2022年8月25日木曜日

「死んだら天国に行く」は聖書的か?

 

「死んだら天国に行く」は聖書的か?

「死んだら天国に行く」と聖書にストレートに書かれている箇所が無い!と聞いたらびっくりするだろう。だって「私たちの国籍は天にある」と書いてあるでしょ?と反論する人がいるかも知れない。しかし、この箇所は「国籍」の話で、「天国に行く」と言っている箇所ではない。この箇所全体を読んでみよう。

 

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。 (ピリピ3:20)

 

私たちが天国に「行く」というより、キリストが天から「来られる」というのがここのポイントだ。そもそも御国=天国ではない。御国はギリシア語でバレイシア、英語ではKingdom、つまり「王国」であり、むしろ政治的な概念だ。

 

NTライトが「驚くべき希望」で明確に説明してくれている通りだ。

 

しかし、新約聖書における「天」という言い回しは、そのようなものではない。イエスの説教の中に出てくる「神の王国」は、死後の運命や、この世から逃げ出して別世界に行くことを指すのではない。「天になるごとく地にも」もたらされる神の主権による支配について語っているのだ。この誤解の根は非常に深く、特にキリスト教の考え全体に影響を与えてきたプラトン主義の名残にまで至る。人々はプラトン主義の影響により、キリスト者は今ある世界や今ある体には価値がないと考え、それらを古びたもの恥ずべきものとみなしていると誤解するようになった。P55

 

私達は第1世紀の異端、グノーシス主義の霊肉二元論を批判するが、ライトが言うように現在のキリスト教の中にも多分に物質、肉体軽視のプラトン的な要素が入ってきていると思われる。

 

御国=天国ではない!

ちなみに旧約聖書は「地上的」であり、死後や「天国」についてほとんど無関心と思われるほどだ。「死んだら天国に行けるのだから今は我慢しよう」的な発想がほとんどない。むしろ、「祝福」も「呪い」もこの地上で決着がつく。神がこの世界を良きものとして創造したのであり、この世界で神と共に生き、食事をし、宴会をし、結婚をし、性を楽しみ、子供を産み、家族を楽しみ、仕事をし、生涯を全うしてゆく。それが旧約聖書だ。その世界観を土台に新約聖書があることを忘れてはならない。

 

この意味でメシア王国=千年王国が「この地上」に実現することが極めて重要なのだ。それこそがプラトン的ではなく、聖書的な事なのだ。「悔い改めなさい、天の御国が近づいたから」(マタイ3:2)とバプテスマのヨハネが説教した時に、これを死んでから行く「天国」と理解した人はいなかっただろう。御国=Kingdomとは神の支配が及ぶところであり、彼らはそれを、この地上に期待していた。つまり、彼らが期待していたのはメシアが治める地上の王国だったのだ。(使徒1:6)

 

「行く」より「来る」

聖書には、天国に「行く」という記述が少ないのとは逆に、「来る」という表現が多い。キリストが「来る」、御国が「来る」など。「天国に行く」より、キリストが再び「来られる」という記述の方が圧倒的に多い。また御国に「行く」という表現がされていない。むしろ「御国」を「受け継ぐ」(まるで不動産を相続するときの用語のように)という表現になっていることにも注目。天国に「行く」ことがそんなに重要なら、なぜ主の祈りは「御国に行かせて下さい」ではないのだろうか。むしろ、ベクトルは逆だ。「御国を来らせて下さい。御心が天でなるごとく、地でもなさせたまえ」が祈るべきことなのだ。私達の魂だけが天国に「行く」ことが目標なら、なぜイエスは天で待っていないで、再び地上に「来られる」のか?旧約的世界観からは、失われたエデンの園は、この地に回復されなければならない。

 

すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。  (エペソ1:21)

 

さらに、ここでは天から「来る」というより、御国は、未来から「来る」。「天地」という「上下」のベクトルより、また「あの世」、「この世」というベクトルより、「今の世」と「次に来る世」というリニアルな時間軸なのだ。それが聖書の歴史観。だから終末の出来事を「時系列的」に理解することは大事なのだ。この地上に「次の世」(メシア王国)が来るのだ。パラダイスは、そこに行くための一時的な宿泊所だ。私達が地上に戻ってくるとしたら、あなたの信仰や希望は大きく変わるのではないだろうか?

