2011年6月5日日曜日

世界観(2)キリスト教的有神論



聖書の世界観とはどういうものだろうか? 大きく言って、時間軸に沿って、創造、堕落、購い、完成というステップを踏む。


1)
始めに人格的な神(三位一体)が世界を無から創造した。それは良かった。目に見える 物質や肉体、世界は本来、良きものである。

2)
人の罪(不従順)ゆえに、この地が呪われた。罪の報酬として死が入った。

3)
ゆえに、神は悪の創造者ではない。人の罪、罪による地の呪い、同じく神の反抗し、堕  落した天使である悪魔が引き起こす悪行により悪がある。

4)
神は人を愛し、一人子、キリストを地に送り、十字架で人の罪の罰を身代わりとして受 け、信じるものに赦しを、そして、神の子となる特権をお与えになった。キリストに対 する信仰により、信者は神の家族となる。

5)
キリストは私達の復活の初穂としてよみがえり、死を越えた希望が与えられた。もはや人は死に縛られない。被造物すべてが、やがて購われる。新天新地が来る。購われた人々はそこに入る。

6)
信者は聖霊を内住し、その力によって神とともに、この地上での神の国の拡大に参与する。神の喜ぶ愛と善行に励み、福音を伝える。すべては神の栄光のためである。


非常に特徴的なのは、人は「神のかたちに創造された」という点である。それゆえ、知情意といった、いわゆる人格の基盤があることになる。さらに、神は三位一体で、永遠から永遠に、お互いを愛し、お互いを喜び合っている「関係」の中におられる。ここに愛とコミュニケーションの基盤がある。これは同じ、一神教といってもイスラムのそれとは違う、ユニークさと持っている。それで、人間も関係存在としていることになる。

また、神の創造の後、世界をご覧になった時、「すべては良かった」のである。善と悪の区別がありつつ、神を悪の作者とする必要がなくなる。後の述べるが、東洋的汎神論では結局、善も悪も1つであり、1つのリアリティしかない。また、ゾロアスター教では、善と悪、光と闇が同等に永遠に存在しており、善の勝利は約束されない。聖書では、神は、私達が今見ているような世界を創ったのではない。もし、そうなら、ボードレールが言うように、「神は悪魔である。」となる。しかし、今、見ている世界は、神も望まないものだった。人の堕落ゆえに地が呪われたのだ。しかし、憐れみ深い神は、自らの一人子が罪の罰を受けるというやり方で、これを解決されようとした。神は悪を手をこまねいて見ておられる方ではない。

やがて、苦しみの無い、新天新地が来る。それでは、魂の救いだけが大事で、この地上の現在の生活は無意味なのだろうか? あのエデンの園で神は人に「地を治めるように」命令された。堕落後も、その命令は有効なのだ。不完全ではあっても、人に与えられた能力を用い、人は地を治めるべきである。それには、日常の仕事も含まれる。仕事も神からの召しであり、神の喜ぶことである。

日曜礼拝の時だけでなく、私達はなす事すべてにおいて、神の栄光を表すよう勧められている。教会はキリストの体であり、地上でキリストの愛と癒しの業を行うエージェンシーである。教会は神の国の出先機関である。従って、キリストのお出でを待ち望みつつも、クリスチャンが地上ですべきことは沢山ある。死後に関しては、人は死んで、さばきを受けることが定まっている。死んで、肉体を離れても個々の霊は存続する。個人のアイデンディディは消滅しない。やがて、御霊の体をもらって、御国で愛する兄弟姉妹と共に住まう。

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