2021年5月28日金曜日

教会にとって避けて通れない難しい問題(1)

 

教会に突きつけられてくる以下の課題は簡単には答えが出ない。自分も悩んでいる部分があるので、今回は回答ではなく、問題を考える視点を分かち合うことにします。

 

1)  安楽死

一口に「安楽死」と言っても2種類ある。「消極的安楽死」と「積極的安楽死」。「消極的安楽死」は「尊厳死」「自然死」「平穏死」とも言われ、過剰な延命治療を行わず自然の経過に任せた「死」。日本では1960年くらいまでは「尊厳死」が当たり前で、ほとんど自宅で最後を迎えていた。ただ、最近は病院での過剰な延命措置のため、「壮絶死」が増えているという。一方「積極的安楽死」は本人が命を終わらせる目的で「薬」を投与するのが「間接的安楽死」、医師が自殺幇助をするのが「直接的安楽死」。これは、日本では法的に許可されていない。医師による自殺幇助はオランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、オーストラリアの一部の州で容認されている。「積極的安楽死」を求めて、それらの国に行く人もいると聞いている。「積極的安楽死」を支持する人は「生きる権利があるのと同様に死ぬ権利もある。」と主張する。果たしてそうだろうか?「主は与え、主は取られる。」(ヨブ1:21)命を与えるのは神。その命を終わらせるのも神なのではないだろうか?クリスチャンはキリストにあっての「復活」の希望がある。パウロは「世を去って、キリストとともにいる」ことがはるかに望ましいと言っている。(ピリピ1:23)パウロなら過剰な延命措置をしたとは思えない。

 

Q: 「私、筋萎縮性側索硬化症(ALS)で、治る見込みがありません。将来、何

  の希望もありません。日本では積極的安楽死(医師の自殺幇助)は認めら

  れていないので、オランダに行って、そうしようと思っています。この件

        関して悔いはありません。私の人生のことです。自分で決めたことです。」

 

  あなたならどう答えますか?

 

2) 妊娠中絶  

   令和元年の「妊娠中絶件数」は156,430。もっともこれは公式発表なので、

   闇に葬られた件数は分からない。妊娠中絶は「殺人」だろうか?女性の

   権利だろうか?日本でも望まない妊娠を避けるため、ピルを手軽に薬局

   等で買えるようにしてほしいとの動きもある。クリスチャンの多くは、

   中絶は「殺人」という立場だろう。どの段階で殺人だろうか?3ヶ月目

   か受精卵か?そして、難しいのはお産の時、母体が危険な場合、どちら

   の命を選ぶのだろうか?レイプのケースなどとなると、一筋縄ではいか

   ない。中絶を考えている女性に、とにかく産むように励まし、養子縁組

   を斡旋するクリスチャン団体もある。児童養護施設(孤児院)で育った

   子供たちに対する偏見の問題もある。反対を口で言うのは容易いが、多

   様な分野での取り組みが必要になる。

 

 Q:  教会員のご婦人の娘がレイプされた。犯人の子供を産ませるのだろう

   か?どう育てるのだろうか?未信者の父親は「娘を一生、『傷もの』と

   公表する訳にはいかない。娘の将来のためにも中絶させる!」と言って

   いる。

 

   あなたならどう答えますか?

 

3)  LGBT  




先日、あるラジオ番組に平良愛香というゲイであることをカミングアウトして牧師をしている方がゲスト出演していた。彼の言い分は「神はこういう自分も受け入れ、愛してくださっている。同じ境遇の人にも分かって欲しい。」と神の愛を伝えるためにカミングアウトして証しているという。確かにヨハネ3:16節によれば、「誰一人として滅びることなく・・」と偏見のない神の愛が示されている。「すべての人は罪人なのであり、すべての人を救うイエスが現れた。」そこに福音の福音たる意味がある。しかし、同性愛を「罪」と考えるのか、その人の生まれつきの「あり方」と考えるのか。平良さんは「罪を悔い改めよ。」とか「神がその問題を癒してくださるよう祈ろう。」とか言われて傷ついてきたという。ありのままで「受け入れられたい!」と。彼曰く「同性愛が罪というのは聖書解釈の問題だ。」と。果たしてそうだろうか? 世はLGBTを「罪」ではなく、「ライフスタイル」「多様性」と考える。それでは教会は何と言うのか?同性愛者のカップルが「礼拝に出席させてください。」と教会に来たら、どうするだろうか?同性愛者カップルが教会で結婚式を挙げてくれと訪ねてきたらどうするだろうか?牧師が寛容な心があっても「ああ言う人たちが来るなら私はこの教会を去ります。」と言う「潔癖」な人がいるかも知れない。性的嗜好としての同性愛は「罪」としても、生まれた時のホルモン放出のアンバランスで男性の体で「女性脳」、女性の体で「男性脳」という「性同一性障害」の場合はどうなのか?それで人知れず悩んできた人をさらに「罪人」扱いして追い詰めるべきなのか?

