2014年7月23日水曜日

「霊性とオーガニックチャーチ」(2)



 前回に続き、「今日における『霊性』と教会」(片岡伸光 他3名著  いのちのことば社)よりキーフレーズを抜粋、オーガニックチャーチとの関係でコメントしてみます。

「やっぱり、霊性というのは、互いに人格的に養われ合うものだと思うんですよね。かかわりの中で。・・どういうところで一番養われていたかというと、例えば自分は学生時代、先輩のクリスチャンの家に招かれて、みんなでああでもない、こうでもないと雑談する中で・・・教会の伝統とか、大切なものが伝えられていったと思うんですね。」(34)

これも極めて大事な指摘ですね。「皆で、ああでもない、こうでもないと雑談する中で」大切なものが伝えられていく。きっと初代教会もそうだったのだと思います。それが段々、「学校形式」になってしまったのです。知識を詰め込んでも自分のものにならないのです。御言葉を今の自分の生き方やこの時代の社会問題とつなげて「ああでもない、こうでもない」の分かち合いが大事なのです。

これがオーガニックチャーチのカルチャーなのです。私達は、エクレシアで集った後の帰りの電車の中で「集団的自衛権」について話したりしています。



「現場に出た牧師がドロップアウトするというのは、能力やいろいろな問題もあるかもしれないけれど、本当の意味での友という関係、フレンドシップを築けない、同労者の間でさえも築けていないところに、問題があるのではないでしょうか?」(48)

痛いところを突かれましたね。私達のエクレシアでは私を含め3名の宣教師がただのメンバーの一人として毎週、他の信徒の方と集っています。最後はお互いの祈り課題を出し合って祈ります。働き人同士でも毎週顔を会わせ、祈り合えるチャンスは意外と少ないのではないでしょうか?多くの働き人が孤立して働き、孤独を感じています。こうしてチームとして働ける事に感謝しています。



「教会の中に小さな交わりといったものを形成していくとともに、その交わりの中で自分自身の人生を見つめるとか、お互いの人生を見つめる、あるいはそれに対してレスポンスしていくという方法もあります。(50)

まさに、エクレシアではこれをしています。「イエスを中心に一緒に人生を生きる仲間」と定義しています。



「極端な話、伝道集会とかやらなくても初代教会があったように、交わりが祝福されて愛に満たされていくときに教会は伸びていくのではないかと思うんですよね。そういうふうに教会をというものが体質改善していかなければ、今までのプログラムを実行していく、そのためには委員会をつくって、予算を集めて、活動して、ということだけを追求していくと、もう行き詰まりが来るのではないかということは感じていますよね。信徒の方々も本当はそう思っているのかもしれませんけど。」(51)

これも大事な指摘です。その通り。人は愛のあるところに集まってきます。プログラムにフォーカスするのではなく「人」にフォーカスします。立派な会堂は無くても、私達はイエスにあっての「魅力ある人間集団」になりたいのです。この本質を追求したいのです。「祈りと人間関係によって広がるエクレシア」


最後に結論をまとめてくれています。

「初代教会は、ローマ人への手紙16章でパウロが書いているように、互いに名前を知り、互いの置かれた状況や戦い、祝福を共有していました。その初代教会の回復を現代の教会は求められているように思います。」(62)


実は興味深いことに、救世軍の災害支援コーディネーターのケビン・エラーズの著「危機対応最初の48時間」の中で、同じような趣旨のことが述べられています。

「私達は人間関係よりもプログラムに関心がいきがちです。しかし私は、人をいやすのは、プログラムや神学的に深められた理解ではなく、人間関係によると確信しています。神は教会を選び、私たちへの神の愛と、周りの人々への私たちの愛を目に見える形で示しました。『問題を解決します』ではなく、『あなたと一緒にいます』というメッセージとともに、傷ついた人々の生活に入っていくことが、神が教会に願うことの力強い実践なのです。」(48)

「困難の中にいる人と『一緒にいることを極める』ことを求めてください。そうすれば神は、神の栄光のために、そして周りの人々に測り知れない永続的な違いをもたらすためにあなたを用いてくださいます。あなたは、だれかにとっての天使かもしれないのです!」(48)

自然災害による被災であろうと、人生の中の困難であろうと、人生を一緒にあゆむ仲間が必要であることには変わりありません。これを求めていくのがオーガニックチャーチなのです。別に新しい事ではありません。初代教会への回復です。キリスト教歴史の中で藤壷のようにフナ底にくっついてしまった人間的な伝統や儀式を取払い、シンプルな初代教会のあり方に戻ることなのです。


「あなたは、だれかにとっての天使かもしれないのです!」


これって素敵な生き方じゃないですか?