 

死んだらパラダイスに行く

多分「死んだら天国に行く」の表現に一番近いのが、十字架でイエスご自身が隣の罪人に語った言葉だろう。

 

イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 (ルカ23:43)

 

だから正確には「天国に行く」ではなく、「パラダイスに行く」と言うべきだろう。「天の御国」は神の支配のことで、地上での「王国」も指すので、必ずしも「天国」ではないからだ。

 

「パラダイス」は語源的には「囲まれた庭園」といった意味でエデンの園に言及されることも多い。何れにしても「雲の上でふわふわ」ではなく、「公園」「庭園」と言うイメージで、苦痛のない「休息の場」であることは間違いない。ただし一時的な休息の場所であり、これで終わりではない。パラダイスに対比されるのが「ハデス」であり、一時的な「苦しみの場所」となる。黙示録20章11節からの「白い御座の裁き」には「ハデス」から出頭した罪人たち(黙示録20:13)が最終的な審判を受け、「火の池」(ゲヘナと表現されることもある)に投げ込まれる。(黙示20:15)これが最終的な「苦しみの場」となる。ちなみに、ハデス自体も火の池に投げ込まれるので、これが一時的なものであることが分かる。(黙示20:14)

 

新天新地に入るまで

一方、パラダイスも最終の場ではない。多くのクリスチャンが死んだら「天国(パラダイス)」に行き、そこで永遠にイエス様と共に過ごすと思っているが、そうではない! 

 

パラダイスには「魂」が行く。地上に残された肉体はお墓に入る。人はもともと体と内側のもの(霊、魂)で、出来ている。(創世記2:7)従って魂だけの状態は不自然な状態だ。パウロははっきり「裸のままではありません」と宣言した。(IIコリント5:1−3)携挙の時に、すでに死んでいる信者は「朽ちない体」に蘇る。地上に残っている信者は一瞬にして「朽ちない体」に変えられ、一緒に引き上げられ空中でイエスと会うことになる。(Iテサロニケ4:15−17、Iコリント15:51−52)体を取り戻すのだ。しかも「朽ちない」体を!

 

その後、天でのキリストの婚姻に参与し、(黙示19:6−8)キリストの地上再臨にお供する。(黙示19:14)この「軍勢」は言語では複数形であり、「御使」の軍勢と「聖徒」の軍勢を指すものと思われる。それから千年王国でキリストと共に地上で「王」として治める。(黙示20:6つまり、「体」を頂いて、地上に戻ってくるということだ。ここまで理解しているクリスチャンが少ないように思われる。ただし、あるクリスチャン達は「千年王国」をすっ飛ばして「新天新地」を更新された地球と考え、今の世との連続性を唱える。黙示録の字義的解釈、時系列的解釈に立つ人たちは、「地も天もあとかたも無くなった」(黙示20:11)を字義通り取るので、21章の新天新地は「この地上」ではない、「永遠の秩序」と理解する。いずれの立場を取ったとしても、主の再臨後、戻ってくるのは、この「地上」である。

 

「千年王国」の後、「白い御座の裁き」には出頭せず、(黙示20:6)新天新地に入る。(黙示21−22章)ここが最終の「休息の場」であり、ここでは呪われるものは何もなく、キリストは裁き主・王ではなく、「子羊」に戻る。我々は、そこで神の御顔を仰ぎ見る。(黙示22:3−4)ハレルヤ!

