2009年4月27日月曜日

コミュニティの必要性

「コミュニティの必要」

ことに現代人にとってコミュニティのニーズは
重要である。

マクグラスは「昔、共同体は、自分がどこに住むかで
定義された。それは、親から受け継いだ秩序の
一部であり、生まれつきのものであった。今では、
共同体は創り出されなければならず、それを創り
出すのはますます、自発的な組織となっている。
驚くにあたらず、アメリカ社会全般で、社会的諸力が
共同体を破壊していく今、キリスト教会は、戦略的に
共同体を創り出すべき場に立たされている。

コミュニティ教会は、ことに効果的にこの役割を
果たしているのである。」   (91)と語っている。


仕事場でも、遊びでも、近隣でも、家庭でさえ、
コミュニティの要素を失いつつあり、デジタル文化
が後押しして、コンパートメント化、孤立化が加速
されている。東京都都内では7割がひとり暮らしと
聞いている。プライベートを重視する学生や若い
社会人も一人で住むことを好むだろう。どこへ
行っても表面的な付き合いで、人生を語り合う
「場」が失われつつある。孤独死する老人も多い。

とくに男性が孤立化しやすい。そして自殺しやすい。
そのニーズに答え、教会が戦略的にコミュニティ
を創出しなければならない。


新しい流れの教会では、日曜の礼拝に行くにしても、
大部分の牧会、宣教はセルチャーチ、ミニチャーチ
と呼ばれる週日の教会建物以外での少人数の集まり
を通して行われるのである。そちらが本質的な教会
なのだ。日本では10名以下だと伝道所、30名を越え、
経済的に自立すると「教会」と呼んだりするが、聖書
が語っている教会の本質から再考する必要があるの
ではないか。

大会堂の中に大人数が集まっていても、挨拶程度で、
人生を分かちあう仲間がないならば、それは教会
だろうか?

2人でも3人でもイエスの御名によって集まるところに
主はおられるのだ。そういったスモールグループの
中で人が変えられてゆく。最近はすばらしいメッセージ
ならインターネットでも聞ける。しかし、顔と顔を合
わせての、親密な霊的な交わりは代替えできないのだ。 

(次回に続く)

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