2021年3月25日木曜日

「恵みの福音」と「御国の福音」

 

恵みの福音

あなたはどんな伝道メッセージを聞いて決心しましたか?

 

「あなたは愛されてます!」

「あなたは一人じゃない!」

「人生はやり直せる!」

「心の平安」

 

これらは伝道メッセージのタイトルとしてよく目にするのではないでしょうか?そしてメッセージの最後で十字架が語られキリストによる愛と赦しを受けるように招きがあるでしょう。

 

個人伝道でよく用いられてきた「4つの法則」のアウトラインはこうなっています。

 

1.神はあなたを愛しておられ、あなたに素晴らしい人生を与えようとしてお

  られます。

2.人は罪を犯して、神から離れてしまったので、神の愛と計画を知ることも、

  体験することもできないのです。

3.イエス・キリストだけが、人の罪を解決するお方です。あなたもイエス・

  キリストによって、神の愛と計画を知り体験することができます。

4.私たちは、イエス・キリストを罪からの救い主、主として受け入れる必要

  があります。その時、神の愛と計画とを知り体験することができます。

 

そして、「私たちは、個人的な招きによってキリストを受け入れます。」と続きます。信仰の確信を与えるため、信じた結果起こることもリストアップされています。

 

1.      キリストがあなたの心に入って来られました。

2.      あなたのすべての罪がゆるされました。

3.      あなたは神の子供とされました。

4.      あなたに永遠のいのちが与えられました。

5.      神があなたのために、創造された大いなる冒険の生涯に入りました。

 

これらは確かに事実です。「4つの法則」は実際、世界で用いられ多くの人々がキリストに導かれました。感謝なことです。これは典型的な「異邦人」向けの福音メッセージです。これは「恵みの福音」と言われています。入り口としてはこれでいいのです。フォーカスは「個人」です。神との個人的な関係を回復することにフォーカスがあります。しかし、ここにはイエスが福音書で何度も語った「御国」と言う言葉は一度も出てきません

 

イエスが語った福音は「御国の福音」です。つまり福音は『国』に関しての事であり、個人的なものを超えています。しかし、通常、私達が聞く福音メッセージで「御国」の話を聞くことは滅多にないのです。

 

 

御国の福音

異邦人向けメッセージとは対称的に、ユダヤ人向けメッセージは「御国」が中心です。バプテスマのヨハネのメッセージは「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」(マタイ3:2)と宣言し、また、イエスの宣教メッセージも「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」(マタイ4:17)で始まっています。ルカの福音書でもイエスの宣教の中心が「神の国」であったことが分かります。(ルカ9:2、9:11)

 

さらにマタイが記述するところによるとイエスの宣教は「悪霊追い出し」「病人の癒し」そして「御国の福音」の宣言の3点セットだと分かります。(マタイ4:23−24)(マタイ9:34−35)弟子たちが宣教に遣わされる時も「天の御国が近づいた」と宣べ伝えるよう主イエスから命じられています。(マタイ10:7)

 

「悪霊追い出し」「病人の癒し」は憐れみから行われましたが、それは「御国」の力の証でもあったのです。なぜなら最終的な御国=千年王国、新天新地には悪霊の影響、病気が無いからです。その「御国が近づいた」というのが福音の内容だったのです。私たちが聞く「福音」と大分違いますね。私達が聞いて、受け入れた福音が間違っているのではなく、それは1つの入口ですが、福音の内容は非常に豊かであり、視野の広いものであることが後で分かってきます。聖書の言う救いが「個人」の救いだけでなく、被造物全体の救い、贖いであることが分かってきます。

 

マタイ5章からの「山上の説教」でも「天の御国」(御国、神の国)がテーマです。「御国」のライフスタイルが語られています。「イエスを信じて救われたから、もういいや。」「天国行きはもう決まりだ。人は救われた罪人だから、地上で罪を犯すのはしょうがない。」ではなく、私たちが主と呼んでいるイエスの語った「御国」の生活の指針をシリアスに受け取る必要があるのではないでしょうか?実際、マタイ、マルコ、ルカの福音書のテーマは「神の国」なので、「神の国」を理解しないと福音書が理解できないのです。

 

 

