2021年9月16日木曜日

救われない人も定められている?


クリスチャンになると一度は頭を悩ませる問題。それが「予定説」。つまり、「救われる人は世の始めから決まっている?」じゃ、なぜ伝道するの?また、当然の論理的帰結として、「それじゃ、救われない人も世の始めから決まってる?」となる訳で、穏やかではいられません。一応、整理してみましょう。

 

カルビン主義神学のTULIP



カルビン主義神学では、神の「主権」を土台に置きます。そうすると、こういう論理展開になるのです。

 

T (Total Depravity) 人間の全的堕落

U(Unconditional Election) 神の無条件の選び

L (Limited Atonement) 限定的贖い

I (Irresistible Grace) 抵抗できない恵み

P(Perseverance of the Saints) 聖徒の堅持=救いが保たれる

 

これら5項目の頭文字をとって、TULIP(チューリップ)と呼ぶ。つまり、神は絶対的主権者である。T=人は完全に堕落しており、自分の方からは救いに達することはできない。U=救いは人の側の条件(善行など)ではなく、全く神の側の選びとなる。つまり、世の始めから救われる人は決定されている。・・ということは、L=十字架の贖いは救われる人のためであり(つまり限定的)、救われない人のために贖いを為すのは意味のないこととなる。人の側からは神に選ばれた人は、どうあっても救われるので、I=人は神の恵みに抵抗できない。神の主権で選ばれているので、P=その救いは保たれ、一度救われたら、救いから落ちることはない・・となる。

 

聖書には確かに、世の始めから「選ばれている」ことが記されています。

 

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって 私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。 (エペソ1:4)

 

 ただし、これを論理的に進めると、伝道しても、しなくても救われる人は救われるし、救われない人は救われないとなります。さらに論を進めると・・・救われない人も世の始めから決まっている・・となります。ただし、「救われない人」に関して、そのように明確に書かれている箇所は聖書にはありません。


 

アルミニウスが異議を唱える


カルビンの弟子のテオドール・ベザは事実、論理を進め、救われない人も予定されているとする、いわゆる「二重予定説」に行き着いたのです。それに対し、ベザの弟子であったオランダの神学者、アルミニウスは、それに異議を唱えました。彼らの運動はカルビン派本隊からは「反抗者」(レモンストラント)と呼ばれました。アルミニウスはエラスムスの自由意志論に影響を受け、救いには人の意志も関与すると考えたので、TULIPがこのように変更されました。

 

T (Total Depravity) 人は堕落したが、人間の自由意志が腐敗した。

C (Conditional Election) 救いの条件は人間の側の応答による。人間が自由意志を発動して、神の救いの計画に参与できる。

U(Unlimited Atonement) 神は全ての人に無制限に贖罪の機会を与えている。

R(Resistible Grace) 人間は神の恵みを拒否することができる。

P (Possibility of Apostasy) 救われたものが自分の意思で背教し、救いを失うことができる。

 

確かに聖書にはこんな箇所もありますね。

 

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者 となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。(ヘブル6:2)

 

その後、「救い」を失うのか、失わないのかでキリスト教界が2分されてきました。当時、アルミニアンは異端的神学として排斥されたのでした。しかし、18世紀の説教者ジョン・ウエスレーは、アルミニウス主義を取り入れ、さらに「先行的恩寵」の概念を追加して、単なる自由意志論ではなく、救いに至る神の先行的恵みを強調したのです。日本の宣教に大きな影響を与えたホーリネス教団などの「きよめ派」はウエスレアン・アルミニアンの流れを汲んでいます。

 

私もこの系列の教会で洗礼を受け、その神学背景のバイブルスクール(米国)で教育を受けました。そこでは、「救われて」、その後「きよめられる」ことが強調されていました。「きよくなければ主を見ることができない」がよく引用されました。そして、「救い」も「きよめ」も失うことが可能で、何度でも失い、また悔い改めて戻ることができたのです。神学生達が、夏休みに帰宅して世俗のロックなどを聞いて「堕落?」し、バイブルスクールに戻り学期が始まる日の礼拝で、涙ながらに悔い改め「今日、救われました!」と証しする学生を何人も見ました。私はここで、「これは如何なものか」と疑問を持ったのでした。主の御前で自分の信仰状態を常に省みる緊張感があるのはいいのですが、これだと救いの確信に立ち続けるのが困難になります。

 

論理の限界

人間の論理には限界があるのです。1つが3つで、3つが1つ。三位一体を人間の理性できちんと説明することはできません。聖書全体から、その真理を信じ受け入れるしかないのです。イエスが100%神で、100%人というのも論理では受け入れがたいですよね。それは正に「神秘」でしかありません。聖書は原典において神の霊感を受けており、絶対的に正しいのです。しかし、同時に神は不完全な人を通して聖書を書かせた訳で、しかも、それぞれの筆者の個性を用いて書かせたのです。無意識状態で、機械的に神のタイプライターとなった訳ではありません。さて、それでは、不完全な人間が書いたものが、「神の言葉」なのか?ここでも論理が立ちません。

 

神の主権から出発するカルビン主義のTULIPは論理的に正しいのです。しかし、論理的帰結は「2重予定説」となってしまいます。また救われる人が決まっているなら、そして、人の意志が関わらないなら、伝道する必要もなくなってしまいますね。しかし、聖書は伝道するように命じています。それでは、TULIPに対抗したアルミニウスの5項目が絶対的に正しいのでしょうか?

