2014年7月16日水曜日

「霊性とオーガニックチャーチ」(1)



 1990年の終わり頃から福音派の中でも「霊性」が話題にされるようになりました。その事自体が、福音派には「霊的」側面が欠如していたという事なのかも知れません。そして、「傷」や「弱さ」に霊的意味を見出す、カトリックの祭司ヘンリー・ナウエンがプロテスタントの間で隠れたブームとなったのです。

なぜ福音派で「霊」なのか?これに答えるべく1997年「今日における『霊性』と教会」(片岡伸光 他3名著  いのちのことば社)という興味深い冊子が出版されました。著者は福音派の牧師3名と精神科医。随所に正直で貴重な指摘があります。この本からキーフレーズを抜き書きしながら2回に渡り、オーガニックチャーチとの関連を見てみましょう。



「戦後福音派ではKnowing, Doingが強調され、神の前にあるBeingという面 
 が弱かった。」(p10)「もしかしたらこれまでの福音が福音でなかったので
 はないか?」

正しい教理さえ学べばOKといわんばかりの「勉強型」「教室型」の神学校や教会プログラムが多く現れました。一時、流行った「教会成長論」も今思うと、隠れた成功指向文化、成果主義、覇権主義だったのではと思わされます。「大きいことはいいことだ」的な思想。スコット・マクナイトは「福音の再発見」の中で、「福音派」は実は、「救い派」であると指摘しています。つまり、魂の救いという狭義な福音のみを語り、信じれば一丁上がり的な発想で福音の深さを十分伝えてこなかったと指摘しているのです。信仰の成長とは伝道活動を熱心にすることとなり、あまり内面にフォーカスがされないまま信徒の深い霊的渇きが置き去りにされてきたようです。

最近、ホープチャペルのラフル・モア牧師が来日し、「小さい教会の力」と題してセミナーを行いました。小さいほうが「顔」が見えて、濃い交わりができるというのです。もともと教会は人の集まりでプログラムより「人間関係」が本質なのです。また小さいほうが主の導きに柔軟に対処できます。成果主義では、何より教会の成長が牧師の力量にかかるので、結局、牧師に大きなプレッシャーがかかります。そして、ついには、燃え尽きたり、罪を犯したりするようになってしまいます。教会が大きくなれば、どうしても「組織」となり「運営」が必要になります。そうすると「組織悪」が頭をもたげるのです。

何とか、牧師一極集中を変革できないのでしょうか? 教会が「顔と顔を合わせる」エクレシアの原点に戻れないのでしょうか?会社組織のような教会、プログラムをこなす礼拝をしている間に、世の中ではスピリチュアルブーム。霊のニーズはそちらに持っていかれてしまった感があります。キリストの体としての「有機的生命体」に戻りたい。それがオーガニックチャーチの出て来た背景です。



「ナーウエンの本を読むと、人間が破れとか傷をもっていることが、かえって非常に高い霊性へつながっていく促しがあるわけです。」(14)

群れのリーダーも弱さを正直に分かち合っていける「場」としてのエクレシア。自分も罪人の中の一人にすぎない、みんなと変わらない罪人なのだと知る事はリーダーにとっても解放となるのです。肩に力の入らない、それでいて心に響く交わりの「場」は誰に取っても必要なのです。エクレシアには「偉い先生」はいません。メンターとしての「長老」はいても「先生」と呼ばれる人はいないのです。

エクレシアでは、皆が正直に分かち合える「雰囲気作り」が大事になります。弱さや失敗を正直に分かち合っても「裁かれない」、「説教されない」、「言いふらさない」ことが前提になります。「神のために何かをする」から「自分を通して神が何をなさるのか」という転換。「人を成長させる牧会」から「共に成長する牧会」へ。



「霊性が精神的なものと同じレベルになってしまうと、肉体の命が復讐する」(16)
肉のがんばり、精神力での達成なら、その後、性的な誘惑が襲ってくるといいます。ナーウエンは、その著「イエスの御名で」の中で、「霊的な指導者が、自らを捧げている男女が、実にたやすく、非常に淫らな肉欲にふけってしまう」と書いているのは興味深いところです。

「牧師や祭司が、ほぼ観念の世界だけのミニストリーに生き、自分が伝えている福音を一連の価値ある認識や思想というものにしてしまうと、肉体は愛情と親密さを求めて叫び声をあげ、すぐに復讐をしかけてくる。」(17)

「テレビ伝道者のスキャンダルなども、ただ性欲の問題ではなくて、心と身体という全人格が共同体から離れて、個人的な英雄主義と虚構のセルフイメージで観念的に福音を語る時に、人格の中に地割れが起きる。」(17)

生身の体や性を持つ人間が正当に評価されるというかたちでの福音が伝達されてこなかったと指摘されています。信仰さえあればいいという風潮。そして、ついには不自然さ、無理が波錠をきたしてしまうというのです。「天使を装うものは獣になる」というフレーズをどこかで聞いた事があります。

キリスト教を禁欲主義的精神運動にするなら、この肉の復讐が来るという大変大事な指摘です。聖書は禁欲主義ではありません。性欲も食欲も主の定められた範囲内で「満たされて」ゆくべきなのです。「孤立した英雄」を作ってはいけません。エクレシアでは少人数で、至近距離で接するので、メンバーは生身の人間とならざるを得ないのです。一緒に食事をし、冗談も言う中で、家族や夫婦の葛藤も自然と出てきます。話は現実味を帯びたリアルものとなり、虚構が育ちにくくなります。小さい交わりの中で、愛し合い、仕え合って成長していきます。いや交わりの中でしか本当の成長はできないのです。会社の話も出る。ビジネスのためにも祈る。霊性がすべての領域にかかわっていることを体験してゆきます。



「礼拝の中にもっと本当に沈黙の要素を入れたいですね」(39)

本書中にも、礼拝にいろいろ詰め込みすぎているという指摘されていますが、何が本当に大事なのか見極める必要があると思うのです。「無事」に礼拝プログラムをこなすことが大事なのでしょうか? むしろ「主に触れられ」何かが起ることを期待するほうが大事なのではないでしょうか?

私達のワーシップではギターの演奏をバックに静まる時を持ちます。神様の素晴らしさを思いめぐらす時を持ちます。大声を上げての賛美も素敵ですが、沈黙の中で主の美しさを賛美するMeditation Praiseもあったらいいですね。

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祈り課題

1.クリスチャンが律法主義、「宗教」から解放され福音に生かされるよう。
2.クリスチャンの働き人を含めすべてのクリスチャンがイエスを中心として人生を共に歩む仲間(コミュニティ=エクレシア)を持てるよう。
3.「教室型」の弟子訓練ではなく、「関係」の中で癒され、主の前にへりくだり、砕かれ、正直になることで霊的に成長できるよう。
4.お互いの存在を、心から感謝できるよう。

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関連テーマ参考本
「今日における『霊性』と教会」片岡伸光 他3名著  いのちのことば社
「福音の再発見」 スコット・マクナイト著  キリスト新聞社
Becoming a TRUE Spiritual Community Larry Crabb  Thomas Nelson
「星のように、砂のように」     ラルフ・モア 著  新生宣教団
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「その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる。
                       (エゼキエル48:35)

東京を神の街に・・・
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Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com(栗原)

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