2014年7月2日水曜日

新興宗教—何が人を捉えるのか?


「現代の教会へのチャレンジ(1)」


 プロテスタント教会の現状

まず、昨今のキリスト教界の教勢を見てみよう。2011年の統計では・・・

プロテスタント教会の数:7981名
      平均会員数:63名
    平均礼拝出席者:40名

日本の人口127、057、860に対し、信徒数は0.4%。前年と比べ、信徒数は18323人減、教会数は16減っている。

どうも勢いがあるとは言えない。教会に高齢者が占める割合が多いが、高齢化に伴い天に召される人も多くなり、結果、信徒数が減ってくる。そもそも日本の人口も前年比で18823名減っており、日本の人口比率、14歳以下が13%、さらに教会学校をやっているのは全教会の半数以下となると希望が薄い。

そうであっても教会にセクハラ、パワハラ、カルト化などがあるとも聞いている。キリスト教界も格差化で、メガチャーチか小さい教会かに分かれる傾向にある。ただ、小さい教会が悪いのではなく、かえって本来のエクレシア(顔と顔をあわせるコミュニティ)が育っている場合もある。個人的には小さな教会(エクレシア)が沢山生まれることが望ましいと思っている。


国民の3割が新興宗教信者?!

別冊宝島から「保存版、日本の新宗教」が出た。それによると新興宗教信徒人口が3542万人!プロテスタント信徒が約50万人からすると大変な数字である。国民の約3割は新興宗教に入っていることになる。一位は「創価学会」を抜いて「幸福の科学」で信者数1100万人。2位が「創価学会」で827万世帯。ただし単位が世帯なので、信徒数ではない。他の資料では1748万人という数字もある。そうすると国民の7人に1人は創価学会員となる。

さらに「立正佼成会」(323万)、創価学会の分派である「顕正会」(150万)、「霊友会」(141万)、「佛所護念会教団」(129万)、「天理教」(120万)、「PL教団」(94万)、「真如苑」(90万)、「崇教真光」(80万)と続く。「成長の家」は14位で61万。キリスト教系では、統一教会が15位で60万、「エホバの証人」が21位で21万人となっている。多くは戦後から高度成長期に成長した。霊友会、創価学会、立正佼成会、真如苑などは仏教系、大本や神道禊教などは神道の流れを汲んでいる。「幸福の科学」のように独自の体系を持つものもある。


創価学会の何が人を捉えたのか?

創価学会は、戦後最大の新宗教であり、何と言っても学会を支持基盤とする公明党が日本国の与党なのだ。その影響力は無視できない。しかし、興味深いことに、創価学会創立者の牧口常三郎は、キリスト教プロテスタントの伝道拠点であった札幌に育ち、青年期に師と仰いだのは大概キリスト教徒であったと自身で述べている。牧口は日蓮正宗の信仰をもってから間もない1930年に「創価教育学体系」を著し、創価教育学会を発足させている。「創価教育学体系」第一巻にはキリスト者である新渡戸稲造が序文を寄せているのも興味深い。

やがて教育団体から宗教団体へと移行してゆく。牧口は信仰を伝える場として、少人数で集まり話し合う「座談会」を重視した。そうやって日常生活に密着した信仰を伝えていった。立正佼成会でも信仰の体験談を分かち合う「法座」がある。この要素は極めて重要であり、キリスト教会でも週日の「ミニチャーチ」「スモールグループ」「コミュニティグループ」がようやく強調されるようになってきている。創価学会は戦後の高度成長の中で、農村出身者の「受け皿」として機能した。都市下層者のための宗教組織だったと言える。明治時代、富国強兵を国が押し進める中で、スラム街は「見ない振り」をされたという。福祉暗黒時代にあって下層を助けたのは大本教や天理教という「宗教」だった。戦後成長期にも下層市民の味方は労働組合と創価学会であった。世直しというコンセプトは大本教にも見られるが、創価学会2代目戸田城聖は「宗教と政治は一体のものでなければならない。」と主張、後に公明党として政界進出する。

学会は、確かにご利益宗教ではあるが、ご利益と旧約聖書の祝福は極めて近い。祝福とは「家庭が平和で、子沢山。病気や怪我から免れ、家畜や収穫物が豊であること。長寿であること。」それは、家内安全、商売繁盛、無病息災とあまり変わらない。日本のプロテスタントはピューリタン的思想の影響で禁欲的、律法的なところが残っているようだ。霊的祝福を強調するあまり、地上的な祝福を軽視してしまう傾向があるように思われる。学会は、民音や映画など文化面でも進出し、社会への影響も見逃せない。社会を変えるための政治、文化への進出は、現代の教会もチャレンジされる分野ではないだろうか。


「幸福の科学」の何が人を捉えるのか?

とにかく1千万以上の信者がいる。それだけで説得力がある。2013年12月14日に千葉幕張メッセにて、「エル・カンターレ祭大講演会」が開催され、会場には18000名が駆けつけ、大会の様子は、全国全世界3500カ所に同時中継された。大川流法総裁は語る。「学問は高度化、専門化している。しかし学問を究めている人が『人間とは何であるのか、なぜこの世に生まれてくるのか』『人間がどこから生まれ、どこへ去って行くのか』といったシンプルな真理を理解していない。人はもう一度、『自分が何者なのか、なぜ存在しているのか、なぜ喜び、悲しむのか、何故に向上を目指すのか』といった根底にある疑問や真理についてかんがえるべきではないでしょうか?」アーメンである。「大きな物語」を失ったポストモダンの人々も結局、「物語」を欲しているのではないか?壮大な「神の救いの物語」無しに自分のアイデンティティも人生の意味も結局は見つけられない。

最近、キリスト教界で「天職セミナー」「働くことの意味」などをテーマにしたセミナーが行われ始めている。マクナイトが「福音の再発見」の中で、福音派は実は「救い派」だと指摘しているが、本来、福音は包括的なものである。人間に被造物の管理が任されている。地を治めるよう命じられている。魂が救われればいいだけでなく、この地上でどう生きるのかが問われている。神からの使命を持って「この世」を生きることにこそ、人々は魅力を感じるのではないだろうか?

