2015年3月3日火曜日

「大宣教命令」は本当に「宣教」命令?



 大宣教命令のミステリー

マタイ28章の19−20節。「大宣教命令」と言われている箇所だ。これは、イエス様が天に上られる前に弟子たちに語られた最も大切な命令と受け取られ、すべてのクリスチャンへの「伝道命令」として解釈されることが多い。

さて、そこで、もしそれほど重要な命令ならさぞ、マタイだけでなく、他の3つの福音書にも記されているのだろうと見てみると、ヨハネには全く、その命令が書かれていない。マルコにはあの有名な「全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。」(マルコ16:15)があり、勇ましく弟子達が出てゆくイメージが受け取れる。まさに大宣教命令だ。しかし、新改訳聖書には9節から20節が括弧で括られている。その意味はこの部分を欠く写本があるという意味。聖書のオリジナルは失われているので、多々在る写本からオリジナルテキストを復元する訳だが、この部分を欠いている写本があるとなると、オリジナルにあったのかが疑われる。後に追加された可能性もある。さらに別の追加文が8節あとに注入されているものもあると説明されている。どうも9節以下はあやしいのだ。それからルカを見ると、それらしき部分が24章の47−49だ。しかし、47節では、「罪の赦しを得させる悔い改め」が主語になっており、弟子達への直接命令ではない。48節もこれから神がなさる業の証人となりますというニュアンスで「お前達に託したぞ、世界宣教はお前達の手にかかっている!」というニュアンスとはほど遠い。

果たして、ここで約束されている御霊がペンテコステの日に弟子達に下り、突然外国語を話し出す。あの臆病ペテロが突然大胆なメッセージを語り出し、一日に3000人が弟子となる。多分、一番驚いたのは弟子達だろう。神の一方的な働きが始まり、弟子達はその潮流に流されていたというイメージだ。「あれよ、あれよ」という間に事が動いていった。サーフィンの波に乗るように。事実、「使徒行伝」は正確には「聖霊行伝」だろう。フォーカスは弟子達ではない。聖霊様だ。弟子達が「頑張って」伝道している姿ではない。2階の部屋で、3000人救霊の伝道計画を練っていた訳でもない。It happened!


さて、本題マタイの箇所に戻るが、まず、誰に向かって語られているかだ。主イエスがオリーブ山から昇天する直前に親しい弟子達に語られている。あの5000人の給食の場ではない。一般大衆にではない。限られた11人の弟子達が聴衆だった。そう弟子達(後の使徒)に向かって語られている。しかし、私たちはここから「だから、クリスチャンは皆伝道すべきです!」と説教する。ちょっと飛躍しすぎてないか。そして、もしこれがすべてのクリスチャンに語られているなら、次に続く「そして、父、御子、御霊によってバプテスマを授け、」をどう解釈するのか?「言って弟子とする」のはすべてのクリスチャンの責任。でもバプテスマは牧師だけの特権という区別がここで語られているだろうか?

ちなみに、第二テモテ4:2「みことばを宣べ伝えなさい。時がよくても悪くてもしっかりやりなさい。・・・」を用いて、「すべてのクリスチャンが、日々伝道すべき!」とメッセージすることがある。しかし、これはパウロが弟子であるテモテに個人的に書き送った手紙であり、「伝道者」テモテに向けて書いていることは明白。しかも、4節からのところを見ると分かるように、「救霊」のコンテキストではなく、偽りの教えが流行る中で、聖書全体から、みことばの真理を伝えるよう言われている。

それから、よく、マタイ19:19を「伝道命令」として用いるが、後半をどれだけ重視しているだろうか。誰でもわかるようにこれは全体で1つのパッケージメッセージなのだ。



「大宣教命令」より「弟子育成命令」

 ここには4つの命令が書かれている。「行きなさい」「弟子としなさい」「バプテスマを授けなさい」「彼らを教えなさい」。しかし、ギリシャ語を見ると、動詞は1つで、1つの命令であることが分かる。「弟子としなさい」が命令となっている。その他は分詞でかかっており、こんなふうに訳すのが正確だろう。

「行って」「人を悔い改めに導いて、バプテスマを授け」「教える」ことによって、すべての国の人々を「弟子としなさい。」

その他の3つは、弟子にしていく方法であるとも言える。イエスの弟子をつくること。従って、この箇所は「大宣教命令」というより、「弟子育成命令」と言うにふさわしい。弟子とはイエスの心を持つ人。すなわち愛と憐れみの心をもって愛することを実践する弟子を育てる命令と読む事が妥当のように思われる。



Doing よりBeing

よく引用される使徒の働き1:8「しかし、聖霊があなた方の上にくだるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、及び地の果てまで、わたしの証人となります。」ここでも注意深く読むと、「伝道しろ」とは言っていない。むしろ、証人となる、すなわちdoingよりbeingが強調されている。最近、イスラム教からクリスチャンに改宗する人もいるようだが、それは説得されたからではなく、愛の行為を受けたからだと言う。聖書のメッセージは実は「伝道しろ」ではなく、「イエス様のように変えられて、愛を実践しなさい。」なのではないだろうか?「愛しなさい、仕えなさい」のメッセージはあちこちにあるが、すべてのクリスチャンに向かって「伝道しろ」と直接命令している箇所を探す方が難しい。

 むしろ御言葉の薦めは真の「キリストの弟子」となるということ。それなしの伝道は実を結ばないし、次の弟子が育たない。よく英語では、Caught than taughtという。「弟子は師の後ろ姿を見て学ぶ」とでも訳そうか。いくら高名な教えを説かれても、愛されていないと受け入れられない。People don’t care how much you know until they know how much you care. そして、Leader is lover, lover is leader. とも言う。弟子とはイエスの心を持つ人。それはマニュアルでは育たない。イエス様と一緒に歩み、イエス様に従う弟子達と一緒に歩む必要がある。そこでじっくり醸成される。

「宣教」というと、救霊のための「神、罪、救い」をパッケージで語り、イエスを信じるか信じないかを迫る事と解釈されることが多い。いわゆる「福音」の内容を伝えることが大事なのであって、我々の責任は「伝える」こととされる。そういう意味では、ここマタイ28章19−20節は「宣教命令」でさえない。一方的な「宣教」だけでは弟子は育たないからだ。弟子を育てるには、時間をかけて弟子の人生にかかわらなければならない。

この箇所の本当の意味を知るには、マタイが前までの章で書いてきたことをレビューしてみる必要がある。次回、このテーマをもう少し、掘り下げたい。



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1 件のコメント:

Miwako Fujii さんのコメント...

いつも、興味深く読ませて頂いております。前回の教会の4つの形の話とと今回の内容は、普段自分が考えていることとあまりに近いので驚きました。