 

Q: ゲイの人が教会を訪ねてきてこう言った。「神は愛ですよね。このままの私を愛してくださるんですよね。長い間、私は人知れず悩んできたんです。苦しかったんです。クリスチャンになりたいんです。洗礼を受けさせてください。正直な私のままで受け入れてくださるんですよね?ゲイのままでクリスチャンになれるんですよね?」と言ってきたら・・・

 

あなたならどう答えますか?

  

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執筆者:栗原一芳

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2021年5月21日金曜日

イエス・キリストを再イメージする(2)

 

世界4大賢者ではない!

自らを「神」とする人が謙遜な賢者だろうか?ユダヤコンテキストで「神」は創造主、全知全能。多くの賢者は「道」を指し示す人。自らに指をさして「私が道であり、命であり、真理なのです。」(ヨハネ14:6)と言う人は、もし、本当に神でないなら、思い上がった狂人としか思えない。軽々しくイエスを「偉大な教師」なんて呼ぶのはやめよう。

 

弟子が神格化したのではない!

イエスご自身が「神」宣言をした。それが十字架の理由。

 

ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒瀆のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」 (ヨハネ10:33)

 

「だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」彼らはみな言った。「では、おまえは神の子なのか。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」そこで彼らは「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と言った。

                   (ルカ22:69−71)

 

「人の子」はメシアの称号、そして「神の子」はユダヤ文化では「神」。ただの人がこのような発言をしたならユダヤ文化では「冒涜罪」になる。

 

この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った 

                   (ルカ24:11−12)

弟子たちもイエスの復活を信じていなかった。ペテロは実地検証して「驚いた」のだ。つまりは想定外だった訳だ。トマスは「わき腹に手を入れて見なければ、決して信じない。」と断言していた。(ヨハネ20:25)弟子たちが神格化して「復活」をでっちあげたのではない!



もう10数年まえになるが、「ダビンチコード」という小説と映画が流行った。グノーシス主義に影響されて弟子たちが、人間イエスを「神格化」したのだという趣旨だが、間違っている。グノーシス主義は肉体を汚れたものと考えるので、イエスが神なら肉体を持って現れることはできないとし、肉体を持って見えたのは一時的にそう見えたという解釈をする「仮現論=ドケチズム」を唱えていた。つまり逆なのだ。人間イエスを神格化したのではなく、神なるイエスがどうして人間となり得るのかに苦闘して、「仮現論」を唱えることになった訳だ。

 

イエスは神証明するための「メシア的奇跡」を行なった。ヨハネは7つをセレクトして記述している。7つ目がラザロの蘇りであり、死んで4日経った人が生き返るという「神業」だ。イエスご自身の復活と宣言「わたしは蘇りです、命です。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)で十分だろう。イエスは100%神なのだ。

 

遠いところに鎮座する聖人ではない!

同時に、イエスは100%人間でもある。排泄も食事もする。感情を持ち、涙を流す方。(ヨハネ11:31)深くあわれむ方。(マタイ9:36)実は、旧約の神も鉄面皮の神ではなく、激情する神、あわれみで胸が熱くなる神だ。(ホセア11:8)ともあれ、イエスは、100%神であるが、近づきがたい聖者ではない。弟子のヨハネは最後の晩餐でイエスの胸に寄りかかっている!(ヨハネ13:25)それほど親近感を覚えさせる方。まさに人と共にある神、インマヌエルの神だ。(マタイ1:23)仕事は大工。筋肉質の体で汗を流し仕事をしていただろう。汗臭くなった衣服は洗濯する必要があったろう。弟子の漁師たちは、ブルーカラー、そして、ホワイトカラーの収税人や革命戦士の熱心党員といった多種多様なユニークな男たちを魅了する存在でもあった。