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祈り課題

1.クリスチャンが律法主義、「宗教」から解放され福音に生かされるよう。
2.クリスチャンの働き人を含めすべてのクリスチャンがイエスを中心として人生を共に歩む仲間(コミュニティ=エクレシア)を持てるよう。
3.「教室型」の弟子訓練ではなく、「関係」の中で癒され、主の前にへりくだり、砕かれ、正直になることで霊的に成長できるよう。
4.お互いの存在を、心から感謝できるよう。

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関連テーマ参考本
「今日における『霊性』と教会」片岡伸光 他3名著  いのちのことば社
「福音の再発見」 スコット・マクナイト著  キリスト新聞社
Becoming a TRUE Spiritual Community Larry Crabb  Thomas Nelson
「星のように、砂のように」     ラルフ・モア 著  新生宣教団
———————————————— 

「その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる。
                       (エゼキエル48:35)

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2014年7月16日水曜日

「霊性とオーガニックチャーチ」(1)



 1990年の終わり頃から福音派の中でも「霊性」が話題にされるようになりました。その事自体が、福音派には「霊的」側面が欠如していたという事なのかも知れません。そして、「傷」や「弱さ」に霊的意味を見出す、カトリックの祭司ヘンリー・ナウエンがプロテスタントの間で隠れたブームとなったのです。

なぜ福音派で「霊」なのか?これに答えるべく1997年「今日における『霊性』と教会」(片岡伸光 他3名著  いのちのことば社)という興味深い冊子が出版されました。著者は福音派の牧師3名と精神科医。随所に正直で貴重な指摘があります。この本からキーフレーズを抜き書きしながら2回に渡り、オーガニックチャーチとの関連を見てみましょう。



「戦後福音派ではKnowing, Doingが強調され、神の前にあるBeingという面 
 が弱かった。」(p10)「もしかしたらこれまでの福音が福音でなかったので
 はないか?」

正しい教理さえ学べばOKといわんばかりの「勉強型」「教室型」の神学校や教会プログラムが多く現れました。一時、流行った「教会成長論」も今思うと、隠れた成功指向文化、成果主義、覇権主義だったのではと思わされます。「大きいことはいいことだ」的な思想。スコット・マクナイトは「福音の再発見」の中で、「福音派」は実は、「救い派」であると指摘しています。つまり、魂の救いという狭義な福音のみを語り、信じれば一丁上がり的な発想で福音の深さを十分伝えてこなかったと指摘しているのです。信仰の成長とは伝道活動を熱心にすることとなり、あまり内面にフォーカスがされないまま信徒の深い霊的渇きが置き去りにされてきたようです。

最近、ホープチャペルのラフル・モア牧師が来日し、「小さい教会の力」と題してセミナーを行いました。小さいほうが「顔」が見えて、濃い交わりができるというのです。もともと教会は人の集まりでプログラムより「人間関係」が本質なのです。また小さいほうが主の導きに柔軟に対処できます。成果主義では、何より教会の成長が牧師の力量にかかるので、結局、牧師に大きなプレッシャーがかかります。そして、ついには、燃え尽きたり、罪を犯したりするようになってしまいます。教会が大きくなれば、どうしても「組織」となり「運営」が必要になります。そうすると「組織悪」が頭をもたげるのです。

何とか、牧師一極集中を変革できないのでしょうか? 教会が「顔と顔を合わせる」エクレシアの原点に戻れないのでしょうか?会社組織のような教会、プログラムをこなす礼拝をしている間に、世の中ではスピリチュアルブーム。霊のニーズはそちらに持っていかれてしまった感があります。キリストの体としての「有機的生命体」に戻りたい。それがオーガニックチャーチの出て来た背景です。



「ナーウエンの本を読むと、人間が破れとか傷をもっていることが、かえって非常に高い霊性へつながっていく促しがあるわけです。」(14)

群れのリーダーも弱さを正直に分かち合っていける「場」としてのエクレシア。自分も罪人の中の一人にすぎない、みんなと変わらない罪人なのだと知る事はリーダーにとっても解放となるのです。肩に力の入らない、それでいて心に響く交わりの「場」は誰に取っても必要なのです。エクレシアには「偉い先生」はいません。メンターとしての「長老」はいても「先生」と呼ばれる人はいないのです。

