2023年5月25日木曜日

あなたは天の祭司

 

驚くべき宣言〜天でのステイタス

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせともに天上に座らせてくださいました。  (エペソ2:4−6)

 

ギリシア語を正確に翻訳していると言われている、King Jemes Version(KJV)によると、共によみがえらせ(raised us up together)、共に座らせてくださいました(made us sit together)となっており、「共によみがえった」ことが、過去の事実であると同じに、天でキリストと共に座っていることは、将来の話ではなく、すでに完了した事実として書かれているのです。これは驚くべき事です。どれくらいのクリスチャンがこれを現実のものとして信じ、意識しているでしょうか?

 

確かに肉体は今、地上にいます。しかし、同時に私の霊は天においてキリストと共に座しているのです。聖書がそう言っているのですから、そうなのです。「共に座る」は「共同で座る」と言う法律用語で、キリストと同じ権威を持って「祈れる」と言う事です。キリストと共に法律事務所を経営しているようなものです。地上の私が祈る時、天で承認されるのです。この権威は地上でキリストが悪霊を追い出し、悪魔の技を打ち壊すのと同じ権威と力なのです。

 

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。  

                       (IIコリント10:3−5)

 

執り成しの祈りの特権と責任

私は、数名の宣教師と一緒に毎週火曜日、山手線祈祷に参加しています。実際に山手線に乗り込んで東京を一周しながら、天皇家、国会、都庁、ビジネスマン、学生、教会のために祈ります。東京1300万人、都心部だけでも900万人と言われます。「こんなことやって何になる?」との思いに捕らわれる事もあります。「焼け石に水だ!」と思う事もあります。しかし、「イエスの名」によって祈れるのは、新生したクリスチャンだけです。実際、私たちは「祭司」なのです。

 

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。  

                           (Iペテロ2:9)

 

「祭司」として天の所にキリストと共に座しているとは、素晴らしい「特権」であると共に、「責任」でもあるのです。「私達が祈らなければ、誰が祈るのか?」となるのです。いかに地位があっても、この世の影響力を持っていても、総理大臣も天皇も、大企業の社長もクリスチャンでないなら「キリストの御名」によって祈る特権は持っていません。神の御手を動かすことはできないのです。東京のため、日本のために祈れるのは、私達、クリスチャンなのです!

 

  あなたはこの「特権」を用いてますか?「責任」を果たしていますか?

 

 

後に来るステイタスに連携している!

 

それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。  (エペソ2:7)

 

「天の所にキリストと共に座る」ことは、将来のステイタスにも連結しています。上記の聖句では、ご丁寧に「来るべき世々」と複数形になっています。これは、来るべき「千年王国」と「新天新地」の意味でしょう。死んで天国に行くだけなら「世々」とは言いません。キリストとの共同相続人(ローマ8:17)として御国(千年王国)を相続し、そこでキリストと共に地を治める(黙示20:6)。また新天新地において「世々限りなく王として治める」(黙示22:5)につながるステイタスだからです。そして、そのようなポジョションに置かれたのは、ただただ、神の恵みなのです。神の子供となったのも、キリストの犠牲ゆえ開かれた「特権」であることを忘れてはなりません。

 

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。  (ヨハネ1:12)

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

2023年5月18日木曜日

神が臨まれる時


しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。 (使徒1:8)

 

ペンテコステの日にはペテロの説教で3000人が主の弟子となった。しかし、ペンテコステだけではない、歴史上、神が臨まれたことが幾度もあった。

 

歴史に現れた神のワザ

   1800年代、チャールス・フィニーがNYロチェスターでの伝道キャン

  ーンでメッセージすると10万人がキリスト受け入れ、教会に加わった。

 

   1837年、ハワイでテトス・コーンの集会に昼夜2-6千人集まった。会衆は罪を示され、失神状態になった。冗談半分にやって来た、あざわらう若者たちも犬のようにうなだれ「神は私をうたれた」全会衆が神にあわれみを求めて叫びだし、コーン氏は30分説教もできずに立ちすくんだ。ある日曜日は1705人が受洗。1年間で5244人が教会に。

 

   1904年英国ウエールズが聖霊の火で燃えた。当時、国民は神から離れ

  霊的に低下、教会出席も下がり、犯罪が増えていた。エバン・ロバーツ神

  の器がメッセージすると聖霊が暴風のように吹きまくった。集会は朝の

  10時から夜12時まで続き、説教はごくわずかで、証、賛美、祈りが続

  いた。大酒飲みや賭博しが変えられ、犯罪が減り、5週間のうち2万人が

  教会に加わった。

 