 

中世カトリックの時代の聖画に見るような生気を失ったような女々しいイエスは聖書的ではないのだ。気さくに罪人、遊女たちと食事をし、会話をする方。カナの婚礼で水をワインに変えて、一緒に喜びを分かち合う方。ある神学生が「イエスは笑ったか?」という論文を書いたそうだが、当然、イエスは飲み食いしながら、大声で笑ったのだと思う。禁欲的な修行僧のイメージではないことは確かだ。それなら、誰も近づかないだろう。

 

イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。 (マタイ9:10−11)

 

人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。  (マタイ11:19)

 

 イエスは罪のために死なれた。それだけ?

リベラル派はイエスを単なる「愛の人」とすることで聖書からズレてしまうが、福音派もイエスを単なる「罪の贖い」の「記号」として、そこだけ切り取って用いて、イエスのご人格と教えを軽視してないか?そのようにして聖書からバランスあるイエス像を受け取っていないのではないか?あたかも罪のための免罪符のように、特効薬のように、罪の贖いの面だけが強調され、一度「服用」すれば、後はもうご用済みとなっていないか?

 

「右の頬を打たれたら左の頬も」なんて守れるわけがない。いや、守る必要もない。「俺だったらぶん殴って、あとで御免なさいと悔い改めるな」と言っているクリスチャンもいる。「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈れ・・」そりゃ、理想であって、現実社会では機能しない。とイエスの教えを引き下げ、プラグマチストになってないか?「聖書の教え?それはそうとして現実社会では・・」とルターの「2つの王国論」を持ち出して、ダブルスタンダードに生きてないか?(この辺の詳しい議論は以下に紹介した本をご参照ください)

 

大宣教命令の「わたしが命じておいたすべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:20)とはどういうことだろう?通常、大宣教命令の前半の部分が語られ伝道は強調されるが、後半は置き去りにされていいのだろうか?

 

罪の「特効薬」イエスをもらうだけではなく、我々はイエスの「弟子」なのだと言う側面を忘れてはならない。「弟子」である限り、師の教えを実践する者でなければならないだろう。「十字架を負ってイエスに従う」とはプレイズソングの歌詞だけでいいのだろうか?

 

「自分の敵を愛せよ」というイエスの教えはどういう事だろうか?どれだけシリアスに受け止めたらいいのだろう。どうやらこれを聞いた弟子たちは「文字通り」受け取ったようだ。コンスタンチヌス以前のクリスチャンたちはイエスに倣って私的・公的問わず人を殺すことには参与しなかった。アウグスティヌスから「神の側に立つ戦争」が是認され、ルターやカルビンもその路線を継承しているという。

 

キリスト教国家と言われる国で、国家を守るため、民主主義を守るためと言って、出てゆく兵士を祝福する牧師の祈りに違和感を感じる人もいるだろう。戦場なら人殺しをしてもいいのか?敵を殺せば「栄誉」となり、勲章をもらえるのか?イエスはどうなさるのだろうか? イエスは「神の国」を説いた。「神の国」は、完成はしていないが、すでに始まっている。キリストに従う生き方は「世の光」、「地の塩」として、この世に証しされなければならない。自衛の戦争については賛否両論あるだろう。簡単には答えが出ないが、「今」を生きるクリスチャンとして考える必要がありそうだ。

 

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参考本

「イエスは戦争について何を教えたか」〜暴力の時代に敵を愛するということ

ロナルド・J・サイダー著  あおぞら書房




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執筆者:栗原一芳

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2021年5月13日木曜日

イエス・キリストを再イメージする


旧約の神と新約のイエス様

旧約の神は厳しいけど、新約のイエス様は優しい方。一方はシナイ山で、ご臨在を現わし、民を震え上がらせる方。一方は子供達と遊ぶ親近感を抱かせる方。旧約の神と新約の神(イエス)は違う方のように感じておられる方が多いのではないでしょうか。私達のイエス様のイメージも「優しい方」「近づきやすい方」「赦してくださる方」というイメージしか無いかもしれません。しかし、聖書全体からイエスはどういうお方かを知る必要があります。まずは・・・

