2024年4月11日木曜日

教会堂が教会を阻害する?

 

そもそも「教会」とは?

教会といえば、三角屋根に十字架の会堂。そして牧師がいて日曜礼拝がある。これが当然という理解でしょう。「会堂」、「牧師」、「日曜礼拝」がない教会なんてあり得ないということになりますね。ところが初代教会にはこの3点セットは無かったのです。ペンテコステの日に教会が誕生して以来、300年ほど、クリスチャンたちは教会堂なしにクリスチャン生活を送っていました。それでも生き生きと教会(エクレシア)は存在したのです。そもそもエクレシアとは・・・

 

コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。(コリント1:2)

 

ここで「神の教会へ、すなわち・・」と神の教会を説明しているのです。すなわち、教会とは・・キリスト・イエスにあって「聖なる者とされ」、「聖徒として召された方々」のことなのです。エクレシアは建物に言及されている箇所はなく、「人々」なのです。その「人々」は「聖なる者」とされています。クリスチャンは「罪人」ではなく、「聖なる者」です。「聖なる」とは、本来「神のために分たれる」という意味ですので、この世から「取り出され」神の民となっている点で、クリスチャンは聖徒なのです。また「聖徒として召された」人々です。これが教会の説明です。ここには、「会堂」も、「牧師」も、「日曜礼拝」というプログラムも出てきません。エクレシアは私たちクリスチャンのことです。また・・

 

教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。(エペソ1:23)

 

ここでの教会の定義は「キリストのからだ」です。生きた「生命体」です。組織や制度や儀式の事ではありません。すべてのものをすべてのもので満たす方とはキリストです。そのキリストが「満ちておられるところ」と書いてあります。「ところ」は翻訳者の付け加えたもので、本来「ところ=場所」なのではなく、「お方」なのです。英語でもThe Fullness of Himとなっており、「キリストの充満」と訳す方が適切です。教会は「キリストのからだ」、「キリストの充満」なのであり、ここにも、「会堂」、「牧師」、「礼拝プログラム」は出てきません。つまり、それらは教会=エクレシアの本質ではないからです。それらがなくてもエクレシアは「存在」します。

 

福島第一バプテス教会は一番、原発に近い教会でした。東日本大震災の原発事故で強制退避をさせられ教会のメンバーはバスで流浪の旅に出たのです。しかし、彼らは会堂を失っても「私たちがここに残っている。私たちが教会なのだ」と再認識させられたとの証を聞いたことがあります。その通りです。場所でもプログラムでもなく、「主を呼び求める人々」のことです。

 

典型的なプロテスタント教会の形

プロテスタントの典型的な教会は、基本的に日曜だけに使う特別空間としての礼拝堂があります。(なので、交わりのために、わざわざフェローシップホールを別に作ってあります。)その礼拝堂には固定の長椅子があり信徒は一方方向(前方)しか見られないようになっています。牧師が説教する舞台は会衆席より一段高くなっていることが多く、大きな説教用の講壇が設置されています。(ある韓国の大会堂を訪れた時、ステージには靴を脱いで上がってくださいと言われました。特別「聖なる」ところだからだそうです。)講壇の背後には牧師が座る特別な椅子が備えられています。つまり、牧師は「特別」な存在なのです。また多くの場合、初代教会の「パン裂き」(当時、食事の一部として行われた)は「聖餐式」という荘厳な儀式になり、聖職者しか執行できないようになっています。しかも、牧師が特別な黒いガウンを纏う場合もあり、さらに特別感を醸し出します。このようなセッティングが「正しく」、かつ「聖書的」な礼拝堂の設置であり、礼拝という儀式なのだと理解されているようです。しかし、どれも聖書的根拠はありません。初代教会は、信者が家々で集まっていたのであり、「会堂」もなく、「聖職者」もなく、ただ兄弟姉妹として、「家族」として交わっていたのです。

 

教会堂が教会を阻害する?

別に礼拝堂があったっていいじゃないか?と言う人もいるでしょう。ところがこの「典型的」な形が本質を阻害しているとしたらどうでしょうか?

