2013年1月14日月曜日

「国家」と「御国」



 三浦綾子の小説に「海嶺」というのがある。江戸末期、岩吉、音吉、久吉の3人が遠州灘で嵐に会い、漂流。1年以上も漂流し奇跡的に現カナダのフラッタリー岬に漂着。それからアメリカ、イギリス、マカオと外国を転々とする。マカオでは宣教師ギュッツラフの下、ヨハネ福音書の翻訳を手伝うことになる。

こうして海外で多くの人に助けられ、ついに5年ぶりにモリソン号に乗って日本に送り届けてもらう事になる。それが1837年7月のこと。しかし、日本では、すでに1825年に「異国船打ち払い令」が出ていた。3人はもちろん日本を愛していた。日本の自然、日本の食べ物、そして父母、恋人。5年ぶりに御前崎の風景を目にした3人の感動はどれほどであったろうか。江戸湾に着いたモリソン号は7月31日、何と砲撃されてしまう。他の港を試みるため鹿児島湾へ。しかし、そこでも砲撃され泣く泣く8月29日にはマカオに戻される。砲撃してくる母国日本を眺めながら音吉は思う。「あれが日本や、あれが日本なんや」そして言う「お上って何や、国って何や」。

作家で、元外務省主任分析官であった佐藤優氏は著書「ナショナリズムという迷宮」(朝日新書)の中で「官僚は国家なり」と断言している。そして、こうも述べている。「政治のコントロールが利かなくなると、自己保存に走るというのが官僚機構の本質なんです。」さらにクリスチャンでもある佐藤氏は宗教的なからみでこう述べている。「宗教的な表現をするならば、現段階における人間の原罪はナショナリズムだと言えます。それはなぜか。ナショナリズムによって自分の命を差し出す用意ができてしまうからなんです。そういう気構えがあれば他人の命なんてどうでもよくなるわけでしょ。」これは国に限ったことではなく、集団や組織でも同じ事。すでにオウム事件で起った事だ。すなわち、神の座に「国」「集団」「組織」が置かれれば、それに対する全的献身が求められ、命を差し出す用意が出来てしまうという事だ。

そして、そこに民族主義的要素が入ってくる。ペリー来日で開国はしたものの、根強い攘夷論(排外主義)があり幕府の開国主義と激しい内乱が続いてゆく。この排外主義は第二次大戦の時も起った。それは日本民族優越主義とカップリングになっている。しかし、沖縄生まれの佐藤氏は興味深いことを言っている。「沖縄には天皇崇拝が無い」と。そして、「沖縄亜民族」を唱えている。どうやって日本を統一するのか?中央政府の考え出す思想によってか。江戸時代の日本には外様大名や参勤交代制度があり、中央政府は常に地方の反乱を恐れていた。しかし、幕末には長州、薩摩、水戸藩など有力な地方勢力(雄藩)の存在が大きくなる。外圧と地方勢力により中央はコントロールできなくなっていく。そして大政奉還に至る。

戦時中は「天皇は神」と教えられ、日本は「神国」と教えられた。戦争が終わると「天皇人間宣言」が行われ、「神国」日本はGHQの支配下に置かれる。当時、教師であった三浦綾子さんは、今までの価値観を否定され、教育勅語を墨で塗りつぶしながら教えることに混乱し、失望した。「国とは何やろう、お上とは何やろう」は三浦さん自身の疑問だったのだ。この国では、日本をこよなく愛するキリシタン達が迫害を受け殉教していった。戦時中もキリストを語るホーリネスの説教者は投獄された。日本人が母国に見放される。自分の愛する日本に見放される。日本を愛するが故に日本が間違った方向に行こうとするなら警告を鳴らし、中央政府を批判することもあり得るだろう。

作家の立花隆さんは、この時代の日本へ、するどい警鐘を鳴らしている。

「1つの国が滅びの道を突っ走りはじめるときというのは、恐らくこうなのだ。
とめどなく空虚な空騒ぎが続き、社会が一大転換期にさしかかっているというのに、ほとんどの人が時代がどのように展開しつつあるのか見ようとしない。たとえようもなくひどい知力の衰弱が社会をおおっているため、ほとんどの人が、ちょっと考えればすぐわかりそうなはずのものがわからず、ちょっと目をこらせばみえるものが見えない。こう書きながら、今日ただいまの日本が、もう一度そういう滅びの道のとば口に立っているのかもしれないと思っている。」「天皇と東大」:文芸春秋

海嶺では砲撃されて絶望的になっている中で、岩吉が言う。「・・・そうか。お上がわしらを捨てても・・・決して捨てぬ者がいるのや」すでに聖書に触れていた岩吉は聖書の神を思い起こす。外国人である彼らを丁重に保護してくれた人々を思い出す。使徒の働き17章26節には「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」とある。それぞれの国やそれぞれの文化を否定するのではない。すべてをお造りになった神の前にひれ伏すことで民族のアイデンティティを守りつつ、他の民族とも融合できるのだ。御国の価値観に立つ時に義がなされ、御心が地でも為されてゆくのだ。



「主よわれらの神よ。あなたは栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(黙示録4:11)


「あなたはほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々をあがない、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示録5:9)


「だから神の国とその義をまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)


「だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でもおこなわれますように。」(マタイ6:9)


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