   1970年代初頭にアメリカで起きた「ジーザス革命」当時、アメリカは

ベトナム戦争、キューバ危機、ケネディ大統領暗殺と混迷の時期であった。若者たちは希望を失い、社会に反抗し、ドラッグやフリーセックス、ロックフェスといった「ヒッピー」文化が広がっていた。若者達は、真理を求めインド哲学やTM(瞑想)などに没頭していった。そんな中、JESUSに出会った若者たちの人生が変わり、積極的に証し始めた。それら救われたヒッピーたちを受け入れたコスタメサのカルバリーチャペルを中心に若者の間のリバイバル、「JESUS革命」が起こった。ドラッグまみれの若者が救われ、後に牧師になった者も多くいる。最近、混迷するアメリカで若者の宗教帰りが起こっているとも聞く。

 

   海外だけではない。日本でも、1884年に京都の同志社大学の祈祷会が聖霊の火で燃やされ、リバイバルとなり、200名の学生が救われ、洗礼を受けた。九州、関東、東北へ飛び火した。リバイバルがキャンパスから起こったのだ。若者に火がつくことを切に願いたい。

 

最近はアズベリー大学でのリバイバルが話題となった。40年前の話だが、自分は、そこから2時間ほど南に下った小さな町にあるバイブルスクールで学んでいた。そこで、小さなリバイバルを体験したことがある。毎朝、礼拝に参加してから授業が始まる。ある朝、説教前に、女子学生3名が特別賛美を歌っている時、それは起こった。賛美中に聖霊の働きがあり、会衆に涙と悔い改めが起こった。ほとんどの学生が説教壇近くに出てきて、跪き、涙しながら祈っていた。当番の先生が言った。「今日、説教は必要ないようだね。」

 

90年代だったか、ビデオ「トランスフォーメーション」が話題となった。ケニヤ、中米のガテマラ、北極圏のエスキモーの中に神が臨まれ、霊的覚醒が起こった。そこでは麻薬が止み、暴力や自殺が止み、町や都市や国家の犯罪が減った。酒場や売春宿や刑務所がなくなった。軍人たちのワイロも無くなったという。

 

町ぐるみのトランスフォーメーション(変革)が起こったことが伝えられている。それどころか国家単位でも主は働く。1997年、暗黒状態のウガンダ、世界はウガンダを見捨てた。女、子供まで軍人の射撃練習の的となった。魔術と恐怖。エイズ。アミン大統領の時まで人身供養が行われていた。しかし、数名の牧師が命がけで祈り始めた。夜中、川の中で祈った。多くの人が教会に詰めかけ、悔い改めた。その結果、国中に平和がやってきた。経済が復興した。これを神に感謝したいと、新しい大統領と大統領夫人が2000年ミレニアムの大会で、国会や民衆の前で「ウガンダをキリストに捧げます」と宣言した。

 

教育がなし得ないこと、警察がお手上げの犯罪、どうしようもない闇と混乱。その只中で、神が来られた。神の訪れにより、国が変えられた。

 

主よ、あなたの御顔を私は慕い求めます。  (詩篇27:8)

 

待ち望め主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め主を。(詩篇27:14)



 


最近、Jesus Revolutionという映画が公開されました。CBNニュースに取り上げられた動画はこちら

https://www.youtube.com/watch?v=yriKbmW840I

 

1970年代アメリカで起こったJesus Revolution(イエス革命)のドキュメント動画(実写)がこちらで見られます。

https://www.youtube.com/watch?v=TjWUo1DLrfY

 

——————————————————————


意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

2023年5月11日木曜日

被造物に命じる神


大自然に命じる神

ノアの時代、地は暴虐で満ちていた。神は言われた「見よ、わたしは彼らを地と共に滅ぼし去る。」(創世記6:13)つまり、8章以下の大洪水は神が裁きのために起こしたものであることは明らかだ。出エジプトするイスラエルが「葦の海」を渡る時、水をせき止め(出エジプト14:22)、エジプト軍を壊滅させるため、海の水を元の状態に戻した。(出エジプト14:28)これは神が起こした超自然的現象である。モーセに逆らったコラは突然起こった地割れの裂け目に落ちて死んだ。(民数記16:31−33)神はこの自然現象を用いてコラを裁かれた。イエスは嵐を鎮めた。神は自然に命じることができる。自然現象はそれに従う。

 