 

「わたしと父とは1つです。」(ヨハネ10:30)

 

とあります。この意味は同質という意味です。もちろん旧約の神も新約のイエス様も同じお方です。私達は聖書全体から、「三位一体」の神を信じています。

 

  「三位一体」という言葉は聖書に出てきませんが、その概念ははっきりと書かれています。イエスが十字架につけられた最大の理由は自らを神と等しいとしたからです。(ヨハネ10:33)

 

「わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意思ではなく、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。」(ヨハネ5:30)

 

つまり、イエスのさばきは父なる神のさばきであり、イエスの心は父のみこころだということです。ここでもイエスと父なる神は完全一致です。したがって、旧約の神も新約のイエスも全く同じお方です。

 

優しいだけのイエスのイメージを聖書的に変える必要がありませんか?

 

 

裁き主、イエス

新約時代においては裁く権限が御子キリストに移されていることをご存ですか?

 

「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。」

                     (ヨハネ5:22)

 

「また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だか 

 らです。」                 (ヨハネ5:27)

 

「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の

 隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。」(ローマ2:16)




 再臨のイエスは同じイエスですが、裁き主としてやって来られます。

 

「主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるとき

 に起こります。主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従

 わない人々に罰を与えられます。そのような者たちは、永遠の滅びという

 刑罰を受け、主の御前から、そして、その御力の栄光から退けられることに 

 なります。」 IIテサロニケ1:7−9)

 

なんか、不動明王のようなイメージですね。これもイエスです。あの優しいイエス様が神を信じない人々を「永遠の滅び」という裁きを与えるの?とショックを受けるかも知れませんが、聖書はそう書いてあります。

 

ルカ19章の「ミナの例え話し」を通して、イエスが「王」になるのを望まない人に対して「ここに連れてきて、私の目の前で撃ち殺せ!」と語っています。これはイエス様ご自身の口から出た言葉です。

 

 

黙示録におけるイエスの描写

「私は、自分に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。また、その燭台の真ん中に、人の子のような方が見えた。その方は、足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めていた。その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬された、光り輝く真鍮のようで、その声は大水のとどろきのようであった。また、右手に七つの星を持ち、口から鋭い両刃の剣が出てい て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」  (黙示録1:12−16)

 

「口から諸刃の剣が出ている方」などには睨まれたく無いですね。とても優しいイエス様のイメージではありません。しかし、これも聖書が描写するイエスです。

 

「この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。」

                      (黙示録19:15)

 

この姿のイエスがここで再登場します。再臨のイエスが神を信じない諸国の民を裁く場面です。堕落した、ペルガモンの教会への裁きとして「諸刃の剣を持つ方」としても登場します。(黙示2:12)

 

イエスも怒られるのですか?はい。旧約の神が不義に対して怒られるように、新約のイエスも「聖なる怒り」を表すことがあります。宮清めの時も怒って両替人の台をひっくり返しましたね。(ヨハネ2:15)また、偽善のパリサイ人に対して「まむしの子孫たち、お前たち悪者に、どうして良いことが言えますか。」(マタイ12:34)と辛辣な言葉を吐いています。大艱難時代には「神と子羊の御怒りの大いなる日」(黙示6:17)とあり、子羊なるイエス様がお怒りになるのです。

 

黙示録20章には「白い御座の裁き」と呼ばれる最終的な裁き(一般には『最後の審判』と呼ばれています。)が描かれています。大きな白い御座に座り、裁きを行うのはキリストです。全てのカタがついてから王国を父に渡されます。

 

「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。最後の敵として滅ぼされるのは、死です。」  Iコリント15:24−26)

 

「それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。」        (黙示20:14)

 

これで、死が最終的に滅ぼされるのは、白い御座の裁きの後であることが分かります。従って、Iコリント15:24−26で「王国を父である神にお渡しする」のは白き御座の裁きの後、新天新地の直前であることが分かります。新天新地ではイエスは裁き主ではなく、「子羊」に戻ります。(黙示21:22—23)

 

 

悔い改めない人々

誰もが好きなヨハネ3:16。神の愛を最もよく表している箇所と言われます。

福音の本質です。それで、ここだけ取り出して語ることが多いのですが、それに続く、18−19節も同時に読む必要があります。

 

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。」

 