 

このように聖書が語るところによれば、「死んだら天国」という単純な事ではないことがよく分かる。

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執筆者:栗原一芳

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2022年8月18日木曜日

愛という名による監視と支配

 

愛という名による監視と支配

数ヶ月前、現代思想入門(千葉雅也)を読んだ。ダリダ、ドゥルーズ、フーコーのフランス現代思想。二項対立を脱構築。同一性より差異。逃走線を引け。接続と切断。ふむふむ・・・結構好きなんです、こういうの。しかし、今回、心に留まったのはこのフレーズでした。

 

「関わりばかりを言い過ぎると、それによって監視や支配に転化してしまうという危険性があって、それに対するバランスとして、関わり過ぎないということを言う必要もある。」(P.75)

 

「愛」は支配、監視となり得るということ。ストーカーは愛するゆえに「監視」する。相手を支配しようとする「愛」は自己愛の延長だろう。従って、それは行き過ぎであり、自己中心なのだ。哲学者は言う。「接続」と「切断」のバランスが必要だと。

 

本当の愛は支配しない

本当の愛は、適当な距離を保つことであり、支配しない。監視しない。お互い「大人」としてプライバシーや自由を尊重する。友達でも夫婦でも、関係を長引かせるには、これが重要だということだ。べったりしすぎると仲いいように見えるが、結局「共依存」となり、重荷となり、結局、傷つけ合うようになる。

 

多くの場合「好きだ」、「愛してる」という告白は、「自分の欲求を満たしたい」、「支配したい」、「監視下」に置きたいということに他ならない。(IIサムエル13章のアムノンのタマルに対する想いは参考になる。)

 

我々は「信仰」によってイエスを信じる。強制ではない。イエスの弟子たちは皆、自分の意志で従っていた。それはすべて、先行する神の愛への自由な応答だったのだ。(ローマ5:8、Iヨハネ4:10)

 

教会がカルト化するとき

しかし、どうだろうか、カルトはもとより、福音派と呼ばれる教会でも「牧会ケア」という名の下に信徒の監視、支配が行われていないだろうか。牧師への服従が神への服従と見なされ、結婚から職業斡旋まで牧師の指示に信徒が従う教会を見たことがある。それでは思考停止の牧師依存になってしまうだろう。

 

そのうち指導者に違う意見を言う事ができなくなる。一種の相互依存が起こる。「支配者」は「被支配者」がいなければ存在できない。どちら側にもニーズがある。聖書をコツコツ学ぶより、カリスマ指導者の言うことを聞いていた方が楽なのだ。そのようにして、ますます依存度が高まる。

 

一方、こういう権威をかざしたがる指導者はセルフイメージが低く、承認欲求が高い。そして、精神的に不安定 (insecure) なのだ。信徒に崇められることを欲する。また、自分や自分の教会から信徒が去ることを極端に恐れ、そうする信徒は「呪われる」的なことを言ったりする。しかし、イエスは真実を語った故に去って行く弟子は自由に去らせている。(ヨハネ6:66)また、ユダにはご自分を裏切る「自由」さえ与えておられた。(ヨハネ13:27)

 

「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。」

IIコリント3:17)

 

「自由」は健全さを測るバロメーターだ。「愛」と「自由」はコインの裏表。「あの集会に行くな、あの本は読むな、あの人と関わるな」など規制をしてくる時は要注意。縛り、縛られる関係、風通りの悪い、閉鎖環境は健全ではない。

 

「教会がカルト化するとき」(ウイリアム・ウッド著)によると、カルト化した団体の特徴は・・

 

1.      指導者が権威主義的になっている

2.      マインドコントロール的手法が用いられている

3.      極端な排他性が見られる

4.      具体的な被害が出ている

 

そこには他者を生かす「愛」が無いから、「自由」も無いだろう。

 

 

どうしたらカルト化から守られるのか?

