあわれみを感じているだろうか? あなたのミニストリーの動機はなんだろうか?



「あわれみは好むが、いけにえは好まない」

マタイ9:13 「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」とある。

「いけにえ」とは、自分の側で神にささげるもの=自分の業績、努力、結果、量、とも言えないだろうか? それらは人の前に見える形で差し出せる。しかし、「憐れみ」は外目には計れない。ある金持ちが有り余る中から、献金をした。他の人の目には相当な額だっただろう。一人のやもめがレプタコインを1つチャリンと献金箱に投げ入れた。人々は「何だそれだけしか出せないのか?」と思っただろう。しかし、イエス様は「この女は誰よりも多く捧げた」と真理を見抜かれた。イエス様はこの女の「心」を見られた。「いえにえ」は誤摩化せる。しかし、「憐れみの心」は誤摩化せない。神を侮ることはできない。

どれだけささげたか?どれだけやったか?どれだけの結果があったか、どれだけ数字が取れたか?「先生の教会の礼拝何人ですか?」それで較べて安心したり、落ち込んだり。「オレじゃだめなのか」と自己嫌悪に陥ったり。しかし、主はいけには好まない。「人間がどんなもんだい」と差し出すものは好まない! どれだけという目に見える結果より、大事な質問はこれだ。イエス様ならこう尋ねる。「わたしの心があわれみで満ちているように、あなたの心もあわれみで満ちてますか?」 



そもそもミニストリーとは?

そもそも「ミニストリー」とは何だろう? 英語のMinisterは、「仕える」という意味。 大臣は英語ではミニスター。外務大臣はForeign minister. 大臣はバッジを付けて威張るのではなく、本来は、国民に仕える者なのだ。ミニストリーは「仕える」こと。ミニスターは「しもべ」、「お助けマン」。私達は周りを見渡し、人々の「必要」を見ているだろうか? 思慮深く、愛をもって、ケアしているだろうか?

何か神のための働きをやっていることを見せるため、イベントやプロジェクトに走る誘惑もある。しかし、人に仕えてる事が「伝道」であり、人を愛することがミニスターの「仕事」である。

マタ25:31−46
ここは聖書中、非常にユニークな箇所だと言えよう。ここだけ読むと「行いによる救い」と受け取られかねない。もちろん信仰の実としての行いの話だ。ヤコブが言う「行いのない信仰は死んでいる」ということだろう。信仰に中身が無ければ、憐れみが無い。そして、憐れみを行いで示すことをしなければ、永遠の火という、厳しい結果となることが明解に書かれている。「憐れみ」は、将来の永遠の行き先を決めるほど、重要なことなのだ。聖書中に、「何人に伝道して、何人を救いに導かなければ地獄です。」とは一言も書いてないが、「憐れみ」を示さないと永遠の火であるとはっきり書いてあるのだ。



「宣教」か「支援」か?

東北の被災地での伝道に関していろいろ意見があるだろう。あるクリスチャングループは「宣教」が至上命令と、被災者の気持ちを考えない一方的な伝道をし、悪評を買って、仮設の出入りを禁止された。一方、黙々と奉仕したクリスチャンボランティアもいた。そのうち、「教会さん、よくやってくれるね」との声が聞かれるようになった。他のボランティアがいなくなっても続けて来てくれる。それが信頼に繋がった。自分も仮設訪問で「聞く」奉仕をした。被災者は話すことで癒しを体験してゆく。「傾聴」は、神の愛を示す働きであり、広い意味で宣教。「寄り添う事」は宣教なのだ。短期間に成果を挙げたい誘惑もあるだろう。数字を出したい誘惑もあるだろう。しかし、じっくり信頼をつくり、地元教会におまかせしゆく、宣教のプロセスのある部分を担わせて頂く、それでいい。自分が刈り取らなくても良い。

先日、「支援と宣教」というセミナーで、東北の牧師の話を聞いた。その牧師は「支援」と「宣教」を分けないことにしたという。3:11以来、「支援」と「宣教」なのか、「支援」から「宣教」なのか、いや、「支援」は「宣教」なのか、といろいろ議論されてきた。3:11以来、東北の福音派教会は主によって変えられた。その「福音理解」「教会論」「宣教論」が問われた。そして、ある牧師達のグループは「宣教」という上から目線の言葉を止めて、「宣証」を使い出した。教会は、「よき業、宣証共同体」であるという。

イエスは会堂で教え、病人を癒し、悪霊を追い出した。イエスにとって宣教と教育と癒しは三位一体であった。イエス様に学ぶなら、「宣べ伝える」ことだけを切り取れない。救世軍ははじめから、「社会福祉」と「宣教」の両輪を動かしていた。その結果、ニューヨークの同時多発テロの時、唯一、グランドゼロの制限区域内に入って、消防士や警察官にコーヒーを差し出し、話を聞いてあげるミニストリーをする許可を政府からもらった。政府/社会の信頼があったのだ。

よく、日本宣教の鍵は?戦略は?という議論をする。しかし、「群衆を見てかわいそうに思われた」というイエス様のお心が何より大事なのではないだろうか? 本当に「愛とあわれみ」を動機にやっているのか? それとも、自分の教団の教会が大きくなるのが目的なのか? 地元コミュニティの人々を愛し、彼らに仕え、愛を示しているのだろうか? そこが問われているのではないか?ひょっとしたら、隔離された神学校に入って、卒業して「先生」と呼ばれるより、地元コミュニティの消防団に入って地元のために活躍しながら主の働き人として、On the job trainingされるほうが有効的なのかもしれない?



「ミニ Jesusの養成」

「大宣教命令」は単なる「宣教命令」ではない。また、「教会を建てよ」という命令でもない。「弟子を作れ」である。弟子が集まったら、そこは「教会」になる。イエスの心を持った人を再生産する。イエス様のような人を育てる。(単なる伝道のスキルを持った人じゃない)「憐れみの心」で愛のアクションをする、ミニJesusが世界に満ちる事が結局、神の国を拡げることになる。ただ、イエスのようには、頑張っても成れません。自分を通してイエスが現れてくださるように、自分が砕かれるしかありません。そのために人生を分かち合う「顔と顔」を合わせるスモールグループ活動と愛を示す慈善/福祉活動とにかかわることが弟子養成の鍵となるのではないかと思います。


「それゆえあなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」

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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com (栗原)


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