エクレシアでは、皆が正直に分かち合える「雰囲気作り」が大事になります。弱さや失敗を正直に分かち合っても「裁かれない」、「説教されない」、「言いふらさない」ことが前提になります。「神のために何かをする」から「自分を通して神が何をなさるのか」という転換。「人を成長させる牧会」から「共に成長する牧会」へ。



「霊性が精神的なものと同じレベルになってしまうと、肉体の命が復讐する」(16)
肉のがんばり、精神力での達成なら、その後、性的な誘惑が襲ってくるといいます。ナーウエンは、その著「イエスの御名で」の中で、「霊的な指導者が、自らを捧げている男女が、実にたやすく、非常に淫らな肉欲にふけってしまう」と書いているのは興味深いところです。

「牧師や祭司が、ほぼ観念の世界だけのミニストリーに生き、自分が伝えている福音を一連の価値ある認識や思想というものにしてしまうと、肉体は愛情と親密さを求めて叫び声をあげ、すぐに復讐をしかけてくる。」(17)

「テレビ伝道者のスキャンダルなども、ただ性欲の問題ではなくて、心と身体という全人格が共同体から離れて、個人的な英雄主義と虚構のセルフイメージで観念的に福音を語る時に、人格の中に地割れが起きる。」(17)

生身の体や性を持つ人間が正当に評価されるというかたちでの福音が伝達されてこなかったと指摘されています。信仰さえあればいいという風潮。そして、ついには不自然さ、無理が波錠をきたしてしまうというのです。「天使を装うものは獣になる」というフレーズをどこかで聞いた事があります。

キリスト教を禁欲主義的精神運動にするなら、この肉の復讐が来るという大変大事な指摘です。聖書は禁欲主義ではありません。性欲も食欲も主の定められた範囲内で「満たされて」ゆくべきなのです。「孤立した英雄」を作ってはいけません。エクレシアでは少人数で、至近距離で接するので、メンバーは生身の人間とならざるを得ないのです。一緒に食事をし、冗談も言う中で、家族や夫婦の葛藤も自然と出てきます。話は現実味を帯びたリアルものとなり、虚構が育ちにくくなります。小さい交わりの中で、愛し合い、仕え合って成長していきます。いや交わりの中でしか本当の成長はできないのです。会社の話も出る。ビジネスのためにも祈る。霊性がすべての領域にかかわっていることを体験してゆきます。



「礼拝の中にもっと本当に沈黙の要素を入れたいですね」(39)

本書中にも、礼拝にいろいろ詰め込みすぎているという指摘されていますが、何が本当に大事なのか見極める必要があると思うのです。「無事」に礼拝プログラムをこなすことが大事なのでしょうか? むしろ「主に触れられ」何かが起ることを期待するほうが大事なのではないでしょうか?

私達のワーシップではギターの演奏をバックに静まる時を持ちます。神様の素晴らしさを思いめぐらす時を持ちます。大声を上げての賛美も素敵ですが、沈黙の中で主の美しさを賛美するMeditation Praiseもあったらいいですね。

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祈り課題

1.クリスチャンが律法主義、「宗教」から解放され福音に生かされるよう。
2.クリスチャンの働き人を含めすべてのクリスチャンがイエスを中心として人生を共に歩む仲間(コミュニティ=エクレシア)を持てるよう。
3.「教室型」の弟子訓練ではなく、「関係」の中で癒され、主の前にへりくだり、砕かれ、正直になることで霊的に成長できるよう。
4.お互いの存在を、心から感謝できるよう。

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関連テーマ参考本
「今日における『霊性』と教会」片岡伸光 他3名著  いのちのことば社
「福音の再発見」 スコット・マクナイト著  キリスト新聞社
Becoming a TRUE Spiritual Community Larry Crabb  Thomas Nelson
「星のように、砂のように」     ラルフ・モア 著  新生宣教団
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「その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる。
                       (エゼキエル48:35)

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2014年7月9日水曜日

あなたならどう答える?