さらに、信じない人には「神の怒り」がとどまることが明記されています。

 

「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

 

ヨハネ3:16節は、ヒューマニズムではありません。万人救済説も支持していません。そもそも聖書的には人は罪を犯したので、本来、滅びる存在なのです。(ローマ6:23)「悔い改めない人」への裁きは一貫して現れる聖書的真実です。選民イエスラエル人もアブラハムの子孫だからといって、自動的に救われるのではありません。イスラエル人に向かってイエス様は言われました。

 

「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(ルカ13:5)   

 

それにしても、2000年前、メシアご自身がエルサレムに来られたのに、彼を受け入れなかったイスラエルの政治的、宗教的指導者の態度には驚かされます。マタイ21:33−46の「ぶどう園」の例えで、いかにイスラエルが頑固で神に忠実でなかったかを語り、それを聞いた祭司長、パリサイ人たちは「自分たちについて話しておられる」(マタイ21:45)と気づいてながら、悔い改めるどころか、「イエスを捕らえようとした。」(46)とは驚きです。真理を語られながら、受け入れようとしないです。この態度は大艱難期中の罪人を思い起こさせます。

 

「これらの災害によって殺されなかった、人間の残りの者たちは、悔い改めて自分たちの手で造った物から離れるということを せず、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた偶像、すなわち見ることも聞くことも歩くこともできないものを、拝み続けた。また彼らは、自分たちが行っている殺人、魔術、淫らな行いや盗みを悔い改めなかった。 (黙示9:20−21)

 

また、ラザロが復活したのを見聞きした指導者たちは悔い改めて信じるどころか

「その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ」(ヨハネ11:53)

 

とあります。

 

アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

                       (ルカ16:31)

 

これが人間なんですね。悲しいですが、事実です。

 

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執筆者:栗原一芳

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2021年5月6日木曜日

実はよく分からない「山上の垂訓」

もっとも良く知られていて、もっとも誤解されている箇所。それが「山上の垂訓」です。聖書を聞きかじりの人は、イエスが語っている「立派な愛の教え」と思っているでしょう。しかし、クリスチャンが読むと意外と理解し難いのです。




 これって救われるための条件? もし、そうなら「私、無理!」

安心してください。聞き手は誰ですか? すでにイエスを信じ従っている人々です。みもとに来たのは「弟子たち」です。(マタイ5:1)つまり、信仰によって「義」を得ている=つまり「救われた人々」です。神の国にすでに入れられた人々に対して神の国のライフスタイルを説いている訳です。信仰によって「義」を得ている信者の特徴、あるいは、目標といってもいいでしょう。

 

「幸いなことよ」で始まる「8福の教え」の真意は、「信仰によって救われ、神の国に入った人たちは何と幸いでしょう!」ということです。「だって、キリストを信じた人は自分の罪深さを知って謙虚になった人、すなわち『心の貧しい人』、天の御国はその人たちのものだから!」「イエスを信じる人は、悲しむ者=世の罪に悲しむ者、罪に対する感受性がある人ですよ。だから救い主を信じたよね。そして慰められたよね。ああ、何と幸いなことか!」「イエスを信じて心清められた人は幸いだよね。神の御臨在を体験できるから・・」と続きます。

 

救い主、イエスを信じた人は内的変化を体験します。聖霊が住みます。アダム系からキリスト系の人類(新人類)に移されています。やがて地上に実現する「メシア王国=千年王国」に入る保証を頂いています。この人たちは「地の塩」「「世の光」です。この「8福」は救いの条件ではなく、すでに得ていることの確認であり、御国の住民が(今のこの世で)目指すべき目標でもあります。ちょうど神の国が「すでに」来ている、しかし、「まだ」完全には来ていない、というのと同じように、クリスチャンは神の国の住民の特徴を「すでに」もっているけど、「まだ」完全になっている訳ではないのです。


 

 それでは「山上の垂訓」って何?

メシアによる律法解釈です。一言で言うとパリサイ人は律法の外的服従のみを重視しました。メシアなるイエスは内的服従(神の御心を知り、心から従う)を外的服従と同様に重視しました。

 

律法と一言で言っても、文書化された「モーセの律法=神の教え」と学者、パリサイ人が付け加えた文書化されない「口伝律法=人の教え」とがあります。イエスはモーセの律法への服従を重視しましたが、「口伝律法」を「人の教え」として排除されました。

 

「あなたがたは〇〇と聞いています」(口伝律法=言い伝え)「しかし、わたしはこう言います。」(メシアの解釈)という構造で進んでいきます。



 現代のクリスチャンにそのまま適応していいの?