何よりも正しい「神観」を持つこと。神の御子に対する正しい信仰と知識を持ち、キリストにあって成熟した「大人」となること。そのためにはスモールグループでのバイブルスタディは大変有益です。教えの風に吹き回されないようになること。それを助けるのが霊的リーダー達なのです。周りのクリスチャンが大人になるのを助けるのであり、いつまでも子供扱いして自分に依存させるのではありません。

 

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。  (エペソ4:11−15)

 

神との健全な関係を持つことが極めて大切です。あなたの神との関係は営業成績で決まるような「会社的」なものですが、それとも愛と信頼に満ちた「家族的」なものですか?あなたは自由ですか?何か神のために奉仕をしてないと、罪悪感や不安が湧いてきていませんか?神に愛されるには自分は足りないと思っていませんか?そうすると「行いによる救い」へシフトしてゆくのです。カルトはそこにつけこむのです。真理はあなたを縛るのではなく、あなたを自由にするのです。(ヨハネ8:32)もう一度、この聖句を読んでください。

 

「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。」

IIコリント3:17)

 

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関連資料

「教会がカルト化するとき」ウイリアム・ウッド著 いのちのことば社

 

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2022年8月11日木曜日

安息日は守るべき?


聖書の神は「契約」の神

聖書の神は「契約」の神なのだ。創世記15:12−21を見ると神がアブラハムと「契約」を結んでいる様子が書かれている。「申命記」は宗主権契約(王と臣民)の形で書かれている。日本人には神との関係に「契約」を持ち込むことに違和感があるだろう。ましては「血の契約」となると・・・しかし、キリスト教の救いを理解するには「血による贖い」を理解しないと分からない。

 

罪の報酬は死であり(ローマ6:23)、死は命を要求する。血は命。従って血が流されないと赦されない。(レビ17:11、ヘブル9:22)それで旧約時代は民の罪のため動物の犠牲が毎年捧げられた。しかし、ついに救い主が来られ、罪なき子羊、イエスが十字架で血を流したので、ただ「一度」(ヘブル9:12)で、「完全」(ヘブル7:25)で「永遠」(ヘブル9:12)の贖いが成された。子羊の血は「契約の血」である。(マタイ26:28)従ってこの神が恵みを持って提供している「救い」を「信仰」によって受け取る者は、救われることになる。

 

契約の概念が分からないと聖書が分からない。旧約聖書の旧約とは古い「契約」のこと。契約である以上、契約の当事者を明確にしなければならない。旧約聖書の契約は、神と選民「イスラエル」との契約。新約聖書の新約とは、新しい「契約」のこと。この契約には「異邦人」も含まれる。新しい「契約」の時代に入ったら、古い「契約」は破棄される。シナイ契約(律法)の時代は終わり、人類の罪のため子羊の血が流されたことによる、「恵みと信仰」による「救い」の時代に入っている。

 

この事をしっかり理解しないと、旧約の律法を新約に時代に持ち込むことになり混乱する。ある人は「安息日」を守ることを「日曜礼拝」を守ることと勘違いしている。これもこの区別をつけないことから来る混乱だ。では、1つ1つ見てみよう。

 

シナイ契約を理解する

シナイ山の麓でモーセを介して神とイスラエルの間で締結された「契約」だ。

律法を理解するため、シナイ契約を理解することが極めて重要だ。これを取り扱っているのは出エジプト20:1から申命記28:68。

 

  契約の当事者:「神」と「イスラエル」である。この契約は「教会」や「異邦人」と結ばれたのもではない!(申命記4:7−8、詩篇147:19−20、マラキ4:4)

  契約の内容:合計613の規定からなる「モーセの律法」従順なものには祝福、不従順なものには呪いが下るという条件付き契約。ちなみに十戒は、この613の律法セットの一部。

  モーセ律法の重要な要素:血のいけにえ(レビ17:11)

 

その他、食物規定などあるが、その中の1つが「安息日」の規定。

 

安息日の規定

契約の当事者を思い出して頂きたい。これは神とイスラエルとの契約で、異邦人や新約の教会に対してではない!