 

ここで覚えておかなければならいのは、神学も文化(人のわざ)であり、どの神学も、それ自体で霊感を受けた聖書と同等には置けないということです。神学は、時代の哲学にも影響を受けます。また、いくら探求しても解明できない神の神秘は残されるのです。それでいいのです。人間が神を分かりきってしまうなら、人間は神を超えてしまいますから。救いに関して、神が世の始めから救われる人を選んでいることも事実、そして、福音を聞いて信じる「決断」をする人の側の要素が関与することも事実でしょう。神の分100%、人の分100%という「論理的絶対矛盾」の中に真理があるように思えます。

 

ペテロの魚

今でもガリラヤ湖に行くと、「ペテロの魚」という料理があるそうです。マタイ19:27に出てくるペテロが釣った魚だそうです。この魚の口の中にスタテル銀貨1枚があって、ペテロとイエスの分の神殿税として納めた話です。しかし、なぜイエスは、ペテロをわざわざ湖に行って魚を釣らせ、その中に見つけた銀貨を支払わせたのでしょうか?この論争があった時に、さっと銀貨を出して渡すことも出来たはずです。5つのパンで5千人を養うことのできるイエス様です。水をワインに変えることのできるイエス様です。その辺の石をとって銀貨に変えるくらい朝飯前だったでしょう。しかし、ペテロの職業であった魚釣りをして魚を取らせて、そこに銀貨を備えられたのです。イエスは銀貨を備えたが、ペテロ側にも「やる」ことがあったという事です。

 

よく「神が養ってくださるから心配ないよ」と言います。それは怠惰に仕事もしないで賛美していれば、神が天から月20万円降らせてくださると言うことではありません。基本的には、神が養うとは、与えられた仕事を忠実にする事で神が必要を満たしてくださると言う事でしょう。パウロも怠惰を戒め、仕事をすることを命じています。(IIテサロニケ3:10)神は備えるが、人も働くのです。エデンの園の時代からそうなのです。(創世記2:15)

 

聖書を見ると、いつもこの2面性があります。神が働く、人も働く。神がやる分と人がやる分があります。物事はオートマチックに動くのではないのです。人は神のロボットではないのです。エデンの園の「知恵の木」の実を取るかどうかは、アダムとエバの選択にかかっていたのです。自分の選択として「実」を取ったので、罪の責任を問われた訳です。神は「堕落」を予知していたが、「堕落」を予定していた訳ではないのです。同じように、神は救いを全人類に備えたが、人はそれに応答し、「信じ」なければならないのです。「信じる」ためには先ず、福音を聞かなければならないのです。福音を伝える人がいなければならないのです。(ローマ10:13−17)「救い」のために、神は御子を世に遣わされました。それに応答し、信じる人は滅びることなく、永遠の命を持つことになるのです。

 

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない (ヨハネ3:14−20)

 

永遠の運命は「信じる」、「信じない」という人の決断にかかっています。また、光より闇を愛したのは人の選択でしょう。光の方に来ないのも彼の意志的選択と言えます。

 

こんな話があります。

 

「自分の意志で『救いの門』をくぐって救われたが、振り返って見ると、門の裏側には『あなたは世の始めから選ばれていた』と書かれていた。」

 

そういう事でしょうかね。

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興味深い考察

それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。』

                       (マタイ25:41)

 

この聖句から分かるのは、地獄は元々、「悪魔とその使い(悪霊)」のために用意されていたことだ。悪魔と悪霊には「贖い」の備えが無いので、滅びが「定め」られている。そして、予定通り処置される。(黙示録20:10)悪魔に身も心も売ってしまった「偽預言者」「獣=反キリスト」も運命を共にしている。黙示録20:11からは最終審判「白い御座の裁き」の記述だが、数々の書物が開かれ、慎重に審査されている様子が分かる。オートマチックに決定されているのではない。「審査」がされているのだ!ここから推察されるのは、審査にパスしていれば、「火の池」に落ちなくてもいい訳で、「火の池」に落ちない「可能性」があるということだ。「可能性」はあるが、現実には悲しいかな、「悪魔(竜)=この世の神」、「獣=反キリスト」、「偽預言者」、に従ってしまう人々がいるということだ。一人として滅びることを願わない神(ヨハネ3:16)が、悪魔に従う人を「決定」しているとは思えない。イスカリオテのユダも最後の最後まで悔い改めのチャンスはあった。「最後の晩餐」の場面まで、イエスはそこにいた。そして、手を差し伸べていたのだ。「行いに応じて」裁かれる(黙示録20:13)ためには「自由意志」による「行い」が問われなければならないだろう。

 

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執筆者:栗原一芳

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