2016年1月29日金曜日

初代教会に学べ


沈みかけている舟?

RAC通信2015年11月号に、衝撃的な内容が書かれていた。

「これまでの決心者受洗者グラフにおける減少曲線をそのまま伸ばしていくと、多めに見積もっても2030年には教会員は現在の3割になる。さらにその後20年もすると、ほとんどゼロに近づくという衝的な容だ。なんら突破口が開かれていない現を見るにつけ、これが必然的な結末になると思わざるを得ない。

3割になるとどうなるだろうか? 25人程度集まっている平均的な教会は、教会員が8人も減るということだ。50名の教会は35名程度に落ち込む。現在行なっている活動は大幅に縮小せざるを得ない。ほとんどの教会では献金入の激減によって、一つの地域教会として経済的に自立できなくなるだろう。

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教会1牧師の体制が成立しなくなるだけではなく、会堂の維持管理費なども捻出できなくなる。退職した牧師たちの年金制度も維持できなくなり、引退した牧師は極めて貧しい老後を送らざるを得なくなる。不動などを分して面はしのげる教もあるだろうが、それも早持たなくなる。これはたった15年後に現実となるシナリオだ。

すでにキリスト教会は沈みはじめている船のような態なのである。」

この著者は戦後の日本の教会のビジネスモデルを変えることを提案している。



日本の教会の現状

東京キリスト教大学 (University Profile 2016)によると、統計的には日本の教会の現状は以下のようになっている。

牧師の現状
牧師が高齢化し、牧師のいない教会が増えている。

牧師の平均年齢:61.6歳(2010年度)
牧師のいない教会:約990教会(2010年度)

クリスチャンの若者が少なくなっている。
日本のクリスチャン人口は、111万人(全人口の0.88%、うちプロテスタント66万人、0.52% 2011年度)。2012年の調査では、日本基督教団で、60歳以上が52.1%、50歳台が18.2%。つまり50歳以上は合わせて70.3%。実に7割!40歳台が13.2%、30歳台が10.2%。そして30歳未満は何と6.4%しかいない。

平成23年10月の総務省の統計によると日本の人口比率は

       年少人口(14歳以下)  13.1%
       生産人口(1564歳)  63.6%
       老人人口(65歳以上)  23.3%
        
となっている。14歳以下はたったの13%。世界一老人が多く、若者の少ない国になっている。今後は、高齢者の増加から介護施設や人材の奪い合い、さらに労働人口の減少から外国人の増加などが見込まれる。この人口比率は、も教会に今後、大きな影響があるといえる。



神学校がパラダイムシフトを言い始めた!

このような状況を受けて仙台バプテスト神学校では画期的な取り組みがはじまっている。ホームページを見ると次のように書かれている。
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 「C-BTEChurch-Based Theological Education)」=「教会主体の神学教育」は、米国アイオワ州にある教会の牧師、ジェフ・リードが行った教会教育(イエスと使徒たちの手法に基づく教育)に端を発するものです。

C-BTE」はこれまでの神学校教育の限界を厳しく見据えています。
 神学校は大学や啓蒙思想の興隆する時代背景の中で生まれました。神学本来の知恵の追求から、アカデミックなものへ移行した神学教育の結果、欧米では一時的な覚醒運動や信仰復興の運動は見られたものの、信仰は形骸化し、世俗化が進み、次世代への信仰の継承に深刻な警鐘が鳴らされています。同じ枠組みでなされている宣教地も、そして日本も、真剣にパラダイムの転換を考えなければならない状況にあると思います。
 翻って初代教会、その後の古代教会はどうであったかと言いますと、過酷な社会環境の中で着実に神の家族、共同体が確立され、かつ教会の核となる家族を二世代、三世代また四世代に渡って築き上げ、家族の家族(地区教会共同体)を建て上げていきました。その結果として宣教が拡大し、当時のローマ帝国は迫害者から、公認、国教化、守護者へと変えられました。
 キリスト教が国教化されたことは、聖書の視点から手放しで勝利と言うことはできないかもしれませんが、そのように帝国をも動かした教会の存在感は注目に値します。これは単に特殊な時代、過去の一現象なのでしょうか。そうではなく、新約聖書の手法に基づくものであったということです。

 徹底して新約聖書に戻った結果、見出した「主イエス・キリストの手法」「使徒たちの手法」「初代教会の手法」であり、現代の私たちにも十分に通じる普遍的な法則であることを確証しているものです。福音派の出発点、16世紀宗教改革はまさに「聖書に戻れ」でありました。「C-BTE」の理念はこの聖書時代にラディカルに戻って、その手法に倣い教会を建て上げ、指導者を育成し、多くの同労者、貢献者そして教会相互の協力関係を築き、さらに同じ目標の下にネットワークを構築し、互いに成長し、世界的な規模での生きた教会運動を展開していこうというものです。
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初代教会に学べ!