 

安息日に関する重要な事

 

  異邦人信者や教会には適応できない。

  安息日の順守はモーセの時代から始まった。創世記2:1〜3は、単に神がどうされたかを記しているだけで、命令ではない。

  アダムからモーセまでの間、安息日を順守したという記録がない。

  安息日は「礼拝」を捧げる日ではなく「休息」の日。(創世記31:15)民にとっては徹底した休息を取る日であった。

  安息日に集まって礼拝せよとの命令は無い。その習慣はバビロン捕囚以降。

  安息日に関連して「聖なる会合」という表現が出ているが、これに参加したのは祭司だけ。

  モーセ律法では集団で礼拝する機会は「過越の祭り」「7週の祭り」「仮庵の祭り」の三大例祭。

  安息日冒涜の罰は死刑

 

シナイ契約は終了した〜律法からの解放

大事な事は、シナイ契約が終了すると安息日順守の義務も無くなるという事。

シナイ契約は律法の時代の「土台」となっていた。しかし、メシアの死と共に終了した。(ローマ10:4、IIコリント3:3−11、ヘブル7:11−12)

 

それでは現在、どうなっているのか?613の規定のうち、儀式的規定は廃棄されたが、道徳的規定は残っていると主張する人もいる。しかし、律法は613の戒律のセットなのであり、一部だけ残すというのは不可能だ。

 

律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。 (ヤコブ2:10)

 

むしろ、新約聖書が主張するところはモーセの律法がメシアの十字架の業により無効になったという事であり、イエスをキリストと信じるものは律法から解放されているという事である。そして道徳規定はキリストの律法(Iコリント9:21、ガラテヤ6:2)でリライトされている。キリストが律法の成就者だからだ。

 

  ローマ7:5−6

  ローマ10:4

  ガラテヤ3:19

  ヘブル7:11−18

  ヘブル8:8−13

  エペソ2:14−15

  ガラテヤ3:23−4:7

  IIコリント3:2−11

 

マラキ書3:10をもって十一献金を強要できないように、「安息日」を持ち出して日曜礼拝を義務つける事はできない。それらの規定は終わっている。聖書は定期的に集まるよう勧めているが(ヘブル10:25)、時間、曜日の指定は無い。特別な日を定めるのではなく、初代教会では毎日集っていた。(使徒2:46)

 

百歩譲って、安息日を正確に守りたいなら、「土曜日」に実行しなければならない。また、安息日の精神を守りたいなら、「礼拝行事」への参加ではなく、週一度の徹底した「休息」を守るべし。「聖日厳守(日曜礼拝参加義務)」というフレーズもよく聞くが、初代教会の信者が、イエスの復活を覚えて日曜礼拝するようになったのであり(ただし、聖書に日曜礼拝の義務規定は無い)、旧約の「安息日」とは関係ない。従って、安息日厳守=聖日厳守ではない!

 

 

契約の話に戻ろう。新約聖書には「御国の世継ぎ」(エペソ1:11)とか「共同相続人」(ローマ8:17)など法律用語が出ている。契約だからだ。神はイエスを救い主として信じるものに聖霊を与えられる。この聖霊は御国を受け継ぐ「保証」となっている。(エペソ1:14)これは契約であり、聖霊は契約書の保証印(エペソ1:13)である。そして、締結者である神は偽ることができない。契約なので、自分の気分や感情による事なく、神の「真実」のゆえに「救いの確信」を持つことができる。ハレルヤ!