現代の教会へのチャレンジ シリーズ(2)

さて、今日、避けて通れない教会がチャレンジされる現代的な問題を見てみましょう。


スピリチュアルVS宗教

人はスピリチュアルであり続けるだろう。ただし組織としての宗教は廃れてゆく可能性もある。現代でも20代の若者7割は神や仏などの存在を信じるが、特定の宗教を信じるのは3割に満たない。スピリチュアルOK, 宗教NOの傾向はさらに強まるものと思われる。

切支丹迫害、明治政府の押しつけ国家神道の影響などで日本人は、特定の宗教を持つのに抵抗感があるようだ。キリスト教に関心ある人はかなりの層がいるが、以前、行われた調査でも教会に行きたくない理由は「縛られたくない」が第一の理由だった。宗教=支配される、という潜在意識があるのかもしれない。
カリスマ宗教指導者に従う信仰宗教が衰退しない一方、宗教=うさん臭い、と思っている人も多い。

しかし、無神論という訳ではない。宮崎アニメのアニミズム的世界観を抵抗なく受け入れる。スピリチュアル本やTV番組は流行っている。本来、「霊」の本家であるはずのキリスト教に求めない。スピリチュアルなニーズのために教会を訪れる人は少ない。キリスト教でなくてもスピリチュアルなニーズは満たせるという傾向があるようだ。祈りはするし、神(霊的な存在)は信じる。しかし、自分なりの神に祈り、瞑想し、運命や占いにハマっていく。


「霊の存在は信じてます。祈ると答えや導きがあります。守護霊はありますか
 らね。そうやって一人一人が自分なりの方法で神につながればいいんじゃな
 いですか?キリスト教を絶対視していると必ず文明の衝突が起ります。現に
 パレスチナを始め世界の戦争は宗教がらみですからね。」


こういう声が増えていく気がします。それで霊的に満足(?)している人に何と答えますか?

同時にクリスチャンの中にも教会に通っているけれど「霊的」に渇いている人達も見受けられる。プログラム主体の礼拝の場合、礼拝が「仕事化」してしまい、プログラムをこなす事で終止してしまう。忙しく「奉仕」はしていても、ゆっくり「顔を会わせて」交わっていない。スモールグループのニーズが叫ばれるのも、その故である。これは重要な課題なので後日の記事でさらに深めることにします。



LGBT

レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスセクシャル(心と体の性の不一致)。シンガポール キャンパスクルセードの危機管理リストにLGBTが挙っているのには驚いた。そろそろ日本でも学校や会社で対応が迫られるようになってきている。厚生労働省のホームページに性同一性障害の説明がある。


性同一性障害
女性なのに、自分は「本当は男なんだ、男として生きるのがふさわしい」と考えたり、男性なのに「本当は女として生きるべきだ」と確信する現象を「性同一性障害(gender identity disorder, GID)」と呼びます。このような性別の不一致感から悩んだり、落ち込んだり、気持ちが不安定になることもあります。性同一性障害については、まだ理解が進んでいるとはいえず、診断や治療ができる病院も多くはありません。そこで、性同一性障害とはどのような病気であるのか、その症状や治療法、法的側面等について解説します。

さらに、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」に関して・・

家庭裁判所は、性同一性障害者であって次の各号のいずれにも該当する者について、その者の請求により、性別の取扱いの変更の審判をすることができる。

·       20歳以上であること
·       現に婚姻をしていないこと
·       現に子がいないこと
·       生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること
·       その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること

厚生省の公のホームーページに出ているくらいなので、社会の隠れた部分としてもはや、無視できなくなってきている。クリスチャンとしても「そういうのは気持ち悪い」、「罪だ」の一言で済ませられないだろう。いや、クリスチャンの中にもカミングアウトする人が出て来ても不思議ではない。生まれた時、脳への女性ホルモンの影響が強いと男性でも女性脳をもった人となり、ゲイになりやすいという(逆もあり)説もあり、単なる個人的趣味の選択や道徳問題として片付けられない面もある。今日LGBTの人が教会に来たらどう対処するのだろうか?


