2014年11月25日火曜日

エクレシア~アウトリーチする共同体



 「教会」という言葉を使うとどうしても「組織」「建物」のイメージがあるので、あえて「エクレシア=キリスト中心のコミュニティ」と呼んでみます。


そもそもの始め
エクレシアは三位一体が反映されています。聖書の神は正確には三位一体教です。多神教ではありませんが、神のうちに父・御子・御霊の3つの人格(神格?)があることになっています。ある神学者はこれを「お互いの周りをお互いが、讃え合い踊っている姿」と表しています。もう一つ分かり易い表現で言えば、一家団欒の姿です。夕食に家族がテーブルを囲んで「顔を向け合い」笑顔で食事をしている姿です。以前も書きましたがヨハネ1:1、「ことば=キリストは神(父)と共にあった」の「共に」は言語では顔を会わせるニュアンスがあります。聖書の神は一人でさびしく黙々と食事をしている神ではありません。団欒のテーブルでは、お互いの愛が表され、コミュニケーションがあります。






交わりの中に救われる
第一ヨハネ1:3節
「私たちの見たこと、聞いたことを、あながたがにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

仏教では悟りというのがあります。座って悟りに到達するのです。他の人は必要ありません。ところがキリスト教の救いは「交わりに入る」ことなのです。
だからたった一人の救いというのはありません。一家団欒のテーブルに招き入れられるのです。神の家族となるのです。神がもともと三位一体であり、団欒の神なので、当然それが投影され、その愛とコミュニケーションが溢れ流れ孤独な魂に届きます。もともと聖餐式は食事の一部でした。最後の晩餐を見てください。一緒のテーブルについて共に食事していますね。一家団欒です。それが拡張されたのがエクレシア=教会です。

「私は一人で神と交わるため礼拝に行くのであって、他のクリスチャンとの交わりは必要ないし、煩わしい。」という人がいるかも知れません。しかし、先ほどの聖句を見ると「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです」と書いてあります。福音が伝えられるのは、すでに信徒である人達との交わりを持つことでもあるのです。もちろん、ある場合、一人で主の前で瞑想すること(あるいは、神様とのデート)が重要であることは言うまでもないことですが。

そういう訳で、エクレシアで一緒に食事をし、近況報告をし、ケアしあい、笑い合い、祈り合うことが自然であり、あるべき姿なのです。


真のエクレシアが出現するところに救いが起る
「そして、毎日、心を一つにして宮に集まり(=合同礼拝)、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、(=エクレシア)神を賛美し、すべての民に好意を持たれた(=地元コミュニティからの信頼があった)。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(使徒2:46−47)

この「仲間」になる人が増えていった様子が書かれています。特別な伝道プログラムが無くても、主が救われる人を起こしてくださっていました。このエクレシアは地元コミュニティから信頼され、好意を持たれていました。地元コミュニティからの信頼も無く、嫌われているとしたら伝道は難しいでしょうね。


「チャーチプランティング」より「弟子つくり」
よくチャーチプランティングという言葉を聞きます。日本語では、教会開拓でしょうか?しかし、聖書の中にはチャーチプランティングという言葉は出て来ないのです。主の大宣教命令は「弟子をつくりなさい」であって「教会を建てなさい」ではありません。教会は人々のこと。弟子が集まると、そこが「教会」となるのです。会堂を建て看板を出して人為的に教会を作ることを目指すより、弟子を作り、育てることにフォーカスしたほうが良さそうです。ちなみに弟子とは「学ぶ者」であり、それもカリキュラムを学ぶというよりもキリストというお方に学ぶと言ったほうがふさわしいでしょう。お茶やお花、武道や大工もマニュアルで学ぶのではなく、師匠と時間を過ごし、師匠のやり方を盗んでいくのです。12弟子はキリストと共に生活する中で、その生き様から学んだのです。


霊的に成長するとは?
霊的成長という言葉を聞きます。そのためには礼拝を欠かさず、メッセージを聞く事が大事と言う人が多いでしょう。以前、メガチャーチであるウイロークリーク教会のビル・ハイベル牧師が自分の教会員にアンケートしたところ、クリスチャンになって最初の3年間は成長するけれど、その後は停滞状態となることを発見してショックを受けたといいます。それで彼は礼拝説教だけでなく、弟子訓練が必要だと結論づけました。ところがこの「弟子訓練」もくせ者で、時として単なる勉強会で終わってしまいがちです。「知識が増える」ことと「愛が増す」ことは別なのです。