上記の神学校の主張は「初代教会に学べ!」である。

Q.今日の日本の教会にあって、初代教会になかったもの。初代教会にあったが、今日の日本の教会にないものは何だろう?

初代教会には教団がなかった。(分派はあったが)神学校が無かった。有給牧師がいなかった。(巡回使徒と巡回伝道者、預言者はいた)教会堂がなかった。などなど。そして、初代教会に確実にあったのは「迫害」「反対」。そして、聖霊の顕著な働き、病気のいやし、悪霊との対峙。やもめや孤児を世話することなどのコミュニティ奉仕。などなど。シンプルな家の教会でありながら広がり続け、やがて良くも悪くもローマ帝国をひっくり返してキリスト教が「国教」となってしまう。聖霊の働きと言ってしまえば一言で終わってしまうが、やはり初代教会から学び「福音」、「宣教」、「教会」について再考するべき時なのではないか?

オーガニック・チャーチを推進するフランク・バイオラは、教会の歴史2000年のなかで船底に藤壺のように余計なモノが沢山付着してしまっているという。また、あまりにその伝統の力が強く、走っている機関車は簡単に止められないと。それで教会の「刷新」ではなく、「革命」が必要なのだという。彼の言う革命には「儀式としての日曜礼拝」と「職業としての牧師」を廃止することが含まれている。説教を中心とする礼拝スタイルや、儀式としての聖餐式(初代教会では食事の一部であった)、尖った屋根の教会や、固定の長椅子などは初代教会には無かった。日本の教会には西洋キリスト教の借り物も沢山ある。ここらで直接、初代教会まで戻ってシンプルなスタイルを学ぶことが鍵となるのではないだろうか?

本当に自前の会堂が必要なのだろうか?他にチョイスは無いのだろうか?神学校で学んだ有給の牧師を置かなければならないのだろうか?パウロのようにハイブリッド(献金と自分の仕事)スタイルはあり得ないのだろうか?日曜日1日教会堂の中で過ごし、地域コミュニティとの人々との接点を持てないままでいいのだろうか?礼拝は日曜朝でなければならないのだろうか?などなど。何かこの時代の壁を突破する神の方法があるはずなのだ。

通常、教団的な縦への忠誠が優先されがちだが、神の目はあくまで地域にある
「神の教会」という視点である。同じ地域の主を愛する兄弟姉妹が、共に防災や福祉などを通して、その地域に仕え、宣教してゆく協業的なものがもっと推進されてもいいのではないか?パウロが書いた「コリントにある神の教会へ」という呼びかけは重要である。神の目にはコリントという場所にある「1つの神の教会」(信じる者の群れ)なのである。


「コリントにある神の教会へ。すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々と共に、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」(第一コリント1:2)

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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)


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2016年1月18日月曜日

2016年の勝利者宣言


イエスを信じる者はみな勝利者



誰もが、オリンピックの表彰台に登る訳ではないでしょう。しかし、イエスを信じるクリスチャンは皆、勝利者なのだと聖書は言っています。そう、「勝利者宣言」がなされているのです。ローマ書8章は新約の高嶺、ダイヤモンド部分と言われています。そこにこうあります。


「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:37)


圧倒的な勝利者。いろいろな訳があります。「輝かしい勝利」「超勝利」「勝利者以上」「勝ち得てあまりがある」「ゆうゆうと勝つ」英語では

more than conquerors となっています。

なぜ、こんなに自信に満ちて勝利を宣言できるのでしょうか?もちろん私たちが強いからではありません。背後についている方が圧倒的に強いからです。少年ダビデの後ろには神がついておられたので、ゴリアテに勝利できたのです。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神がわたしたちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)



敵の戦略を知れ
勝利と言うからには戦う敵がいる訳です。それは、私たちを潰しにかかる闇の力です。この敵が使う戦略があります。

1.      罪悪感で攻め立てる

「おまえは罪深い」「汚れてる」「神の前になんか立てない」「裁かれる」
「おまえはもうダメだ」この種の戦いは私たちの「思いの中」で始まります。しかし、事実はこうです。キリストは私たちの過去、現在、未来の罪を背負って十字架で死んでくださいました。他人事ではなく、私たちはキリストと共に葬られ、キリストと共に死者の中からよみがえりました。神は私たちをキリストと共に生かしてくださいました。そして、私たちのすべての罪(すべてです!)を赦し、私たちを責め立てている債務証書を無効にされました。神はこの証書を取り除け、十字架にクギ付けにされました。(コロサイ2:12−14)


「こういうわけで、今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)

英語ではNo condemnation in Christ Jesus です。神ご自身が宣言されているのです。騙されないようにしましょう。ただ、日常生活で罪を犯してしまうことがあります。もし、御霊に示された罪があるなら、告白して赦されましょう。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
(第一ヨハネ1:9)


神は嘘をつく方でしょうか?いいえ、この約束通りにすれば、神はあなたの罪を赦し、きよめてくださいます。この祈りをしたのに、まだ罪の咎めを感じるなら、それはサタンの声です。聞く必要はありません!


