2021年5月21日金曜日

イエス・キリストを再イメージする(2)

 

世界4大賢者ではない!

自らを「神」とする人が謙遜な賢者だろうか?ユダヤコンテキストで「神」は創造主、全知全能。多くの賢者は「道」を指し示す人。自らに指をさして「私が道であり、命であり、真理なのです。」(ヨハネ14:6)と言う人は、もし、本当に神でないなら、思い上がった狂人としか思えない。軽々しくイエスを「偉大な教師」なんて呼ぶのはやめよう。

 

弟子が神格化したのではない!

イエスご自身が「神」宣言をした。それが十字架の理由。

 

ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒瀆のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」 (ヨハネ10:33)

 

「だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」彼らはみな言った。「では、おまえは神の子なのか。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」そこで彼らは「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と言った。

                   (ルカ22:69−71)

 

「人の子」はメシアの称号、そして「神の子」はユダヤ文化では「神」。ただの人がこのような発言をしたならユダヤ文化では「冒涜罪」になる。

 

この話はたわごとのように思えたので、使徒たちは彼女たちを信じなかった。しかしペテロは立ち上がり、走って墓に行った。そして、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見えた。それで、この出来事に驚きながら自分のところに帰った 

                   (ルカ24:11−12)

弟子たちもイエスの復活を信じていなかった。ペテロは実地検証して「驚いた」のだ。つまりは想定外だった訳だ。トマスは「わき腹に手を入れて見なければ、決して信じない。」と断言していた。(ヨハネ20:25)弟子たちが神格化して「復活」をでっちあげたのではない!



もう10数年まえになるが、「ダビンチコード」という小説と映画が流行った。グノーシス主義に影響されて弟子たちが、人間イエスを「神格化」したのだという趣旨だが、間違っている。グノーシス主義は肉体を汚れたものと考えるので、イエスが神なら肉体を持って現れることはできないとし、肉体を持って見えたのは一時的にそう見えたという解釈をする「仮現論=ドケチズム」を唱えていた。つまり逆なのだ。人間イエスを神格化したのではなく、神なるイエスがどうして人間となり得るのかに苦闘して、「仮現論」を唱えることになった訳だ。

 

イエスは神証明するための「メシア的奇跡」を行なった。ヨハネは7つをセレクトして記述している。7つ目がラザロの蘇りであり、死んで4日経った人が生き返るという「神業」だ。イエスご自身の復活と宣言「わたしは蘇りです、命です。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)で十分だろう。イエスは100%神なのだ。

 

遠いところに鎮座する聖人ではない!

同時に、イエスは100%人間でもある。排泄も食事もする。感情を持ち、涙を流す方。(ヨハネ11:31)深くあわれむ方。(マタイ9:36)実は、旧約の神も鉄面皮の神ではなく、激情する神、あわれみで胸が熱くなる神だ。(ホセア11:8)ともあれ、イエスは、100%神であるが、近づきがたい聖者ではない。弟子のヨハネは最後の晩餐でイエスの胸に寄りかかっている!(ヨハネ13:25)それほど親近感を覚えさせる方。まさに人と共にある神、インマヌエルの神だ。(マタイ1:23)仕事は大工。筋肉質の体で汗を流し仕事をしていただろう。汗臭くなった衣服は洗濯する必要があったろう。弟子の漁師たちは、ブルーカラー、そして、ホワイトカラーの収税人や革命戦士の熱心党員といった多種多様なユニークな男たちを魅了する存在でもあった。

 

中世カトリックの時代の聖画に見るような生気を失ったような女々しいイエスは聖書的ではないのだ。気さくに罪人、遊女たちと食事をし、会話をする方。カナの婚礼で水をワインに変えて、一緒に喜びを分かち合う方。ある神学生が「イエスは笑ったか?」という論文を書いたそうだが、当然、イエスは飲み食いしながら、大声で笑ったのだと思う。禁欲的な修行僧のイメージではないことは確かだ。それなら、誰も近づかないだろう。

 

イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。 (マタイ9:10−11)

 

人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。  (マタイ11:19)

 

 イエスは罪のために死なれた。それだけ?

リベラル派はイエスを単なる「愛の人」とすることで聖書からズレてしまうが、福音派もイエスを単なる「罪の贖い」の「記号」として、そこだけ切り取って用いて、イエスのご人格と教えを軽視してないか?そのようにして聖書からバランスあるイエス像を受け取っていないのではないか?あたかも罪のための免罪符のように、特効薬のように、罪の贖いの面だけが強調され、一度「服用」すれば、後はもうご用済みとなっていないか?

 

「右の頬を打たれたら左の頬も」なんて守れるわけがない。いや、守る必要もない。「俺だったらぶん殴って、あとで御免なさいと悔い改めるな」と言っているクリスチャンもいる。「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈れ・・」そりゃ、理想であって、現実社会では機能しない。とイエスの教えを引き下げ、プラグマチストになってないか?「聖書の教え?それはそうとして現実社会では・・」とルターの「2つの王国論」を持ち出して、ダブルスタンダードに生きてないか?(この辺の詳しい議論は以下に紹介した本をご参照ください)

 

大宣教命令の「わたしが命じておいたすべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:20)とはどういうことだろう?通常、大宣教命令の前半の部分が語られ伝道は強調されるが、後半は置き去りにされていいのだろうか?

 

罪の「特効薬」イエスをもらうだけではなく、我々はイエスの「弟子」なのだと言う側面を忘れてはならない。「弟子」である限り、師の教えを実践する者でなければならないだろう。「十字架を負ってイエスに従う」とはプレイズソングの歌詞だけでいいのだろうか?

 

「自分の敵を愛せよ」というイエスの教えはどういう事だろうか?どれだけシリアスに受け止めたらいいのだろう。どうやらこれを聞いた弟子たちは「文字通り」受け取ったようだ。コンスタンチヌス以前のクリスチャンたちはイエスに倣って私的・公的問わず人を殺すことには参与しなかった。アウグスティヌスから「神の側に立つ戦争」が是認され、ルターやカルビンもその路線を継承しているという。

 

キリスト教国家と言われる国で、国家を守るため、民主主義を守るためと言って、出てゆく兵士を祝福する牧師の祈りに違和感を感じる人もいるだろう。戦場なら人殺しをしてもいいのか?敵を殺せば「栄誉」となり、勲章をもらえるのか?イエスはどうなさるのだろうか? イエスは「神の国」を説いた。「神の国」は、完成はしていないが、すでに始まっている。キリストに従う生き方は「世の光」、「地の塩」として、この世に証しされなければならない。自衛の戦争については賛否両論あるだろう。簡単には答えが出ないが、「今」を生きるクリスチャンとして考える必要がありそうだ。

 

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参考本

「イエスは戦争について何を教えたか」〜暴力の時代に敵を愛するということ

ロナルド・J・サイダー著  あおぞら書房




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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

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