「御国の福音」理解の重要性

イエスの宣教対象はイスラエルの失われた羊(民)でした。(マタイ15:24)だから「御国の福音」を語ったのです。イスラエルの民にはメシア待望とメシアがもたらすメシア王国(御国=Kingdom)待望がありました。実際、ユダヤ人向けに書かれたマタイの福音書だけでなく、異邦人向けのルカの福音書にもイエスが神の国を説いていたことが書かれています。(ルカ8:1)

 

ただ、問題は、それらの「福音書」を私たち日本人も読んでいるという点です。そうすると、異邦人向けの「恵みの福音」だけをいつまで聞いていても「御国の福音」を理解できず、成長できないのです。「あなたは愛されています!」的なメッセージだけでは聖書的歴史観、世界観が把握できません。日本人クリスチャンの大きな問題はここにあります。入り口は「恵の福音」でも、最終的には「御国の福音」を理解しなければなりません。

 

またパウロは「聖霊は御国を受け継ぐことの保証です。」(エペソ1:14)と語っていますので、「御国」を理解しないと受け継ぐものが何なのかという重要なポイントをミスしてしまいます。同じエペソ1:11では「また、キリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。」とあり、「御国」の相続について書いています。しかし、この「御国」を理解している人が少ないのではないでしょうか?

 

 

「御国」は上にある「天国」ではなく、やって来る「王国」

相続についてはローマ8:17でさらに詳しく述べられています。「私たちは・・神の相続人であり、キリストと共に共同相続人なのです。」この時点で御国は俗に言う「天国」ではないことは明らかです。「天国に行く」と言う言い方はしますが、誰も「天国を相続する」と言う人はいませんね。相続という法律用語がわざわざ使われているのは「土地の所有」と関連があるからです。アブラハムの祝福の中に「土地の所有」の約束があります。(創世記15:18)この約束はまだフルに実現されていません。これはイエス再臨後のメシア王国=千年王国にて成就されます。(黙示録20章)しかし、こういう視点はあまり教えられていないですね。




ヘブル的には「御国=Kingdom」は上にある「天国」ではなく、将来、地上に実現するメシア統治のことなのです。新約でも「次に来る世」(エペソ1:21)とパウロは言い、イエスご自身も「これらのことが全て起こるまでは、この時代が過ぎ去る事は決してありません。」(マタイ24:34)と語り、この時間軸上に次の時代が来ることを示唆しておられます。聖書の出来事は時系列的であり、歴史観はリニアルです。「御国」は、この先の未来に実現するのです。

 

2000年前、イエスの到来にて「神の国=御国」は確かにエクレシア(信者の群れ)の中に始まりました。(ルカ11:20)それで、千年王国はもう始まっていると誤解する人がいますが、今はまだサタンが繋がれてはいませんし、諸国の民はサタンに惑わされています。千年王国では惑わされません。(黙示録20:2−3)ですから、この時代が千年王国であるとはとても言えません。

 

福音の全体像を把握するには、我々日本人も「御国の福音」を理解する必要があります。パウロは「私は神のご計画の全てを余すところなく、あなた方に知らせたからです。」(使徒20:27)と言っています。神のご計画の全ては、「創世記」から「黙示録」に書かれています。そこには世界の創造から、人間の堕落と罪、神の贖いのご計画、受難のメシアの到来と十字架での贖いのみ業、復活と昇天、異邦人伝道の時代、やがてくる患難期と主の再臨、メシアがもたらすメシア王国、そして新天新地へという壮大な神の救いの物語が見えてきます。救いは人間だけではありません、全被造物、全宇宙の回復と再創造です。(ローマ8:20−22)

 

マタイ24:14 「この『御国の福音』は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます。」とあり、最終的には「御国の福音」が御使によって全人類に知らされます。(黙示録14:6)それから終わりが来ます。

 

キリスト者の希望は「天国」に行って、フワフワした雲の上で天使のハープを聞いて退屈な永遠を過ごすのではありません。(これはギリシア哲学に侵された異教的な天国のイメージです。)ヘブル的メシア王国は将来の、この時空に成就しています! 私達は、信仰によりこの事実を前取りできるのです。(エペソ1:11−14)ある意味、希望は未来から現在に突入しているのです!この事実を知ったら誰でもどんなことをしてでも「神の国」に入りたいと願うのではないでしょうか?(マタイ11:12)

 

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執筆者:栗原一芳

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2021年3月18日木曜日

神の安息に入る

 

安息の概念

大きなユダヤ的遺産の1つが「安息」という概念である。

 

「神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべて

 のわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。

 その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。」

                    (創世記2:2−3)