動物・魚に命じる神

ノアの箱船にやってきた動物たちはノアが呼んだのではない。神ご自身が命じられたのだ。神はご自分のご計画を遂行するために、被造物に命じることができるのだ。ダニエルはライオンの穴に落とされたが、神の命令に従いダニエルに噛み付くことをしなかった。また、カラスに命じてエリアに食物を届けさせたりもしている。また、神は大きな魚に命じてヨナを飲み込ませ、ニネベ近くで吐き出させた。「主は魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させた。」(ヨナ書2:10)動物も鳥も魚さえも神の命令に従った。彼らは創造主を知っているのだ。

 

昆虫に命じる神

出エジプト記にはファラオへの裁きとしてカエル、ブヨ、バッタなどを用いておられる。ヨエル書には裁きのためバッタが用いられている。(ヨエル1:4)高ぶったヘロデ王は演説の途中で虫に食われて死んでいる。(使徒12:21−23)文脈から偶然ではなく、神が虫を用いてヘロデを打ったことが分かる。権力の象徴である一国の王が小さな虫に噛まれて死ぬとは何ともアイロニーだ。

小さな昆虫さえも神のご計画のため命じたままに従い、用いられるのだ。

 

ヨナへのレッスンに虫を備えられる神

大変興味深いのはヨナ書。ヨナは敵国アッシリアが滅ぶことを願っていた。しかし、神がヨナをアッシリアの首都ニネベに遣わしたが、ヨナはそれを嫌って反対方向へ逃げた。しかし、船中で嵐に会い、ヨナを神の怒りを鎮めるためにと海に投げ込まれる。そこで神は大きな魚を用意させた。神は魚に命じることができる。魚も神のご用に役立っている。水難から救われたヨナは、ニネベに行って、救いのメッセージを語ったので、民は悔い改め、結局、裁きは下らなかった。それに腹を立てたヨナは、都の外で様子を見るため仮小屋を作り、座っていた。まず神は唐胡麻を備えて日中の暑さからヨナを守られた。しかし、神は一匹の虫を備えられ、その虫が唐胡麻を噛んだので、唐胡麻は枯れた。暑さの中で、ヨナはこの唐胡麻を惜しんだ。そこで、神は有名なこのお言葉をヨナに語る。

 

すると神はヨナに言われた。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」10主は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。  ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」  (ヨナ4:10−11)

 

神にはすでに異邦人伝道(世界宣教)のご計画があったのだ。ヨナに神のお気持ち「一人も滅びることなく・・」(ヨハネ3:16)を教えるために「一匹の虫」を用意されたのだ。大宇宙創造の主が、たった一匹の虫に命じて神のメッセージを伝える助けをさせている。何とも面白いではないか。

 

神は全てを司る被造物の主なのだ。そして、それに呼応して、すべての造られたものは創造主を賛美するのだ。

 

また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」 (黙示録5:13)

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

2023年5月4日木曜日

戦いに力ある神

 

栄光の王とは誰か。強く力ある主

万軍の主。戦いに力ある主。 (詩篇24:8)

 

すべてのヒーローは強いのが前提

遅まきながら、最近、「ごくせんthe movie」を見た。仲間由紀恵演じるヤクザの娘で、高校教師。正義を貫き、敵に動じない。命を張って教え子を守る。結局、つっぱり生徒たちの信頼を得る。そこまで命張って助けられたら、ついていくしかない。これはイエスのモデルだ。だから心を打つ。元ヤクザで今、牧師がこう言っていた。「親分がやられそうになった時、親分の前に出て盾となって親分を守るのが子分の役目だった。しかし、キリストという親分は子分のために命を捨てた。この方に従うしかない。」

 

ただ正義を貫けるのは、ごくせんが強いからだ。喧嘩して勝てるからだ。見た目、あんな華奢な女性教師が強いのはマンガだが・・・逆に、それだから映画としては、面白い。「正義なき力は暴力、力なき正義は無能」というフレーズがあるが、その通り。強いから、敵をやっつけるから正義が通る。座頭市も、ウルトラマンもスーパーマンも、すべてのヒーロー映画は同じ。ヒーローは強いのだ。悪い奴を最終的にやっつける。そして一件落着となる。敵にやられっぱなしでは解決が無いし、物語は終わらない。平和な社会は戻ってこない。

 

戦いに力ある神

聖書の神もそうなのだ。「万軍の主」。「戦いに力ある神」。「力ある主」この表現に見られるように、ヤハウエは強い神なのだ。旧約時代、戦いは現実であり、彼らの日常であった。神を実感できるのは戦いの中での勝利だったのだ。だから、「神」は「戦い」と連結していた。当時の一般社会がそうだったのだ。どの神が戦に強いのかが大きな関心事なのだ。戦いに出る前には自分達の神に祈願して出て行ったのだ。新約のクリスチャンは「霊的戦い」にフォーカスしすぎるが、旧約時代は現実の「戦い」に神を結びつけていた。

