2021年5月6日木曜日

実はよく分からない「山上の垂訓」

もっとも良く知られていて、もっとも誤解されている箇所。それが「山上の垂訓」です。聖書を聞きかじりの人は、イエスが語っている「立派な愛の教え」と思っているでしょう。しかし、クリスチャンが読むと意外と理解し難いのです。




 これって救われるための条件? もし、そうなら「私、無理!」

安心してください。聞き手は誰ですか? すでにイエスを信じ従っている人々です。みもとに来たのは「弟子たち」です。(マタイ5:1)つまり、信仰によって「義」を得ている=つまり「救われた人々」です。神の国にすでに入れられた人々に対して神の国のライフスタイルを説いている訳です。信仰によって「義」を得ている信者の特徴、あるいは、目標といってもいいでしょう。

 

「幸いなことよ」で始まる「8福の教え」の真意は、「信仰によって救われ、神の国に入った人たちは何と幸いでしょう!」ということです。「だって、キリストを信じた人は自分の罪深さを知って謙虚になった人、すなわち『心の貧しい人』、天の御国はその人たちのものだから!」「イエスを信じる人は、悲しむ者=世の罪に悲しむ者、罪に対する感受性がある人ですよ。だから救い主を信じたよね。そして慰められたよね。ああ、何と幸いなことか!」「イエスを信じて心清められた人は幸いだよね。神の御臨在を体験できるから・・」と続きます。

 

救い主、イエスを信じた人は内的変化を体験します。聖霊が住みます。アダム系からキリスト系の人類(新人類)に移されています。やがて地上に実現する「メシア王国=千年王国」に入る保証を頂いています。この人たちは「地の塩」「「世の光」です。この「8福」は救いの条件ではなく、すでに得ていることの確認であり、御国の住民が(今のこの世で)目指すべき目標でもあります。ちょうど神の国が「すでに」来ている、しかし、「まだ」完全には来ていない、というのと同じように、クリスチャンは神の国の住民の特徴を「すでに」もっているけど、「まだ」完全になっている訳ではないのです。


 

 それでは「山上の垂訓」って何?

メシアによる律法解釈です。一言で言うとパリサイ人は律法の外的服従のみを重視しました。メシアなるイエスは内的服従(神の御心を知り、心から従う)を外的服従と同様に重視しました。

 

律法と一言で言っても、文書化された「モーセの律法=神の教え」と学者、パリサイ人が付け加えた文書化されない「口伝律法=人の教え」とがあります。イエスはモーセの律法への服従を重視しましたが、「口伝律法」を「人の教え」として排除されました。

 

「あなたがたは〇〇と聞いています」(口伝律法=言い伝え)「しかし、わたしはこう言います。」(メシアの解釈)という構造で進んでいきます。



 現代のクリスチャンにそのまま適応していいの?

大まかに言って、時代は旧約時代(律法の時代)と新約時代(恵みの時代)に分けることができます。律法の時代の律法は現代のクリスチャンに適用できません。そうするとトンカツ(豚肉)や寿司のエビ(甲殻類)などは食べてはいけないことになります。出エジプト記の最後の方は神殿と祭司についての規定ですが、現代においてこれを実行するクリスチャンはいません。そもそも神殿がありません。また安息日を厳格に守ろうとするなら金曜の夜から土曜ということになります。日曜ではありません。ちなみに、十一献金の勧めにマラキ3:10がよく引用されますが、これも旧約の、それもイスラエルという特殊な国での規定ですので、現代のクリスチャンには当てはまりません。

 

イエス様が地上でお働きになっていた時代は、まだ旧約の律法が生きていました。それで、イエスご自身、律法に従順であるため、「過越の祭り」に神殿を訪れていますし、皮膚病が癒された人に「祭司に見せなさい」(マルコ1:44)と規定通りにすることを命じています。

 

「山上の垂訓」はイエスの「十字架」と「復活」の前なので、まだモーセの律法が生きていた時代です。それで旧約の律法がテーマになっています。それらを取り上げて、メシアが正しい解釈をしている訳です。私たちはもはや旧約の律法の時代に生きていません。律法の作成者であり、完全な成就者であるキリストを信仰しているからです。(ガラテヤ2:21)従って、現代のクリスチャンにそのまま適応することはできません。(ヘブル10:9)

 

「あなたがたの義が学者、パリサイ人の義にまさっていなければ、

    あなたがた は決して天の御国に入れません。」(マタイ5:20)

 

これが「山上の垂訓」を解く、鍵となる聖句です。パリサイ人は律法を外面的に守っていたかも知れませんが、メシアが解釈するようには守れていませんでした。つまり心の状態が探られるのです。姦淫はしなくても「心の中で情欲をもって女を見る」ことがあれば、もう姦淫と見なされるのです。このスタンダードには誰も達しません。律法は違反を示し、キリストに導く養育係なのです。(ガラテヤ3:19、24−27)

 

学者パリサイ人の義に勝る「義」とは何でしょう?それこそキリストの十字架と復活によって与られる「信仰による義」です。ここからパラダイムが変わりました。(マタイ11:11−13)

 

イエスご自身、律法を成就するために来ました。(マタイ5:17)旧約の律法の時代は終わって、キリストの律法(ガラテヤ6:2)の時代となったのです。その新しい戒めとは「愛の律法」です。(ヨハネ13:34、ローマ13:9−10)

 

この新しいキリストの律法には、十戒の道徳律(他者に害を与えない)が再び現れます。つまり、十戒を直接適用するのではなく、キリストの律法(愛の律法)には、旧約の律法のある要素が新しい光の下で、「隣人を愛すること」として再登場するのです。今、必要なのはキリストの律法だけです。神を愛し、隣人を愛するということに要約されるのです。(マタイ22:36−40、ローマ13:9)

 

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一口メモ

モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)をトーラーと呼びます。これらは神の言葉です。それらに付け加えた律法が口伝律法(ミシュナー)です。613の戒律に

まとめたものです。イエス時代には文書化されていませんでした。AD220年頃に文書化されます。またミシュナーの解説書であるゲマラー(過去の判例集)が合体し文書化されたものがタルムードです。問題はユダヤ人たちがこのタルムードをトーラーと同格に置いたことでした。口伝律法=先祖たちの言い伝えが優先してしまい、神の御心から離れてしまったのです。(マタイ15:6)

 

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長年、クリスチャン生活をしていても、結構、聖書の箇所が分からないことが多いのです。どの時代、誰に対して書かれたものかといった文脈をわきまえることが大事です。今回も元ネタはハーベストタイムミニストリーズです。

 

ハーベストタイムミニストリーズ

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「メシアの生涯」(51)〜山上の垂訓

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執筆者:栗原一芳

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