 

⚫️ 聖書的には「あなたがたは、神の宮=神殿」(コリント3:16)なのであ

って、他に神殿(神に会うための特別な場所)は必要ないのです。礼拝堂を「神聖」な場所、「神殿」とするなら、この新約の教えに背くことになります。

 

⚫️ 礼拝堂を「特別」な空間にすることはヨハネ4:21−23に反します。イエ

スは明確に特定の「場所」に行かなければ、礼拝できないという時代は終わ

るのだと言っておられるのです。また、「礼拝堂」を神聖なる場所とすること

で、職場や家庭にも主は居られ、臨在されるという意識を薄めます。「日曜、

礼拝堂に神に会いに来る」という概念は、日曜以外では神に会えないという

意識にさせます。また日曜だけを神聖な日とすることで、週日での主の働き

を薄めさせます。主は365日の主です。ちなみに日曜を安息日と連結させ

て考える人がいますが、「安息日を聖とせよ」は、旧約時代のユダヤ人に向か

っての戒めで、異邦人には適用できないし、そもそも安息日を守りたいなら、

日曜ではなく、土曜なのです。

 

⚫️ 固定長椅子は「一方的」に牧師の説教を聞くために機能するのであって、

 「お互いに」を実践するには不向き。フェローシップホールのない場合は特に、

 神の家族として、お互いに愛し、仕える機会が奪われてしまいます。エクレシ

アの本質は「からだ」であり、「からだの器官」がそれぞれ機能することで成

り立つ「有機体」です。一方通行では機能できません。また一方的に説教を聞

くだけでは信徒は「受動的」になり、「霊的」に成長することを期待するのは

難しいのです。そもそも礼拝は儀式ではなく、献身の行為です。(ローマ12:

1−2)儀式的な礼拝プログラムを習慣化させることで、本質より、「教会に

行く」ことが目的化する危険性があります。

 

⚫️ 会堂前のステージを高めて、大きな講壇を置くことは信徒たちとのギャップ

を増長します。本来「家族」なのに、「聖職者」と「平信徒」という階級を作

り出してしまいます。これは神の憎むことです。(黙示録2:6)洗礼や聖餐

式を聖職者のみが行えるようにすることで、新約の「万人祭司」の真理を阻

害しています。古い契約は終わったのです。今は新しい契約(新約)の時代

に生きています。キリストの十字架ゆえに、「アバ父」と呼ぶ霊を頂いている

のです。もうシナイ山の恐ろしい神の前に立つイスラエル人の姿を真似しな

くていいのです。

 

このように良かれと思ってやっている、あるいは「伝統」だからと継続している事が、実は新約のエクレシアの本質の妨げになっているということもあるのです。

 

前向きな提案

ミニストリーのスペースがあることは悪いことではありません。そこで「お互いに」を実践できるなら素晴らしいことです。ある教会施設では、礼拝のスペースはフラットな床で、そこに丸テーブルがいくつか置かれています。信者はその丸テーブルに座って、聞いたメッセージについて分かち合います。これなら「お互いに」を実践できますね。日本の家空間(とくにアパート、マンション)は比較的狭いのでアメリカのようにリビングルームに10数名集まって集会を持つことが困難かもしれません。共通のミニストリースペースが必要なことも理解できます。それなら「礼拝堂」をリビングルームのような作りにしたらいいのではないでしょうか?エクレシアが「神の家族」であることを表すには、その方が相応しいのではないでしょうか。

 

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おすすめ本

Pagan Christianity? Frank Viola & George Barna 

Tyndale House Publishers

 

(以下、一部引用)

 

オーガニックチャーチの生き方とは、草の根的な経験であり、対面式のコミュニティ、数人単位の機能、オープンな参加型ミーティング、上下関係のないリーダーシップ、集団の機能的リーダーであり頭であるイエス・キリストの中心性と権威を特徴としています。別の言い方をすれば、オーガニックチャーチの生き方は、キリストの体としての「経験」だということです。最も純粋な形で、三位一体の神の交わりを地上にもたらし、人類がそれを経験することなのです。(フランク・バイオラ)

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

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