2021年11月25日木曜日

裁きの神がいて良かった!?

 

「力」の無い正義は無能

よくこういう質問が出る。「なぜ、愛の神がいるなら、こんな悲惨な世の中なのか?」「義の神がいるなら、なぜ悪が世界にはびこるのか?」「神は何をやっているのか?」

 

路上で、か弱い女性が暴漢に襲われているところに、通報を受けた警察官が到着したとしよう。その警察官が暴漢に「女性を襲うことは悪いことです。」と言ったまま立ち去ったらどうだろうか?暴漢は「だから何?」と言って続けて女性に乱暴をする。警官が「力」を行使しないなら、警官として役に立たない。人を助けられない。

 

最近、こういうフレーズを聞いた。「正義の無い力は暴力であり、無能。しかし、力の無い正義も無能で役立たず。」いわゆる「言うだけ番長」で、何もしないなら問題の解決にならないのだ。

 

つまり、神が「裁きの神」でなければ、何の解決もないまま終わってしまう。

 

彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」 (黙示録5:10)

 

 

聖書の神は、「裁く神」

神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」                      (黙示録6:17)

また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。ここに神の憤りは極まるのである。

                          (黙示録15:1)

 

第二ペテロ2章は歴史上起こった神の裁きの幾つかが列挙されている。神は罪を犯したもの(悪)を放置しない方であることが明確に書かれている。(IIペテロ2:4)

 

聖書のフィナーレである「黙示録」は悪への裁きの書だ。黙示録が無ければ、初頭の質問は答えられないまま、うやむやに終わってしまうだろう。神は最後に清算する。神の悪への怒りは極まり、裁きへの時はもう延ばされることがない。そして、「事は成就」するのだ。(黙示16:17)まず、「偽預言者」と反キリストである「獣」が裁かれ(黙示19:20)千年の時を経て「サタン」自身も裁かれる。(黙示20:10)これで神への抵抗勢力は全て滅ぼされることになる。(そもそもサタンは堕落した御使、つまり被造物なので創造主の対等な敵でさえないのだ。)そのようにして神の「義」は証明される。だからこそ、現在に生きるクリスチャンは、勝利と希望を確信できる。ヒーローものの映画を見ると途中、ドキドキ、ハラハラするが、最後に勝利してハッピーエンドで終わることを知っているので、ある意味では安心して観ていられるのである。

 

「全能」かつ「正義」のコンビネーション

映画のヒーローは「正義の味方」であり、悪を制する「力」を行使する。ゆえに、ヒーローなのだ。このコンビネーションは大変重要で、そうでないと次のどれかになり、希望がなくなる。

 

 神は全能かつ悪  この場合、神は「全能」の「暴君」となる。これは最悪。

           世界は正義の無い、真っ暗な混沌=最悪な状態となる。

           彼に打ち勝てる者はなく、全く希望が無くなる。

           サタンが「全能」でないことに感謝!

 

  神は愛であるが、全能ではない。  

         愛や義を唱えても力の無い神=裁けない神=役立たず。

           ニコニコした好々爺であっても、悪を裁けないので、悪

           の勢力の言い成りになる。やはり世界は混沌となり、希

                                         希望が無くなる。

                                                                                                                                                              

 「屠り場に引かれていく羊のよう」(イザヤ53:7)このイエスは初臨の「受難のメシア」のイメージであって、再臨の王なるイエスのイメージ(黙示録1:16、19:15)の側面を忘れてはならない。イエスがゲッセマネの園で捕らえられた時、ご自身こう言われた。

 

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。 (マタイ26:53−54)

 

「この時」は、聖書の成就のために敵の言うままに従った。意図的に「力」を行使しなかったのだ。しかし、同じイエスは再臨時には、御使の軍団を連れて降臨し、反キリスト軍を滅ぼされる。(黙示録19:14−15)つまり、「力」を行使される。常に「力」はいけない、「報復」はいけないということではない。

 

事実、イエスは福音に従わない人々に「報復」する。(IIテサロニケ1:8−9 新改訳第三版)悪を放置することではなく、悪を裁き、滅ぼすことは「正しい」ことなのだ。聖書の神は裁く神であることを感謝しよう。指を咥えて悪をただ傍観する方ではない。(ルカ18:6−7)実際に天を押し曲げて降りてこられ、ご自分の矢を持って敵を散らし、凄まじい稲妻を持って敵をかき乱す方。(詩篇18:7−15)裁きの「力」を行使される方なのだ。

 

真理はこうだ・・


  神は愛であり、(第一ヨハネ4:16)

  神は全能であり、(ルカ1:37、マタイ20:26)

  神は義である(ローマ1:17、3:21。)

 

ゆえに希望がある。神は悪を放置しない。悪は滅ぼされ、義と平和と愛が支配する御国が来る。

ハレルヤ!

 

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執筆者:栗原一芳

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