先日、礼拝にホームレスの人が来ました。牧師はシャワーを貸してあげ、朝食も出してあげました。これは犠牲的な愛の行為です。彼は礼拝に出席しました。フェローシップの時間に、誰も彼に声をかける人がいませんでした。皆、コーヒーを飲みながら楽しそうにおしゃべりしています。私は彼に「お飲物何か、いかがですか?」と訪ねました。礼拝後、お財布がからっぽの彼を昼食に誘って、ごちそうし、お話を聞きました。彼がこう言いました。「礼拝前に声をかけてくれたのはあなただけだった。そして、フェローシップの時間中、誰も声をかけてくれずポツンと一人ぼっちだった。牧師や幹部の人はいいんだけど、一般の信徒がいけない。」その時、霊的成長とは何だろうかと考えさせられました。

汚れたスリーピングバッグを置いて、難しい顔をして座っている彼は確かに近づきがたい様子だったことは分かります。交わりの時間に、信徒同士いつも会っている友達と会って話したいのも分かります。しかし、彼は一人で寂しく座っていたのです。イエス様だったらどうしたでしょう。主の弟子とは弟子訓練の理論がわかっている人ではなく、他の人をケアできる人なのではないでしょうか?他の人の重荷や苦しみを主がなさったように我が身に引き受けることなのではないでしょうか? 他の人に関心を向けるには自己中心だとできません。自分のやりたいことを優先したり、自分のしゃべりたいことだけ話していてはできないのです。そこにイエス様の愛が必要になります。人は皆、自己中心だからです。イエス様だったらどうするだろう?この意識が必要になります。長年、教会に通っていても自分の話ばかりする人は成長しているのでしょうか?親しい人としか話さない人は成長しているのでしょうか?地元のコミュニティのことを考えない人は成長しているのでしょうか?

都心の快適な空間で、スイングできる若者が多いワーシップ。かっこいい牧師が語る魅力あるメッセージ。楽しいでしょう。でも、プログラムに参加し、自分が楽しんで帰るだけなら成長できるのでしょうか?電車に乗って家に帰ったら、地元のコミュニティには無関心。愛が成長しているのでしょうか?

目指したいのはアウトリーチするミッショナル・コミュニティ(神から遣わされた使命を帯びた共同体)ですよね。それも手柄主義ではなく、真の愛から流れ出る・・・


前回書きましたように、愛は至近距離、等身大でないと表せないのです。近くでかかわる関係は少人数のエクレシアでないとできないのです。愛を学ぶのは他の人にかかわることなしにあり得ないのです。霊的成長は少人数のエクレシアで他の人とかかわることで成し遂げられるのではないでしょうか? そしてインターネットの時代だからこそ、「顔と顔」を合わせて定期的に合うエクレシアが必要なのではないでしょうか?




「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:25)

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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)

japantmc@gmail.com(栗原)

2014年11月18日火曜日

「儀式の力」



滝田洋二郎 監督作品「おくりびと」始めて観た時、涙が止まりませんでした。こんなあらすじです。
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チェロ奏者で世界旅行が夢だった、小林。突然、楽団が解散となり、職を失う。実家の秋田に戻り、職を探しているうち、納棺業に。人生って予期せぬことが起こる。夢が破れることがある。でもさらに深い人生の意味を知るようになる。始め、納棺の仕事について、小林は悩む、幼なじみからも、妻からも理解されず、死体と向き合う毎日。「オレはここで何を学んでいるんだろう」やがて、死に旅立つお手伝いをする意味を悟ってくる。誇らしい仕事に思えてくる。

小林が6歳のとき、カフェをやっていた父は女を作って家を出た。その後は母の手一つで育てられた。でも父は音楽を愛し、チェロを教えてくれた。川辺で「石文」(いしぶみ)をやる。石に思いを託して、自分の思いに合った石を交換する。小林は父からもらった石を捨てないで持っていた。父も結局、死に際に息子から(すでに戸籍もはずしてあり20年も会っていない)もらった小さな石を握って死んでいた。その石の思いを小林は生まれてくる子供に託そうと、妊娠中の妻のお腹にそれを当てる。それは、愛されている、気にかけられているというメッセージだったのだ。

遺体に向かって、生きている人は「ありがとう」「すまなかった」と言う。「おくりびと」は遺体を丁寧に拭き、死に顔に化粧をし、男性ならひげをそり、最高に美しい姿で送り出してゆく。はじめに5分遅れたと言って文句言っていた家族も、最後は美しく送り出してもらって、涙ながらに感謝する。