 

神は疲れることがないので、休息の必要はないが、私達、人間のためにサイクルを設定して下さったのだ。





 

再び、ロバート・ハイドラー「契約のルーツ」から引用してみよう。

 

「聖書全体を通して、神は『人生のサイクル』を建て上げることの重要性を強

 調しておられる。私達を悪魔の圧迫から解放し、神の良さを深く味わうため

 に意図された祝福のサイクルにつなぎ合わせることが主の願いなのである。」

                             (110)

 

そのために1週間に一度の安息日(休息と祝い)、年毎の例祭(祝典)のサイクルをお建てになった。日々の労苦のまにまに、このように人生の重荷を神に委ね、神の良さを味わう機会を設けてくださったのだ。

 

「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたの

 ではありません。」(マルコ2:27)

 

「(神は)十戒の中に安息日についての命令を含まれた。つまり休みなく1週間

 働き続けるということは、殺人や盗み、姦淫と同じくらい道徳的な問題であ

 るということである。」(112)

 

のべつ幕なしに仕事することは罪でさえある。現代のクリスチャンはどのくらいこれを意識しているだろうか? 「働き過ぎ」、「燃え尽き」は神の御心ではない。この良き伝統を受け継ぎ、初代教会においては、安息日が定期的に祝われていたようだ。

 

「安息日は、主に休息し、楽しむ日であって、集まって礼拝する日と同じでは

 ない。」(114)

 

実際、初代教会の信者は礼拝のためには毎日集まっていた。(使徒2:46)安息日が特別の「礼拝」の時間という訳ではなかった。安息日の一番のポイントは「仕事をしない」ということだ。

 

 

安息日を尊ぶべき7つの理由

ハイドラーは以下の7つの理由を挙げている。

 

1.      安息日を通して、創造主である神を讃える。

2.      安息日は神からの供給を祝うことである。

* 忙しすぎて休めないという人は、神の供給を信頼していない。

3.      安息日を通して、私たちは神の良さに思いを馳せる。

4.      安息日を通して、私達の信仰が建て上げられる。

5.      安息日は救いを表す。

   救いは、主の業であることを認識する。(ヘブル4:10)ユダヤ人は、安息日には断食もせず、禁欲的に宗教的であろうとはしなかった。

6.      安息日は天国を表す。

7.      安息日は神の祝福を解き放つ。

 

「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(出エジプト20:8)

 

「聖なるものとする」とは「特別なものとする」という意味だ。通常通りであってはならない。つまり、日常的に行われている仕事から離れ、特別な時間を持つということだ。

 

 

安息日の過ごし方

NYリディーマー教会牧師のティム・ケラーは、安息の持ち方について以下を挙げている。

 

6つの安息的休息の取り方

1。まったくスケジュールのない時間を持つ。

2.「仕事」ではない時間を持つ。

3。思い巡らす時間を持つ。沈黙や瞑想。

4。神の創造の美を楽しむ時間を取ること。散策など。

5。関係を育むために時間を取る。大切な人とゆっくり時間を過ごす。

6。あなたの仕事に「安息」を注入する。仕事の途中でもブレークを取る。

 

忙しすぎる・・・とは結局、神を信頼していないこと。自分がコントロールしなくては・・・と思っていること。つまりは、自分が神になっていること。

全てを治めている主を信頼していないことになる。どの日でもいい。1週間に一度は「解放と安らぎ」の日を持つことが大切。日曜日を安息日とすることは良いが、奉仕や会議で疲れ切ってしまうなら、真の安息日とは言えない。

 

 

救いの歴史における3つの安息

ヘブル書4章から、安息には「過去に実現した安息」「現在的な安息」「将来的な安息」があることが分かる。

 

1)過去に実現した安息=「約束の地」(ヘブル4:8)

  モーセはエジプトから奴隷状態だったイスラエルの民を解放し、約束の地

  カナンへと民を導いた。しかし、その後、周辺諸国から絶えず攻撃された

  ので、これが完全な安息ではなかったことが分かる。(ヘブル4:8)また、

  この「安息」はイスラエルの民だけに約束されたものであった。

       

2)現在的な安息=神の臨在=安息日の休み(ヘブル4:8—9)