2.      愛される価値がないと思い込ませる

多くの人たちは、自分は愛される価値がない、または、数字を出してナンボの世界で、自分は生産性が無いから生きてる価値がないと思い込まされています。しかし、人間は神の姿に創造された被造物界至上の存在なのです。なんと、詩篇の8:5には「あなた(神)は、人を神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉の冠をかぶらせました。あなたは御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」とあります。取るに足りない存在の者にエデンの園やこの地上を治めさせることをするでしょうか?神よりいくらか劣るとは大層な身分ですね。存在するだけで、あなたは神の目に高価で尊いのです。(イザヤ43:4)


誰からも愛されていないと思い込んで希望を失っている人も沢山いるでしょう。「神は一人子を下さるほどに世(あなた)を愛された。」という有名なヨハネ3:16に続き、このローマ8の32では、こうあります。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子と一緒にすべてのものを恵んでくださらないことがありましょう。」

あなたは愛され、恵まれ、祝福されています。これが事実です。ただ、この愛を疑わせたり、この愛から引き離そうとする敵がいるのです。惑わされないでください。その日の感情ではなく、み言葉の約束に固く立ってください。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですが、苦しみですが、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ローマ8:35)

パウロは机上の空論でこれを言っているのではありません。彼自身それらを体験したのです。(IIコリント11:23−28)それでも勝利者宣言なのです。これらの厳しい状況は彼自身が体験した事実です。37節は「しかし、」という接続後ではじまります。聖書の中でこの「しかし、」が出るとき注意してください。さらにまさる事実。目で見ている現状にまさる事実。神的事実が述べられるからです。

しかし、これらすべてのことの中になっても「圧倒的な勝利者」だというのです。四方八方から苦しめられても、窮することがなく、途方にくれていても行き詰まることがないのです。(IIコリント4:8)神を信じる者は行き詰まらない。余裕があるのです。最後には勝つことを知っているのです。闇は光に打ち勝たないことを知っているのです。ダビデは勝つか負けるかわからないけど、ともかく戦場に行ってみたというのではありません。当然、勝つことを信じてゴリアテに立ち向かいました。戦う前から勝っていたのです。これが勝利者宣言です。


勝利の秘訣
そして、37節のキーワードはこれです。「私たちを愛してくださった方によって」なぜ、それを確信できるかというと私たちを熱烈に愛してくださっている方がいるからです。この方の愛があの敵よりも強いからです。ひと昔前流行った歌がありました。「最後に愛は勝つ」。その通りです。最後にキリストの愛が勝つのです。信仰の完成者である、このお方から目を離さないでいましょう。(ヘブル12:2)

さて、ここで「成功者」ではなく、「勝利者」となっているのが興味ふかいですね。一般の「成功」のイメージは「地位」「名誉」「財産」を築いた人。ヨセフは確かにエジプトの総理大臣に抜擢され、成功者となりました。しかし、それまでのプロセスはとても成功者のイメージではありません。お兄さんたちに井戸に落とされ、エジプトの商人に売り飛ばされ、ポティファルの奥さんに誘惑され濡れ衣を着せられて投獄され、夢を解いてあげた献酌官長はヨセフのことを忘れ、それからさらに牢獄に2年間放っておかれました。しかし、ヨセフはいつも神を信じ、神はヨセフと共におられたのでした。その意味で彼は「勝利者」だったのです。決して希望を捨てず、神に希望を置き続けたのです

世に成功者はいても、人生の勝利者はそう多くはありません。地位、名誉、財産、何もないパウロは「わたしにとって生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」と告白しました。(ピリピ1:21)天命に生きるため、生死も超越していました。傷を負いながらも前進します。闇の力も彼を止めることができません。これこそ人生の勝利者の告白ではないでしょうか。それはパウロだからでしょうと言うかも知れません。しかし、信じた者すべてに賜物としての聖霊が与えられているのです。

「子供たちよ、あなたがたは神から出たものです。そして、彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいある、あの者よりも力があるからです。」(第一ヨハネ4:4)

ここに勝利の秘訣があります。リソースはもう内側にあるのです。

主の年、2016年が始まりました。何が起こるかわからない昨今です。それでも、いや、だからこそ、圧倒的な勝利者の「勝利者宣言」を持って、この年を始めたいものです。

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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
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