最後、小林の父を自らの手で納棺するところが圧巻だ。葬儀屋がゾンザイに遺体を扱い、納棺しようとする。それに怒りをもって、「自分にやらせてくれ」と言う小林。もう彼はこの時点で心底、納棺師になっていた。やはり、死人でも最高に奇麗に、丁寧に見送ってあげたいのだ。長年会ってなくて顔も忘れている。しかし、ひげをそり、心を込めて整えているうち、顔がよみがえってくる。「おやじだ。」と口に出る。堅く閉じられた手にはあの石が、しっかり握られていた。おやじはどんな気持ちだったか。一瞬たりとも息子を忘れたりはしなかった。申し訳ない気持ちで会えなかった。でも自分の息子なのだ。
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この映画、実は、かなり聖書的なのです。

1. 人生は予期できない。思うようにはいかない。でも、その折々に意味がある。何かを学んでゆく機会なのだ。

2. 死人を美しく送り出すというのは極めて人間的な行為。この映画を見て感動するという事自体。唯物論じゃない。人間の尊厳。美、魂への畏敬が大事。


3. 人間、死んで終わりじゃない。火葬場のオジサンが言うように、死とは「門」だと。次にいくため「通る」ところだと。これで終わりじゃないことは直感で知っている。魂は肉体を離れ、旅立ったのだ。 だからいつか、また会える。

4. 死んでしまうと、その人の大切さが痛感される。だから、もっと話をすれば良かった。もっと感謝すれば良かったと後で思うのだ。愛が深いほど、別れも辛いのだ。愛の反対は憎しみではなく、無関心。


儀礼の力
さて、もう一つ考えさせられたのは、儀式ということ。気持ちの整理をつけるための儀式の役割があるのだなあと感じたのです。葬式自体は儀式です。しかし、単なる儀式とかたずけてしまっていいものでしょうか? 葬式をしないまま、一人の人間が目の前からいなくなっているという現実を「気持ち」が受け入れないのではないでしょうか?「儀式とは気持ちの整理なりけり」。流れるような、納棺の儀で少しずつ気持ちの整理をつけてゆくようです。私たちのようなハウスチャーチ系は、なるべく宗教色を消してイエス様との関係にフォーカスしたいのですが、だからと言ってすべて儀式をカットしてしまっていいのでしょうか? 制度教会を嫌う系だからこそ、儀式の問題を語り合うべきなのです。きっと儀式は人間の文化の中で重要な意味があるのだろうと思います。人間がいるかぎり、葬式はあり続けるのでしょうから。

そんなの送り出す方の心の満足のためだろうと言うかも知れません。それでもいいんです。それも大事だから。送り出す方も納得しないと送り出せないのです。それから、死んだ人はもうイエス様のもとに行っていないのだから、壮大な葬式しても意味がないと思いがちですが、そこにいないだけで、無になった訳ではないのです。肉体を離れたが、霊は存在しているのです。ある意味では「生きて」いるのです。死んだ途端に関係なくなる訳ではありません。それに肉体だって、神が土から作った神の作品なのです。祖末にしていい訳がないでしょう。アブラハムも莫大な財を使ってサラを丁重に葬りました。「気持ちの問題?」それでもいいじゃないですか。それが大事だから。人間物質じゃない。気持ちも大事な人間存在の部分なのですから。


東北の医師、故、岡部健氏はこう語っています。

「戦後の日本では、宗教や死生観について語り、この暗闇に降りてゆく道しるべを示すことのできる専門家が死の現場からいなくなってしまいました。人が死に向かい合う現場に医療者とチームを組んで入れる、日本人の宗教性にふさわしい日本型チャプレンのような宗教者が必要であろうと考えてきました。」

                                  

東日本大震災後、沢山の遺体と接して気持ちが落ち着かない看護婦さん達のために、たまたま近くにいたボランティアのお坊さんを呼んで、お経をあげてもらった体験から儀礼についてこう言っています。

「その儀式、儀礼によってみんなの気持ちがすうっと落ち着いていったんですね。私みたいに医療職をずっと続けてきた人間にとって、そういう儀式というものがここまで人の気持ちを落ち着かせることができるのか、と興味を覚えました。」