「医者から性同一障害と言われました。ずっと違和感があったんです。体は男
 ですが、どうしても自分は女性であるほうが自然なんです。ずっと世間から
 白い目で見られてきました。神を信じているし、一緒に礼拝したいんです。
 教会では博愛精神で受け入れてくれますよね? 」


「ゲイカップです。最近、信仰持ちました。分かれるべきでしょうか?」


「レズビアンカップルですが、子供が欲しいので養子縁組したいのですが、
 キリスト教系の養子縁組機関を教えてください。」




2045年問題

2045年を境に人工知能が人間の知能を追い越してしまうと言われている。コンピュータ—牧師による説教をウエラブルデバイスで聞く若者の出現?教会とは?礼拝とは?が問われるだろう。


「自宅でインターネットで礼拝してます。それじゃ、マズいんですか?」


「私は牧師ですがビッグデーターの中から人気説教をコンピューターに作成し
 てもらって説教してます。でもそうなると私が語る意味があるんでしょうか
 ね?もっとも他の教会では3Dスクリーンで有名な牧師が説教してますけど
 ね。」


「人工知能がクリエイトしたコンピュータ—の中の女性に恋してます。自分のこ
 とをわかってくれるのは、彼女しかいません。 生身の女性との結婚はいろ
 いろ、やっかいだし。このまま、これでいいかなと。」


「別に結婚しなくても、このまま自由でいたいんです。家に帰れば人工知能の
 3Dの彼がお相手してくれますから。 結婚してから豹変する生身の男性より
 よほど信頼できますから。」


すでにスマホ中毒の若者達。何とも大変な時代になっちゃいますね。あなたならどうする?

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祈り課題

1.教会が現代的問題に対処する知恵が与えられるように。
2.本来の福音の意味を再発見できるよう。
3.日本人にとって、キリスト教がしっかりと選択肢になれるよう。
4.アガペーの愛でどのような状況の中の人も愛し、かつ真理を語れるように。

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関連テーマ参考本

「日本人はなぜ無宗教なのか」                   阿満利麿  ちくま新書
「日本の戦争と宗教」1899−1945            小川原正道  講談社選書
「2045年問題」コンピュータ—が人類を超える日      松田卓也  廣済堂新書
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「その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる。
                       (エゼキエル48:35)

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2014年7月2日水曜日

新興宗教—何が人を捉えるのか?


「現代の教会へのチャレンジ(1)」


 プロテスタント教会の現状

まず、昨今のキリスト教界の教勢を見てみよう。2011年の統計では・・・

プロテスタント教会の数:7981名
      平均会員数:63名
    平均礼拝出席者:40名

日本の人口127、057、860に対し、信徒数は0.4%。前年と比べ、信徒数は18323人減、教会数は16減っている。

どうも勢いがあるとは言えない。教会に高齢者が占める割合が多いが、高齢化に伴い天に召される人も多くなり、結果、信徒数が減ってくる。そもそも日本の人口も前年比で18823名減っており、日本の人口比率、14歳以下が13%、さらに教会学校をやっているのは全教会の半数以下となると希望が薄い。

そうであっても教会にセクハラ、パワハラ、カルト化などがあるとも聞いている。キリスト教界も格差化で、メガチャーチか小さい教会かに分かれる傾向にある。ただ、小さい教会が悪いのではなく、かえって本来のエクレシア(顔と顔をあわせるコミュニティ)が育っている場合もある。個人的には小さな教会(エクレシア)が沢山生まれることが望ましいと思っている。


国民の3割が新興宗教信者?!

別冊宝島から「保存版、日本の新宗教」が出た。それによると新興宗教信徒人口が3542万人!プロテスタント信徒が約50万人からすると大変な数字である。国民の約3割は新興宗教に入っていることになる。一位は「創価学会」を抜いて「幸福の科学」で信者数1100万人。2位が「創価学会」で827万世帯。ただし単位が世帯なので、信徒数ではない。他の資料では1748万人という数字もある。そうすると国民の7人に1人は創価学会員となる。

さらに「立正佼成会」(323万)、創価学会の分派である「顕正会」(150万)、「霊友会」(141万)、「佛所護念会教団」(129万)、「天理教」(120万)、「PL教団」(94万)、「真如苑」(90万)、「崇教真光」(80万)と続く。「成長の家」は14位で61万。キリスト教系では、統一教会が15位で60万、「エホバの証人」が21位で21万人となっている。多くは戦後から高度成長期に成長した。霊友会、創価学会、立正佼成会、真如苑などは仏教系、大本や神道禊教などは神道の流れを汲んでいる。「幸福の科学」のように独自の体系を持つものもある。


創価学会の何が人を捉えたのか?