 

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参考本

「ディスペンセーショナリズムQ&A

中川健一著 ハーベストタイムミニストリーズ出版

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2022年8月4日木曜日

奥義としての神の国


新約が語る「奥義」

新約聖書には「奥義」という言葉が出てきます。パウロはよくこの言葉を使っています。奥義とは、旧約時代には隠されていたが、新約に入り啓示された事柄です。(エペソ3:3−5)例えば・・・

 

  異邦人とユダヤ人によるキリストの体としての教会(エペソ3:6)

  内住のキリスト (コロサイ1:27)

  携挙で、一瞬に変えられる肉体(Iコリント15:51−52)

 

どれもユダヤ人には驚きの内容だったでしょう。異邦人がメシアに連なり、共にキリストの体となり、共に「御国」の相続人になるなんて!(ローマ8:17)異邦人もキリストを信じると「御霊」を頂けるなんて!(使徒10:45、15:8−9、ローマ8:15−16)

 

「神の国」は先延ばしに

ユダヤ人にとっての関心は「メシア」がもたらす「神の国」でした。ユダヤ人向けに書かれた「マタイの福音書」には「天の御国=神の国」という用語がたくさん出てきます。バプテスマのヨハネのメッセージは「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」(マタイ3:2)でした。イエスご自身も宣教を開始した時、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」(マタイ4:17)と語りました。「御国の福音」を語ったのです。

 

しかし、イスラエルは、メシアなるナザレのイエスを拒んだので、福音は異邦人に向けられていきます。国家としてメシアを拒んだ罪のゆえ、AD70にエルサレムは破壊され、ユダヤ人の世界への離散が始まります。イスラエルの再興どころではありません。(使徒1:6)逆に、国を失ってしまったのです。しかし、イエスは、イスラエルの再興を否定したのではなく、「今」ではない、父がその時をご計画なさっていると語っているのです。(使徒1:7)それはキリストの再臨後に地上に「メシア王国=千年王国」として成就するのです。しかし、その「間」はどうなるのでしょうか?

 

 

「奥義」としての「神の国」=「教会」

ユダヤ人のメシア否定により福音は異邦人世界へ向かいます。地上の神の国=御国は後回しになったのです。しかし、奥義としての「神の国」が成就しました。それが異邦人とユダヤ人が共にキリストに連なって形成される「キリストの体」すなわち、「エクレシア=教会」です。これを「教会注入説」という場合があります。旧約聖書には新約の「新しい一人の人」(エペソ2:15)としての「教会」は出てこないので、ユダヤ人は戸惑ったに違いありません。旧約では「神の民=エクレシア=選民」だったからです。ただ注意深く読めば、アブラハムの子孫から出るキリストを通して世界すべての人に祝福が及ぶことは預言されていました。(創世記12:3、使徒15:17)

 

「麦と毒麦」の話(マタイ13:24—30)

「天の御国」の説明箇所です。イエスご自身が解説をしておられます。(マタイ13:37−43)この話は、御国の子供たちがいる世界に、悪魔が「毒麦」を撒く話ですね。つまり、「今」の時代のことです。メシア王国=千年王国では「底知れぬところ」でサタンは縛られているので、サタンは地上にはいません。(黙示20:3)また、「新天新地」はサタンが滅ぼされた後(黙示20:10、21:1)到来するので、そこにはサタンはいません。

 

しかし、この話ではサタンは活動しています。今の時代はサタンが信者に攻撃をしていることが日常的に起こっています。(Iペテロ5:8)だから新約の著者は悪魔に立ち向かうように命じているのです。(Iペテロ5:9、ヤコブ4:7)サタンが活動しているのは「今」の時代なのです。従って、この「天の御国」は今の時代のことを描写していると言えます。ここでの「天の御国」は「教会時代」の宣教のことを描写していると考えられます。

 

「からし種」の例えは天の御国が爆発的に成長する様子が描かれています。(マタイ13:31−32)正に、使徒1:8ですね。エルサレムで始まった福音宣教が実を結び、世界へと神の国=教会が広がっていきます。新天新地では宣教の必要はもう無いので、神の国の拡大はありません。

 

次の「パン種」の例えにあるように、成長過程で、「間違った教え=パン種」も教会に紛れ混んで広がっていきます。(マタイ13:33)

 