被災地での体験から岡部氏はこうも言います。
「極端な例だと被災地ではお化けが見えちゃうような人が一杯出てくるわけですよ。お化け見ちゃったという話は医者には言いません。医者に言ったら病気になっちゃって、病気なら薬使おうという話になっちゃう。そうするとわれわれのほうに出てこない情報がやっぱり宗教者の方にずっと回ってきますし、またなんだかお経でお化けが出なくなったりするんですよね。何故なんだろうという感じなんだけれども(笑)。医療職と宗教職というのは実は、在宅とか地域ケアを担当してゆくときは、イコール・パートナーシップのチームの一員なんだということを、もう一回思い起こさなきゃいかんという気がいたしました。」


私自身、10数年前に父を亡くしました。父は5年に渡る癌との闘病生活に終止符を打ったのでした。身内の死というのは非常に重いものがあります。いろいろなことを考えさせられました。つい、昨日まで手を握れば、握り返していたのに、もう微動だにしないし、冷たくなっているのです。呼びかけても応じないのです。棺おけに入った父を見て思いました。もうここにはいない。ここにはいないがどこかにいる。どこかに行ってしまった。そういう感覚です。葬式、喪の期間という通過儀礼を通して昨日まで存在していた人が目の前からいなくなったことの「納得=心の整理」が必要でした。父は生前、はっきりとした信仰告白はしませんでした。天国に行ったかどうかもわかりません。神のみぞ知るです。それでも私は思いました。父も神に愛され、神から与えられた分、すなわち人生の喜び、悲しみ、苦しみすべて経験し尽くして全うしたんだと。父なりに一生懸命に生きたのだと思います。「よく生きたね。よくやったね。」と言ってあげたいのです。

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2014年11月12日水曜日

「僕らの常識は宇宙の非常識?」



イギリスの理数学者ロジャーペンローズによれば、相対性理論は99%以上の確立で確証された理論だそうです。佐藤勝彦 著(PHP文庫)、「相対性理論の世界へようこそ」によると・・・


1. 運動している物体の長さは縮む。

2. 動くものは質量が増える。

3. 物質はエネルギーが姿を変えたもの  E=M x C2 エネルギーは質量に光の速度の2乗  
         をかけたもの。

4. 重力は加速度で作り出せる。

5. 加速度(重力が働くと)が加わると時間が遅れる。

6. 物質があると時空が曲がる。

7. 空間が曲がると光の進路も曲がる。

8. 重力圏からの脱出速度が光速に達すると重力崩壊を起し
  ブラックホールとなり、光さえ飲み込まれる。その際、
  多くの粒子がぶつかり合い、熱(X線)を放射する。

9. ブラックホールは実際は球体。

 10. ブラックホールの事象の地平面(表面入り口)の上では時間が凍る。



実際に、宇宙にロケットを飛ばすときは相対性理論を使って計算しているのです。すべてを飲み込むブラックホールがあり、すべてを吐き出すホワイトホールもあるのではという議論もあります。

ハーバード大学物理学女性教授リサ・ランドールは、私たちは異次元世界に囲まれていると公言しています。5次元が存在するというのです。宗教家の妄言ではありませんよ。異次元に天国もありそうですね。



「平行線は交わらない」。僕らの常識でしょう。確かに、ユークリッド幾何学では正解です。しかし、相対性理論だと時空は曲がることになっています。私たちの考えている常識って何なんでしょうね。


電子を電子銃で撃って3つの穴の空いたスリット(壁)に当ててみます、すると1つ2つと数えられる電子は3つの穴を通りすぎて向こうの壁に到達します。物体が一瞬にして波として穴を通過してしまうのです。電子は数えられる物体でもあり、同時に波でもある。何だそりゃ?と言いたいでしょうが、これはもはや物理学の常識です。1つが3つで、3つで1つ。何か三位一体の神のようですね。


復活のイエス様が壁を抜けて弟子達のところに現れたりします。「まさか、ありえない」という事になるのですが、その常識は全宇宙の真実を知った上での常識でしょうか?宇宙を埋め尽くす物質の96%は今だに未知のダークマターとダークエネルギーです。わかっている物質はたったの4%。さらに、科学者の間では、この宇宙は11次元まであるという理論(超ヒモ理論)さえ飛び交っています。




どうです。少し人生観変わりません?

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「異次元は存在する」 リサ・ランドール+若田光一著 NHK出版

 「超ヒモ理論と影の世界」 広瀬立成 著 講談社Blue Backs

「宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった」 佐藤勝彦 PHP文庫

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