創価学会は、戦後最大の新宗教であり、何と言っても学会を支持基盤とする公明党が日本国の与党なのだ。その影響力は無視できない。しかし、興味深いことに、創価学会創立者の牧口常三郎は、キリスト教プロテスタントの伝道拠点であった札幌に育ち、青年期に師と仰いだのは大概キリスト教徒であったと自身で述べている。牧口は日蓮正宗の信仰をもってから間もない1930年に「創価教育学体系」を著し、創価教育学会を発足させている。「創価教育学体系」第一巻にはキリスト者である新渡戸稲造が序文を寄せているのも興味深い。

やがて教育団体から宗教団体へと移行してゆく。牧口は信仰を伝える場として、少人数で集まり話し合う「座談会」を重視した。そうやって日常生活に密着した信仰を伝えていった。立正佼成会でも信仰の体験談を分かち合う「法座」がある。この要素は極めて重要であり、キリスト教会でも週日の「ミニチャーチ」「スモールグループ」「コミュニティグループ」がようやく強調されるようになってきている。創価学会は戦後の高度成長の中で、農村出身者の「受け皿」として機能した。都市下層者のための宗教組織だったと言える。明治時代、富国強兵を国が押し進める中で、スラム街は「見ない振り」をされたという。福祉暗黒時代にあって下層を助けたのは大本教や天理教という「宗教」だった。戦後成長期にも下層市民の味方は労働組合と創価学会であった。世直しというコンセプトは大本教にも見られるが、創価学会2代目戸田城聖は「宗教と政治は一体のものでなければならない。」と主張、後に公明党として政界進出する。

学会は、確かにご利益宗教ではあるが、ご利益と旧約聖書の祝福は極めて近い。祝福とは「家庭が平和で、子沢山。病気や怪我から免れ、家畜や収穫物が豊であること。長寿であること。」それは、家内安全、商売繁盛、無病息災とあまり変わらない。日本のプロテスタントはピューリタン的思想の影響で禁欲的、律法的なところが残っているようだ。霊的祝福を強調するあまり、地上的な祝福を軽視してしまう傾向があるように思われる。学会は、民音や映画など文化面でも進出し、社会への影響も見逃せない。社会を変えるための政治、文化への進出は、現代の教会もチャレンジされる分野ではないだろうか。


「幸福の科学」の何が人を捉えるのか?

とにかく1千万以上の信者がいる。それだけで説得力がある。2013年12月14日に千葉幕張メッセにて、「エル・カンターレ祭大講演会」が開催され、会場には18000名が駆けつけ、大会の様子は、全国全世界3500カ所に同時中継された。大川流法総裁は語る。「学問は高度化、専門化している。しかし学問を究めている人が『人間とは何であるのか、なぜこの世に生まれてくるのか』『人間がどこから生まれ、どこへ去って行くのか』といったシンプルな真理を理解していない。人はもう一度、『自分が何者なのか、なぜ存在しているのか、なぜ喜び、悲しむのか、何故に向上を目指すのか』といった根底にある疑問や真理についてかんがえるべきではないでしょうか?」アーメンである。「大きな物語」を失ったポストモダンの人々も結局、「物語」を欲しているのではないか?壮大な「神の救いの物語」無しに自分のアイデンティティも人生の意味も結局は見つけられない。

最近、キリスト教界で「天職セミナー」「働くことの意味」などをテーマにしたセミナーが行われ始めている。マクナイトが「福音の再発見」の中で、福音派は実は「救い派」だと指摘しているが、本来、福音は包括的なものである。人間に被造物の管理が任されている。地を治めるよう命じられている。魂が救われればいいだけでなく、この地上でどう生きるのかが問われている。神からの使命を持って「この世」を生きることにこそ、人々は魅力を感じるのではないだろうか?

大川氏は「信仰が恥ずかしいという風潮があるのでは」と突いてくる。この世からの逃げとして、宗教がアヘンとして機能するのではなく、信仰によって生きる意味を見いだし、「この世の変革」に取り組んで行く時、信仰は恥ではなくなるだろう。幸福の科学も政党を立ち上げ政界進出を目論んでいる。