このようにマタイ13章で語っている「神の国」は天国ではなく、「今」の時代のことです。「天の御国」がもし、「天国」なら、天国に間違った教え=異端、やサタンが存在することになってしまいます。従って、ここでの「天の御国」は奥義としての御国、すなわち、教会のこと、あるいは「教会時代」のことを指していることが分かります。

 

4つの種の話=今の時代の伝道

有名な「4つの種の話」も教会時代の様子を描いています。なぜならメシア王国、新天新地では「伝道」は必要ないからです。ノンクリチャンはそこにはいないのです。「4つの種」の話は。正確には「4つの土壌」の話です。種は「福音」で同じです。ただ、土壌=聴く人の心の状態が違うのです。今の時代、伝道すると正に、このような4つの反応があります。

 

1)      福音の種が撒かれても拒否するので、サタンがすぐに取り去ってしまう。

はい、ここでもサタンが活動しています。今の時代だからです。

 

2)      2)〜4)は種が芽を出すので、救われている人です。しかし、根がな

いので、枯れてしまったり、この世の心遣いと富の惑わしに心を奪われ成長できないクリスチャンとなることがあります。しかし、良い心の人は30倍から100倍の実を結ぶようになります。

 

この世の心遣いや富の惑わしがあるのは「今」の世です。天国ではありませんね。つまり、ここでの神の国とは「天国」ではないのです。正確には死んで直行する「パラダイス」でもないし、再臨後地上に成就する「メシア王国=千年王国」でもないし、ましてや最後の審判後、訪れる「新天新地」でもないのです。もちろん、それらも「神の国=御国」です。しかし、ここでイエス様が語られているのは「今」の時代の「神の国」、すなわち、「教会」のこと、あるいは「教会時代」のことです。厳密に言うと、神の国=神の支配なので、神の国=教会ではないが、エクレシアがキリストの充満であることは確かだろう。(エペソ1:23)

 

イエスご自身が語られました。神の国は、すでに来ているのです。(ルカ11:20)「キリストの体」である「エクレシア=教会」が地上に存在しているからです。教会のかしらはキリストです。教会はサタンを一時的に追い出す権威があります。しかし、抹殺することは、まだできません。神の国は「もう」来ていますが、「まだ」来ていないのです。その「間」が今の「教会時代」です。イエス様ご自身、これを「天の御国の奥義」と呼んでいます。(マタイ13:11)弟子たちだけにイエスはこの「奥義」を前もって語られたのです。また、「神の国」を「今」の時代だけで完結してしまうと、「再臨」の意味が薄れてしまいます。神の国はキリストの地上再臨により完成します。

 

 

地上の教会の誕生、使命、寿命

それでは「教会時代」とは、どの期間のことでしょうか。教会の誕生「ペンテコステ」(使徒2章)から教会が天に挙げられる「携挙」(Iテサロニケ4:16−17)までと言えるでしょう。

 

では「教会=キリストを信じる群」の役割とは?イエス様の3つの命令に沿って考えてみると・・・(マタイ22:38−40、マタイ28:19−20)

 

  神を愛する 賛美の群れ、礼拝者の群れ

  人を愛する まずは信仰の家族へ、そして隣人へ

  弟子を作る 伝道し、神の支配(御国)を広げる

 

神は「回復の神」、「癒しの神」です。サタンと人の罪によって乱された、この被造世界を回復させようとしておられます。そのベクトルに従って、クリスチャンは、この地上で「神と人」、「人と人」、「人と被造物」との関係修復に努め、シャローム成就に努めます。だから社会的ニーズに対する諸ミニストリー(ホームレス、ファミリーライフ、フリースクール、子ども食堂、自殺防止、高齢者ケアなど)は、この「癒し」、「回復」のコンテキストの中で大事なのです。神がなさっていることに、私たちも参与するのです。やがてメシア王国が到来した時、王なるイエスと共に聖徒たちも王として地を治めるのです。(黙示20:5−6)ですから、今の時代は言ってみれば「見習い期間」です。王の仕事を助けながら習得しているのです。

 

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