大まかに言って、時代は旧約時代(律法の時代)と新約時代(恵みの時代)に分けることができます。律法の時代の律法は現代のクリスチャンに適用できません。そうするとトンカツ(豚肉)や寿司のエビ(甲殻類)などは食べてはいけないことになります。出エジプト記の最後の方は神殿と祭司についての規定ですが、現代においてこれを実行するクリスチャンはいません。そもそも神殿がありません。また安息日を厳格に守ろうとするなら金曜の夜から土曜ということになります。日曜ではありません。ちなみに、十一献金の勧めにマラキ3:10がよく引用されますが、これも旧約の、それもイスラエルという特殊な国での規定ですので、現代のクリスチャンには当てはまりません。

 

イエス様が地上でお働きになっていた時代は、まだ旧約の律法が生きていました。それで、イエスご自身、律法に従順であるため、「過越の祭り」に神殿を訪れていますし、皮膚病が癒された人に「祭司に見せなさい」(マルコ1:44)と規定通りにすることを命じています。

 

「山上の垂訓」はイエスの「十字架」と「復活」の前なので、まだモーセの律法が生きていた時代です。それで旧約の律法がテーマになっています。それらを取り上げて、メシアが正しい解釈をしている訳です。私たちはもはや旧約の律法の時代に生きていません。律法の作成者であり、完全な成就者であるキリストを信仰しているからです。(ガラテヤ2:21)従って、現代のクリスチャンにそのまま適応することはできません。(ヘブル10:9)

 

「あなたがたの義が学者、パリサイ人の義にまさっていなければ、

    あなたがた は決して天の御国に入れません。」(マタイ5:20)

 

これが「山上の垂訓」を解く、鍵となる聖句です。パリサイ人は律法を外面的に守っていたかも知れませんが、メシアが解釈するようには守れていませんでした。つまり心の状態が探られるのです。姦淫はしなくても「心の中で情欲をもって女を見る」ことがあれば、もう姦淫と見なされるのです。このスタンダードには誰も達しません。律法は違反を示し、キリストに導く養育係なのです。(ガラテヤ3:19、24−27)

 

学者パリサイ人の義に勝る「義」とは何でしょう?それこそキリストの十字架と復活によって与られる「信仰による義」です。ここからパラダイムが変わりました。(マタイ11:11−13)

 

イエスご自身、律法を成就するために来ました。(マタイ5:17)旧約の律法の時代は終わって、キリストの律法(ガラテヤ6:2)の時代となったのです。その新しい戒めとは「愛の律法」です。(ヨハネ13:34、ローマ13:9−10)

 

この新しいキリストの律法には、十戒の道徳律(他者に害を与えない)が再び現れます。つまり、十戒を直接適用するのではなく、キリストの律法(愛の律法)には、旧約の律法のある要素が新しい光の下で、「隣人を愛すること」として再登場するのです。今、必要なのはキリストの律法だけです。神を愛し、隣人を愛するということに要約されるのです。(マタイ22:36−40、ローマ13:9)

 

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一口メモ

モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)をトーラーと呼びます。これらは神の言葉です。それらに付け加えた律法が口伝律法(ミシュナー)です。613の戒律に

まとめたものです。イエス時代には文書化されていませんでした。AD220年頃に文書化されます。またミシュナーの解説書であるゲマラー(過去の判例集)が合体し文書化されたものがタルムードです。問題はユダヤ人たちがこのタルムードをトーラーと同格に置いたことでした。口伝律法=先祖たちの言い伝えが優先してしまい、神の御心から離れてしまったのです。(マタイ15:6)

 

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長年、クリスチャン生活をしていても、結構、聖書の箇所が分からないことが多いのです。どの時代、誰に対して書かれたものかといった文脈をわきまえることが大事です。今回も元ネタはハーベストタイムミニストリーズです。

 

ハーベストタイムミニストリーズ

https://message-station.net

「メシアの生涯」(51)〜山上の垂訓

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