宗教でありながら、名称に相反すると思われる「科学」を結びつけているのも魅了なのだろう。アメリカで若者が教会を離れる大きな理由は聖書が非科学的だというものらしい。実は先端の科学と聖書は、何ら矛盾するものではなく、無から宇宙が出来たというビッグバン理論は、アインシュタインの時代までの「宇宙普遍説」より聖書的だ。科学は聖書に近づいている。歴史的に自然災害を「裁き」に結びつけていたクリスチャン。啓蒙主義時代に科学的に客観的に地震を研究し始め「地震学」の父と言われるカントのほうが実は聖書的だったのでは? 東日本大震災を東北の人への「裁き」と言う人はさすがにいないだろう。そんな事を言っているヒマがあったら次の地震予測と防災に取りかかった方がよっぽど意味がある。もっとも「科学」といっても大川総裁は霊言師であり、歴史上の人物(キリストを含む!)の霊言を取り次ぐという非科学的な事を売りにもしている。


創造神世直しー社会善

天理教では天理市に人間創造の地点とされる「地場」があり、すべての人間の故郷とされている。天理教ではこの世界と人をつくった「天理王命」という神を信仰している。社会奉仕や被災地支援など感謝を表す自発的な奉仕「ひのきしん」活動がある。霊友会でも「宗教の本願は社会事業」とし、覚せい剤撲滅運動や「おもいやり連鎖運動」で環境、福祉、社会貢献活動を拡げている。真如苑では「人のために生きる」をモットーにフィリピンでの支援活動、立川駅前早朝掃除、東日本大震災でのボランティア活動を行っている。

創価学会では世界平和活動を精力的に行っている。現在、連立与党である公明党は平和の党として、9条改憲へのブレーキ役を担っている。大本教では天地万物を創った主神(すしん)がおり、地上天国である「みろくの世」の完成を願っている。「人間には神意による理想世界の実現という使命がある。それを実行するために人は生まれ、生かされている」という。御心が支配する「神の国」の実現追求はキリスト教でも同じではないだろうか。

大御所、「幸福の科学」も地球上あらゆるものを創出した至高神、エル・カンターレを礼拝し、与える愛を強調。こうして見ると、新興宗教の中には創造神を信じている団体が意外と多い。そしてその神の力を借りて問題多い、世の中を世直ししてゆくという構造である。

大本教では「1つの神」(万教同根)「1つの世界」(世界連邦運動)「1つの言葉」(エスペラント語の普及)を目指す。我々キリスト教にとっては聖書の神が老舗であり、あとは、聖書のパクリと言ってしまえばそれまでだが・・・

概して言うと「創造」、「堕落」、「購い」、「回復」という聖書の歴史観なのだ。もともと神の姿に似せて創られた人間なので、この世界観が一番しっくりくるのだ。すべてのヒーロー映画(スーパーマン、ウルトラマン、など)はすべてこの世界観で動いている。もともとあるべき理想郷がある。今それが壊されている。そこに救い主(ヒーロー)が現れ、悪を打ち倒し、世界を回復させる。やがて理想の世界がやってくる。



 教会へのチャレンジ

このように見てくると、「あなたは愛されています」という狭いメッセージだけで勝負するのではなく、確固たる聖書の世界観、歴史観を面白く伝えることが求められているのではないかと思うのだ。かつては内村鑑三という「時代の預言者」がいた。賀川豊彦や山室軍平による社会善の推進があった。今日、世直し(神の国の建設)と直結するクリスチャンの生き方が期待されているのではないだろうか。「伝える教会」より「仕える教会」、あるいは、「宣教」ではなく「宣証」だというフレーズが3:11以降聞かれるようになった。マザーテレサに見られるように、結局、「生き方」からメッセージが世の人に伝わっていく。それを支える神学も必要になる。ある牧師は「被造物管理の神学」を推進している。被災地での支援活動を支える神学、コミュニティを購う、「購いのコミュニティ」としての教会論。来るべき震災に備える防災の神学。「地を治めるクリスチャン」という視点を持つ神学が望まれているのではないか。

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祈り課題
1.教会が社会から孤立せず、社会に向けて福音を届けられるよう。
2.本来の福音の意味を再発見できるよう。
3.日本人にとって、キリスト教がしっかりと選択肢になれるよう。
4.他宗教のよき所も評価しつつ、他宗教の信者を愛せるよう。

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関連テーマ参考本

「日本の新宗教」21教団徹底分析  別冊宝島   宝島社
「創価学会」            島田裕巳   新潮新書
「スピリチュアルはなぜ流行るのか」 磯村健太郎  PHP新書451
「スピリチュアルの冒険」      富岡幸一郎  講談社新書
「日本人はなぜ無宗教なのか」    阿満利麿   ちくま新書
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「その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる。
                       (エゼキエル48:35)

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