  イエスが罪と死から私達を解放してくださったゆえ、イエスを信じる者は  

  神の平安(ヨハネ14:27)=安息を得ている。死の恐れの奴隷となっ

  ていた民は平安を得て(ヘブル2:15)、(ローマ8:1)(エペソ2:1

  5−18)神のご臨在を楽しめるようになる。これは全人類に開かれた「安

  息」である。主は全人類をこの安息に招いておられる。だから「今日もし、

  御声を聞くなら、あなた方の心を頑なにしてはならない。」と言われたのだ。

 (ヘブル4:1、4:3、4:7)メシアニックジューと異邦人クリスチャ

  ン共に与ることのできるものであり、クリスチャンであるあなたが「今」

  味わっている安息である。この安息は究極の「安息」へとつながる。

       

3)将来的な安息=天地創造7日目の「神の安息」=完全な安息

  これは、新天新地にて成就する。新天新地においては「呪われるものは何

  もない」(黙示録22:3)とある。ついに、アダムの罪による労働の呪い

 (創世記3:19)が全く取り除かれ、完全なる安息が成就する。もっとも

  神にあっては、「わたしの安息」(ヘブル4:3)は、創造のみ業の第7日

  目に成し遂げられている。(ヘブル4:3−4)信じる者は、この神の安息

  =完全かつ永遠の安息に入れられる。(ヘブル4:3)

     

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

2021年3月11日木曜日

教会はいつから、どう変質したのか?(3)

 

初代教会はユダヤ的だった!?

日本のキリスト教界は、戦後、ドイツのバルト神学や、ムーディー、ビリー・グラハムなどのアメリカ福音主義に影響を受けてきた。ユダヤ文化などあまりシリアスに考えてきたことがない。

 

しかし、考えてみるとイエスはユダヤ人として地上に来られ、忠実なユダヤ教信者として律法を守り、ユダヤ祭儀に参加していた。そしてイエスご自身、安息日にはユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で律法を聞き、ユダヤ教のラビとして教えておられた。イエスの12弟子はユダヤ人だったし、新約聖書を書いたパウロやペテロやヨハネはユダヤ人だった。

 

使徒の働きを見ると、パウロの伝道スタイルは、まずその地の会堂を訪れ、ユダヤ人にイエスがキリストであることを弁明した。少なくも初期段階ではユダヤ人伝道が優先だったのである。会堂管理者がパウロに説教をさせたことから分かるように、この時点では自他共にユダヤ教の一派という意識であり、新しい宗教を始めたという意識ではなかったのだ。それよりも「我々こそが旧約聖書の預言を正しく理解した者」、「イエスがキリストであることを知らされた者」、「旧約の創造主の真の礼拝者」という意識だっただろう。つまりメシアニック・ジューだったのである。

 

パウロがローマ書11:15−24で解説しているように、異邦人クリスチャンはオリーブの根(旧約聖書=聖書的ユダヤ教)に接ぎ木された「野生の枝」ということになる。その「根」無しに「枝」はあり得ない。小さな新約聖書だけポケットに入れておけばいいという訳にはいかないのだ。旧約から新約、創世記から黙示録までが神の壮大な救いの物語であり、66巻で1つのバイブル(本)となっている。

 

ところが前回、学んだように「キリスト道」の「公認化・国教化」のプロセスの中で、「キリスト教」という宗教へ変質していく。その過程で、ユダヤ的遺産を喪失してゆく。意図的にユダヤ的要素が排除され、異教的要素が混入されていったのだ。

 

 

失ったユダヤ的なもの

再び、ハイドラーの「契約のルーツ」から学んでいこう。彼は教会が失ってしまった大事なユダヤ的遺産が4つあるという。

 

1)  神に対するヘブル的態度

旧約聖書を読むと分かる通り、ユダヤ人は日常生活の中で神を体験し、神と共に生きていた。しかし、ギリシア哲学では神は学問の対象となり、理論的に分析されるようになる。そして、「神学」が始まる。「キリスト道」は「教理」への知的同意となっていく。

 

2)  聖書に対するヘブル的態度

ユダヤ人は律法(神の言葉)を愛していた。シナゴーグで巻物のトーラーや預言書が朗読される時、朗読者はまず、巻物に口づけをする。また、トーラー(モーセ5書)を「個人的」に読み、学ぶよう育てられる。6歳になると、シナゴーグでトーラーを読み、暗唱させられる。13歳になると厳格なユダヤ人家庭の子供逹は、トーラー全体、および詩篇と預言書の大部分を理解し、暗唱していなければならなかった。

