2023年3月2日木曜日

日本人の死生観

 

死という言葉を使わない日本人

日本人は「死」という言葉を直接使わずに言い回しで表現するという。「息をひきとる」「お迎えが来る」「往生」「永眠」など。

 

 


                 (Abema TVより)

 

癌の宣告など、欧米では正直に言うことが多いが、日本では本人に隠すことが多いという。また「死んだら無になる」と考えている日本人も半分くらいいるようだ。そう考えると楽だからかも知れない。それでも、死はやはり怖いのだろう。そこで根拠なしに「天国に行っている」と言ってみたり、「無」になると考えてみたり。結局は死に直面することから「逃げている」のではないだろうか。「無」になるのだから、今、一瞬一瞬を大事に生きよう。一瞬、「生きている」という経験ができれば、それでいいという実存主義的な考えもある。それもあるだろうが、「無」になるのであれば、人生も結局、虚しいということにならないか。

 

日本人の死生観については、僧侶で作家の玄侑宗久氏の「アミターバ〜無量光明」という小説のご一読をお勧めしたい。小説なので、難しい哲学的な内容が、関西弁のお母さんの口を通して絶妙に語られている。

 

死んだら天国に行く?

日本でコロナが始まった2020年、志村けんさんが亡くなり日本中にショックが走った。昨年(2022年)もエリザベス女王やアントニオ猪木さんなど有名人が亡くなり話題となった。巷で言われるのは「天国にいる〇〇さんが・・・」という表現だ。天国に行っている事が前提となっている。誰でも死んだら無条件に天国に行くものと考えている。やっぱり天国には行きたいのだ。しかし、この世で成功するためには知恵を尽くしてリサーチするのに、死後、天国に行くことは、いつも後回し。こんな大事なテーマなのに、真剣に探求する人が少ないのが現実だろう。

 

やっぱり再会したい

「つなぐ」「黄泉がえり」「今、会いに行きます」「4日間の奇跡」「コーヒーが冷めないうちに」など、自分の愛する人と、あるいは人間関係でもめて解決できなかった人と再会するという筋書きの映画が流行る。人々の関心あるテーマだからだ。やはり、出来るものなら再会したいのだ。言えなかった感謝や赦しの言葉をかけたい。愛する者たちとずっと一緒にいたいのだ。大林監督の「異人たちとの夏」のすき焼きの場面は何度見ても涙が出る。死は愛する者たちを無情に引き裂いてしまう。そうなってくると死は、あってはならないものという思いになる。

 

Plan75の投げかける課題

現代日本社会における「死」を考えさせられる重い内容の映画だ。78歳の主人公(倍賞千恵子)、体は元気なので、ホテル清掃の仕事をやっていたが、契約が切れて職を失う。仕事が無く、収入が無いと、アパートを借りられないと言う現実。しかし、78にもなると採用してくれるところは無い。仕方なく夜間の警備員をやるが、それでは体が持たない。やがてPlan75という政府の提供するプランを知る。これは少子高齢化の日本で、75歳以上のお年寄りには安楽死する選択を与えるというもので、申し込むと相談員によりカウンセリングや自由に使える10万円がもらえる。そのように終活し、死の準備をしてく。主人公も若い女性の相談員との会話に一時的に「生きる意味」を感じてしまうが、契約期間が終わり「相談」も打ち切られる。

 

少子化が進むと、高齢になってから繋がれる子供や孫がいなくなってしまう。また離婚などで関係を失ってしまうケースもあるだろう。この主人公も一人暮らしで、それなりに友人はいるが、家族の絆を失っている。それで、考慮の上、Plan75に登録し、やがてその日が来る。ベッドに横たわりマスクから薬が注入され、無意識状態となっていく。しかし、隣で死にゆく老人を見ながら、死にたくないという思いがむくむくと沸き上がり、起き上がり、施設を脱出してしまう。朝焼けを一人眺めながら「生きている」実感を感じている?シーンで終わる。

 

人間が「生きる」とは物理的、身体的に命が延ばされることではない。この映画を通して感じるのは、「話し相手」や「コミュニティ」が必要なこと、そして、「死を超えた希望」が必要なことだ。クリスチャンには、同じ信仰の仲間がいる、コミュニティがある、死を超えた復活の希望がある。何と幸いかと思わされた。

 

最後の敵である死

この世でいかに成功し、お金持ちになり、有名になっても、それらすべてを置いて、去っていかねばならない。強靭なプロレスラーでも死には勝てない。死が全てを終わらせる。その死の恐怖の奴隷となっている。まさに、死は全ての人を黙らせる、完全無欠の「最終の敵」と言ってもいいだろう。

 

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を  解放するためでした。(ヘブル2:14−15)

 

この死に勝つ方法はないものだろうか? まさにイエスが来られたのは、この聖句にあるように、死の恐怖に一生涯奴隷として繋がれていた人々を解放するためだったのだ。聖書が提示する内容は仰天の希望なのだ。

 

死んでも生きる生き方

イエスは言われた。

 

わたしを信じるものは死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)

 

これはものすごい言葉だ。死がすべてを終わらせるのに、死んでも生きると言われる。完全無欠の死のその上を行く生き方だ。キリストを信じるものは永遠の命を頂く。(ヨハネ3:16)。永遠の命とは時間的に永遠もあるが、質的な意味もある。

 

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。 (ヨハネ17:3)

 

クリスチャンになり、新生し、御霊を頂くと人生の質が変わる。滅びるアダム族の生き方(神の霊に生かされることなく、古い人の力にのみ頼る生き方)からキリスト族(御霊によって生きる新しい人)へ種族変換された。

 

永遠の神、命の源なる神との交わりの中に生きる、もっと言うと神であるキリストの体に属するもの(エクレシア)となるので、すでに永遠の存在になってしまっている。神の命の一部になってしまっている。なので、滅びることがない。(黙示録2:11)やがてキリストにあるものは「朽ちない体」も頂く。すでにエクレシアの一部となっているクリスチャンは、確実に「再会」するし、もう「永遠に一緒」なのだ。

 

あまりにも大切な「永遠の命」はお金では買えない。英語ではPricelessという言葉がある。あまりにも価値があり、お金では買えないとう意味だ。神の子イエスの十字架での犠牲という、あまりにも大きな犠牲が払われ、死の代価が支払われたので、私たちは「信じる」ことで、この「命」を頂ける。信じるだけで頂ける。だから福音。信じる以外に方法はない。

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

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