大川氏は「信仰が恥ずかしいという風潮があるのでは」と突いてくる。この世からの逃げとして、宗教がアヘンとして機能するのではなく、信仰によって生きる意味を見いだし、「この世の変革」に取り組んで行く時、信仰は恥ではなくなるだろう。幸福の科学も政党を立ち上げ政界進出を目論んでいる。

宗教でありながら、名称に相反すると思われる「科学」を結びつけているのも魅了なのだろう。アメリカで若者が教会を離れる大きな理由は聖書が非科学的だというものらしい。実は先端の科学と聖書は、何ら矛盾するものではなく、無から宇宙が出来たというビッグバン理論は、アインシュタインの時代までの「宇宙普遍説」より聖書的だ。科学は聖書に近づいている。歴史的に自然災害を「裁き」に結びつけていたクリスチャン。啓蒙主義時代に科学的に客観的に地震を研究し始め「地震学」の父と言われるカントのほうが実は聖書的だったのでは? 東日本大震災を東北の人への「裁き」と言う人はさすがにいないだろう。そんな事を言っているヒマがあったら次の地震予測と防災に取りかかった方がよっぽど意味がある。もっとも「科学」といっても大川総裁は霊言師であり、歴史上の人物(キリストを含む!)の霊言を取り次ぐという非科学的な事を売りにもしている。


創造神世直しー社会善

天理教では天理市に人間創造の地点とされる「地場」があり、すべての人間の故郷とされている。天理教ではこの世界と人をつくった「天理王命」という神を信仰している。社会奉仕や被災地支援など感謝を表す自発的な奉仕「ひのきしん」活動がある。霊友会でも「宗教の本願は社会事業」とし、覚せい剤撲滅運動や「おもいやり連鎖運動」で環境、福祉、社会貢献活動を拡げている。真如苑では「人のために生きる」をモットーにフィリピンでの支援活動、立川駅前早朝掃除、東日本大震災でのボランティア活動を行っている。

創価学会では世界平和活動を精力的に行っている。現在、連立与党である公明党は平和の党として、9条改憲へのブレーキ役を担っている。大本教では天地万物を創った主神(すしん)がおり、地上天国である「みろくの世」の完成を願っている。「人間には神意による理想世界の実現という使命がある。それを実行するために人は生まれ、生かされている」という。御心が支配する「神の国」の実現追求はキリスト教でも同じではないだろうか。

大御所、「幸福の科学」も地球上あらゆるものを創出した至高神、エル・カンターレを礼拝し、与える愛を強調。こうして見ると、新興宗教の中には創造神を信じている団体が意外と多い。そしてその神の力を借りて問題多い、世の中を世直ししてゆくという構造である。

大本教では「1つの神」(万教同根)「1つの世界」(世界連邦運動)「1つの言葉」(エスペラント語の普及)を目指す。我々キリスト教にとっては聖書の神が老舗であり、あとは、聖書のパクリと言ってしまえばそれまでだが・・・

概して言うと「創造」、「堕落」、「購い」、「回復」という聖書の歴史観なのだ。もともと神の姿に似せて創られた人間なので、この世界観が一番しっくりくるのだ。すべてのヒーロー映画(スーパーマン、ウルトラマン、など)はすべてこの世界観で動いている。もともとあるべき理想郷がある。今それが壊されている。そこに救い主(ヒーロー)が現れ、悪を打ち倒し、世界を回復させる。やがて理想の世界がやってくる。



 教会へのチャレンジ

このように見てくると、「あなたは愛されています」という狭いメッセージだけで勝負するのではなく、確固たる聖書の世界観、歴史観を面白く伝えることが求められているのではないかと思うのだ。かつては内村鑑三という「時代の預言者」がいた。賀川豊彦や山室軍平による社会善の推進があった。今日、世直し(神の国の建設)と直結するクリスチャンの生き方が期待されているのではないだろうか。「伝える教会」より「仕える教会」、あるいは、「宣教」ではなく「宣証」だというフレーズが3:11以降聞かれるようになった。マザーテレサに見られるように、結局、「生き方」からメッセージが世の人に伝わっていく。それを支える神学も必要になる。ある牧師は「被造物管理の神学」を推進している。被災地での支援活動を支える神学、コミュニティを購う、「購いのコミュニティ」としての教会論。来るべき震災に備える防災の神学。「地を治めるクリスチャン」という視点を持つ神学が望まれているのではないか。

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祈り課題
1.教会が社会から孤立せず、社会に向けて福音を届けられるよう。
2.本来の福音の意味を再発見できるよう。
3.日本人にとって、キリスト教がしっかりと選択肢になれるよう。
4.他宗教のよき所も評価しつつ、他宗教の信者を愛せるよう。

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関連テーマ参考本

「日本の新宗教」21教団徹底分析  別冊宝島   宝島社
「創価学会」            島田裕巳   新潮新書
「スピリチュアルはなぜ流行るのか」 磯村健太郎  PHP新書451
「スピリチュアルの冒険」      富岡幸一郎  講談社新書
「日本人はなぜ無宗教なのか」    阿満利麿   ちくま新書
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「その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる。
                       (エゼキエル48:35)

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