 

しかし、ローマ・カトリック時代には聖書は専門家である聖職者だけが触れられ、読み、解説できるものとなった。一般人が聖書を読むことは危険とみなされ、火刑にされた者も出た。このように、神の言葉への「個人的アクセス」と神の言葉への「愛」が失われてしまった。この伝統のゆえか、今でも聖書的知識は専門家である牧師に委ね、自ら聖書を読み、学ぶ者が少ないのが事実だろう。日曜日にしか聖書を読まないクリスチャンも多いのではないだろうか。

 

3)  ヘブル的家庭を重んじる態度

今日、我々の霊的生活は教会活動と結びついている。「サンデー・クリスチャン」という言葉があるが、ある人々にとっては日曜の朝だけがクリスチャンを意識する時で、月曜からは「この世モード」、「仕事モード」となる。しかし、ユダヤ文化では霊的教えや訓練は「家庭」で日常的に行われていた。

 

「ユダヤ教があらゆる世代において、迫害を乗り越えることができたのは、宗教生活の基盤が家庭を中心とした構造と機能に置かれているからである。・・・家庭こそが彼らの小さな聖所であり、神への礼拝、聖書の学び、他者のもてなしのための聖別された場所なのだ。」(76)

 

「聖書的に、ほとんどの主要な例祭や祝いは会堂や神殿における公の集いにおいて行われたのではない。家庭の祭司であり、長老である父親によって導かれた家庭での集いによって行われたのである。」(77)

 

そして、コンスタンティヌス以前は、クリスチャンの集まりも、家庭を中心とした礼拝だった。

 

「新約聖書を読む時、初代教会のメンバーにとって、幼年時代からの上記のような家庭での安息日の祝いが、霊的生活の核となる要素であったことを覚えておかなければならない。このことは、教会の形成、構造、そして成功に大きなインパクトをもたらしたに違いない。」(78)

 

 

4)  人生に対するヘブル的態度 

実は、ユダヤ教は禁欲主義ではない。神は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と人間を祝福して言われた。元々、人間は祝福され、人生は祝福されていた。

 

「ユダヤ人達は、人生のすべては、神からの恵み豊かな贈り物であると

 考えた。ご自身の子らが祝福を楽しむことこそ神の願いであると教え

 た。彼らは喜びを断つことが霊的なことであるとは捉えていなかった。」

                          (81)

 

「食べ、飲み、感謝に満ちよ、人生は神の賜物だから。」

                  (伝道者の書3:13)

 

 「神は、ユダヤ人達に毎年自分達の収入の十分の一を捧げ、惜しみなくそれ  

  を用いて、主の臨在の中で祝いの時を持つよう命じておられる。そのこと

  に気づいてるクリスチャンはあまり多くはいない。」(81)

 

ハイドラーは申命記14:25−26を引用する。きっと多くのクリスチャンはこの箇所を読んだら驚くだろう。

 

「あなたはそれ(捧げもの)を金に変え、その金を手に結びつけ、あなたの神、

 主の選ぶ場所に行きなさい。あなたは、そこでその金をすべてあなたの望む

 もの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換え

 なさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。」

 

これが捧げものの用い方だった。捧げ物は返却され、家族の喜びのために用いられたのだ。ちなみに、申命記14:28以下を読むと、捧げられた収穫の十分の一は社会福祉のために使われていることが分かる。(使用目的がはっきりしていた。)

 

ところが、ギリシア哲学の影響で、キリスト教は貧困や苦難が美徳とされる喜びのないものとなってしまった。また、肉体は悪いものとされ、肉体的苦痛を通して聖なる者になろうとした。肉体や物質を卑しいものとする「霊肉二元論」(グノーシス主義という異端)が今の今までクリスチャンに影響を与えている。例えば、「性」に関しては教会では喋らない。また、身体的活動であるスポーツをポジティブに捉えている教会は少ないのではないだろうか?結果、喜びのないクリスチャンとなり、その生活は未信者をイエスから遠ざけてしまっているのでは?