 

コンスタンティヌス帝の改心も興味ふかい。西暦312年,ある戦いの前日,異教徒コンスタンティヌスは,「この[]の下に征服せよ」という標語を伴う十字架の幻を見た。彼はその戦いに勝利を収め、それから間もなく(西暦313年)“改宗”し,キリスト教を「公認」するミラノ勅令を出している。ただ、彼の信仰の真偽のほどは分からない。

 

戦って所有した約束の地

ダビデが巨人ゴリアテを倒した話を霊的に適用するのはいいが、事実、実際の戦いでダビデは勝利したのだ。当時、それは大きな意味があったのだ。イスラエルの民の日常生活を脅かす恐怖からの解放だったのだ。「戦いに力ある神」に意味があった。

 

約束の地、カナンも戦わずして得たのではない。戦場で戦って敵を倒して所有したのだ。「右の頬を打たれたら、左の頬も出していたら」占領できなかったのだ。神はアマレク人の「絶滅」を命じている。(Iサムエル15:18)サウル王は主の命令に背き、アマレクの王アガグを殺害しなかった故に、神に咎められている。(Iサムエル15:11)暴力の行使が絶対悪なら、これをどう説明するのだろうか。

 

悪の勢力を滅ぼす再臨の王、キリスト

終末にはキリストは再臨し、反キリスト勢力を滅ぼされる。最終的な敵である死とサタンを滅ぼす「力」があるのだ。悪を制する「力」があるのだ。神の権威はこの「力」にある。権威者が剣を帯びているのは悪を「力」で制するためであり、それをパウロも容認している。(ローマ13:4)神が無力なら、サタンはつけ上がり、マウントを取るだろう。これは戦いなのだ。

 

反キリスト勢力を制することができるから、メシアなのであり、神なのだ。敵を打ち負かす力があるからなのだ。イエスは力あるワザ(奇跡)を行い、メシア性を証明した。レギオンを追い出し、悪霊を黙らせた。嵐を沈め、弟子を圧倒した。それを見て弟子達は「この方は一体、どういう方なのだろうか?」と驚いた訳だ。メシアとしての力をデモンストレートしたからだ。十字架以降、パウロやペテロも奇跡(力)を持って、福音の「真正性」を証明した。一昔前にはPower evangelismという言葉もあった。癒しや奇跡が唯一の方法ではないが、日本のような聖書に無知な土壌では入り口としては必要なのかも知れない。当時もガリラヤ湖畔の人々はイエスの教えと行いに「驚いた」。日本でもその「驚き」がまず必要かも知れない。単なる道徳的なアプローチだけでは、「言葉だけじゃん」「いいことは言うけれども・・・」と言うことになる。路上で「癒しの祈り」をしながら伝道している兄弟がいるが、一理ある。

 

終末時、「愛」に感動して反キリストやサタンが改心してキリストの足元にひれ伏すという感動的なエンディングシーンは残念ながら起こらない。最後は、有無を言わさず、力でねじ伏せ、焼き尽くす。(黙示20:9)さばきは「力」の行使で行われる。最後は力で圧勝する。

 

キリストの二面性を理解する

一般のキリストのイメージは、無抵抗の受難のキリストのイメージが強い。クリスチャンもそのイメージに縛られているかも知れない。しかし、キリストは「子羊」であると共に、ユダの「獅子」でもある。「裁き主」であり、天においても地においても一切の権威を持つ「王」でもある。このキリストの2面性をしっかり理解する必要がある。その権威は全能者の「力」でバックアップされている。ゲッセマネでイエスが捕らえられた時、御使の軍団を置くこともできたが、預言の成就のため、「あえて」しなかった様子が書かれている。(マタイ26:53−54)。常に軍力を使わないわけでは無い。地上再臨の時には天の軍勢が従ってきている。(黙示録19:14)もちろん、反キリストと戦うにはキリストお一人で十分なのだが。

 

新約に入って神が、キャラクターチェンジした訳ではない。神の激しい面、こういう方であることも忘れてはならない。

 

主はねたんで復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はご自分に逆らう者に復讐し、敵に対して怒る方。  (ナホム1:2)

 

おまえたちは主に対して何を企むのか。主は滅ぼし尽くす方。敵対する者は二度と立ち上がれない。  (ナホム1:9)

 

全地はわたしのねたみの火で焼き尽くされる。(ゼパニヤ3:8)

 

==========================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com