 

 

ユダヤ例祭を祝う

初代教会は多分にユダヤ的であった。第一にクリスチャン達はシナゴーグへ出席していた。そして・・

 

「初代教会のユダヤ的特色を表す第二の証拠は、クリスチャン達が『ユダヤの』

 安息日や例祭を祝い続けたことである。4世紀以降に至るまで、教会が祝い

 続けたことを示す証拠は多い。」(207)

 

しかし、「教会会議」がユダヤの例祭を祝うものを破門するようになる。これは非常に残念な事だ。ユダヤ例祭は、今やキリストにあって新約的に祝うことができるのである。ユダヤ3大祭りといえば、時系列的に「過越の祭り」「五旬節=ペンテコステ」そして「仮庵の祭り」。

 

過越の祭り:エジプトに最終的な裁きが下る際、イスラエルの民は神の言われた通り、門柱に羊の血を塗り、それにより神の怒りが過越したことに由来する。今や、真の罪なき神の子羊イエスが十字架で完全な罪の贖いを成し遂げられた。(ヘブル9:12)ゆえに、イエスを信じるものは神の怒りに会うことがない。今日、教会で行われている「聖餐式」はルカ22:15−20に基づいているが、これは明らかに「過越の食事」(22:15)であり、儀式というより実際の食事の一部だったのだ。旧約の「過越」を学ぶことで、より深くイエスの贖いを感謝できる。

 

五旬節:元々はシナイ山でトーラーが与えられたことを祝うものだが、新約的には内側に律法を書き記す聖霊の降臨を祝うもの。これは今日、多くの教会でペンテコステとして祝われている。

 

仮庵の祭り:元々は「出エジプト」して「約束に地」に至るまで天幕(仮庵)生活をした記念。その間の神の守りと臨在を祝うと同時に「約束の地」到達の祝典でもある。今日でもイスラエルではこの時期、「仮庵」を建てて歌や踊りで喜びを分かち合う。新約的には「来るべき王なるイエス」が直々に治める「約束の地=メシア王国=千年王国」の祝いとして相応しい。




 

個人的には「メシア王国待望祭り」としての「仮庵の祭り」を現代の教会でも祝って頂きたい。

 

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執筆者:栗原一芳

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2021年3月5日金曜日

教会はいつから、どう変質したのか?(2)


 前回、「キリスト道」が公認化、国教化で「キリスト教」に変化してしまったことを見てきました。つまり、「生き方」が「儀式的宗教」に変えられていったということです。迫害の中で純粋な信仰を保っていたキリスト教会は世俗化、権力化、さらには異教化していったのです。

 

今回は、その過程をロバート・ハイドラ〜著「契約のルーツ」(英題はMessianic Church Arising!)から見てみます。





 この大変化をもたらした張本人はローマ皇帝コンスタンティヌス。13人目の使徒と祭り上げられたローマのコンスタンティヌス帝が劇的な変化を教会にもたらしました。コンスタンティヌス自身、新生したクリスチャンなのかも疑問なのですが、皇帝の権威によって次々と変革が行われたのです。


 

1)家の教会の消滅

まずは、クリスチャンたちが家で集会を持つことを禁止しました。それに変わり、バシリカという礼拝堂で礼拝するよう強要しました。

 

 「インフォーマルな家の教会から、格式ばったバシリカ(礼拝堂)への変化

  は、教会というものに関する全概念を変えた。コンスタンティヌス帝以前、

  教会とは信じるもの達の家族を指していた。しかし、コンスタンティヌス

  帝以降、建物を指すようになってしまったのである。」(58)

 

ユダヤでは家長である父が祭祀役をして宗教教育を行っていました。そのスタイルを引き継いだ初代教会は、家々で集まっていたので、それだけの数のリーダーがいたことになります。バシリカでの儀式的礼拝になることにより専門家としての教職、お客さんとしての信徒という階層ができあがってしまいました。これ以降、聖書は一般信徒から遠ざけられ専門家の手に独占されてしまいます。


 

2)礼拝の変化

 「聖霊に導かれた親密なものから厳格な儀式へ。異教の皇帝崇拝から発達し

  たそれらの儀式が、教会に持ち込まれた。礼拝は厳粛な公の儀式と化して

  しまった。」(59)

 

ここから、礼拝の儀式化が始まったのです。本来、ユダヤ的な明るく楽しく、踊りを入れた礼拝が、笑ってはいけない厳粛な儀式に変えられました。今日でも、儀式的要素が継続してはいないでしょうか?祝典というよりお葬式のような悲壮感漂う?礼拝をやっているところもありますね。また、日曜、午前10時の礼拝が正式なものとの刷り込みが無いでしょうか?儀式ならばそうなりますね。週日にやっているのは「集会」で、日曜午前中やるのが正式な「礼拝」?それをやるのが正式な「教会」? 信者が集まって主をほめたたえていても、日曜礼拝をやってないと一人前の教会ではない?また、礼拝に参加することを「教会に行く」という意識?コンスタンティヌス以来のズレを踏襲していないでしょうか?


 

3)教会のユダヤ的ルーツの拒否。

パウロは宣教旅行の際、まずシナゴーグへ入り、ユダヤ人に向かってイエスがキリストであることを証明しました。違和感なく、そこに入り、奨励することが許されたのも、自他共にユダヤ教の一派という意識があったからです。

 

「1世紀のクリスチャン達にとって、安息日や、例祭や、ユダヤ人的諸儀式

 に参加したり、神殿やシナゴーグで礼拝したりすることは当たり前のことで

 あった。」(35)

 

コンスタンティヌスが組織した「教会会議」はユダヤ的相続物との関わりを意図的に禁止し、削除するようにしました。脱ユダヤは人為的に行われたのです。これにより教会は「根」を失い、たくさんの良き相続物を失ってしまいました。これに関しては次回、さらに詳しく取り上げることにします。


 

4)異教の混入

  「コンスタンティヌス帝は、教会をユダヤ的ルーツから切り離しただけで

   はなく、異教と結びつけてしまった。」(63)

 

これはシリアスな問題ですね。

 

  「ローマやアレキサンドリアなど、大都市の教会は、異教やギリシア哲学

   の影響にさらされていた。それらの教会は、ユダヤ的相続物の大部分を

   拒否し、異教的概念や行為を聖書の教えに混ぜ合わせていた。」(60)

 

これに関しては、前回ご紹介したフランク・バイオラ、ジョージ・バナー共著の「ペイガン・クリスチャニティ?」(残念ながら日本語訳がありません。)に詳しく説明されています。この本によると、今日、日曜日に教会でクリスチャンがやっている事の大部分は新約聖書に基づいたものではなく、異教に基づいているというショッキングなことが書かれています。

 

コンスタンティヌス以前の教会では「主の生誕を祝う=クリスマス」をしていた記録はありません。

 

  「異教徒であるローマ人には、12月25日に、ミトラ神の生誕を祝う風

   習があった。274年、アウレリアヌス帝は、ミトラ神の誕生日をロー

   マ帝国の祝日と定めた。・・イエスが太陽神の顕現と考えられていたこと

   により、サーツゥルナーリア祭(ミトラ神の誕生日)が、キリスト教の

   祭日とされてしまった。つまり『クリスマス』キリストの誕生日とされ

   たのである。」(64)

 

イースターの語源はローマ人の崇める豊穣の女神、イシュタル(あるいはエアストレ)であり、そのシンボルは卵でした。

 

  「古代、異教の民は卵に模様を描き、祭の贈り物として贈るのが習わしだ

   った。ニケア公会議の結果、キリストの復活は、聖書的背景から切り離

   され、異教の祭りとの関連の中で祝われるようになってしまった。そし

   て、最もおかしな点は、英語圏においては、その名前すらも変えられな

   かったということだろう。」(64)

 

キリストの復活の祝いに、「ハッピー・イースター(エアストレ)!」と、異教の女神の名を使っているのです!

 

  「321年、コンスタンティヌス帝は、キリスト教の礼拝日をローマ帝国

   の休日としたが、それを『キリストの日』と呼ばず、『尊崇すべき太陽の

   日』とした。(日曜日=Sunday)という名前の由来である。(63)

 

4世紀の終わりまでにはローマ帝国はキリスト教化されていきました。名目上のクリスチャンが増え、異教の神殿がキリスト教の教会になっていったのです。

 

  「異教の祭司達がキリスト教の祭司となるケースもあった。」(65)

 

  「異教の民は、自分達の神々の名を『キリスト教』的な名前に変え、異教

   の礼拝をそのまま続けたのである。このようにして、古い異教が、キリ

   スト教に混入していった。」(66)

 

  「教会は巨大権力を持ち、裕福な政治組織と化していった。真の霊的な命

   などほとんど見られなかった。」(66)

 

6世紀に入る頃には、初代教会の特徴はほとんど見られなくなってしまいました。つまり、「別物」に変質してしまったのです。


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参考本


ロバート・ハイドラ〜著「契約のルーツ」




デイビッド・ベルソー 「初代教会は語る」


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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com